美嘉『恋空』 

恋空〈上〉―切ナイ恋物語恋空〈上〉―切ナイ恋物語
(2006/10)
美嘉

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◎ライトノベルを読む層とケータイ小説を読む層の特徴を次のようにおおまかに分けてみた

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A ライトノベル

少年向け

アキバ系 萌え オタク

妄想の性欲

ウェブ、ブログ、2ちゃんねるを使う若い男性の層

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B ケータイ小説

少女向け スイーツ

リア充 リアルが充実したセックス

テレビは観るが、ウェブ情報は読まない若い女性の層
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・恋空は、ウェブ上で、異様に糾弾されている
2ちゃんねる、ブログ、アマゾン等、恋空をからかうレビューで炎上している

一つには、ライトノベルを読む層が、ケータイ小説を読む層を、叩く構図ともなっていよう
リア充に対する嫉妬も含まれていて、その点を差し引いて現象を観察する必要がありそうだ

恋空的な物語を身体的に実践してしまいうる層と、メタフィクションとしての漫画・アニメを楽しむ層とで、分かれていそうなのである

・「描写」が極度に切り詰められるのが、ライトノベルとケータイ小説の特徴だと、一義的には言えそうである
この二つの周縁的な「文学」においては、少なくとも、文芸誌がかつて求めてきた描写力は、ほとんど否定されている

◎恋空の特徴

○肉弾派

・主人公たちは、そうとう、プロレスラー的というか、身体を張ってみせる
・予想通りの失敗をしてくれる。レイプ、いじめ、堕胎、恋人をとったりとられたりなど、危機回避能力がないのかと疑われる

ありきたりの挫折が多過ぎて愚かしいが、本人はまったく気づいていず、自分の世界にはまっている

・スイーツというより、ヤンキー、ギャル、不良系にやや近い
・また、アキバ系のオタクは、「恋空」のようなベタベタしたタイプのコミュニケーション共同体を作らない。その点が対称的である

○一次的なコミュニケーション至上主義

・友達や恋人等への縛られ方がほとんど異常
・「会話」と「声」を重視している
・オタクのように、漫画、アニメ、ゲーム、ウェブ等を媒介としたコミュニケーションを志向するわけではない

・読書をしている雰囲気があまりない(少しはある)
基本的に、先行する「活字」を否定したところで成立している小説である

○「感動」

・ある狭い共同体内で生活するうちに、偶然蓄積してしまった、裏切り、嫉妬、悔恨、悲哀等を、まとめて昇華させることがモチーフ

・それらの孤独をいやす手段として、この「ケータイ小説」が書かれた(実際にどうかはわからないが、建前上)

・「活字」という媒体を利用し、死んでしまった恋人への告白、堕胎してしまった子供への告白がなされる

・共同体内部での人間関係で、精神的に破綻・絶望し、「神の視点」を導入せざるを得なくなり、語り手は活字に、はじめて飛びついた、といったところか

○「リアル」である

・実際には不条理な展開も多く含まれる

・言葉が極限にまで切り詰められている
語彙が少ない
普通の意味での社会的な話題がまるで登場しない。新聞・テレビのニュースにまるで興味を持たない
本、漫画の話題がまったく出ない

・狭い共同体内での、恋愛、友情、家族関係、語り手の心情のみが書かれる

・なぜ「リアル」に感じられるか?
ここには、極めて逆説的な効果がある
語り手はほとんど創作の勉強をしたことがないようにみえる
たとえ、破滅型の作家であっても、「本を読む」「修辞にこだわる」等の訓練がなされ、作家としてデビューしている
しかし、文学的な規律・訓練が一切なされず、この作品が誕生しているであろうことが、かつてありえなかったような「リアルさ」をもたらしている
表現行為において先行する小説がほとんど参照されないことが、リアルにみえるという皮肉を見いだせる

○世界文芸史的に特異かも?

