2007年の反省 

さる左翼の運動家は、内ゲバ戦争を越えてののち、運動体を離脱
田舎に帰還して、毎日釣りをやっていたと聞きます
非日常的な殺し合いのあとで、失調した精神が回復してくるまで、ぼんやりすることが必要だったらしいのです
ぼくにとっての今年は、河辺で釣りをたれているような一年でした
グダグダ
無意味な毎日
何年間かかけての、疲れがたまっていたかもしれません

今年の春先まで
去年と一昨年、先一昨年の三年間は、自分は、かなり変だったと思います
至近距離でのデスゲーム的な殴り合い
カッカと頭に血が昇っていていて、周囲が見渡せなくなっていました
手元が不如意になり、コントロール不能でした

闘う対象がある
そういう環境でないと、勉強をする気持ちが持続しない
それも、不自然なことですね
冷静になること
ちょっとずつでも歩くことを意識して、精神を整えていきたいです

身体性に、文学性を感じます
身体を張って表現活動を行うことは、面白いことです

今年は、いろいろな変な人に会えて良かったです
来年はもうちょっと普通になりたい
もうちょっと社会の全体を見渡せればと思います
スポンサーサイト

ジジェク『操り人形と小人』 

<だれもがわたしに向かってこう言うことができる
「わたしには、わたしに快楽をもたらすあらゆるやり方を使ってあなたの身体のあらゆる部分を享受する権利があるのだ……」と

<欠如を抱えた弱い存在だけが愛する力をもつ

操り人形と小人―キリスト教の倒錯的な核操り人形と小人―キリスト教の倒錯的な核
(2004/10)
スラヴォイ ジジェク

商品詳細を見る



○感想

恋愛哲学として面白い
過激

ユダヤ人って、なんなんだろ
ユダヤ教とキリスト教の差異
パウロの問題

○内容

・史的唯物論的分析は、いまや表舞台から姿を消してしまった

(デリダの『マルクスの亡霊たち』的な)神学的な次元は、「「世俗化以後の」メシア的転回という意匠のもとで息を吹き返している」

ベンヤミン『歴史哲学テーゼ』……「『神学』と呼ばれる操り人形は、いつでも勝つことになっている。今日では周知のように小さく醜くなっていて、しかも人目をはばからねばならない史的唯物論の助けをうまく得られるならば、その人形は、誰とでも楽々と渡りあえるのだ」

宗教には治療的役割と批判的役割がある

ヘーゲル『信仰と知』における宗教の三様態
「民衆の宗教」「実定的な宗教」「〈理性〉の宗教」

・イエスとマルクス、パウロとレーニンは似ている?
・パウロ、レーニンは偉大な制度設立者か?

・パウロはユダヤ的伝統の内部から読まれるべき?

・シェリングにおける、キリストの人間化への問い
・チェスタトン『正統とは何か』
・人間の神からの分離と、神の神自身からの分離
・アダムの原罪は、神の策略?
・ユダの裏切りは、キリストにとって折り込み済みのこと?
・キリスト教は、信奉者に裏切りを要求していた?
・チェスタトン「仏教徒は、一種独特の集中力をもって内面に目を向ける。キリスト教徒は、熱狂的な集中力をもって外部を凝視する」

・「仏教用語でいえば、ラカン的行為は、〈悟り〉を、ニルヴァーナへの到達を、構造的に裏返したものである。つまりそれは、〈空無〉を壊乱し、世界に〈差異〉(そして、それとともに仮象や苦しみ)を出現させる身振りそのものである。したがって、行為は、ニルヴァーナに到達したあと、他のすべてのひとがニルヴァーナに到達するのを助けるために同情心に駆られて――すなわち、一般的な〈善〉のために――現象的現実に戻ってゆく菩薩の身振りに似ている。精神分析との違いは、菩薩の犠牲的身振りが、精神分析の立場からみて誤っている、という点にある。本当の意味での行為に到達するためには、〈善〉を参照することをやめるべきであり、ただ行為のためだけに行為をするべきなのだ。」

・キリスト教の神における「ギャップ」
・ギャップ――差異は「純粋な」差異であり、差異そのものである
・一神教は〈二〉をめぐる唯一の論理的な神学である
・根源的差異とは、一者がかかえる自己差異であり、一者がみずからと、みずからの場所と一致しない状態である
・レヴィナス的‐デリダ的他者には一者におけるギャップが存在しない

