2ちゃんねらーとネグリのマルチチュード 

○イタリアの左翼のネグリが、日本政府により来日を阻止されるという事件が2008年3月に起こった

・「アントニオ・ネグリ氏来日中止について

このネタって、盛り上がるのだろうか?

・姜尚中をはじめとした、東大・京大・芸大の学者さま方はご立腹のご様子である

姜尚中・東大教授ら、ネグリ氏来日中止で政府に抗議声明

・池田信夫もデリダ・ネグリの「歓待」概念を持ち出し、けしからん、とかなんとかいっている

ネグリを歓待しなかった日本政府

・一方、仲俣暁生は、ネグリの「マルチチュード概念」は定義がよく分からん、誰か説明してくれ、などとゴネている

ネグリ来日中止

・さて、ところで、上記の事件に対する日本の大衆(≠マルチチュード?)の反応はいかがなものか?

・藤田直哉さんの報告によると、2ちゃんねる系の「ニュース速報+板」では、アントニオといえば猪木だろう。猪木といえば、1! 2! 3! ダーッ! だろう、ということで、盛り上がっていたらしい

アントニオさん来日中止

面白いな……
「アントニオ」っていわれたら、「ネグリ」だなんて、誰にもわからないよな

ネグリって、一般にはまったく知られていないようだからな……。まず、ネグリとは誰かを解説してくれ、といったところか。あるいは、「やる夫がネグリを読み始めたようです」とかそういうスレッドをたてることから始めたほうが良いのではないか?

やるおが『資本論』を読み始めたようです

やる夫シリーズ

こういう形式で、2ちゃんねるでわかりやすいネグリ論を展開する。それをブログにまとめる。ブログにまとめたやつを本にして出版する、みたいな

大学にこもって紀要論文ばっかり書いていても、社会的には意味ねーよな

学者たちが一生懸命デリダとかネグリとか読んでいたとしても、それを大衆的なやり方で実践することは、とても難しいことなのだろう

・そのこととも関連する話題であるが、ひろゆきは、「まとめブログ」のあり方について、広く意見を求めている

まとめブログって実際どんな風に思われてるのだろう? : ひろゆき@オープンSNS

・「2chは見たことないけど、/まとめサイトはよく見てるという人が/増えてくる予感」だ、などというコメントもある。これはまったくその通りだろう

「やる夫」のイベントなんかは、知識をうるために優れた手段だと認識されていたりもするようだ

・ひろゆきは、姜尚中や池田信夫よりさらにすぐれた知識人であり、運動家なのだろうかとも考えさせられる


ラノベで一番エロイ作品ってなんだ? 

ラノベで一番エロイ作品ってなんだ?
というトピックが「ニュー速」で取り上げられていた

若い青少年は、えろいラノベとかって、好んで読むものなのだろうか?

私より10歳くらい年長のある方が、若き日に、安部公房の『密会』をオナニーのネタ本としていたことを明かしていて、へええ、フンフン、と思ったものであった
また、大江文学を読んで興奮するひととかも、いたりしたのではないか?
村上春樹や恋空だって、エロなしにはあそこまでの人気作とならなかったんじゃないか

文学をオナニーネタとしうるかどうかってことに、カルスタ的な興味がある

性欲というものは、一生つきあっていかなきゃいけないものである
セックスだけで性欲を晴らせていたら、まあ、それはそれでいいのでしょうけれども
オナニーをどう評価しうるのかということなど、気になるのである

まあ、オナニーする、しないに関わらず、ケータイ小説でも大衆文学でも純文学でも、文学一般においておしなべて、エロ要素があった方が基本、ヒットしやすい
そもそも、雑誌でも映像媒体でも、「人間」が関わるジャンル一般では、エロの介在するものの方が衆目を集めやすいのは当然だ

○映像におけるエロ
・テレビ
・映画
・漫画、アニメ
・アダルトビデオ
・ギャルゲー

○活字におけるエロ
・ライトノベル
・ケータイ小説
・大衆文学
・純文学

これら全体を相互に検討するとする
そのとき、漫画、アニメにおけるエロと、文学におけるエロは、それぞれ、どのように位置づけられうるのだろうか?