近代文学は、本来、規律・訓練を受けた作家が書くものであった
しかし、出版社・編集者をいっさい通さず、少女たちの共同体の内部でこのような小説が発生してきたわけである
紙では、リスクが高すぎてこのような作品を表に出すことは不可能であったろうし、このような作品を公開しようと発想するものもいなかったであろう
しかし、Web空間の、無料であること、即時的であること、対他的に多数に向けて同時に公開しうること、といった特徴を活かすことで、はじめて可能になった「文学」であるといえよう

☆参考資料

○ウィキペディア

・「内容には悪性リンパ腫や妊娠に関する記述など、現実的に有り得ない描写が多くみられる。当初はノンフィクションを標榜し、トップページにも「実話」と明記されていたが、矛盾部分を指摘されて以降は「実話をもとに」に改められて、脚色ということになっている。」

「がんやレイプに関する記述は、多くのがん経験者や強姦事件の被害者から批判が寄せられている[要出典]。がんに関しては、抗がん剤などの描写があるにも関わらず、味覚障害や生殖機能の破壊といった一般的な副作用はおろか、発熱や嘔吐のような「抗がん剤による闘病の苦しみ」の描写が皆無である。レイプに関しては、犯人が車で逃走した時に、車のナンバーを紙に書いたり(実際にレイプにあった際にはそんなに冷静ではいられない)、レイプの被害に遭ってから立ち直るまでの期間が短い(謝ってもらうだけで良いなど、無意味に優しい)という指摘があり、主人公がレイプについて容認している部分などが批難されている[要出典](作中に、自分だったら同じ事をしたと書かれている点など)。」
・→「俗情との結託」が激しく、問題となっている

「また、TBSラジオ・ストリームで放送された「コラムの花道」という番組では「文学賞メッタ斬り!」などの著作を発表している豊崎由美がケータイ小説全般の『1年間ほどにおける少女の恋愛、性交、妊娠、中絶、不治の病』という詰め込み展開を「コンデンスライフ」と名付け、「この作品におけるガン知識の欠落」や「出版社の安易な書籍化」などに警鐘を鳴らしている。

実話とのふれこみだったが、2007年12月20日号「週刊文春」により井上香織の「さよならの向こう側」という小説にストーリーが酷似していおり、盗作ではないかとの疑惑が浮上した。」

・→豊崎由美、「週刊文春」による批判あり

○東浩紀の恋空レビュー「東浩紀の渦状言論: 『恋空』読みました2

・「僕的には、これはけっこうまじめに読むに値する小説なのではないかと思うわけです。少なくとも、これは泣きの条件反射で作られている物語ではない。それにしては過剰な構造があるのです。骨組だけがごろんと転がっているので、いわゆる文学が好きなひとはかえって読めないのでしょうが、その骨組そのものはけっこう複雑な構造をもっているのです。」

・興味深い
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赤木智弘『若者を見殺しにする国』 

若者を見殺しにする国―私を戦争に向かわせるものは何か若者を見殺しにする国―私を戦争に向かわせるものは何か
(2007/10/25)
赤木 智弘

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○amazonにおける本書の紹介

・「「『丸山眞男』をひっぱたきたい----31歳、フリーター。希望は、戦争。」
赤木智弘の衝撃的な論考が、月刊誌「論座」2007月1月号に掲載された。 」

・「見殺しにされている団塊ジュニア世代の自分が、人間としての尊厳を得るためには、まず国民全体に「見殺しの罪」を直視させなければならない。」

・「ひっそりと「声を押し殺して生きる若者」たち。その当事者のひとりが声をあげた。
その声が、行き詰まる若者の姿を、私たちの目に見えるようにした功績は大きい。」

○「東浩紀の渦状言論: シンポに向けてのメモ2

東浩紀が「思想地図」のシンポのために用意したメモで、赤木氏について考察していた
現状分析のまとめ方がうまい

・「ぼくの考えでは、赤木氏の議論の根幹には、「左翼は弱者を救済するというが、本当の弱者は弱者として定義すらされていないという左翼的な定義を拡張するならば、おれたちのように弱者だと言われてこなかった連中こそ本当の弱者なんだから、いますぐ女性でも外国人でも障害者でもない中年男性フリーターに注目しろ」的な論理のアクロバットがあり、おそらくはそれが一部の男性読者のルサンチマンに受けたのだと思う。」

赤木は新しいPCのやり方を開発した、というわけだ

○本書の内容

A 年収がすごく高い富裕層
B 年収が普通の正社員
C 年収がすごく少ないフリーター

BとCの立場を入れ替えるために戦争を行おうという話のよう
そうすれば、赤木は、丸山にあたる人物を、軍隊内部でひっぱたけるのだって
でも、敵国の存在を考えていないことなど、むちゃくちゃである
現代の戦争においては、赤木の考えているような展開にはならないだろう