・レーニンによる革命的暴力―「愛の業」と、日本における「戦士の禅」との差異とは?
・仏教の立場は……〈無関心=無差異〉の立場
・キリスト教的愛は、〈差異〉を、存在の秩序のギャップを導入しようとする立場である
・愛による選択は、すでに暴力であり、対象をその文脈から切り離し、それを〈モノ〉の位置にまで高める

・デュラスにおける恋愛……「敵」の必要性
・イデオロギー的な大〈他者〉の存在を疑うポストモダン的懐疑に対しては、存在しないのは主体のほうである、と答えるのが正しい対応である

・太陽が翌日も昇るようにするために犠牲者をささげるアステカの民族
・人間は、知ることを嫌う……?
・「他者の知についての知」
・キリスト教は、代償を払わずに欲望にふけるための戦略を提示している?
・ひとが何かを犠牲にするのは、他者から何かを得るためではなく、他者をだますため、自分は何か、つまり享楽を依然として欠いているということを他者に納得させるためである
・禁止の力はカントとともに失われた。サド的倒錯は、カント的な妥協の結果として現れる
・一夜限りの情事はどんどん楽しむべきかも……対象aはどこにある?

・糸巻きは、母親の代役ではなく、対象aの代役だ(?)
・「わたしはあなたを愛している、しかし、あなたのなかには、あなたを超えた、私の愛する何か、対象aがある。だから、わたしはあなたを破壊する」
・いないーいた遊びは、母親の不在のトラウマに対して行われるのではなく、母親に抱擁された息苦しい状態から逃れ、欲望のための開かれた空間をつくろうとするためになされる
・「だれもがわたしに向かってこう言うことができる。『わたしには、わたしに快楽をもたらすあらゆるやり方を使ってあなたの身体のあらゆる部分を享受する権利があるのだ……』と」
・サド作品におけるカント的定言命令をラカン流に表現したもの
・ここでの他者は、母である

・他者のこの圧倒的享楽は、象徴的去勢を通じて局所化されたファルス的享楽へと止揚される
・「……われわれの経験的現実に内在する矛盾を発見したカントは、この矛盾を受け入れるかわりに、〈モノそれ自体〉という、それとは別の接近不可能な真の現実を措定せざるをえないと感じた……」
・「……ラカンにとっては、(トラウマという)〈現実的なもの〉も「逸脱」である。」「そして、セクシュアリティ(人間という動物にとっての〈現実的なもの〉)もまた、そうしたゆがみではないのか。」
・キリスト教において、死者の復活は、未来におこることではなく、いまここに存在している何かである

・ラカンにおけるドストへの反論「〈神〉がいなければ、すべてが禁じられる」
・アガンベン『残された時間』
・欠如を抱えた弱い存在だけが愛する力をもつ
・ベンヤミン「メシア的時間」パウロと革命党
・脱構築は、ラディカルになればなるほど、脱構築の脱構築不可能な内的条件に、〈正義〉というメシア的約束に、ますます依拠せざるをえなくなる
・アウシュビッツにおける「回教徒」を、私たちと同一視してはいけない。それはキリストである
・出来事に参加しうるかしないかで、動物か否かが決まる

山 

文章というものがストンと胸に入ってくることはまれである
本を読んでいるつもりになっていても、心に文字が引っかからない
字面を目で追っているだけのように感じる
文字になんの意味があるのか分からなくなる
文章の連なりが理解できない

子供のころは山登りが好きだった
休みの日には、近所の山や川にしょっちゅう行っていた
誰も歩かないような、崖へと侵入して、無理やりつっきったりとか
山に行ったり散歩をしたり
それらの行為って、なんの意味があるのだろう?
探検とは、何のためになすのかも分からない、シュールなことだ
登山は、無意味さを楽しむものなのだろう

日本人は、無意味さと戯れることに、それなりに長けていそうである
意味を求めることに、しばしば疲れてしまう

左翼の友達が、議論の勝ち方を教えてくれた
大きな声を出せ、と
より大きな声で弁舌をなす方が、勝利をえるのだって

山はしゃべらないところがいい

失われた詩集 

<念心!

<合体!

<ゴー!