日本のオタク文化における性欲のあり方を、考察していくことは必要だろう
児童ポルノ法との絡みで、オタク文化論は揺れている
東浩紀の「キャラクター論」も、オナニーとの関連が重要なのじゃないか?
人間をキャラクターとしてとらえるか、自然主義文学的にとらえるかという分かれ目が、性欲の問題と、接続していそうな気もする


やるおが『資本論』を読み始めたようです 

やるおが『資本論』を読み始めたようです
やるおが『資本論』を読み始めたようです 2
マルクス『資本論』の内容を「vip」で楽しく解説。60分でわかるマルクス『資本論』。いい企画ですね
     ____
   /      \    
 /  ─    ─\   
/    (●)  (●) \   疲れたお
|       (__人__)    |   一生働きたくないお
\      ` ⌒´   ,/


世界を革命すれば働かなくてもいい世の中ができるわ!
私について来なさい!
             , - ─- 、_
       /        `丶
      rー‐<::/ ン-―ー- 、   、 \
  {(こ 〆.:::/  ____ \ ヽ..::::ヽ
  __/'´/  〃7了.:.:.:.:.:.:.:.:`ヽ.j ::ヤ¬寸
/,イ>/ .:::/,':::{:::::!:::::::::::::::::ヽ ::|:. ::::Vヽ_,イ
レ/,イ ::/ :{:ハ\{ ::、::ヽ ::::::}::_|_: :::::l >::|
{/::| :!{.::ィ'f坏ト\{ヽ ,><ム:!:::::::: Kヽ:ト、
  |::::ヽ::i:ヽi. r'_;メ  ヽ´ イ圷ハ|::::::::::|\/ヽ>
  |i:::::::トl::ハ.     ,    r';ン´j::::::::: l: V
  |i::::::::!:::: ヘ  {>ーァ   /:!::::::::/::/
  lN:ヽ:ヽ::',:::ヽ、ヽ _,ノ  ,.ィ::/::::::/ /  
    ヾ /}::}八::::ヽ>.-‐か/7::/∨
 r<¨ リ\`ヽ、\__ {  〉/イ l  )}
 f⌒ \ \ヽ  )' \ニニ∧ | |!彡ヘ
 |    \ ヽム    ヽ‐' .| | }ヘ,__,イ
r-ヽ     ̄ )\     Vrj/ ̄ヽ ヽ
|  \     // /)ミ ー-∨   / ̄ ヽ
|   (>―‐'/ /勺ヽ¨ア    /    }
\三三‐'ノ ^ヽ/   /-―一 '

・こういうことを松平はマジで言われたことがあります

・今、マルクスを読んでなんの意味があるの? と思われるかもしれません。それでもマルクスはおもろいと思いますよ。機械的に働き続ける毎日って、何かおかしいな。そう感じる人は、労働とは何か、貨幣とは何か、社会の構造はどうなっているか。いろいろ精査してみてもいいのじゃないでしょうか。鬱病系の人にはおすすめです。まあ、『涼宮ハルヒの憂鬱』みたいなもんです

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Web環境における文系研究と21世紀の文芸誌 

・女子院生による新書、金益見『ラブホテル進化論』について小谷野敦ブログで記事を書いている。
(美人!?)女子院生を、(三流私大の!?)大学の先生は、とりたがるものなのかな、というお話。もともと、博士課程を出る以前に、単著を出してもやっかまれるだけだよ、というのが小谷野さんの持論であったようだ。女子院生の新書出版というのは、その件と関わる話題なのでしょう

・「神戸学院大学の院なんか行っても未来はないので、みなさん勘違いしないように。」というのが小谷野氏の結びの言葉。しかし、そもそも、行って未来のある院って、あるのかなとも疑う。文系大学院って、何のために存在するのかしばしば分からなくなる

・また、博士号をもっていなくても単著出してたりする先生も学科によってはいるだろうし。そしてそもそも、本をまったく出していない先生って、どういう活動をしているのかなと不思議ではある

