文芸誌とケータイ小説 

群像 2008年 03月号 [雑誌]群像 2008年 03月号 [雑誌]
(2008/02/07)
不明

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○今後の出版メディアはどんな方向へと向かっていくのか。「侃侃諤諤」(『群像』08年3月号)には次のような注目すべき意見が書かれていた

・「去年(松平注・2007年)は新聞小説が当たった」

・「昔、新潮社の「純文学書き下ろし特別作品」っていう立派な箱入りのシリーズがあったけど、ああいうパッケージがなくなって、新聞がその代わりになっているところもある」

・「新聞は、客が多い」

・「でも「新聞が危ない」「新聞の没落」とか言われるようになってる」

・「新聞小説とケータイ小説の時代ってのは、「終わりの始まり」と「始まりの終わり」の交錯点かも知れない」

・「新聞がなくなり、文芸時評がなくなると、文芸誌がなくなり、そうすると純文学が危ないって話にもなってくる」

・「連鎖倒産だ」

・「文芸時評は九〇年代半ばまで、毎月上下二回でやっていたことを思うと先細りだ」

○新聞の時評担当者には高額の給料が支払われる。知識人がお金を稼ごうと考えたとき、大学と並ぶ最後の牙城が新聞であるが、新聞と文芸誌の連鎖倒産、などといった事態が、近い未来、生じうるのだろうか?

◎「始まりの終わり」としての「ケータイ小説の時代」について。中西新太郎「自己責任世代の一途を映すケータイ小説」(『世界』07年12月号)に注目する

・中西が『世界』に寄せた「ケータイ小説」論では、以下のような指摘がなされている

ケータイ小説には「〈苦難を引き受けるわたし〉という構図」がある

・「「一途」をつきつめる心情優位の姿勢はケータイ小説の主人公たちに共通しており、世界を引き受ける健気と言うべき心理機制がそこから生まれる」

・「一番苦しいことは誰にも話さないのが常態となりつつある現代日本の少年少女にとって、こうした引き受けの心理機制はごく普通のことであろう」

・「責任を世界へと投げ返すことのできない心理状況には、今日の青少年がおかれるきわだった社会的孤立が反映されている」

・「言い換えるなら、自己責任イデオロギーが強力に浸透しているということだ」

・「決して社会に救済を求めない「健気」な心情を磨くことでしか運命の愛を発見できないケータイ小説の世界には、これと一見無縁に思える新自由主義思想の精髄が、生の実感として息づいている」

○人はどのような対象に「救済」を求めるのか? 前近代においては、村落共同体に「救済」が求められたかもしれない。数十年前には、「政治」に責任が求められたかもしれない。それらの機構が成立しない現在、若者は社会から孤立し、新自由主義的なシステムのなかに放り出されている。そのことが「ケータイ小説」を生みだす背景となっている。ケータイ小説の執筆もまた、救済を求めた内面の吐露の一種であるのだろう

・さらに、中西論文によれば、「ケータイ小説では、文科的・社会的上層のライフコースではなく、ノンエリート下層のライフコースが実質的な関心対象となっている」

・「八〇年代ラブラブの恋愛物語とはっきり異なるのは、ケータイ小説が格差社会の低層部を生き抜く恋愛物語であるという点だ」

○この点を、武田徹は08年1月25日発行の「週刊読書人」の特集「ケータイ小説はなぜ受けるのか」によせた記事でさらに次のように補足している

・「ケータイ小説の台頭とは、実はジャーナリズムの不在を埋めるものではなかったか」

・「下層の若者の生活圏はジャーナリズムの射程が及ばない世界だった」

・「若者たちの心の琴線に触れるようなルポは書かれなかった」

・「マスメディアが報じなかった若い下層生活の心情を切実に伝えてくれるものとしてケータイ小説は求められたのではなかったか」

○田中和生のいうように、「文学であろう」とする意志のないものは「文学」ではないのだろうか? 「ケータイ小説」が「ケータイ小説」であることを超え、見るべき文学的な結実や進化を示すといったことは、ないものなのだろうか
世界 2007年 12月号 [雑誌]世界 2007年 12月号 [雑誌]
(2007/11/08)
不明

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高橋源一郎、田中和生、東浩紀 討論「小説と評論の環境問題 第二部」 

新潮 2008年 03月号 [雑誌]新潮 2008年 03月号 [雑誌]
(2008/02/07)
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◎感想

東は「ウェブ的なもの」を「文学」概念へと組み入れ、現状の文芸誌を中心とした「文学」の概念を再考させることを狙っているようである

◎以下、討論「小説と評論の環境問題 第二部」『新潮 2008年 03月号』の流れを追う

東浩紀「キャラクターズ」のセリフを高橋が引用する

「小説とは、作家のためでも読者のためでもなく、ましてや編集者や書店員のためでもなく、なによりもまず、現実という単独性の支えを失い、可能世界の海を亡霊のように漂っている「キャラクター」という名の曖昧な存在の幸せのために書かれるのだということ、そしてそれこそが、文学が人間に自由と寛容をもたらすと言われていることの根拠なのだ――。」