<接続します

<接続します

<接続します

<合体はつねにすでになされています

<かつての世紀、詩人たちは、愛している、という言葉を使用したそうです

今日の2ちゃんねる文学板観察 

○「『必読書150』は必読書か

9 :吾輩は名無しである:2005/03/25(金) 03:48:02
amazonで「柄谷行人」で検索すると著書の中で
一番売れてる本のところにくるよ。

36 :文学王:2005/04/16(土) 22:21:14
てめーら、
丸谷才一・三浦雅士・鹿島茂/選の
『千年紀のベスト100作品を選ぶ』
は知ってるのか?

http://homepage3.nifty.com/~hispider/bookdiary/best100.htm

397 :吾輩は名無しである:2005/11/01(火) 05:06:34
ドゥルーズを読むためのブックガイド 80】


ルクレティウス『物の本質について』岩波文庫/
クリュシッポス『初期ストア派断片集』京都大学学術出版会/
プロティノス『エンネアデス』中央公論社/
道元『正法眼蔵』河出文庫ほか/
ドゥンス=スコトゥス『存在の一義性』哲学書房/
スピノザ『エチカ』岩波文庫/
ライプニッツ『モナドロジー』中央公論新社/
ヒューム『人性論』岩波文庫/
ルソー『社会契約論』岩波文庫ほか/
フーリエ『四運動の原理』現代思潮新社/
カント『判断力批判』岩波文庫/
キルケゴール『反復』岩波文庫/
ニーチェ『ツァラトゥストラ』中公文庫ほか/
マルクス『資本論』国民文庫ほか/
ベルクソン『記憶と生』未知谷/
ジェイムズ『プラグマティズム』岩波文庫/
パース『連続性の哲学』岩波文庫/
ホワイトヘッド『過程と実在』松籟社/
ペギー『歴史との対話』中央出版社/
タルド『世論と群集』未来社/
ユクスキュル『生物から見た世界』岩波文庫/
ヴォリンガー『抽象と感情移入』岩波文庫/
サルトル『自我の超越 情動論素描』人文書院/
アクセロス『遊星的思考へ』白水社/
フーコー『言葉と物』『性の歴史』新潮社/


398 :吾輩は名無しである:2005/11/01(火) 05:07:06
クラストル『国家に抗する社会』水声社/
ヴィリリオ『速度と政治』平凡社ライブラリー/
ガタリ『カオスモーズ』河出書房新社/
アガンベン『バートルビー 偶然性について』月曜社/
フロイト『自我論集』ちくま学芸文庫/
シュレーバー『回想録』平凡社ライブラリー/
ライヒ『ファシズムの大衆心理』せりか書房/
レイン『引き裂かれた自己』みすず書房/
ラカン『エクリ』弘文堂/
ヘルダーリン『詩集』岩波文庫/
クライスト『チリの地震』河出文庫/
マゾッホ『残酷な女たち』河出文庫/
カフカ『変身』『城』新潮文庫ほか/
カネッティ『群集と権力』法政大学出版局/
ゴンブロヴィッチ『ポルノグラフィア』河出書房新社/
レルネット=ホレーニア『白羊宮の火星』福武文庫/
プルースト『失われた時を求めて』ちくま文庫など/
ヘンリー・ジェイムズ『デイジー・ミラー』岩波文庫など/
アルトー『ロデーズからの手紙』白水社/
ジャリ『超男性』白水社uブックス/
ミショー『魔法の国で』青土社/
クロソウスキー『ディアーナの水浴』水声社/
トゥルニエ『フライデーあるいは太平洋の冥界』岩波書店/
ホイットマン『自選詩集』岩波文庫/
メルヴィル『白鯨』『バートルビー』筑摩書房ほか/
フィッツジェラルド『崩壊』荒地出版社/


399 :吾輩は名無しである:2005/11/01(火) 05:07:41
ミラー『マルーシの巨像』水声社/
ロレンス『黙示録論』ちくま学芸文庫/
ウルフ『波』みすず書房/
ペソア『不穏の書、断章』思潮社/
ベケット『いざ最悪の方へ』書肆山田/
蓮実重彦『フーコー・ドゥルーズ・デリダ』河出文庫/
浅田彰『構造と力』勁草書房/
中沢新一『チベットのモーツァルト』講談社学術文庫/
宇野邦一『ドゥルーズ 流動の哲学』講談社メチエ/
丹生谷貴志『死体は窓から投げ捨てよ』河出書房新社/
前田英樹『小林秀雄』河出書房新社/
小沢秋広『中島敦と〈問い〉』河出書房新社/
小泉義之『ドゥルーズの哲学』講談社現代新書/
檜垣立哉『ドゥルーズ 解けない問いを生きる』NHK出版/
江川隆男『存在と差異』知泉書館/
郡司ペギオ-幸夫『生成する生命』哲学書房/
杉村昌昭『分裂共生論』人文書院/
山の手緑+矢部史郎『無産大衆神髄』河出書房新社/
酒井隆史『自由論』青土社/
萱野稔人『国家とはなにか』以文社/
ズーラヴィクビリ『ドゥルーズ ひとつの出来事の哲学』河出書房新社/
ハート『ドゥルーズの哲学』法政大学出版局/
シェレール『ドゥルーズへのまなざし』筑摩書房/
マルタン『ドゥルーズ/変奏』松籟社/
ビュイダン『サハラ』法政大学出版局/
バディウ『ドゥルーズ 存在の喧騒』河出書房新社/
ジジェク『身体なき器官』河出書房新社

