大西巨人『神聖喜劇〈第4巻〉』 

神聖喜劇〈第4巻〉 (光文社文庫) 神聖喜劇〈第4巻〉 (光文社文庫)
大西 巨人 (2002/10)
光文社

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大西巨人『神聖喜劇〈第3巻〉』 

神聖喜劇 (第3巻) (光文社文庫) 神聖喜劇 (第3巻) (光文社文庫)
大西 巨人 (2002/09/10)
光文社

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大西巨人『神聖喜劇〈第2巻〉』 

神聖喜劇〈第2巻〉 (光文社文庫) 神聖喜劇〈第2巻〉 (光文社文庫)
大西 巨人 (2002/08)
光文社
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o(^-^)o←こいつに高尚なことを言わせるトピック 

o(^-^)o<なんぢら断食するとき偽善者のごとき憂容をする勿れ



「Web文芸」に小説の投稿が二編ありました! 

「Web文芸」に小説の投稿が二編ありました!
ありがとうございます!

さりなさんの「晩夏素描」です

田園に囲まれた片田舎なのでしょうか
自然の描写という題材、レトリックのきかせ方、ともに渋みがあります
夏の日の一風景が、古風な和文を用いて写生され、台風の通り過ぎたのちの清涼感を際立てています
さりなさんの長い作品も読んでみたいです
掌編ながらも、今後の可能性が期待されます

有沢風子さんの「セラミック」です

若い女性が歯の損失の違和に悩む話で、リアリティがあります
「歯」とはそもそも、人間の身体中でもっとも「硬いもの」であり、ある種の「石」に近いものであり、「生体的なもの」でなく、若干、「物質的なもの」です
半ばは身体であり、半ばは物質であり、であればこそ、「人間」と「人間ならざるもの」の境界に位置するものだといえそうです
そして、「歯が抜ける」「歯が壊れる」とは人間の、「部分的な死」がイメージされそうです
一度抜かれた歯や神経は、二度と戻っては来ません
確かに、銀歯や差し歯等で欠損した歯を補うことはできます
「借り物の歯」は、日常生活においてそれほど意識化されません
しかし、ふとした折節に、決して帰ってくることのない「喪失」というものを、そこに見出しそうです
自分の歯が、ぼろぼろと抜け落ちる夢は、悪夢の一類型としてあります
無意識から来たる、「死」の託宣なのでしょう
本編の中の、差し歯をタコスごと噛み砕いてしまうエピソードには恐怖を感じます
ある女性が日常生活の中で直面した「歯」という違和
その一焦点の展開を3000字という字数の中で、上手にまとめあげている佳作だといえそうです

大西巨人『神聖喜劇〈第1巻〉』に関するメモ 

神聖喜劇〈第1巻〉 (光文社文庫) 神聖喜劇〈第1巻〉 (光文社文庫)
大西 巨人 (2002/07)
光文社

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プリーモ・レーヴィ『溺れるものと救われるもの』 

溺れるものと救われるもの 溺れるものと救われるもの
プリーモ レーヴィ (2000/06)
朝日新聞社

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プリーモ・レーヴィ『溺れるものと救われるもの』

ユダヤ系イタリア人の化学者兼作家であるレーヴィはアウシュビッツ生還者である
戦後約40年を経た、一九八六年、レーヴィが、収容所体験を邂逅する
社会学的な史実やアウシュビッツ体験者が戦争後に直面する困難なども語られるが、メインはアウシュビッツとは何であり、どんなものかという文学的、思想的な考察にある
静かな語り口である
ボソボソとうめくような声であり、読み手は「え?なに?何言っているの……?」みたいに困惑する
アウシュビッツの悲惨さが、大上段に示された本ではない
よく耳を澄まさないと、印象の薄い本になるかもしれない
SSなどのドイツ人を憎む、といった考えにかたよることなく、普遍的な視点でアプローチしようとしているレーヴィの姿勢ためかもしれない