軍隊内部では、国民の平等が実践されていた、という論はしばしばみかける
しかし、大西巨人の『神聖喜劇』では、これが反論されている
大西の指摘によれば、社会的な身分の高いものが、貧しいものを差別する構図は、軍においても、保存されているとのこと

○釣り

「丸山をひっぱたく」とか「戦争をしたい」と赤木はいっているが、このひとは直接丸山を読んだこともないし、戦時中の日本がどうだったかの資料も集めていない
世間の顰蹙を買うことで注目を集めようという、「釣り」なんじゃないかと思えてしまう
ただ、寄せられた反論に対する再反論はしたたか
団塊ジュニア世代の下層フリーターをとりまく社会状況の情報をまとめていて、同世代間での共感を誘おうという作戦に見える

・若者は馬鹿だね、みたいな「俗流若者論」に対して批判をしている章もある。「青少年の凶悪犯罪が増えている」「オタクバッシング」「ゲームばかりやると頭が悪くなる」といった論に対し、データをあげて、反駁しているくだりには説得力がある

・「私は主夫になりたい!」とも赤木は主張し、これも異様
低収入の女性以上に、低収入の男性は立場が悲惨なのだとごねている
結構、細かに論を積み立てようとしているが、一文一文を検討していけば、そうとう問題も多そうである
赤木の論はほとんどブラックジョークだろう
もちろん、フェミニズム自体も、変な思想に陥っていることが多々あるだろうし、それに対するアンチテーゼを出しているのだろう

・ひがみが強すぎないか? 「かまってちゃん」なのじゃないか? と疑われる。「隣の芝生は青い」みたいな感じ。正社員がうらやましいとか、団塊の世代だけが得をしやがって、といった恨み節である。しかし、正社員だって大変だろうに。あるいは、赤木は栃木在住なので、東京などよりも職にまつわるトラブルが大きいのだろうか?

・左翼を批判している。左翼を自称しているくだりもあるのが、不審である

・おれを左翼運動に誘いたいなら、給料をくれ、とか言っている。その気持は必ずしも分からなくはない

・「戦争をやめさせたいなら金をくれ」と訴える。そこまでくるとほとんどギャグだろう

・自分の生きている範囲を「悲惨なもの」にしたてあげ、遠くにある「悲惨」とされていたもの、「戦争」や「女性差別」などを、自己と等価なものへと引きずり落としている

・国際的、歴史的観点をすべて無化し、「ゴーマニズム」の「宣言」をなす

赤木は、リバタリアンではまったくない
新自由主義的な格差社会は否定している
ナショナリストらしい、伝統への倫理感というものもなさそう
社会福祉政策を否定しているくだりもある
国際的な視野もない

思想の方向性がいまいち理解できない

○「『絶望男』出版記念イベント」(「深夜のシマネコBlog - 鶏口となるも牛後となるなかれ」)で、雨宮処凛、白井勝美、月乃光司、杉田俊介などと組んでいるみたい

すごいパーティーですね

大江健三郎「「人間をおとしめる」とはどういうことか」 

すばる 2008年 02月号 [雑誌]すばる 2008年 02月号 [雑誌]
(2008/01/04)
不明

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○「思想地図」派は、「作る会教科書」の運動を、「サブカルの文化」だと考えているのだろうか。 左翼も右翼も、「歴史」を「物語」だと把握している、といえるものなのだろうか。 大江の『沖縄ノート』が、作る会教科書の思想勢力の後押しを受けて、裁判に巻き込まれたことには、「歴史は物語」などといってもいられない、諸問題が潜んでいそうである

・一九四五年の沖縄戦のはじめ、慶良間列島で七百人に及ぶ非戦闘員が集団自殺した

・大江は『広島ノート』(1970)で、この事件における、日本軍の強制について論じた

・2005年8月に元沖縄戦指揮官および遺族が、大江健三郎、岩波書店を名誉毀損で提訴した。2008年に結審、3月に判決が出るとのこと

・藤岡信勝などの自由主義史観研究会が、南京虐殺説、従軍「慰安婦」強制連行説とともに、沖縄集団自決軍命令説を、日本軍を貶める教科書の記述として取り上げ、これを闘争対象とした運動を行なっていて、その過程で生じてきた裁判ともいえる(ウィキペディアより)