以上


400 :吾輩は名無しである:2005/11/01(火) 05:15:11
【ドゥルーズ自身の著作 20】


経験論と主体性/河出書房新社
ニーチェと哲学/国文社
カントの批判哲学/法政大学出版局
プルーストとシーニュ/法政大学出版局
ベルクソンの哲学/法政大学出版局
マゾッホとサド/晶文社
スピノザと表現の問題/法政大学出版局
差異と反復/河出書房新社
意味の論理学/法政大学出版局
アンチ・オイディプス/河出書房新社
カフカ/法政大学出版局
千のプラトー/河出書房新社
感覚の論理/法政大学出版局
シネマ/法政大学出版局(近刊予定)
フーコー/河出書房新社
襞/河出書房新社
哲学とは何か/河出書房新社
批評と臨床/河出書房新社
無人島/河出書房新社
狂人の二つの体制/河出書房新社

■■■

○「【誤訳】守中高明を徹底糾弾する【池沼】

756 :当事者:2007/09/12(水) 11:39:45
私が書かないと話が進まないようなので、一度だけ書き込みます。
守中高明は、マジ、最低なやつです。
1)自分の立場を利用して、自分に関心のある学生に手を出す。既婚者でありながら
結婚話を持ち出す。妻と離婚して一緒に暮らそうと言って、くどく。
2)利用するのは2、3万円する都内のホテル。常に現金払い。エッチに関して
私が発言するのはいとも簡単ですが、思い出すのも嫌なので、要するにしつっこい
中年のエッチだったと証言します。今の彼氏に出会えて守中高明のヘンタイ
ぶりが確認できた。私からのキーワード。傷。
3)高い料理をふるまう。いつもおいしいものを私に食べさせたよ。
1.2.3.を見れば事実は明白。要するに守中高明は、ただの「若い女とやりたい
寒い中年」です。
サヨクを自称していますが、私の知る「たか」は、常に他の教授と自分の抗議の差を
神経質に気に病んで、出来を私に尋ねる、小心者の小金持ちのボンボンでした。金払い
すごくいいよ。
このスレを友達に聞いて、久々に「やりー!!!」と叫んだ。
たか、うらまないでね。これでおあいこだよ。
西村THR

■■■

○「名作文学をケータイ小説(笑)にしようぜ@文学板

■■■

○「【スガって】さすがぁ♪ 糸圭秀実 8【いいよなぁ】

307 :吾輩は名無しである:2007/08/30(木) 07:17:36
スガ秀実が「しょうが焼き定食を一心不乱に食う柄谷行人」を描写した
文章はどこで読めるのでしょうか?教えてください。



308 :吾輩は名無しである:2007/08/30(木) 11:34:14
「安かろう悪かろう」のハンバーグ定食だったよ



309 :吾輩は名無しである:2007/08/30(木) 13:42:22
国文学の柄谷特集だったような。
なんとかする批評、なんだったけな・・・・・・・・・・・・


310 :吾輩は名無しである:2007/09/01(土) 01:51:31
>>309
<スガ秀実の柄谷に関する論考>
「柄谷行人 マルクスの中の漱石」(「現代思想」 1980.12.01 青土社)
「柄谷行人」(柄谷行人ほか共著『<批評>のトリアーデ』 1985.10 トレヴィル)
「「貧しさ」について」(柄谷行人『意味という病』講談社文芸文庫 1989.10.10 解説)
「教育者、柄谷行人」(「國文學解釈と教材の研究」 1989.10.20 學燈社)
どれでしょうか?

■■■

「田中和生って知ってる?