・文系の院は

○その大学を出ると何になれるのか

・就職先一覧
・所属人数
・何年で卒業したか

といったことを、どの大学も標準的にWebで公開していくべきだろう。ちゃんとした大学ではやっている。三流私大ではやっていないところが多いよう
それのみならず、

○その院で、どんな研究をしているのか

・何本のどんな題材の論文をどこに発表したか
・論文を全文アップ
・紀要を全文アップ
・レジメをアップ
・Web上での論文・レジメの検討をできるように、コメント欄・トラックバックを可能にする
・修士論文・博士論文をアップ

○といったことも、行なっていくべきなのじゃないか?
とある大学では、とある学会では、とある思想のパラダイムのみが通用する、という状況がもしもあるのだとしたら、奇妙なことだろう。Web上で、すべての学者同士が相互検討・相互批判できるように、学術研究のやり方を変えていかなければならないのではないか。つまり、「Web環境における文系研究」のシステムを開拓する必要がありそうである

○上記の小谷野氏のブログの後半の文章も面白かった

・田中和生と高橋源一郎の批評家は不要か? 論争とも関わるもの

・「それにしても、作家と批評家が対立関係にあるみたいな言い方はおかしいのであって、作家だって時評で悪く書くことはあるし、作家から言われるならいいが批評家から言われるのは嫌だ、というのは、実はちょっと理解するのだが、昭和初年は作家でもけっこう厳しい時評をしたものである。私はごく単純に、文芸雑誌の編集部が、厳しいことを言う批評家、たとえば糸圭秀実、渡部直己に始まって、斎藤美奈子とかを排除しつつあるのではないかという疑念すら抱くのである。」

・文芸誌の編集者は、厳しいことを言う文芸評論家を排除しつつあるのかと問うている。しかし、文芸評論は、文芸誌の売上、文芸評論書の売上などで、出版社に貢献しうるものなのか? 文芸評論家の社会的役割って何なのでしょうかねーと思う

・とある方に、最近の松平のブログは東浩紀偏重なのじゃないかと指摘を受けた。東の文芸評論なんて、文芸評論じゃないじゃん、というのがその方の主張のよう。でも、多くの読者の心性を、知的な文章でもって代表することが評論の役割だと思う。なので、多数の読者に読まれるようなテクストを生産できる人も、まあ、すごいとぼくは思いますね

○チェック
斎藤美奈子『週刊朝日』の桜庭一樹評


東浩紀を左翼にしてみました 

東浩紀の二ヶ国語ブログ

東浩紀が、「『動物化するポストモダン』仏訳出版に併せて、日仏対訳のブログを運営する」とのこと(東浩紀の渦状言論

・こちらがそのブログ「SAYSIDON - le Japon lu par la France
同じページの左の部分にフランス語が、右の部分に日本語がのせて、東が自己紹介を行っている

・こういう試みはとても面白い。日本語と外国語を併記したページを作ることを、文芸系の人間が率先してやるべきだとぼくは以前にも主張したことがある。東さんがまたやってくれました

・上記のブログの内容としては以下のものが気になった

○東によるフランス人への自己紹介

「(5)アーティスト、映画関係、知識人などに親しいひとはいますか。

 同世代では、社会学者の北田暁大やマンガ家の西島大介、マンガ評論家の伊藤剛、建築学者の森川嘉一郎たちと、近い関係にあるとみなされています。個人的な交流はありませんが、小説家の舞城王太郎に深い関心を抱いています。この作家の小説については、『動物化するポストモダン』の続篇にあたる『ゲーム的リアリズムの誕生』でも、大きく取り上げています。
 ひとつ上の世代では、社会学者の大澤真幸、精神科医の斎藤環と交流があります。読者のなかでは、ぼくの名前は、社会学者の宮台真司、評論家兼マンガ原作者の大塚英志などと較べられることが多いようです。
 ほかにも、オタク関係では多くのひとの影響を受け、多くのひとに注目していますが、その名前はフランスではなかなか参照しにくいと思いますので、ここでは挙げません。」

