「屋島」観覧 

新編日本古典文学全集 (58) 謡曲集 (1)新編日本古典文学全集 (58) 謡曲集 (1)
(1997/04)
不明

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2008年3月、浅見真州さんの能、「屋島」を観覧してきた
内容について云々したかったのだが、なにぶんにも能を観るのが初めて
ギリシャ神話と能、コロスと地謡の比較とか
能における「キャラクター」の表われ方は、近代小説とどのように異なるのか
等々といったことに興味がありました
浅見さん特有のお能の演出法も、勉強できれば良かったのですけれども

そんな理想的な地点には到底至らず、頭のなかに、たくさんのクエスチョンマークが飛び交っていた松平でございました
というのも、使われている言葉が、日本語であるにも関わらず、聞きとれなかったことが原因です
我ながら情けなくはございますが
「能」というものの、日本近代文学との差異や、同質性について、比較してみたかったですが、今後の課題である
「これが狂言か」とか「ここで場面が展開したのね」とか「ここらへんで盛り上がっているようだぞ」とか
おおよその枠組みを見てとるていどのことしかできなかった
はい
いきなり観て理解できるようなものじゃないですね
何でもそうだと思うけれども
たとえば、ビールやコーヒーなんかの味も、一発で解るようなものじゃないし
萌え漫画・萌えアニメを観て、生まれて初めてそれを体感し、いきなり萌えることなんかできないように
能の萌えポイントは、ある程度続けて観覧していかなきゃ解らなそう

でも、体の動かし方とか、音楽の盛り上げ方とか、独特の言い回しとか、そういうものの連鎖で、特有のアートをやっているのだなー、とは体感できました

能を観覧する場合、私のような素人は、あらかじめ、その演目の現代語訳を読んでいったほうがいいですね

んで、おうちに帰ってから、小学館の「日本古典文学全集」「謡曲集1」で、「八島」(屋島)をチェックしてみました
面白いです
……フツーにいい話じゃん

旅僧が西国への修行に赴き、八島の浦で一夜の宿を請う
漁師の老人のところにとめてもらう
近くにいた住人に、八島の合戦について質問すると、那須の与一が扇の的を射た話を、身振りを交えて語ってくれた
さらに、旅僧が出会った老人が、実は義経の幽霊であったことが分かり、夢に出てくる
義経は「弓流し」のエピソードを明かす
そういうストーリー

老人は、何者かと聞かれたところ、「たとひ名のらずとも名のるとも、よし常の憂き世の、夢ばし覚まし給ふなよ」と答える
「よし常」
すなわち、「義経」と、「常の憂き世の」という、謎の掛け言葉により水面下で自己の身分を明かす
俗と聖の間を、日常世界を、不安定なままに揺さぶる言語的なトリック

修行の巡礼をおこなう僧と、英雄武将の幽霊の取り合わせ

死よりも栄誉をとり、しかし、いまだに成仏せず、その海にただよう義経の執念

八島の浦の自然ののどかな光景を、かつてそこであった、修羅の戦時のイメージとオーバーラップさせながら二重に浮かび上がらせるラスト、などなど

構造的なことを検討していくと、面白い仕掛けがいろいろとありそう
そうとうな技量でもって描かれた、彼岸と此岸の交錯する世界だ
死と生の境を夢幻的に浮かび上がらせている

ところで、義経は、海に誤って落とした弓を、敵に殺される危険を冒してまで、無理やり回収するのである
義経は、弓を惜しんだのではないとまっすぐに言う
武勇のあげる以前に、弓を敵に取られてしまって、馬鹿にされてしまうのは無念なことだ
弓を取ろうとして、そのために討たれたとしたら、それはそれで仕方がない
「死」よりも「栄誉」を取るのだ
武士たる者の名は末代まで残るから、当然の行為だ
と弁じる場面は感動的だ

でも、翻って私たちの世界では
現在の日本の状況においては、死よりも名誉を取るという行為が、「かっこいいもの」であるというふうに、つながるものなのだろうか
義経は「歴史」のなかを、歴史を動かす人物として登場している
だからこそ、「死」よりも「栄誉」を取ることが、クールなことかもしれない
「歴史」なきところには、「名誉」もまた、存在しないのかもしれない
現代社会には「歴史」はあるのか
そんなことが、私は気になったりする