文芸評論は幻に殴られる 

インターネット接続の調子が悪い
回線がつながらないのだ
困った
とりあえず、常にウェブに接続していないと、どうも気持ちのおさまりが悪い

10年前の浪人時代、ずっと引きこもりの生活を送っていたことがある
そのころ、ぼくはコンピューターを持っていなかった
同じ引きこもりであっても、ウェブのある時代の引きこもりと、ない時代の引きこもりではずいぶんその生活の実態が異なるのではないか?
その方面の研究もなされてほしい

ウェブに接続できないのは、もしかしたらぼくの精神状態を、ぼくのコンピューターが反映しているのかもしれない
コンピューターは、ぼくの脳みたいなものである
外部と内部をつなぐ回路が断線している
時間と空間が奇妙にゆがんでいて、世界がうまく認識できない
離人症気味である
10年ぶりの経験だ

自分はどんな位置に、どんなふうに存在しているのか
それを把握することはひとつ、文学や文芸評論の役目であろう

文芸評論で本を出すことはできない
今年、文芸評論書で出されたものは何があった?
新人賞の審査員などをやっていて、出版社のために貢献している批評家さんだけが、文芸評論書を小部数出せるだけだ
ほかの人に割り込む余地はない
そんな話をしばしば聞いた

・文芸評論とは何であるのか。文芸評論と哲学の関係はどうなっているのか。文芸評論が社会学にとって代わられたのはなぜか。今の時代に、文系学問が存在する意味はあるのか

・ウェブにおけるテクストは、どのように過去の日本のテクストと接続していて、どのように切断しているのか。ウェブは政治や社会や人間のあり方を変化させうるのか

・ 現代サブカルを扱う批評家は東浩紀に一元化しているところがある。アキバ系を扱う人はもう一人くらいいてもよい。漫画やアニメはどのように海外で消費されているのか。経済的・文化的に、それらは他国に何らかの影響を及ぼしうるのか

それらの内容を持つ評論書なら、ぼくは興味が持てるかもしれない

ぼくらは、ぼくらの生きる時代を愛せるのだろうか
ぼくらにとって、本当に、他者は存在しているのだろうか
言葉を発するのに臆病になるくらい、他者と切断されている感じがしたりする
ぼくらの生き方を代表した思想というものを、何かしら存在させうることは不可能なのか

全共闘世代の人に殴られそうになった
殴りたいと思える他者がいるのは、うらやましい

「幻をなぐる」という小説を最近読んだ
内容は忘れてしまったが、すばらしいタイトルだ
しかし、幻を殴っていてもしょうがないだろう

ぼくは幻に殴られる
ぼくは殴られることを恐れて、いつも土下座をしていたい
この世のすべてはみんな嘘であるとしか思えない

小谷野敦と荻上チキ 

小谷野敦荻上チキの実名のヒントをブログに書いた件でずいぶん盛り上がっているようですね

小谷野敦荻上チキの正体


荻上チキ小谷野敦さんに実名を晒された件/および匿名と顕名の擁護

小谷野氏がチキ氏を自分のテリトリーへと引きずり込む、その舌舐めずりするかのようなワッルイ手練手管に「うっ」とします

小谷野氏のいう、匿名での批判は卑怯だ、だからその仕返しとして実名を晒すのだ、という感覚は私にはよく分かりません
ただ、小谷野氏はモダニストであるのだなとは思います
実社会での昼の顔、昼の名前を使い、Webにおいては夜の顔、夜の名前を出す
その二つの乖離が、日本社会では特に強くあります

昼も夜も、同じ名前で発言し、社会生活を営むことが、主体的な市民として生き、政治的な公共圏を作ろうとするときに必要となりはしないのか

会社に勤め人として通っている間は公的な仕事(ワーク)に参入している
一方、Webにおける言論活動(アクション)は、私的な領域でのものである
この構造には、理想的な民主主義社会の原理に反する不可思議な「ねじれ」をはらんでいます

田中和生氏と高橋源一郎氏の論争は、Webではまったく話題になっていませんよね、それは問題なのではないでしょうかとある飲み会で私がしゃべっていたら、文芸誌と、Webでの言論とはまったく別物で、そんなことは気にするものでもない、といったような指摘をいただきました

Webにおける言論というものは、昼の実社会へと本当にリンクしうるものなのか
ネットの空間における表現は、言論界のものへと、きちんと連結するものなのか
Webでの表現活動を追求している小谷野氏とチキ氏というお二方であるからこそ、興味深いもめ事だと思います

「新潮」2008年1月号 

新潮 2008年 01月号 [雑誌]新潮 2008年 01月号 [雑誌]
(2007/12/07)
不明

商品詳細を見る

◎2008年の「新潮」はここが変わった

・表紙のデザインがスタイリュッシュなブラック
これまでのものから一新
かっこいい

・冒頭部分をWebで立ち読みできる
http://www.shinchosha.co.jp/shincho/

・編集長が読者に向けた言葉もアップ
気合いが入っている
http://www.shinchosha.co.jp/shincho/200801/editor.html

・古川日出男が選出・朗読した特別付録CD日本近現代名詩選付きである
「新潮」初のCD作品だ

◎内容

○新連載評論
・佐藤優「高畠素之の亡霊」

『資本論』を初めて邦訳した人、高畠素之の評伝
佐藤優って、「歴史の終わり」という議論があったことを踏まえて仕事をしているのか?
「学生運動は良かったよね」的なノリが強い
現代の若い読者に向けて、文章を書いているのか?