作家、編集者、書店員と読者の関係はツリー型の構造であったが、ウェブにおける「キャラクター」はデータベース型の構造になっている

東はここで、作家、読者、編集者、書店員といった、既存のツリー型の文学制度や、日常生活を営む「私」というものから、乖離して動く「キャラクター」について言及し、ウェブ的な空間のなかに「文学」と「自由」を見出している

○田中の意見

・「近代文学」に対するアンチとして「ポストモダン」があった。「ポストモダンの文学」とは「世界の悪に損なわれた純粋で無垢な被害者からの告発」である。それらの例として、高橋の文学、東のキャラクター小説論、フェミニズム文学がある

・「……現在の社会では被害者としての語り口がなにかを主張するときにはいちばん通りがよいので、結果としてポストモダニズムは被害者としての語り口ばかりになりますね。だって誰も自分が「父」のような加害者だなんて認めたくないんだから。」

・ポストモダニズムにおいては、(東浩紀のような)「「父ではない」と主張する「父」が不死になってしまう」

○高橋の意見

「僕がものを書き始めた一九八一年頃には、妙な言い方ですが、まだ具体的な敵がいた。文壇は強大で、父性の残りもあり、極めて自然主義的な敵――否定すべき対象がはっきり見えいたので、それを倒すための戦略をずっと考えていた」

「おそらく村上春樹も村上龍も、敵と戦うための言語やツールを模索していた」
中上健次は「近代主義の究極的な小説」である

「僕のデビュー時は、日本の近代文学が曲がり角に来た八〇年代でしたが、少数者の書き手が多数者の読者を支配するという独裁制をどう倒すかが問題だった。つまり、一〇人の国宝的作家が書き、三千人の、三万人の、あるいは三千万人の読者がつくというフィクションが、純文学や文芸時評のシステムを支えてきたわけで」

高橋、およびマルクス主義にとっては、そのツリー型のシステムこそが打倒の対象であった

○東

「書かれたものはすべて文学である」

○田中

「それは究極のニヒリズムではないですか」

○東

「誰かが伝統をだしに「これこそが文学」だと自作を発表したところで、次の瞬間、それこそ数時間後に、そのテクストは断片化され、刻まれ、コメントをつけられ、世界中にばらまかれる」ものである

○田中

・文学は、自明なものとして存在しているわけではない。存在させようという意志がない限り、それは存在しえないものである

○東

「文学にかかわる人が増えれば、文学のイメージが増え、結果的に文学は拡散する」

○田中

「近代文学のシステムというのは、これが文学だと言ったやつを生存させるために使われてきたことが問題なのであって、そんなふうに「父」を守るのはやめましょうという態度が、ポストモダンのいいところだと思う」

「次に文学とはこういうものではないかと言おうとする人に殺されるために、これは文学だと主張する人間が必要」である

「文学について語るときのモラルとして、少なくとも自分はこういうものを文学だと信じるということを、間違える可能性を含めて示すべき」である

それをしない東は「無責任だ」

東と東の読者の関係は「近代主義」的でありつつ、東自身はポストモダニストとしてふるまうため、読者は「「父」である東さんを殺す手段がない」

東と東の読者における「ツリー構造」について、田中がチクリと批判している

◎まとめ

現在のウェブ界の状況を検討することで、ポストモダン社会というものを、東はよく解説しえている
現代社会の状況に適した形へと「文学」の側で動くべく、要請を出しているともいえよう
一方、東の批評は現状追認的なものかもしれない
ここでは、「批評」はなんらかの「倫理」と関わることができるのか、という問いが浮上する

東が繰り返し言及する「手紙の誤配」というのは、精神分析学における「転位」の問題とも重なる
人間がなんらかの「文学」を愛するというのは、ある側面から見れば、「転位」の現象である
現代社会には、「これへ「転位」しなさい」と名指すべきものがあるのか
「「これへ「転位」しなさい」と名指すべきものはないのだ」と、主張する行為自体が、一つの「父」として存在することを、どう評価しうるのかという問いも、チェックすべきであろう


2007年文芸部門年間ベストセラーと、「ケータイ小説は『作家』を殺すか」 

文学界 2008年 01月号 [雑誌]文学界 2008年 01月号 [雑誌]
(2007/12/07)
不明

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◎2007年文芸部門年間ベストセラー(トーハン調べ)は以下のとおり