それだけに、義経の亡霊がいまだ海をさまよっていることの持つ暗示も、心を打つのである


[ 2008/04/03 00:20 ] .雑談 イベント | TB(0) | CM(0) | このエントリーを含むはてなブックマーク| |

姜尚中トラメガ事件――安田講堂2008年革命 

イタリアの左翼の人、ネグリが、日本政府により入国を阻止されるという出来事が2008年3月におこった
一生懸命ネグリを招くために準備していた方たちにとって、さぞかし残念な事態であったろう
それで、ネグリが講演する予定だった時間枠で「ネグリさんの来れなかった残念会」のイベントがあるという
東大集合だということで行ってみた
目的地の安田講堂が近づいてくると、じょじょにアジ演説が聞こえてくる
東大の左翼って、民青だよね
民青も、活発にアジテーションやっているもんなんだなー
と思っていたら、民青などではない
有名運動家の、早稲田大学の花咲さんだった
ちょっ
花咲さん、何やっているんですか!
何年か前におこった事件、早稲田のビラ巻き不当逮捕のことで、大学の対応のことをアジっていた

昔、中核派が東大に侵入してビラ巻きしたことで、何かの事件が起こらなかったっけ?
最近は大丈夫なんだな

しかし、ぼくもアジへのあこがれはなくはない
久しぶりに聞くアジは熱い
法政大学を糾弾する!
というテーマで、花咲さんからトラメガを借りて、アジろうかとおもった
でも、自分のキャラとは違う気がしたのでやめた
ぼくは運動家になるためのディシプリンとか受けたことないし

妙にデカい立て看板がある
おうかがいしてみると、早稲田から自転車で運んできたとのこと
東大で花咲さんが「不審者」ということで逮捕されたら、それはそれで面白いかもと思ってしまった

んで、会が始まった

姜尚中と上野千鶴子が壇上にあがってトークしている

1968年というのは私たちにとって、特別な年でした
その40年後である、この2008年に、在日と女が教授としてここに立っているのは、当時からしたら考えられないことですし、皮肉ですよね

そんな話に、会場はドっとわいていた
ぼくは、苦々しくこのセリフを聞いた
うらやましいことである

事態が突如として緊迫したのは、石田英敬がネグリとマルチチュードについて語り始めてのこと
早稲田大学の花咲さんと、そのお友達が、石田にアジを飛ばし始めたのだ

内容はよく分からなかったけれども、「駒場寮」という言葉が聞き取れた
「駒場寮」は、東大に昔あった、有名な自治寮だ
関東圏では、東大駒場寮、早稲田学生会館、法政学生会館が、順次、前世紀末から今世紀初めにかけて、強制解体させられていっている
学生による自治区の解体
それは、「帝国」が自治空間を、生権力により蹂躙・変革し、環境管理をすすめていく過程であった
そこらへんの因縁がもとになって、石田が糾弾されたのだとわかった

その瞬間、もっとも迷いなく迅速に動いたのは姜尚中だった
君たちやめなさい
終わってからにしなさい
やめないなら出て行きなさい
大きな声で威圧しつつ、花咲さんたちに詰め寄っていった

それが、マルチチュ−ドについて語る態度ですか
ヤジを認めないのはおかしい
というヤジでもって反駁する花咲さんたち

姜尚中は、花咲さんの足元においていったトラメガを持ち上げ、地面に叩きつけた
トラメガと床が、ごっちんこする音が構内に響いた
暴力反対! という声があがった

そのとき、安田講堂はマグニチュード1ぐらいで震えた
40年前は、マグニチュード7くらいはあったのでしょうか

マグニチュード?
マルチチュード?

昔のマルチチュードは7で、今のマルチチュードは1くらいになっていたりして

衝突はその一瞬でおさまった

やがて、ネグリと石田のトークが始まる
ネグリの電話は、フランス語でぐだぐだと続いた
翻訳が即時的になされるわけでない
聞いている側としては、ちょっと退屈してしまった

左翼同士の内ゲバというのもさもしいものではある
姜尚中なんかも、大学では規律・訓練を行う教育者として立派な人物なのかもしれない
Web状況なんかを見れば、在日差別なんかもひどいものなわけで
当面、マルチチュードたちのアソシエーションなど、行われそうにない日本である