・いはねばこそあれ――男色の景色/丹尾安典

井伏鱒二などの男色について書いている
ちょっと興味深かった

・対談「平成の文学について」古井由吉+福田和也

福田が古井の近作「白暗淵(しろわだ)」を褒め、古井が福田の近作「わが戦前」を褒める
みんな満足
「平成の文学について」と銘打たれているが、「平成」という言葉は本当に必要なのか?
対談のラストには、文芸誌なんてみんな赤字なのに、何冊も出していて本当にいいのかな? ずいぶん大目にみてもらっているよね、という古井の一言があり、そこらへんはさすがに批評性がありますね

・蓮實重彦「去年の暮れ、突然に――大江健三郎『臈たしアナベル・リイ 総毛立ちつ身まかりつ』」

とても文章がうまいです

・保坂和志「カフカ『城』ノート(2)――小説をめぐって(三十五)」

直前に『城』を読んでいないと内容が分からない
ゼノンの「アキレスと亀」について触れた部分はどこまで本気なのか?

・山城むつみ「連続するコラム(17) 改行の可・不可」

ドストエフスキーの新訳は改行が多すぎるのが良くないという主張をしている
改行は多ければ多いほど良いだろう

○チェック
高澤秀次『吉本隆明 1945-2007』
宮崎誉子『三日月』

梅森直之編著『ベネディクト・アンダーソン グローバリゼーションを語る』 

○二〇〇五年の早稲田でのCOEプログラムによるシンポジウムがもとになったもの

○アンダーソン

・政治学と古典研究がもともとの専門
・ナショナリズム研究は80年代初頭に多く出版される。ホブズボウム等
・ナショナリズムにおける、小説の重要性。小説と新聞と国民の物語のあいだに、基本的な構造的関係が存在する。この三つは、ほぼ時期を同じくして登場した。それらは構造的に同じ形をとっていて、しかも操作されなくてもそうなっていた
・文芸批評は、フーコー、デリダ、ボードリヤールから大きな影響を受けた
・「選択された記憶」……ナショナリストはどのように自分たちの歴史を語り、また反対に何を書き残さないのか。そしてそれはなぜそのような形態をとるのか、そこにはどんな特殊性が認められるのか
75・「最も重要な要因を一つあげるとすれば、やはり通信と輸送の革命でしょう。この革命によって、一九世紀の終わりの三分の一が初期グローバル化の時代となりました。とりわけ、モースによる電信の可能性の発見が重要です。これはアヘン戦争前後のことでありました」

○梅森直之

・過去から未来に向かって規則正しく流れていく時間という概念は、歴史的な産物である
・「俗語」の種類に応じて異なった新聞や小説を準備しなければならないとしたら、市場は細分化され、出版は産業として立ちゆかなくなる。産業としての出版は、雑多に存在する「俗語」の境界を超えたより広い統一的な市場を求める。この統一的な市場の必要に応じて作り上げられたものが、「国語」という新しい言葉のシステムだった

・「メシア的時間」(?)
・木版文化の伝統は……?

・『比較の亡霊』……出版資本主義がもたらすのは、「世界」というグローバル化された意識である
・グローバリズムは、つねにナショナリズムとともにあり、その生成と発展を促してきた
171・「何かを比較するためには、どうしても必要なものが二つある。その第一は、比較する対象である。ミカンとリンゴ、商社マンとフリーター、日本とアメリカ。これらの対象が存在してはじめて、僕たちはそのあいだを比較することができる。/次に必要なものは、共通の「ものさし」である。色、重さ、甘さ……、こうした特定の尺度に照らすことでミカンとリンゴという異なる果物は比較可能になる」
172・「国や社会の境界は、ミカンやリンゴの場合とは異なって、あくまでも人間があたまのなかで引いたものだ」「……比較するという行為は、その想像の境界を受け入れ、比較の対象を作り出すところからはじまる。比較という行為自体が、国や社会という想像の共同体を生みだしてゆく営為の重要な一部であるというわけだ」

・『三旗のもとに』……ナショナリズムを、アナーキズムが結びつけていた

○アンダーソン

・今以上にコミュニケーションを迅速化すること、より速く旅行することは困難であるが、ヒトやモノの量はさらに多く移動することになり、量的な増加が質的な変化をもたらすかもしれない、
・ウエブにおける、新聞との違い
ウエブ……ほかの人に注意がなくなる
新聞……全体を見る
(????)