・東は、自分をどんなふうな思想史的な関係に位置づけているのか? 同じ質問でも、日本人に聞かれたときと、外国人に聞かれたときとで、答え方の変化しそうだ。東の交友関係で、国際的な自己紹介で名前を挙げられるメンバーはこれらの人なのですね

・外国人に対し、これは観たほうがよいとか、これは読んだ方が良いとすすめられる日本文化、日本文芸、日本の知識人の著作って、どんなものがあるのかな、と反省させられるのである

・また、批評空間派の名前が挙げられていないのも興味深い

○東派は左翼を否定する

また上記ブログでは、左翼を否定してもいる

「(6)あなたの周辺に、あなたを中心に世代的な現象があると思いますか。

 二重の意味であります。

 ひとつは、狭義の??新聞や論壇誌などにおける??論壇での現象です。ここ数年、日本の思想界では、ぼくとほぼ同年代の書き手が急速に現れています。その立場や主張も多様です。団塊ジュニア世代は、数年のうちに、思想界でひとつのまとまりと見なされるようになるでしょう。
 ぼく自身、同じ年齢の北田暁大とともに、この春に新しい思想誌「思想地図」を創刊します。その雑誌も、新しい「世代」の中心と見なされるはずです。

 もうひとつは、広義の??ブログや自費出版などを含む??論壇での現象です。上述のように、『動物化するポストモダン』は、思想的な言説とサブカルチャー分析を結びつけた先駆的な書物と見なされています。したがって、いまでは、この本の枠組みをもとにして、最新のオタク文化の分析を行う評論がネットや自費出版の世界でかなり多く現れています。
 東浩紀という名前は(このように自分で記すと日本では反発があるでしょうが)、彼らのなかでは象徴的な名前になっています。近年は、若い世代の書き手から、東浩紀批判が寄せられ、それに対して再批判が展開されるような光景も見られるようになりました。そのように、いまの日本では??少なくともブログでは??、ぼくの名前を(賛同であれ反発であれ)中心にして、「ポストモダン的認識を踏まえたうえで、オタク的、ネット的現象に注目して日本社会について語る」一派が生まれつつあると言えます。
 ただし、その人数は多くはありませんし、いまだ狭義の論壇には影響を与えていません。その点では、まだ無視できるていどの存在です。ですが、ぼく自身は注目しています。

 なお、それらの現象が「政治的」にどのようなイデオロギーを支持するのか、その分析はとても難しいので、ここではあえて語らないことにします。ひとつ言えるのは、上記の両者は、ともに、従来の意味ではもはや??残念ながら???左翼的な立場を取らないだろう、ということです。」

・1 新聞や論壇 2 ネットや自費出版 にて、新しい東派が登場しつつある。しかしそれらは、「左翼的な立場を取らない」のだと東は言っている。おい、まじかよ! 左翼、いねーのかよ!

○東と『フリーターズフリー』

・また、東は大澤信亮と鼎談したらしい

「『論座』の次号で、佐々木敦氏、大澤信亮氏と鼎談しています。大澤氏とは初対面です。『思想地図』対『フリーターズフリー』、批評派対運動派のアングルになるのかと思えば、まったくそういうことはなく、鼎談後は快調に飲みに行きました。」(もろもろ告知

・『フリーターズフリー』派も、東派に取り込まれてしまったりするのだろうか?

○杉田俊介の東批判

・しかし、一方で、『フリーターズフリー』派の一人、杉田俊介は、自己のブログで、東派への不信感をあらわに、こんなことを書いてもいる

「まあ、そういう現実の葛藤や複雑さや機微を知らないで、東さん・宮台さん・北田さんとかイッショウケンメイ読んでお勉強中の人たちって、こういうわかりやすい図式(実存vs環境、古さvs新しさ)に誘導されて、東さんの議論に――ちょこっと批判したり修正したり違和感をぐだぐだ述べたりしつつ――取り込まれてしまうんだろうなあ…」

○感想

・東は、左翼をしばしば批判する。しかし、そもそも「左翼」であるとはどういうことなのか

・たとえば、自著を外国で発行しようとする。また、外国語と日本語の両方を併記したブログを書こうとする。こういった東の行為は、国際的に開かれてあろうとする態度である。そこには、外部と向き合い自己を試す、「左翼的」な感性が見いだせはしないか? 