「2ちゃんねらー」とは水と油な雰囲気の、先生たちの集う会合でした


[ 2008/03/30 02:34 ] .雑談 イベント | TB(1) | CM(1) | このエントリーを含むはてなブックマーク| |

21世紀の知識人 

社会学者の芹沢一也は「シノドス・セミナー」というものをやっているらしい

以下、同セミナーの紹介の文言

・「現在、日本社会では一体どのようなことが問題となっているのか、
そしてそのための解決策としては何が考えられるのか。
セミナーでは各界の第一線で活躍する論客たちをゲストに招いて、
参加者のみなさんとともにアクチュアルな問題を考察します。」

・「参加者の声
 「何よりも少人数で落ち着いた雰囲気がとてもよかったです。総じて、セミナーの方向性が「アクチュアルな問題をいかに考えるか」という点で一貫していたので、私はとても好感がもてました。」
 「社会人になると本を読む暇も無くなってしまい、久しぶりに知的刺激を頂いた感じです。
今を時めく著名人とカフェの距離感で話すことが出来るのはとても貴重な体験だと思います。」」

第1回目の「シノドス・セミナー」は、2007年の4月に雨宮処凛を呼び、ネオリベラル社会をテーマにしたとのこと
2008年2月24日(日)のセミナーではすが秀実さんを招き、吉本隆明について語るのだそうだ
これが第13回目であるとのこと。一年弱の間に、結構なペースで開いているのですね
これまで、萱野稔人、鈴木謙介、中島岳志などをゲストに、活発にセミナーを開いているみたい

荻上チキもこのセミナーにホストとして関わっているとのこと

[シノドス] - 荻上式BLOG

ウェブの機能をいかすことでいろいろな知識人が、公開講座を開きやすくなったはずだ
青空大学みたいなものなのだろう
こういう形で知識人たちが開催する寺子屋的なイベントは、一つの商売を形成するかもしれない
これも、大学界・出版界とは異なる領域で「知」というものを実践する契機となるはずだ

ちなみに、「定員 10名 費用 7,000円(学生・大学院生 3,000円)」であるらしい
参加する側からみれば結構な値段だな

もしも一般参加五名、学生五名であったら、主催者は50000円の収入をえるということになる
しかしこれでは、講師代を支払えるのかな? なんて思ってしまうけれども

ぼくも一般参加を呼び掛けた読書会をもう何年もやっている

・「「必読書150」を読む会

しかし、参加者からお金をとれるくらい内容のあるセミナーを開くのって、難しいよなと思う
いろいろな知識人を招いて、出版界や大学から外れた場所で、活発な議論の場を作っていく、といった作業の行なえる知識人には憧れる

こういうイベントは、知識力に加えて、情宣力、企画力、有名なひとを招ける営業力、政治力等の、総合的な能力が要求されることだろう
ちなみに、グーグルで知識人たちの名前を入れて検索をかけると次のような件数が出てきた

芹沢一也 「約 34,600」
荻上チキ「約 648,000」
吉本隆明「約 272,000」
夏目漱石「約 983,000」
東浩紀「約 432,000」
小谷野敦「約 297,000
ハイデガー「約 192,000」
松平耕一「約 1,170」

荻上チキの知名度はウェブにおいて吉本隆明より上である
ウェブにはウェブ特有の磁場がある
ウェブ知識人、ウェブ評論家として、チキは優秀な広告媒体をもっているのだろう
今後、ウェブ上で、話題喚起力持ち、衆目の注意をひきつけられるパフォーマンスをなせるかどうかは、その知識人のスター性をはかる、一つの指針となるのだろう

ウェブ上での言論の力が、紙媒体や大学での業績を超える意味を持つ日も、やがて来るかもしれない

21世紀は、Webを中心として活動する「ウェブ評論家」が縦横無尽に活躍し、ウェブ文芸誌、ウェブ論壇誌が、世界を席巻することだろう


[ 2008/02/19 22:34 ] .雑談 イベント | TB(0) | CM(3) | このエントリーを含むはてなブックマーク| |

ネグリさんとデングリ対話 

ネグリさんとデングリ対話@東京芸大・上野
ネグリが来日するとのこと
会 場: 東京藝術大学上野校地美術学部構内
日 時: 2008年3月29日(土)13時〜21時、30日(日)10時〜21時
入 場: 入場無料