・1位

恋空〈上〉―切ナイ恋物語
恋空 切ナイ恋物語 (下) 美嘉 スターツ出版

・2位

赤い糸 上
赤い糸 (下) メイ ゴマブックス

・3位

君空―‘koizora’another story
美嘉 スターツ出版

・4位

一瞬の風になれ (1)
一瞬の風になれ (2)
一瞬の風になれ (3) 佐藤多佳子 講談社

・5位

もしもキミが。 凛 ゴマブックス

・6位

求めない 加島祥造 小学館

・7位

純愛 稲森遥香 スターツ出版

・8位

陰日向に咲く 劇団ひとり 幻冬舎

・9位

夜明けの街で 東野圭吾 角川書店

・10位

楽園(上)
楽園(下) 宮部みゆき 文藝春秋

ケータイ小説がベストセラー上位を独占した

1位『恋空』、2位『赤い糸』、3位『君空』、5位『もしもキミが。』、7位『純愛』のケータイ小説5作品がベスト10に入った

◎対談 中村航、鈴木謙介、草野亜紀夫「ケータイ小説は『作家』を殺すか」(「文學界」(2008年1月号))

・「文學界」(2008年1月号)に、「ケータイ小説は『作家』を殺すか」と題した鼎談が掲載された

・座談会参加者は、作家の中村航、社会学者の鈴木謙介氏、「魔法のiらんど」の草野亜紀夫

○内容紹介

・書き手、読者は二十代等の若い女性が圧倒的に多い

・東京以外の舞台が選ばれる。都心でないというていどの郊外で、地名は書いておらず、匿名性の高い傾向がある。そのことが、全国的なムーブメントとなることに寄与している

ケータイ小説はネット上で読めるが、しかし、書籍化したものが紙媒体でも売れる。愛読者が、「一冊自分の手元に置いておきたい」という感覚のよう

・女子中高生の圧倒的支持を集める

・ケータイで読む層と、それを書籍で買う層は重なるが、書店では三十代、四十代での購入も多い

ケータイ小説は、昔の雑誌、「ティーンズロード」「ポップティーン」の読者投稿コーナーと似ている。ヤンキー系の子たちのレイプされたとか、妊娠したとかいった「実話」が多く集められていた

・主人公の名前と作者の名前が同じであり、「実体験」であると主張がなされる

・自分はこういう体験をしました、という告白をしあう、作者と読者のコミュニケーションのなかで、連載が続けられていく

・コミュニケーションは文学か? ケータイ小説は私小説か? という問題性をはらむ

・最近は実体験ものではないケータイ小説も現れてきた

・ある種の物語の原型、ある種の大衆芸能的なものであり、近松門左衛門の世界に近いのではないか(中村)

・お話の形は、勧善懲悪、「偉大なるワンパターン」である。作家の執筆行為に他者の声が不断に介入してきていて、それらを集積する装置として、「ケータイ小説」の作者がいる。「作者」は「巫女」のような役目を果たしている。昔話やうわさ話などの民族説話に近いのではないか(鈴木)

◎松平の感想

・なんだかんだいっても、売れる文学を提出できたひとは尊敬せざるをえない

・人は、どんなとき、「文学」を創出するのか。どんな「文学」を読みたいと考えるのか。飾りのない、原型的な物語が、ケータイ小説において露出しているということがありそうである。物語とは、母を見失った赤ちゃんが、自己の陥ったトラブルをいやすため、言語を用いて母を代替させる手段である、ということに、その一つの形がある

・レイプ、恋愛、妊娠、流産、リストカット、いじめ、離婚の危機、恋人の死、友達の裏切り、大切な人との和解等。現実と地続きでありつつ、起こりうる出来事、起こったら困る事件の連続から、ケータイ小説はなる。極めて、青春小説らしい青春小説であるともいえる

・もともと、細かい描写をケータイで打つことは、そしてケータイで読むこともまた、苦痛なことである。人間は、通常生きていく上では、最低限の「言葉」しか必要としない。対他的なトラブルに巻き込まれること。対他的な傷がいやされるよう祈ること。その二つの「感動要素」のみを抽出して寄せ集め、物語が成り立っている、ということもあるだろう。一部のラノベが、「萌え要素」のみを集めたり、「闘争と勝利」の快感だけを追求して物語を作るがごとく、経済的な効率を重視することで、ジャンル小説が登場していくのと似ているのであろう

ケータイ小説が続々とベストセラー入りをし、「ウェブでも読めるのに、わざわざ書籍版を購入しないだろう」という常識は、打ち破られた

・たしかに、『恋空』はウェブでも読めるが、首が疲れて根性がいる。ウェブで読めて当たり前、書籍でも購入できる、というのが、今後の「文章」の在り方になるだろう。読者と身近な位置にケータイ小説はある

・今世紀、「ケータイ小説」は、そして、「ケータイ批評」もまた、「作家」と「批評家」に廃業宣言をくだしていくかもしれない。編集者と出版社の仕事は、ウェブにアップされた文章を編集し、書籍化し、営業することがメインになっていくかもしれない。しかし、それでもなお、専門的な「文学者」や「知識人」を、もしも社会が必要とするのなら、それらは、どんな存在であらねばならないのか。「ケータイ小説」が見落としていて、かつ、人々にとって役立ちうることとは、どんなものだといえるのか