・9・11の死者は約二八〇〇人。二〇〇四年のスマトラ島大地震の死者は二二万人以上
○チェック
ベネディクト・アンダーソン『言葉と権力』『比較の亡霊』『三旗のもとに』
スチュワート・ホール

デリダ『マルクスと息子たち』 

・1993年に出版された、『マルクスの亡霊たち』は多くの議論を引き起こした
・『マルクスの亡霊たち』に対する各論者への応答として書かれ、一九九九年に英語で出されたもの

○感想
・メシア性って、よく分からない。「即身成仏」かなにかですか? でもなんか、英雄性が感じられるところが仏教的ではない。『歓待』における、あなたの私財を全部他人に渡しなさい、といったような倫理は、デリダにおいて本気らしい。狂信的、純粋左翼的、宗教的
・西洋哲学の中心は、「形而上学」と「存在論」にあった。それらについて、デリダはあれこれいちゃもんつけている。デリダの仕事は、「存在論」とカテゴライズされる分野でなされている。でも、デリダのやっていることは、デリダ的には「存在論」ではなくて「憑在論」なのだそうだ。言葉の使い方がちょっとオカルティック
デリダは、「実践性」を視野に入れているため、「存在論」ではなく「憑在論」なのか?
・「脱構築」は、何らかの概念をカント的な二律背反へと、引き戻す作業であるようにみえる
・「階級」「党」への批判は、一つには、「代表」の失効を疑う、言語的なものとなる
・「相続」と「遺産」……組織における、上部構造と下部構造、父―子関係への批判
・以上の論点は、すべて埴谷と似ている。マルクス主義における経済学的な問題から、存在論的な問題へと引きこもる点においても

○内容

デリダの論述のテーマ
・革命的出来事に「メシアなきメシア的なもの」「メシアニズムなきメシア性」という聖書に基づく言葉を使うことについて
・「存在論」という遺産について
・文学性について
・自分は免れているという思い込みの上になされる、行為遂行性の始原にある不純性について
・階級、組織、党に、言及していないようにみえることについて


・「マルクス主義」は、いったい誰に所属しうるのか?
・行為遂行的なものの脱構築が、ながらくデリダのテーマであった

・ハムレットとマルクスにおける、家父長制的男根ロゴス中心主義批判
・亡霊的血筋の分析の中心に、女性そして性的差異の問いがある

・『友愛のポリティクス』における「同胞愛」に向けられた脱構築的批判。『友愛のポリティクス』と『マルクスの亡霊たち』はともに、〈息子/父〉という対のみならず、〈兄弟/兄弟〉という対をもその対象とした一種の批判であった。マルクスとシュティルナーはヘーゲルの息子であり兄弟であるが、シュティルナーは出来の悪い方の息子である

57・「宗教に関する問いは今日ではすでに片のついた明白なものになっているなどと考えてはならない。「宗教的なもの」や「準宗教的なもの」の何たるかを知っているかのようにふるまってはならない。特に、マルクス主義者でありたいと望み、マルクス主義者であると自称するならば、そんなことをしてはならないのだ。」
58・「あらゆる喪の仕事の中には隠喩化の過程があろう(圧縮ないし置き換え、内化ないし取り込み、ここからさらに、死者への同一化、再ナルシス化、理想化等々)。」

64・「……問題含みに思えたのは、現在「継承」[=相続]されているような社会階級概念に見出される、「差異化」の不十分な性質のことだ」

77・精神分析と政治とを接合しながら死と喪の経験、亡霊化という経験を考慮に入れた問題系を動員しなければいけない

・亡霊的論理は、形而上学的ではなくて「脱構築的」だ
81・「抽象化としての「形而上学」を前にしても同じことだ。例えば、官僚制化というのは、抽象化と亡霊化の現象でもある。」
86・「二、美学あるいは「個人的な美的趣味」に逃げ込むには、哲学における「体系性」の観念に対して問いを投げかければ済むわけではない(体系とは、一貫性ないし「無矛盾性」という、哲学史においてもかなり後になって採用された形態にすぎない)。私はこれまで、「体系」や「美学」といった伝統的カテゴリーに対しては、「脱構築的」な身ぶりを何度も繰り返してきている」
89・メシア性はユートピア的ではない。「それは、あらゆる今ここにおいて、最も具体的かつ最も現実的な出来事の到来を、つまり、何ものにも還元しえない最高度の異質性をそなえた他性を指示対象とするものだ」
91・「それは、事物や時間や歴史がいつものように流れているその流れの中断を今ここで命じてくるのだ」