矢部史郎と松本哉も招かれているようだ
「あえて天皇」もいいかもしれない
でも、「あえてマルクス主義」の方が、よほど国際的な広がりを持ちうることだろう


[ 2008/02/11 08:21 ] .雑談 イベント | TB(0) | CM(0) | このエントリーを含むはてなブックマーク| |

『思想地図』創刊記念シンポジウムに関するレポート 

2008年1月22日に東工大で開催された「思想地図」の創刊記念シンポジウムを聴講してきた
テーマは「国家」であった
各パネラーの議論をレポートしたい
私の記憶にもしも誤りがありましたらご指摘ください
お詫びして訂正させていただきます

・北田暁大

浅田彰風の立場
フーコー、ギデンズ、アンダーソン、ホブズボウム、バトラー等に言及
性差・ナショナリズムへの言語論的なアプローチについて語り、それらの脱構築の可能性についてさらりと解説
社会構成主義の立場について説明するが、構成主義と構造主義の違いの定義が分からないと、聴衆が乱入する局面も
東氏はハーバマス主義者的なんじゃないかと指摘
中島に対して、保守における伝統も、コミュニタリアンにおけるコミュニズムも、説明不能の概念ではないか、動機づけとしてのナショナリズムは機能するのか、実感として理解できない、といった趣旨のことを反論
90年代半ば以降、新しい歴史教科書を作る会、嫌韓等のプチナショナリズムは特に、サブカルのものであった
それらのサブカル的なナショナリズムと、社会構成主義の立場は、表裏のものとして出てきたが、双方はともに国家を「幻想」としてとらえることに特徴がある、とシンポシウムのまとめをなす

・萱野稔人

暴力機関を独占するものとしての国家について解説
警察機関としての国家、という話は、重要な論点足りえたのだろうか?

・中島岳志
学生に、モノまねがされそうなちょっと癖のある語り口
西田幾多郎、ガンジー、陸羯南、竹内好、福田恆存、アレント、丸山眞男、フーコー、本居宣長、橋川文三、三島由紀夫等に言及
ルソーの「一般意志」の話題を持ち出す東に対し、橋川文三、三島における「天皇」の問題を対抗させる
生の実存を見出すための、「方法としてのナショナリズム」を訴える

・白井稔

コミュニタリアンの立場を代表
アルチュセールのルソー論、ゲルナー等に言及
マルクス主義における「国家論」について、最後の最後に少しだけしゃべる
しかしむしろ、このシンポジウムは、そこから始めてもよかったのじゃないか?
吉本隆明『共同幻想論』以来の、日本における国家論にどんなものがあったのか
このシンポジウムは、新左翼系、批評空間派系の国家論が、それと名指されて言及されていなかった
意図的に皆がその話題への言及を避けること
その点が、むしろ、「極めて政治的」だったのじゃないか?
70年代生まれの知識人の集まる場が、どんな傾向を帯びるのか、その特徴が露出しているかのようで興味深い
また、大澤真幸や小熊英二や、あるいはPC派の論客がもしもいたら、どんな展開になっていたのかも、気になるところ

・東浩紀

ルソーの『社会契約論』を中心に据えて論を展開
ホッブズにおける「暴力」、ロックにおける「所有権」、マルクスにおける「商品」に対し、ルソーにおける「一般意志」は、実際に存在しうるものなのか?
「一般意志」という疑わしい概念が中心に据えられたルソーの『社会契約論』のようなものに基づき運営されている現状の議会制民主主義の制度は、うさんくさい
そんなもの、なくしてしまえないものなのかと問題提起
ウェブにおけるコミュニティは、一つの社会参加である、と考えている節をみせる
社会における個々のコミュニティが、総体として、重層的に決定していくようなアーキテクチャが作れないか、ということを考えているよう
また、PC派への批判も念頭にあるよう

以下、「東浩紀の渦状言論: シンポに向けてのメモ2」を、少々細かく読んでみたい

「ま、実際、ぼくは「ノンポリ」なんだろう。しかし、政治ってなんだろう? 靖国とか格差とか言ってれば政治なのか? 選挙とか内閣とか? 本当に?」

→靖国、格差、議会制民主主義などの、通常あがる国家論の論点をずらしている

「ぼくは「政治」という言葉は、個々人の立場表明を意味するのではなく、社会共通の資源のよりよい管理方法を目指す活動を広く意味するべきだと考える。だとすれば、それは必然的に、物語なき進歩主義、というか物語なき改革主義の立場になるはずだ。それなのに、物語の衝突ばかりが「政治」だと思われるのはなぜなのか。」