・自由主義史観研究会の運動の影響などもあり、歴史教科書には次のような変更が生じている。「文部科学省は今年3月、集団自決を強制とする記述について「軍が命令したかどうかは明らかといえない」との検定意見をつけた。その結果、「日本軍が配った手榴(しゆりゆう)弾で集団自害と殺しあいをさせ」との表記が「日本軍が配った手榴弾で集団自害と殺しあいがおこった」などと修正された。軍の関与自体はそのまま残されている(2007年10月4日、産経新聞)。」(ウィキペディア)


◎大江は『すばる』2008年1月号に、この裁判について「『人間をおとしめる』とはどういうことか――沖縄「集団自殺」裁判に証言して」というエッセイを寄せている

○大江の「名誉棄損」の根拠とされたのは、曽野綾子の『ある神話の背景――沖縄・渡嘉敷島の集団自決』の『沖縄ノート』の紹介によるらしい。大江の言い分によれば、曽野はまったくの誤読を『ある神話の背景』で行なっているようである

・大江は赤松元隊長の行為を「罪の巨塊」と書いている、と曽野は主張した

・しかし、該当部分にあたる『沖縄ノート』の記述は次のようなもの

○「人間としてそれをつぐなうには、あまりにも巨きい罪の巨塊のまえで、かれはなんとか正気で生き伸びたいとねがう」

・「あまりにも巨きい罪の巨塊」とは、渡嘉敷島の山中にころがった三百二十九の犠牲者たちの死体のこと
・「かれ」とは渡嘉敷島の守備隊長のこと

つまり、守備隊長を「罪の巨塊」だと言っているのではない、それは単純に国語の問題である、と大江は反論する

○また、原告側弁護士の徳川信一が『正論』(二〇〇六年九月号)に寄せた論文には、次のようにあるらしい

・「大江氏は、まず、どんな調査のもとに、何を根拠にして、赤松元大尉を「罪の巨塊」などと断定し、アイヒマンのごとく絞首刑にされるべきだと断罪したのかを弁明しなければならない。」

・大江は「アイヒマン」について、たしかに『沖縄ノート』で言及しているが、大江の意図した文脈とは、まったく異なったように徳川が誤読している

・実はアイヒマンは、公衆の面前で絞首刑にされることを望み、それを提案している

・二次大戦でのユダヤ人虐殺について「或る罪責感がドイツの青年層の一部を捉えている」とアイヒマンは聞き、「ドイツ青年の心から罪責の重荷を取除くのに応分の義務を果たした」いと考え、人々の前での絞首刑を主張した、とのことである(アレント『イェルサレムのアイヒマン』にもとづく)

・ドイツの青年には、ユダヤ人虐殺についての罪責感があるようだ。しかし、日本の青年には、沖縄での犠牲者について、罪責感がないようで、これは問題なのではないか。二国間の状況を対比させたい、というのが大江の意見であった

○また、曽野の『ある神話の風景』には次のような記述もあるとのこと

「むしろ、私が不思議に思うのは、そうして国に殉じるという美しい心で死んだ人たちのことを、何故、戦後になって、あれは命令で強制されたものだ、というような言い方をして、その死の清らかさを自らおとしめてしまうのか。私にはそのことが理解できません。」

・「国に殉じるという美しい心で死んだ人たち」とあるが、沖縄で「集団自殺」を強制されたひとたちをさす言葉としてとしておかしい

・また、「その死の清らかさを自らおとしめてしまう」ともあるが、この「自ら」というのは誰のことか。死んだ人が、「自ら」、自分の死の清らかさをおとしめるということなどできるものか。「清らか」というのもわけがわからないし、「自虐史観」はよくないよという判断に、いつのまにかすりかわってしまっている

◎しかし、大江の文章も晦渋で分かりにくい。45年から70年、70年から08年と、時代の価値観も大きく変わってきている。大江の「人間」概念や、文体にも、再考されるべき部分もあるかもしれない

・しかし、今、大江のような大きな仕事を、なんらかの文学者が行えるものなのだろうか。裁判の闘争の論点となるような、どんな文学が、どんな表現が、ありうるものだろうか?

・軍隊と民衆の関係を、三角構造でとらえること。それはこの文脈での大江の『沖縄ノート』にも見いだせる

○『すばる』は大江側を応援して沖縄特集を組んでもいる。『すばる』VS『正論』で論争が起こったりはしないのだろうか? どっちが勝ちそうでしょう? 皆さんはどっち派でしょうかね?