・外部へと、突き抜けてあり、閉塞した組織のなかへ、他者の声を流入させていこうとする態度。それをつらぬくことにこそ、本来的な左翼性があるのではないか? これをやることのできない大学人や文学者は、左翼を自称していたとしても、ただの偽物であったりする。既得権益を搾取する共同体主義や、スターリン的な独裁こそが、憎むべき悪政である

・東は、その言説内容においては非左翼的である。しかし、その行為におけるパフォーマンスは、良質な左翼のようにみえることもある。「ゼロアカ道場」の企画にしろ、田中和生との対談にしろ、東における「保守的な制度」と闘う身振りのなかには、左翼的な実存を見出すことができる

・左翼的であるためには、もちろん、杉田のように、マイノリティ運動を実践することも大切であろう。また、東的な身振りをもって、国際的に通用するよう、自己の思索を高めていくことも評価されるべきことかもしれない

・東派が、保守的な大学や文芸誌の制度を攻撃し、席巻していくことはいいことだ。革命的であり、素晴らしい

・一方で、Webでの論調が東一色に染まっていくのだとしたら退屈だ。杉田などをはじめとした、左翼系ブログ論壇が構築され、東批判の輪が広げられてくことが望ましいのである


現代思想にとって「東浩紀」とはなにか 

・とある方とお話をした。その方は、左翼運動や宗教に興味をお持ちのようであった。批評空間派をリスペクトしていたそうである。神の存在と自由の可否などについて私は言及した。左翼運動「NAM」なきあと、ポスト批評空間派の現状はどうなっているのか? 話題は、東浩紀に及んだ

・後日、その人は私のした東の話について、日記に書き記していた。それを読み、反省させられるところがあった。自分は、東の仕事について、うまく伝えられなかったのだなと

東浩紀以前、批評空間派以前の思想等について、親炙したことがある、ちょっと古い世代の方たち。それらの人々に、東をどう紹介すれば良いのか? 意外に難しい

・日本における批評の歴史は以下のようなものである。

小林秀雄→近代文学派→吉本隆明→江藤淳→批評空間派→

東浩紀派→ポスト東派
    ↑
   今、ここ

・東は、日本における批評史から、マルクス主義を完膚なきまで切断した。戦後最大の偉業? である

・思想に興味があるということと、左翼運動をやっていて当たり前である時代が、かつてあったらしい。思想と左翼運動と純文学の連結を解いたのが、東の仕事であった

・多くの若者の読者の支持を得て、思索する喜びを持続させた東の功績は大きい。とにもかくにも、「批評」というものを生きながらえさせたからである

・東の主張を簡単に知るには、次の文章を読めばいい。2005年の段階での、東の仕事を端的にまとめたものとして、もっとも明晰な文章であろう

◎「情報通信ジャーナル: 第9回 ポストモダン 情報社会の二層構造

・現在、私たちが住んでいるポストモダン社会は、どのようなものなのか? Web論やサブカル論への射程をにらみつつ、原理論的な考察を行なっている

○上記の文章をさらに短く、私なりに要点を書き抜くと次のようになる。以下は東の文である

・ポストモダンとは何か

・ポストモダン社会とは、全体性が失われた社会--より正確には、「全体性がある」との信憑が社会の構成員に共有されなくなった社会である

・確かにいまでも国家は存在する

・しかし、たとえば日本では年金問題や治安の悪化やニートの増加に現れているように、その全体性への信頼は大きく切り崩されている

・結果としていま起こっているのは、多くの日本人が、惰性的に日本というインフラに寄りかかりつつも、その全体性を意識せずにだらだらと--宮台真司風に言えば「まったりと」--生活し、アイデンティティの拠りどころは別に求めるという事態である