・たとえば、ケータイ小説がもしも実体験ベースなら、それは量産のきく物語とはならないだろう

・美嘉の『恋空』は「実話」であると銘打たれているが、嘘だという説も多くある

・しかし、作者の美嘉のブログもある
美嘉のブログ」を見ると、作中人物への倒錯した想いがつづられていて、ひょっとしたら本当なのかなと思わせられる

・死んだ恋人のことを永遠と気にする雰囲気は尋常ではなく、ちょっとこの人大丈夫? といった思いを、読む者に与えざるをえないところはある
村上春樹の小説に出てくる、ちょっと精神病がかった、ヤンデレの女性みたいである

・美嘉がルーズソックスをはいているという記述が作中にはあり、また、作品の終わりは2005年となっているが、そこらへんもやや謎であった

◎松平の美嘉『恋空』 に関するエントリはこちら


大江健三郎「「人間をおとしめる」とはどういうことか」 

すばる 2008年 02月号 [雑誌]すばる 2008年 02月号 [雑誌]
(2008/01/04)
不明

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○「思想地図」派は、「作る会教科書」の運動を、「サブカルの文化」だと考えているのだろうか。 左翼も右翼も、「歴史」を「物語」だと把握している、といえるものなのだろうか。 大江の『沖縄ノート』が、作る会教科書の思想勢力の後押しを受けて、裁判に巻き込まれたことには、「歴史は物語」などといってもいられない、諸問題が潜んでいそうである

・一九四五年の沖縄戦のはじめ、慶良間列島で七百人に及ぶ非戦闘員が集団自殺した

・大江は『広島ノート』(1970)で、この事件における、日本軍の強制について論じた

・2005年8月に元沖縄戦指揮官および遺族が、大江健三郎、岩波書店を名誉毀損で提訴した。2008年に結審、3月に判決が出るとのこと

・藤岡信勝などの自由主義史観研究会が、南京虐殺説、従軍「慰安婦」強制連行説とともに、沖縄集団自決軍命令説を、日本軍を貶める教科書の記述として取り上げ、これを闘争対象とした運動を行なっていて、その過程で生じてきた裁判ともいえる(ウィキペディアより)

・自由主義史観研究会の運動の影響などもあり、歴史教科書には次のような変更が生じている。「文部科学省は今年3月、集団自決を強制とする記述について「軍が命令したかどうかは明らかといえない」との検定意見をつけた。その結果、「日本軍が配った手榴(しゆりゆう)弾で集団自害と殺しあいをさせ」との表記が「日本軍が配った手榴弾で集団自害と殺しあいがおこった」などと修正された。軍の関与自体はそのまま残されている(2007年10月4日、産経新聞)。」(ウィキペディア)


◎大江は『すばる』2008年1月号に、この裁判について「『人間をおとしめる』とはどういうことか――沖縄「集団自殺」裁判に証言して」というエッセイを寄せている

○大江の「名誉棄損」の根拠とされたのは、曽野綾子の『ある神話の背景――沖縄・渡嘉敷島の集団自決』の『沖縄ノート』の紹介によるらしい。大江の言い分によれば、曽野はまったくの誤読を『ある神話の背景』で行なっているようである

・大江は赤松元隊長の行為を「罪の巨塊」と書いている、と曽野は主張した

・しかし、該当部分にあたる『沖縄ノート』の記述は次のようなもの

○「人間としてそれをつぐなうには、あまりにも巨きい罪の巨塊のまえで、かれはなんとか正気で生き伸びたいとねがう」

・「あまりにも巨きい罪の巨塊」とは、渡嘉敷島の山中にころがった三百二十九の犠牲者たちの死体のこと
・「かれ」とは渡嘉敷島の守備隊長のこと

つまり、守備隊長を「罪の巨塊」だと言っているのではない、それは単純に国語の問題である、と大江は反論する

○また、原告側弁護士の徳川信一が『正論』(二〇〇六年九月号)に寄せた論文には、次のようにあるらしい

・「大江氏は、まず、どんな調査のもとに、何を根拠にして、赤松元大尉を「罪の巨塊」などと断定し、アイヒマンのごとく絞首刑にされるべきだと断罪したのかを弁明しなければならない。」

・大江は「アイヒマン」について、たしかに『沖縄ノート』で言及しているが、大江の意図した文脈とは、まったく異なったように徳川が誤読している

・実はアイヒマンは、公衆の面前で絞首刑にされることを望み、それを提案している

・二次大戦でのユダヤ人虐殺について「或る罪責感がドイツの青年層の一部を捉えている」とアイヒマンは聞き、「ドイツ青年の心から罪責の重荷を取除くのに応分の義務を果たした」いと考え、人々の前での絞首刑を主張した、とのことである(アレント『イェルサレムのアイヒマン』にもとづく)

・ドイツの青年には、ユダヤ人虐殺についての罪責感があるようだ。しかし、日本の青年には、沖縄での犠牲者について、罪責感がないようで、これは問題なのではないか。二国間の状況を対比させたい、というのが大江の意見であった

○また、曽野の『ある神話の風景』には次のような記述もあるとのこと

「むしろ、私が不思議に思うのは、そうして国に殉じるという美しい心で死んだ人たちのことを、何故、戦後になって、あれは命令で強制されたものだ、というような言い方をして、その死の清らかさを自らおとしめてしまうのか。私にはそのことが理解できません。」