※参考資料
大江健三郎・岩波書店沖縄戦裁判 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

ケータイ批評の侃々諤々 

<ぴぴよぴよぴよぴぴよぴ~♪
歌はいいぴよ
またカラオケに行きたいぴよ

<あの、ぴよ彦さん
ご機嫌なところを水を差すようですが、そのカラオケ、会計が48000円だったらしいのですけれども

<48000円って何ぴよか? 

<カラオケ5人で会計が48000円だったのです
ぴよ彦さん、立て替えてもらっているんですよ

<そうだったぴよか? ぼくの月収より高いぴよ

<ぴよ彦さんの月給の話をしているんじゃないのです
他人様に立て替えていただいて、恥ずかしくないんですか?
ぴよ彦さん、そういうの多いでしょう
しかも、周りに迷惑をかけていても、気づいていないでしょう

<反省するぴよ
ごめんなさいぴよ

<今年度のぴよ彦さんは、いったい何をしていたんですか

<公園を徘徊してミミズをほじくっていたぴよ

<もっと生産的なことを行なってください

<でも、皆のおかげで、すごいものが生まれそうな予感がするぴよ
う、生まれるぴよっ!!

<生まれる? ぴよ彦さんって、メスなんですか?

<メスもオスも関係ないぴよ
生みたいものを生むだけぴよ

<それはどんなものなのです?

<ぼくが呪文を唱えると、干からびたミミズが蘇るぴよ
ぴぴよぴよぴよぴぴよぴ~♪

<今年度はグダグダな一年であった
しかし、いろいろな方に勉強をさせていただき、大変感謝している
R.E.S.第三部、第二章「ネットアイドルぴよ彦の放浪」は2008年2月24日にて、終了することにする

<なんで2月24日なんですか?

<2×2=4、ににんがし、ですから
ににんがし、を打ち破らなければならない

<なんですか、それ?

<2月24日は松平の誕生日です
30歳になります

<そんなことより、来年はどうするんです?
もう、普通の就職は無理ですよ?
グッドウィルに登録したらいかがですか?

<今考えているのは、「ケータイ批評」は世界を革命するか? というテーマです

<はい?

<近代文学と文芸評論は、NAMで終わった

<NAMなんて、もともと誰も相手にしていなかったでしょう

<そうなのかな

<大学人で、まともに取る人なんていなかったですよ
怪しい宗教だったわけでしょう

<この前、伊藤氏貴が「『文学の終焉(しゅうえん)』の終焉」(『群像』、2008年1月号)というものを書いていたけれどもね

<優秀な論文だったじゃないですか

<石原千秋はその論文について「【週末読む、観る】文芸時評1月号 終焉か新ジャンルか (2/2ページ) - MSN産経ニュース」でこうまとめている

「伊藤は「文学の終焉」の論点を、「商品価値の逓減(ていげん)」「社会的価値の下落」「政治的影響力の低下」の3点だとしている。」
「これは「純文学」に関する議論であ」る

「これら「近代文学」が持っていた属性をすべて反転させると「ケータイ小説」が生まれるのではないだろうか。「ケータイ小説」を「近代文学の終焉」の一つの里程標と見るか、それとも新しいジャンルの誕生と見るかによって、日本の「現代文学」はずいぶん違ってくるだろう。」

<それは、その通りなんじゃないですか?

<いや、伊藤も石原も、「思想地図」派も、それでも、「文学」の問題のコアを貫けていないのじゃないかとぼくは思っている

<どういうことです?

<近代文学と文芸評論はNAMとともに終わった
これはもう一度、検討しなければならない
ライトノベルとケータイ小説は、東浩紀とともに終わった
これは、今後その展開を見守らねばならない
そして今、「ケータイ批評」が隆盛してきた

<なんですか、それ?

<SNS論壇とブログ論壇のこと
それらをケータイで読む人が多いでしょう
今後、世界は、「ケータイ批評」が支配するかもしれない

<ケータイの画面、目がちかちかして読みにくいですよ

<だから、読みやすく書く必要はあるよね
でも、「ウェブ」と「紙」で論争になったら、「ウェブ」が勝つに決まっている
更新速度が違いすぎるから
重要なのは、次のことでしょう

・「ケータイ批評」は文芸誌の不良債権を精算する

・「ケータイ批評」は大学界を根本的に変える

<よく分からんです

<まあ、おいおいと分かりますよー
致命的な変化は、徐々に起こっていくはずです

<2月24日、R.E.S.第三部、第二章「ネットアイドルぴよ彦の放浪」了
R.E.S.第三部、第三章、「ケータイ批評の侃々諤々」開演!!
「文芸空間」はケータイでも読める!!