『溺れるものと救われるもの』というタイトルの「溺れるもの」とは、ひとつにはいわゆる「回教徒」のことを指すよう
生きる気力をなくし、人間性をなくした囚人たちのことである
レーヴィはアウシュビッツを生還し、「救われるもの」となった
しかし、どうして自分は「救われ」、どうして多くのひとは「溺れるもの」として死んでしまったのか
「溺れるもの」としてのアウシュビッツの犠牲者たちがいて、それらとは別に、自分は「救われるもの」であったとレーヴィが自己定義をくだし、『溺れるものと救われるもの』という題名がなったのだとしたら
そこには強い自己呵責と、アウシュビッツ特有の、道徳律の反転を見出すことができそうだ
皆が殺されて、当たり前という世界である
戦後、彼は深い苦悩に陥り、「恥辱」を感じたという
「救われるもの」は後世に、事実を伝えなければならない
『溺れるものと救われるもの』執筆の一年後に、レーヴィは自殺してしまったという
本書に含まれた強烈に陰惨な体験と、くぐもった陰りを帯びた悲しい告白は、そのような結果をもたらすことも不思議でないと思わせる
レーヴィもまた、戦後四十年以上経てから「救われるもの」ならぬ、「溺れるもの」となってしまった
自殺を選ぶことは、アウシュビッツで地獄を見た彼にとって、「自然」であったのかもしれない

アウシュビッツ内では自殺が行われなかったということ
強制収容所での、SSと囚人との言葉というものにおける伝達不可能性が徹底的であるということ
収容された人々のうちの一部を「特別部隊」にしたてあげ、死体の始末等の雑用に使ったのち殺していくこと
後世の人々が、アウシュビッツに対して抱く、あらぬ誤解について
等々の指摘も考えさせられる

「他者」というものの強烈さ、恐ろしさを、人類史最悪の事件のなかに知ることができる一冊

桐野夏生『ローズガーデン』 

ローズガーデン (講談社文庫) ローズガーデン (講談社文庫)
桐野 夏生 (2003/06)
講談社
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「女性ハードボイルド」というジャンルらしい
プロットは、ミステリ風ではあるが単線的で一般的
難しくない
ぼんやり読んでいても内容把握が可能
淡泊で簡素な文体
取材力があり、社会派
新宿の風俗産業が描かれていて、紹介の役割を果たしている
素人女性の目で業界を観察している、といった感じ
露骨さがない
あっさりしているところがよい
ただ、その世界には没入してはいないため、理解が浅いようで、少々ものたりないともいえる
総体として、量産がききそう
女主人公の、無造作で大胆、ふてぶてしい行動力は良い

アマゾンレヴューでは
エッチシーンが濃すぎてついていけなかったとか、そこが良かったとかいう意見が見られる
義理の父と高校生の娘に肉体関係がある
その娘に恋をしてしまう男子高校生
愛憎半ばする嫉妬の念
それがいいんだというお話
ちょっと共感する
ありがちだとも思うけれども

桐野夏生のペンネームは司馬遼太郎『翔ぶが如く』、大庭みな子『浦島草』から来ているとのこと
なるほど
この二つを合わせた路線ということは想像できる
司馬風の社会派エンターテイメントぷらす(司馬先生なんて、圧倒的に偉大な方なのでしょうけれども)
『浦島草』なんて、優しい感受性にあふれつつ同時に、幾重にも屈折して、ねじれている、対人心理のひねりが効いた変な小説だ
そういう要素もお好きなのでしょうか

代表作は『顔に降りかかる雨』(1994年)、『OUT』(1997年)、『柔らかな頬』(1999年)、『グロテスク』(2003年)などであるとのこと
新潟少女監禁事件を扱った『残虐記』はAmazon.co.jp ランキングで371位

「Web日記」と「純文学」 

面白い文芸作品とはどういうものか
この問いに対する答えは十人十色だろう
そもそも、文芸作品なんておしなべて面白くない、という人もいるだろう
「優れた文芸作品」というものを決める、多くの人の認める共通的な価値は、ほとんど成立しえない時代にありそうだ
しかし、ぼくはぼくなりに、このような文芸作品が面白い、という明瞭な価値観があるので、それを提出しておきたい
まず、Web上でのブログやSNSで見られる「Web日記」について俎上に載せる
「Web日記」は「文芸作品」でありうるのか、ありえないのか
次に小説一般について考える
最後に、純文学というものが持つ基礎的な土台について言及する