・「国に殉じるという美しい心で死んだ人たち」とあるが、沖縄で「集団自殺」を強制されたひとたちをさす言葉としてとしておかしい

・また、「その死の清らかさを自らおとしめてしまう」ともあるが、この「自ら」というのは誰のことか。死んだ人が、「自ら」、自分の死の清らかさをおとしめるということなどできるものか。「清らか」というのもわけがわからないし、「自虐史観」はよくないよという判断に、いつのまにかすりかわってしまっている

◎しかし、大江の文章も晦渋で分かりにくい。45年から70年、70年から08年と、時代の価値観も大きく変わってきている。大江の「人間」概念や、文体にも、再考されるべき部分もあるかもしれない

・しかし、今、大江のような大きな仕事を、なんらかの文学者が行えるものなのだろうか。裁判の闘争の論点となるような、どんな文学が、どんな表現が、ありうるものだろうか?

・軍隊と民衆の関係を、三角構造でとらえること。それはこの文脈での大江の『沖縄ノート』にも見いだせる

○『すばる』は大江側を応援して沖縄特集を組んでもいる。『すばる』VS『正論』で論争が起こったりはしないのだろうか? どっちが勝ちそうでしょう? 皆さんはどっち派でしょうかね?

※参考資料
大江健三郎・岩波書店沖縄戦裁判 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


「大討論 高橋源一郎×田中和生×東浩紀」2――大塚英志「不良債権としての文学」 

新潮 2008年 02月号 [雑誌]新潮 2008年 02月号 [雑誌]
(2008/01/07)
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◎「新潮 2008年 02月号」「[大討論]高橋源一郎×田中和生×東浩紀「小説と評論の環境問題」」にて

東は「キャラクターズ」という小説に、『ゲーム的リアリズムの誕生』という批評を盛り込んで発表した
小説と批評、それらは分類の異なる別々のものなのではないか
なぜ、無理やりくっつけて一つの作品にしたのか
そのような質問に対し、それは単純に「経済問題」なのだと東は韜晦する

東「文芸誌のシステムにおいては、創作のほうが評論よりも優遇されている。「キャラクターズ」は二〇〇枚を一括で載せてもらえるけれど、もしこれが評論ならそれこそ分載で注目も浴びない。というわけで、『ゲーム的リアリズムの誕生』の主張を文芸誌の読者のみなさんに知ってもらうためには、小説版を書くほうがいいと考えた。」

高橋「小説のほうが評論より優遇されているというか、売れていることになっているのは確かですね。」

小説の方がたくさん書かせてもらえるから小説で発表しました、と
なんというフットワークの軽さだろう!
普通の評論家にはなかなかできるものではない
評論家は、口先だけでしょうがない奴らだ、お前らも小説を書いてみろ
という高橋の不平を、軽くいなしてしまった
これなら、高橋も文句を言えまい
評論家だが、小説風のものにチャレンジしてみた東である
一方、評論風のものにも手を出したがる高橋である

小説を書くのは自分の役割ではない、と文芸評論家の田中は述べた
そこで、場の空気が一定の方向に向かう

「新潮 2008年 02月号」の対談の最後は、高橋と東のみの会話となっている
高橋と東が結託しているようで、田中の声が聞こえなくなってしまった
しかし、この対談のそもそもの目的は何だったのか
高橋の発言、「小説のことは小説家にしかわからない」が最初の問題提起であった
これに対して、この号ではどのような評価となっているのか?

評論家も小説を書いた方がいい
小説を書くことで、小説がわかるようになる、という結論に陥りそうにはならないのか
しかし、この対談では、まだ話が終わっていない
また、次の号で、新たな展開があるのだろうけれども

高橋と東は何かを理解し合っているようにもみえる

高橋と東は、それぞれ、「文芸評論家」への警句を抱えているようである
文芸誌における「純文学」は、近年とみに売れなくなってきた
ただ、小説の場合、単行本化されたとき、ベストセラーになるチャンスがまったくのゼロではない
だが、「純文学」を批評の対象とした「文芸評論」は、小説以上に売れえない

東はラノベとケータイ小説への賛美をもって、文芸誌へと攻撃をしかける構えをみせている
これは、「純文学」のみに依拠した「文芸誌」がすでに破綻していることを確信しているからであろう
そして、高橋が文芸評論家不用説を唱えていたのも、同じ憂慮があったからだと考えることができる

この対談において、高橋は、東を必ずしも否定していない
ライトノベルについても、ちょっと自分にはよく分からない、といった程度の反応であった

◎そして、東や高橋の議論の前提として、大塚英志が書いた「不良債権としての『文学』」を見ておいても良いのだろう

笙野頼子との論争の過程で、大塚が「群像」2002年6月号発表した「不良債権としての『文学』」はWebでも読める

以下、要点をまとめておく

○大塚×笙野論争の過程での、大塚の意見

大塚「さて、笙野さんの「仮想敵」への主張は文学的素養のないぼくが必死に読みとった結果としては次の二点に集約されます。
 ・素人が文学にあらゆる意味で口を出すな。
 ・文学の基準として「売り上げ」を持ち出すな。」