・それこそが筆者が「ポストモダン」と呼ぶ状況である

・インフラとしての国家は機能し続けるが、その機能は、かつてなく無意識化され不可視化されるようになる

・インフラと価値観の解離。これがポストモダン化の1つの帰結である。

・ポストモダン社会は、誰もが利用可能な必要最低限の共通サービスの上に、市民それぞれが自分の好みで選べる多様なコミュニティ・サービスが乗る、という二層構造を理想としている

・私たちはいま、多文化主義的な社会の理想にあまりに慣れている。しかし、つい半世紀ほど前までは、多くの社会では、性的志向や文化的感性の多様性はそれほど許容されていなかった

・インフラの層とコミュニティの層の分割は、グローバルな市場とその上に乗っかる国民国家としても、多文化主義国家とその上に乗っかる人種・地域共同体としても、あるいは、インターネットとその上に乗っかる多様な消費者コミュニティとしても読み解ける

・近代社会の市民が、自分のアイデンティティ(自我)と所属組織のアイデンティティ(超自我)を統合しようと不断の努力を繰り返す「抑圧的」な人格モデル(フロイトのモデル)を採用したとすれば、ポストモダン社会の市民は、複数のアイデンティティを使い分け、自分と組織を簡単に切り離す「解離的」な傾向を強くもっている

・さらに、「ポストモダンの社会」は、「2つのタイプの権力を使い分ける社会である」

・2つのタイプの権力とは、「規律訓練型権力」と「環境管理型権力」である

・人間集団の統治にあたっても、人々の人間性に焦点を当てるのか、動物性に焦点を当てるのかによって、大きく2つの統治方法がある。すなわち、一人ひとりのコミュニケーションや価値観に働きかけて間接的に行動を管理するタイプの介入方法(たとえば、忘年会に出席しないと社内で立場が悪くなるぞ、と空気を作り上げて酒を飲ませる方法)と、もっと簡潔に、快・不快に働きかけて直接行動を管理するタイプの介入方法(たとえば、部屋を熱くして水を与えず、ビールを注文させる方法)である

・規律訓練は人間を人間として内面によって管理する権力であり、環境管理は人間を動物として身体から管理する権力である。前者が価値観の層での秩序形成に、後者がインフラの層での秩序形成に大きな役割を果たすものであることは、あらためて指摘するまでもないだろう

・ヨーロッパの近代社会は人間中心主義的であり、規律訓練の整備を重視した

・それに対して、ポストモダンは価値観の多様性を原則としている。したがって、規律訓練では社会秩序は維持できない

・ポストモダン社会は、価値観の多様性を理想とし、規律訓練の影響範囲を小さなコミュニティのなかに閉じこめてしまった。だとすれば、大きな秩序形成は環境管理で行うほかない。したがって、監視社会の台頭は必然だと言える

・情報社会は、私たちをコミュニティ=人間的主体のレベルでは自由にするが、アーキテクチャ=動物的身体のレベルでは不自由にする

◎引用終わり
現状分析として極めて正当である
しかし、東の思想の功罪もまた、問われねばならないだろう

・私が考えてみたいのは、「死」と「社会参加」についてである


マガジンとサンデー、共同で漫画発行 

○「マガジンとサンデー、共同で漫画発行へ 創刊50周年」(asahi.com)という記事より引用する

・週刊少年マガジンと週刊少年サンデーが来年、同時に創刊50周年を迎えるのを記念し、両誌の出版元である講談社と小学館が、共同して少年向け漫画雑誌を発行する。

・両誌は59年の創刊で、高度成長期以降の少年漫画誌をリードしてきた。しかし、ゲームやインターネットなど子どもの娯楽が多様化し、漫画離れが進んだ。

・マガジンの部数は97年に最高425万部だったのが、現在は187万部。サンデーは、80年代に200万部台だった部数が93万5000部まで落ち込んでいる。全盛時には650万部に達していた週刊少年ジャンプも、現在は約280万部だ。

○感想

・漫画は出版業界のなかでも比較的売れ行きがまともな方なのかと思っていたが、さにあらず、そうとう大変なのですね

・文芸5誌も、ライバル同士で手を組んで、企画を打ったりとかしないのでしょうかね


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