→ここで言及されている「物語」とは何なのか?
「政治と文学」という問題機制へ、どのように対応するのだろうか

「そもそも、いまの時代、友と敵ってなんだろうか。物語ってなんだろうか。冷戦崩壊まで、政治は確かにイデオロギー=物語の衝突の場だった。そして、それには現実的意味があった。その時代は、確かにイデオロギー=物語はひとびとの資源配分の方法を規定していたからだ。そして、イデオロギー=物語の数も極端に少なかった(二つか三つだった)からだ。」

→マルキシズムとアメリカニズムについて、言及している
「イデオロギー=物語の数も極端に少なかった」というのは、本当に正しいのだろうか?
認識の側の問題という気もいくらかする

「まあ、ともかく、ぼくの思うに、ぼくたちはまず、「政治的であること」とはなんなのか、そこから根本的に考え直さねばならないのだ。ぼくは『思想地図』は「政治的」な雑誌にしたいと思うが、それは、この世界のよりよい資源配分について語りたいからであり、物語=イデオロギー闘争をやりたいからでも、また弱者代弁競争をやりたいからでもない。」

→ここの主張は納得できる

「しかし、政治の本来の目的が共通資源のよりよい管理にあるのであれば、その過程が必ずしもそういう人間的で高級なコミュニケーションに結びつく必要はない。ポリシーなき政治、討議なき政治だってありうるはずだ。アーレントの言葉で言えば、政治を、「活動」の場ではなく、「労働」(=消費)の場に落とすこともできるはずだ。つまり、無意識で工学的な意志決定の場所に(なお、「よりよい」という価値設定にこそが問題で、その部分にこそ実際は功利主義的イデオロギーが入りこんでいるだからだめだ、的な反論が容易に思いつくが、それについてはここで再反論するのはやめておく)。」

→「政治を、「活動」の場ではなく、「労働」(=消費)の場に落とす」「つまり、無意識で工学的な意志決定の場所に」
というところが、東氏の持論なのでしょうね
環境管理型の権力というやつですね
具体的にはどうするのか?
マクドナルドの椅子を固くする、ホームレスが横になれないよう突起をつける、駅のホームで、飛び降りができないように壁をつける、ウェブでの自動的な誘導システムを作る、等が具体例としてあるのだろうけれども
それらの権力操作は、経済的効率を重視する方向で、功利主義的なイデオロギーに基づいてなされているわけであろうし

「ここで「資源」というのは、むろん経済的なことだけではない。たとえば、ぼくは、Googleの出現はとても「政治的」なことだと考える。なぜなら、それはぼくたちの世界の知的資源の配分を変えたからだ。あるいは、9.11以降のテロの問題も「政治的」だと考える。しかしその理由は、そこで資本主義とイスラムが戦っているとか、アメリカの地政学的野望がどうとか、そういうことではない。世界のセキュリティ化は、リスクという資源の配分を大きく変えたからだ。格差問題も環境問題も同じだ。要はぼくたちは、「政治」としては資源配分のより巧妙な方法だけを考えていればいいのだ。」

→「Google」と「9.11以降のテロ」が、現代における「資源」分配の一つ焦点だと設定し、ここに「政治」の問題を見出している

「たとえば、ぼくは富の再配分はがんがんすべきだと思う。しかし、そのメディア(媒介)として、国家単位の議会制民主主義と官僚制は原理的にそぐわないと考える。ぼくたちは、市場=動物=自然状態=無意識的創発=格差拡大、vs、民主的討議=人間=イデオロギー=意識的管理=平等志向みたいな対立図式にいつのまにか囚われているが、ほんとうにそれしかないのか?」

→「国家単位の議会制民主主義と官僚制」はいらないのじゃないか、という案がほのめかされている
「市場=動物=自然状態=無意識的創発=格差拡大、vs、民主的討議=人間=イデオロギー=意識的管理=平等志向みたいな対立図式」というのは、ここを読むだけの分ではなんのことか、いまいちよく分からない


[ 2008/01/23 17:56 ] .雑談 イベント | TB(0) | CM(0) | このエントリーを含むはてなブックマーク| |
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