○「文学」は、多くの人に読まれうるものとなっていない。一部の玄人のためだけに存在させられている

大塚「書物という商品の形式を資本主義下で採用しながら、しかし商品的淘汰によって素人と玄人の不和を、言わば市場経済に委ねることから「文学」は免責されています。その替わりに「賞」や「批評」や編集者や作家のひそひそ話といったものがその基準を作っています。「文壇」というやつです。つまり玄人自身が誰かが玄人であることを決める、という制度で落語とか能とかの昇進制度に近い形で「文学」は運営されています。」

○文芸誌は存続させることは出版社にとって無意味である

大塚「試みに『群像』を例に、この文芸誌がいかに経済的に成り立っていないかを試算してみましょう。」

「さて『群像』の本体価格(つまり消費税という国庫に納めるべきお金を差し引いた額)は通常で八七六円です。」

「もし『群像』が毎月一万部を売りかつそれが一年続けば七三五八万四〇〇〇円の売り上げになります。」

「まず、原稿料。『群像』から広告等を除いた頁を三〇〇頁とすると、四〇〇字詰めの原稿用紙で九七二枚の文章が掲載され、四〇〇字一枚当たりの原稿料の平均を五〇〇〇円とすると一号当たり四八六万円、年間で五八三二万円となります。」

「次に印刷代と紙代。これは算出方法によっても異なりますが、仮に一号につき三〇〇万円、年間で三六〇〇万円とします。」

「しかし一番大きいのは編集者達の人件費で、編集長以下四名いる『群像』編集部員の税込み年収は四人分合計で五〇〇〇万円前後と思われます。」

「以上までで収支を試算すると、一年間で『群像』は七〇七四万余円程の赤字です。」

「それでも連載作品がベストセラーになれば収支は合いますが、どうした理由からか「文学」では例外的に多くの読者を持つ大江健三郎氏や村上春樹氏は『群像』には殆ど登場しません。」

「ところで「文学」が昔から売れなかったわけではありません。戦前から戦後のある時期まで文学全集が馬鹿みたいに売れた時代がありました。その時の高収益体質は、細かく検証しませんが「文学」の既得権を形成した現在の高コスト体質に繋がっています。」

○出版界で売れているのは漫画だけであろう

大塚「まんがに替わる高収益商品を各社は血眼になって探していますが、例えばそれこそ夏目漱石を始めとする「文学」が数多く収録されている老舗の某文庫の年間売り上げが数年前の半分に落ちているように、「文庫」という「文芸出版」を支えてきた商品もとうに行き詰まっています。」

○コミケでは素人が漫画を売り、素人が漫画を買う場を素人たちがつくることで、新陳代謝を活性化させている。
これと同じことを文学でも行なうべきである

大塚「既存の流通システム、つまり版元―取次―書店」という「制度の外側に「市場」は作れないのでしょうか。」

「コミケ的なイベントに「文学」学ぶことがあるとすれば、それが既存の版元以外の場所から新人が世に出ることを可能にしたという点、是非はともかく「同人誌で食っていける」という状況を生んだ点です。」

◎こうして大塚は「文学フリマ」を立ち上げることになったわけであった
文芸誌から離れて文学を生産しようというチャレンジとしての「文学フリマ」は、その後うまくいっているのだろうか?

どうやったら、文芸誌を再興できるのか
東の言うとおり、ラノベやケータイ小説の存在も視野に入れつつ、文学史を書き換えることも必要なのかもしれない
こうしてみると、高橋と東は、窮地に陥っている文芸誌を盛り上げるべく問題提起をし、騒ぎまわっているものと評価することもできる


大討論 高橋源一郎×田中和生×東浩紀 

新潮 2008年 02月号 [雑誌]新潮 2008年 02月号 [雑誌]
(2008/01/07)
不明

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◎「新潮 2008年 02月号」「[大討論]高橋源一郎+田中和生+東浩紀-「小説と評論の環境問題」」を読む

○内容

・熾烈な論争を繰り広げていた高橋と田中を対面させてしまうという企画
しかもそこに、「キャラクターズ」で物議をかもした東浩紀も呼んでしまう
これは、期待が盛り上がる

高橋田中論争の発端は、「小説のことは小説家にしかわからない」という高橋の発言にあった
しかし、東が乱入することで、高橋源一郎(小説家) VS 田中和生(評論家)の構図が、一挙に崩れる
東が、評論家でありながらも私小説家的な身振りでもってライトノベル論に基づきつつ小説を書き、それを文芸誌に載せたからである