日本人のWeb上での執筆量は、世界でもっとも多いらしい
ブログでもSNSでも、楽しみながら日記を書く人をしばしば見かける
たくさんの人々が、言葉を紡ぐことの快に、自然と身を委ねている
日々Webへとアップされるそれらの文章は、「文芸作品」として成立させよう、という作為はほとんどないだろう
ブログ・SNSの日記で扱われる話題は様々であるが、「自己の体験」を綴ることが主流であるようだ

それでは、人々はなぜ日記を書くのだろうか
第一に、日記を書き、それを公開することは、コミュニケーションツールとしての役割を果たす
自己の経験や、興味の対象を、他人と共有できる
第二に、自己慰安にもつながりそうである
面白かった体験を作文することで、そのとき味わった喜びを再び噛みしることになる
また、自分の受けた辛い経験や失敗談を、文書にすることで、客観的なものへと外化させられる
そうすることで安らぎをえられるかもしれない

Webで「日記を書く」ことの目的は、たとえばそういったことがありそうだ
さらに、Webの文書と、出版文化における文章の違いということも考えてみたい
「日記を書く」ということは「小説・エッセイを書く」ということと、どのように違い、どのように似ているのか

たとえば、Webには「おもしろ日記」を集積するコミュニティがある
また、「小説」を載せるコミュニティもある
二つの場の持つ空気も、だいぶ開きがあるようだ

「日記」と「小説」
ぱっと見の違いの一つ
「Web日記」ではWebのみで使われる文体が前面に出る
行替えが多く、口語的である
一方、「小説」となると、「紙媒体」への意識が明瞭となる
「紙」という媒体は「文体」を規定し、小説風のストーリーと舞台が必要となる
また、出版文化での「小説」「エッセイ」には、一定レベル以上のクオリティが求められる

文芸作品と一口にいっても様々な種類のものがある
その魅力は多様である
しかし、文芸の基本となるのは「模倣」と「代表」であるだろう
ある人の陥りそうな、陥りうる状況
体験した、体験しうる状況を「模倣」し、再構築する
自己の気持ちを文書へと「代表」させる
「Webでの日記」においても、「小説」「エッセイ」でも、「模倣」と「代表」が文芸の、一つの核となる

まるでその場に居合わせるかのようなリアリティを再現させることが一つ、「文芸作品」を、「文芸作品」足らしめる
書き込みの緻密さ、作りこみの深さで、手の込んだ、リアリティのある文芸作品を作れるか
紙媒体とWebの文章で異なるものの一つに、リアリズムの文章力があるだろう
豊富な語彙を用いて、対象となる題材を細やかに創出し、登場人物の生きる、前後のコンテクストまでを含め、ある程度の長さを持った文芸作品を創る
この場合、書き手の熟練がいるし、手間暇も必要である
特異な修行を何年も行わなければ、身につかない修辞の力がある
もちろん、リアリズムの文章だけが文芸作品の楽しみとも、言えないかもしれないけれども

次に、「小説」における主題について考えてみる
「物語」に属するジャンル一般では、勝利、恋愛、成長がうまく書けることが一つの魅力になるかもしれない
魅力的な人間を描くことや、三人称客観の小説を書く能力も基礎的なものだろう
青少年向けの作品、ライトノベルでは、学生生活が作中の舞台として選ばれることが多いだろう
大衆文学的なものとして、ファンタジーやSF、ミステリ、歴史小説、ハードボイルドなど、異世界を舞台としたもの、あるいは、現実を、異世界風に描いたもの等があるだろう
一方、芥川賞受賞作などは、あるていどの共通した傾向がありそうだ
学生生活よりのち、20代以降の、日本社会での日常生活を、公的・私的な面で扱いつつ、リアリズムの筆致で描いた作品が多そうだ

今、「純文学」的小説を「読みたい」「書きたい」と考えた場合、「純文学」とは何かと、おおまかにくくるとする
第一に、純文学とは、「社会」というものを舞台とする必要がある
多かれ少なかれ「社会」は「純文学」に登場する
第二に、リアリズムの文章力が要求される
たとえばカフカ風の幻想小説であったとしても
登場する風景の綿密な描きこみや、独自の現実感をもった文章力が、迫力あるリアリティを支えている