「大討論 高橋源一郎×田中和生×東浩紀」2――大塚英志「不良債権としての文学」 

新潮 2008年 02月号 [雑誌]新潮 2008年 02月号 [雑誌]
(2008/01/07)
不明

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◎「新潮 2008年 02月号」「[大討論]高橋源一郎×田中和生×東浩紀「小説と評論の環境問題」」にて

東は「キャラクターズ」という小説に、『ゲーム的リアリズムの誕生』という批評を盛り込んで発表した
小説と批評、それらは分類の異なる別々のものなのではないか
なぜ、無理やりくっつけて一つの作品にしたのか
そのような質問に対し、それは単純に「経済問題」なのだと東は韜晦する

東「文芸誌のシステムにおいては、創作のほうが評論よりも優遇されている。「キャラクターズ」は二〇〇枚を一括で載せてもらえるけれど、もしこれが評論ならそれこそ分載で注目も浴びない。というわけで、『ゲーム的リアリズムの誕生』の主張を文芸誌の読者のみなさんに知ってもらうためには、小説版を書くほうがいいと考えた。」

高橋「小説のほうが評論より優遇されているというか、売れていることになっているのは確かですね。」

小説の方がたくさん書かせてもらえるから小説で発表しました、と
なんというフットワークの軽さだろう!
普通の評論家にはなかなかできるものではない
評論家は、口先だけでしょうがない奴らだ、お前らも小説を書いてみろ
という高橋の不平を、軽くいなしてしまった
これなら、高橋も文句を言えまい
評論家だが、小説風のものにチャレンジしてみた東である
一方、評論風のものにも手を出したがる高橋である

小説を書くのは自分の役割ではない、と文芸評論家の田中は述べた
そこで、場の空気が一定の方向に向かう

「新潮 2008年 02月号」の対談の最後は、高橋と東のみの会話となっている
高橋と東が結託しているようで、田中の声が聞こえなくなってしまった
しかし、この対談のそもそもの目的は何だったのか
高橋の発言、「小説のことは小説家にしかわからない」が最初の問題提起であった
これに対して、この号ではどのような評価となっているのか?

評論家も小説を書いた方がいい
小説を書くことで、小説がわかるようになる、という結論に陥りそうにはならないのか
しかし、この対談では、まだ話が終わっていない
また、次の号で、新たな展開があるのだろうけれども

高橋と東は何かを理解し合っているようにもみえる

高橋と東は、それぞれ、「文芸評論家」への警句を抱えているようである
文芸誌における「純文学」は、近年とみに売れなくなってきた
ただ、小説の場合、単行本化されたとき、ベストセラーになるチャンスがまったくのゼロではない
だが、「純文学」を批評の対象とした「文芸評論」は、小説以上に売れえない

東はラノベとケータイ小説への賛美をもって、文芸誌へと攻撃をしかける構えをみせている
これは、「純文学」のみに依拠した「文芸誌」がすでに破綻していることを確信しているからであろう
そして、高橋が文芸評論家不用説を唱えていたのも、同じ憂慮があったからだと考えることができる

この対談において、高橋は、東を必ずしも否定していない
ライトノベルについても、ちょっと自分にはよく分からない、といった程度の反応であった

◎そして、東や高橋の議論の前提として、大塚英志が書いた「不良債権としての『文学』」を見ておいても良いのだろう

笙野頼子との論争の過程で、大塚が「群像」2002年6月号発表した「不良債権としての『文学』」はWebでも読める

以下、要点をまとめておく

○大塚×笙野論争の過程での、大塚の意見

大塚「さて、笙野さんの「仮想敵」への主張は文学的素養のないぼくが必死に読みとった結果としては次の二点に集約されます。
 ・素人が文学にあらゆる意味で口を出すな。
 ・文学の基準として「売り上げ」を持ち出すな。」