・東は高橋に応対する

「僕は、裏返して言えば、評論もまた評論家にしかわからないと思っている」

この一言が言えるのは、評論家として自立できている東の強み
自分の評論によほどの自信なり、社会的評価なりがないと言えない

○「キャラクター」概念は疑わしい

・東「僕にとって、評論を書くことは、あるときから、キャラクター・東浩紀をどう演出するかという感覚にとても近くなってしまった」

「キャラクター小説と私小説のちがいを最もシンプルに言うと、キャラクター小説は、テクストの向こう側に、作者だけではなくキャラクターのデータベースがある。だから物語と関係なく特定の人格を呼び出せる。」

キャラクターとかデータベースとか、目新しい言葉を使って煙に巻こうとしているが、このあたりは、詐術だと疑われる部分
在原業平や小野小町だって、キャラクターだ、と
日本民話における「狐」とか「一寸法師」とか「桃太郎」だってキャラクターだろう

○「評論」とは何か

・東「もともと僕は、評論の起源に関心がある。その作業をさらに先に進めるために、評論家が行なっていることを私小説のかたちに偽装してみた。」

このアイディアは、デリダにおける文学的な側面を実践しているものだろう

・田中「僕としては、東さんがおっしゃるように評論が自立して成立するかどうかというのは問題ではなく、評論という道具を使うことでいかに文学に触れるのかという考え方が重要です。」

田中にとって、「評論」とは「道具」である
しかし、東にとって、「評論」はそれ自体が「文学」なのであろう
私は、この論点では東を支持する

○田中による東「キャラクターズ」批判

・田中「僕は文学作品を読む際に、そうはなれないと知りつつ、文脈を共有していない無垢な読者、先入観のない読者という目を持ちたいと思って読みます。そうすると、東さんのこの小説には文学についての現代的な思考がありますが、しかし小説としての本質を求めていって、どこかでそれだけを取り逃したのではないかという感じを受けました。」

「僕が「キャラクターズ」を読んでいちばん知りたかったのは、東さんが言うキャラクターと、東さんが考えているキャラクター文学の関係性が、「キャラクターズ」に十全に反映されているのかという点です。」

・田中は、「オーソドックスな自然主義の枠組み」の内部に、東の「キャラクターズ」はあるのではないかと指摘している

「大正や昭和初期の私小説作家は、間違いなく文壇ゴシップを自分でも耳にしながら、書けない作家を自分で演じつつその上で小説を書いていた」

・東浩紀が、自身を「キャラクター」として自己演出することは、単に、私小説の方法ではないのか
そして、「キャラクターズ」は、文壇事情や、東について知らない読者には理解できない小説ではないか?
この場合、オタクにしかわからない、「失敗したタイプの私小説」とみなされうることになる
この点では、田中の言うことに理がありそうである

○ライトノベル

田中「ライトノベルと対比した時点で、どんな作家でも入ってしまう自然主義的リアリズムという言い方の、あまりに大雑把なところが気になるんです。」

東「そんなことを言ったら、「ライトノベル」という言い方も大雑把ですよ。」

東は、デリダというハイソな文学と、ライトノベル・携帯小説といったジャンクな文学
二つの周縁的な「文芸」を持ち上げる
そうすることで、アカデミックな文学概念と、文芸誌における純文学を、まとめて挟撃にしている
この攻撃的な身振りそれ自体が、「文学的」なものとして、若い読者を喜ばせるものとなっている

○感想

高橋は、変人耐性があり、東を面白がっているよう
田中は、東の思考の飛躍を持て余し気味

◎チェック

赤木智弘『若者を見殺しにする国』

○田中和生VS笙野頼子論争

So-net blog:郷士主義!:「三田文学」2008年冬季号

・『群像』二〇〇七年十一月号 笙野頼子「さあ三部作完結だ! 二次元評論またいで進めっ! @SFWJ2007」

・『文藝』二〇〇七年冬号 笙野頼子 「近況という名の、真っ黒なファイル」
蓮実重彦「書けない理由」

・「群像」二〇〇六年新年号 笙野頼子『だいにっほん、おんたこめいわく史』

・「群像」二〇〇六年二月号

・笙野頼子『絶叫師タコグルメと百人の「普通」の男』

So-net blog:郷士主義!:いまさらですが……

・「群像」二〇〇七年十月号 田中和生「フェミニズムを越えて」

・「群像」二〇〇七年十一月号 笙野頼子「二次元評論またいで進めっ!」

・「三田文学」2008年冬季号


杉田俊介「奇跡について」「ユリイカ荒木飛呂彦特集」 

ユリイカ 2007年11月臨時増刊号 総特集=荒木飛呂彦〜鋼鉄の魂は走りつづけるユリイカ 2007年11月臨時増刊号 総特集=荒木飛呂彦〜鋼鉄の魂は走りつづける
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杉田俊介「奇跡について――荒木飛呂彦先生、告白」