そもそも、社会や言語はどのように誕生してきたか
社会や言語の起源は、動物ならぬ人間のみの持つ力である、「想像力」に依拠して成立した
「社会」も「言語」も「想像力」によって作られた
とする論もある
「社会」を作り、維持するのは大変なことだ
また、社会に適応した人間となることも、ひどく大変なことだ
社会的な市民になるためには、法や規則というものが、身体化されなければいけない
ルールを逸脱せず、社会に適応した生を送れればそれに越したことはない

すべての子供はしつけを受ける
大人になる過程で、一定のルールを覚えこまされる
空気のような状態へとなるところまで、徹底して「禁止」の札を装備することで、「人間」は「人間」になる
ある固定された想像力が、社会人の形成には必要である
特定の型式化された、過剰でない想像力の発揮が、常識と、節度のある人間を形成しているとみなすことができる
常識が苦労して獲得されるが、それを身に付けたあと、その過程は自明なこととして、起源は忘れ去られる

文芸作品を読むとき、ひとつの判断項として、その作品が「社会」へと親和的であるか、非親和的であるかということでチェックすることができる
誰しも、日常の生活を送る中で、ふと「異界」が開けてしまうこともある
ある人の想像力が、暴走すること、コントロールできなくなることで、社会から疎外されることもある
たとえば精神病
身体や言語が、精神の束縛を破り、思惟の制御下を外れる
社会生活を営むことができなくなる
あるいは恋愛依存症や、セックス中毒などもある
「社会」からの逸脱は、たとえば夢にも現れる
浮気や離婚、浪費、仕事のつまずきに現れる
たとえば犯罪に現れる
また、「死」や「病気」、「老い」というものは、社会生活に忙しく駆り立てられるなかでは、忘却される時間もあるが、誰しもいつか直面せざるをえない「異界」である
「異界」を認知する力もまた、「想像力」であると考えられる

ある文芸作品が面白くないと感じる、代表的なケースが私には二つある
まず、社会に親和的でありすぎて、想像力を欠くケース
異界というものがまったく見えていない場合である
次に、作品そのものに、他者性、社会性がないケース
読み手を魅了する人物を創出できていなかったり、超常的になりすぎ、常識を欠く場合である
この二点で、不備の生じてしまう文章は多いだろう

その気になって見れば、あらゆるところに「異界」は広がっている
「社会」や「人間」というものを構築させている想像力の形
それをちょっとひねってみる
そうすると、あらゆるものが一変してしまうかもしれない
禁則事項がそこらじゅうに書かれている
膨大な「無」に支えられて、「有る」ということが成り立っている

想像力により「禁止」と書かれた札をひょいとはがし、そこにお店を広げてみる
それは革命的な行為となり、新しい何かを創造するかもしれない
あるいは、友情や信頼を失い、破滅をもたらすかもしれない

第一に「社会」の形を把握すること
第二に、そこに、若干の想像力より構成される「異界」を混ぜていくこと
第三に、リアリズムの文体でそれらを表出すること
これらの三項目が、いい文芸作品の基礎にはありそうだ

最後に、Web日記と文芸作品を比較する
Web日記のなかには「社会」を見出すことができる
社会の中心は労働にあり、またあらゆる人々の生きる生活の全体が、社会を作り上げている
また、ときおり、Web日記のなかに「異界」を見出すことができる
「異界」とは、「社会」の反面であり、誰しもがおびやかされている、もう一つの世界である
「異界」にはポジティブなものと、ネガティブなものがある
ネガティブな異界はとりわけ目につく
人生の折り目折り目で、人はそれに足を取られる
文芸作品に必要なもの
第三のリアリズムの文章能力
これは、普通の人が社会生活を送るなかでは、ほとんど必要とされない能力である
Web日記の執筆者でこの能力を持つ人は多くはないし、プロ以外の人が、あえて身につけることもない

Webでの文章は意識的、人為的な文芸作品ではない
そのため、Webでの文章表現は、あるていど以上の規模のもの、クオリティのものとはならないかもしれない
多くの人に共感をもって迎えられる、巨大な作品が、Webの空間から現れるのかどうかは不明である
しかし、Web日記には、社会や人生や詩というものの断片が散らばっている
純文学は、Web日記と地続きであるというのが私の考えである
すくなくとも、「社会」と「異界」はWebという空間の、そこら中に見出せることは確かだ

デリダ『グラマトロジーについて』4 

グラマトロジーについて 下 グラマトロジーについて 下
ジャック・デリダ (1996/12)
現代思潮新社

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