104・「マルクス」とヨーロッパ的、ユダヤ‐キリスト教的文化は切り離せないものだ(?)
・いかなる宗教批判も、信仰一般には打撃を与えない。「メシアニズムなきメシア的なもの」という表現は、信仰と宗教との間の差異を翻訳するのに好都合である

110・「マルクスは亡霊的論理に訴えかけながらも、その手続きを再‐存在論化し、自らの諸概念を再‐哲学化することによって、亡霊的論理に訴えかけることの適切性と力とに制限を加えてしまっていた」
・ネグリとマルクスは、存在論的であるがゆえにいまだ形而上学的である

113・ネグリ「我々は、マルクス主義の存在論、そしてとりわけ搾取をめぐるこの存在論的説明が、すでに時代遅れのものであると考える点には同意する」

114・『弔鐘』……「私は喪の仕事[=労働]の概念を一般化して、そこから労働一般と同じ広がりをもつ概念を作り出している」

117・「たぶん搾取の古典的概念は、何らかの脱構築的乱流を被っている(ここには再び存在論についての問いがある。そして、それゆえ、固有なものについての問い、我有化可能なものについての問い、固有なあるいは疎外された主体性についっての問い、そして私がさまざまな機会に脱‐我有化[ex‐oppropriation]と呼んでいるものについての問いがある――脱‐我有化の論理は、搾取と疎外についての伝統的言説を特異な仕方で複雑化する)」

119・存在論……「すなわち、それは現前する存在者が、単に欠如であるのみならず確率でもあるようなものに従って欠如しているように思われる――つまり差延〔differance〕だ――まさにその場所で、現前する存在者の充溢せる現前を、再構成し、救い出し、埋め合わせるための喪の仕事のことだ」

・「新世界秩序」の十の「傷口」(失業、ホームレス、経済戦争、自由市場の諸矛盾、対外債務の深刻化、軍需産業、核兵器の拡大、民族間紛争、旧東欧諸国を含む全世界に広がるマフィアやドラッグ、国際法の限界)

172・フレデリック・ジェイムソン「マルクス主義が哲学であることはありえないし(なぜなら、その中にある実践と理論との統一性がそれを妨げるから)、いわんや、唯物論哲学などではありえないのとまったく同様に、脱構築もまた哲学ではない」

182・ネグリ「……デリダは、倫理的な蜂起よりも、倫理的でしかも匿名のインターナショナルの方を信用している」

201・國分功一郎「マルクスには、二つのパースペクティヴ、憑在論的なそれと存在論的なそれとが混在している。したがって、デリダのマルクス読解の第一の課題は、存在論が覆い隠している亡霊的な契機を明るみに出すこと、そして、諸関係の効果という「起源」を隠蔽するとともに、実体的本質なり存在なり現前なりを捏造する存在論のふるまいを告発することであるだろう」
・存在論――亡霊的なものの存在化
・存在論批判――存在がもつ亡霊性の暴露
・憑在論――亡霊的なものの不可避性の認識、亡霊が存在化される必然性の分析、存在化への抵抗
プロフィール

松平耕一

Author:松平耕一
○twitter登録名:matudaira
○ツイッターまとめ:http://twilog.org/matudaira
○Facebook登録名:松平耕一

☆文芸空間社企画
◎批評放送
・批評放送は松平のプロデュースする動画配信企画です。ツイキャス http://twitcasting.tv/matudaira 、youtubeなどで配信されます
批評放送@USTREAM

○松平耕一・文芸空間社・批評放送へのカンパ振り込み先は
・三菱東京UFJ銀行の吉祥寺支店普通口座1896022 マツダイラ コウイチ 宛になります

管理者ページ

FC2カウンター
ツイッター@matudaira
カレンダー
11 | 2007/12 | 01
- - - - - - 1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29
30 31 - - - - -
全記事(数)表示
全タイトルを表示
カテゴリー


  1. 無料アクセス解析
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。