・第39回新潮新人賞(評論部門)を大澤信亮が、「宮澤賢治の暴力」で受賞したとき、選者の一人である浅田彰がこれを「新実存主義」と呼びつけていた

・大澤信亮の「宮澤賢治の暴力」は、『批評空間』が批判した宮澤の農本主義的なファシスティックな面をあえて肯定したものなのだろう。なんでいまさらこういうものが出てくるのかなといくらか違和を感じたし、まあ、そういう時代なのかなとも思った。新しさは感じなかった。しかし、杉田俊介による『ジョジョの奇妙な冒険』論である「奇跡について」を読むうち、浅田が大澤に対してつけた「新実存主義」というネーミングが腑に落ちたように思った

・大澤と杉田は雑誌『フリーターズフリー 01号』で一緒に仕事をしているというが、大澤の「宮澤賢治の暴力」以上に、杉田の「奇跡について」は、これこそ「新実存主義」だと感じられるのである

・杉田は、荒木飛呂彦の漫画『ジョジョの奇妙な冒険』を論じるにあたって、アウグスティヌスの『告白』の形式を借りることを意識したい、と述べて稿を始める。荒木を「神」のごとき位置にみたて、告白を行うというのだから、一種異様なムードである

・杉田は自己の人生の経歴において出会った辛い体験、悩みと苦しみを告白したうえで、それを『ジョジョ』の登場人物たちの立ち向かう「運命」に重ねることで論を立てる。ニーチェを援用しつつジョジョの第六部、第七部を論じる部分などは、納得できるものであった。私としても『ジョジョ』を読んでいるうちに感じた漠然とした混乱を、整理することができ、大変参考になった

・「漫画」という題材を扱いつつ、実存的・宗教的な信仰のごときものをそこに代表させてしまう杉田の読みは、「新実存主義的」ともいうべき、フレッシュな印象を受けた

・しかし、疑問もある。『ジョジョ』は、登場人物たちの、真剣なドラマにその読みどころがありつつも、そこ一辺倒で成り立っているものなのだろうか。『ジョジョ』は第一部から第七部へと話が進んでいくほどに、ストーリの複雑さが増し、また、リアリズムの要素も強くなる。物語の筋のなかには深刻なものが全面的に展開されてもいるが、それと同時に、何かが常にズレていることに、『ジョジョ』特有のユーモアがあるのではないか。私は、『ジョジョ』を、ある種の「冗句」の書ともとらえている。『ジョジョ』は「ロマンホラー」であると同時に、「ギャグ漫画」でもあるのではないか

・杉田は「ジョジョ」七部の「テニスの競技中…ネットギリギリにひっかかってはじかれたボールは……/その後どちら側に落下するのか…?/誰にもわからない/そこから先は「神」の領域だ/それは「無限」の領域」という言葉を引きつつ、「偶然」と「運命論的自立」について論じている

・これを読みながら私が考えていたのは、うすた京介の『ピューと吹く!ジャガー』「第312笛 そうだ、映画に行こう」であった。

・『ジャガー』に出てくるナルシスティックな登場人物、「ムガー」は、自分を題材にして、映画を撮る。「ムガー」により主演・監督のなされたその映画は、それを鑑賞するジャガーやピヨ彦を、呆然とさせるものであった。「ムガー」は病気の子供のために、悪の組織に奪われてしまった「薬」を取り返さなければならない。並みいる999人の子分を打ち倒し、悪の親玉を追い詰めたムガーであった。しかし最後の敵である悪の親玉は、大事な薬を盾にとる。

・「おおーっと!!いいのかムガー!?そんなバズーカで私を撃てば…大事な薬まで木っ端微塵だぜ!?」この危機に対し、「ムガー」は、「一か八か」の「可能性」に賭け、バズーカをぶっぱなす。そして、悪の親玉ごと薬を吹き飛ばしてしまう。病気の少年のことを思い涙するムガーであった。この薬がなければ、少年を救うことはできないのに。その悲痛な思いが奇跡を起こし、少年の病気が治ってしまったという、不条理なストーリーの映画である

・いかにしたら人間は、「自分に酔う」ことができるのか? 「自分に酔う」ためには、「病人」や「悪人」が必要なのではないか? 「悪人」も「病人」も、「自分に酔う」ためのオプションに過ぎないのではないか? そんな疑念を起こさせ、批評性のはらんだ場面であった。ジャガーたちが鑑賞する、作中作の映画であるからこそ、ご都合主義にご都合主義を重ねたメタ物語が可能なのであるが、ムガーがむせび泣きながら言う次のセリフ

・「一か八か薬だけは吹っ飛ばない可能性に賭けたんだが…私のせいだ…何が「奇跡の男」だ! 私は…病気の少年一人救えないじゃないか…!!」という言葉には、自分にもこういうところはあるかなーと、考えさせられてしまった

・杉田氏のなかには、「一=一」というものを探究する、ある種の神学的な真剣さがある。実際、深刻な人生と生活を精一杯生きていらっしゃるのだろう。一方、私は、自分をこのムガーのごときものかもしれないと考える。そして、ジョジョにおける「偶然」と、『ジャガー』における上記の「偶然」は、本来、相互補完的なものではないのかと疑ったりもする。しかし、杉田氏の今後のご活躍を期待したい


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