○「文学」は、多くの人に読まれうるものとなっていない。一部の玄人のためだけに存在させられている

大塚「書物という商品の形式を資本主義下で採用しながら、しかし商品的淘汰によって素人と玄人の不和を、言わば市場経済に委ねることから「文学」は免責されています。その替わりに「賞」や「批評」や編集者や作家のひそひそ話といったものがその基準を作っています。「文壇」というやつです。つまり玄人自身が誰かが玄人であることを決める、という制度で落語とか能とかの昇進制度に近い形で「文学」は運営されています。」

○文芸誌は存続させることは出版社にとって無意味である

大塚「試みに『群像』を例に、この文芸誌がいかに経済的に成り立っていないかを試算してみましょう。」

「さて『群像』の本体価格(つまり消費税という国庫に納めるべきお金を差し引いた額)は通常で八七六円です。」

「もし『群像』が毎月一万部を売りかつそれが一年続けば七三五八万四〇〇〇円の売り上げになります。」

「まず、原稿料。『群像』から広告等を除いた頁を三〇〇頁とすると、四〇〇字詰めの原稿用紙で九七二枚の文章が掲載され、四〇〇字一枚当たりの原稿料の平均を五〇〇〇円とすると一号当たり四八六万円、年間で五八三二万円となります。」

「次に印刷代と紙代。これは算出方法によっても異なりますが、仮に一号につき三〇〇万円、年間で三六〇〇万円とします。」

「しかし一番大きいのは編集者達の人件費で、編集長以下四名いる『群像』編集部員の税込み年収は四人分合計で五〇〇〇万円前後と思われます。」

「以上までで収支を試算すると、一年間で『群像』は七〇七四万余円程の赤字です。」

「それでも連載作品がベストセラーになれば収支は合いますが、どうした理由からか「文学」では例外的に多くの読者を持つ大江健三郎氏や村上春樹氏は『群像』には殆ど登場しません。」

「ところで「文学」が昔から売れなかったわけではありません。戦前から戦後のある時期まで文学全集が馬鹿みたいに売れた時代がありました。その時の高収益体質は、細かく検証しませんが「文学」の既得権を形成した現在の高コスト体質に繋がっています。」

○出版界で売れているのは漫画だけであろう

大塚「まんがに替わる高収益商品を各社は血眼になって探していますが、例えばそれこそ夏目漱石を始めとする「文学」が数多く収録されている老舗の某文庫の年間売り上げが数年前の半分に落ちているように、「文庫」という「文芸出版」を支えてきた商品もとうに行き詰まっています。」

○コミケでは素人が漫画を売り、素人が漫画を買う場を素人たちがつくることで、新陳代謝を活性化させている。
これと同じことを文学でも行なうべきである

大塚「既存の流通システム、つまり版元―取次―書店」という「制度の外側に「市場」は作れないのでしょうか。」

「コミケ的なイベントに「文学」学ぶことがあるとすれば、それが既存の版元以外の場所から新人が世に出ることを可能にしたという点、是非はともかく「同人誌で食っていける」という状況を生んだ点です。」

◎こうして大塚は「文学フリマ」を立ち上げることになったわけであった
文芸誌から離れて文学を生産しようというチャレンジとしての「文学フリマ」は、その後うまくいっているのだろうか?

どうやったら、文芸誌を再興できるのか
東の言うとおり、ラノベやケータイ小説の存在も視野に入れつつ、文学史を書き換えることも必要なのかもしれない
こうしてみると、高橋と東は、窮地に陥っている文芸誌を盛り上げるべく問題提起をし、騒ぎまわっているものと評価することもできる

田中ロミオ『人類は衰退しました』『人類は衰退しました2』 

人類は衰退しました (ガガガ文庫 た 1-1)人類は衰退しました (ガガガ文庫 た 1-1)
(2007/05/24)
田中 ロミオ

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人類は衰退しました 2 (ガガガ文庫 た 1-2)人類は衰退しました 2 (ガガガ文庫 た 1-2)
(2007/12/19)
田中 ロミオ

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<人類は衰退しました

<私はご飯を食べません

<私は妖精さんです

<私は死にません

■■■■■

・高名なエロゲライターの書いたライトノベル

・メルヘン的な少女趣味のある人向けの童話風の小説。大きく見れば、若草物語、赤毛のアンなどといったジュブナイル小説といくらか近いのだが、まあ、全然違うものではある。それらがリアリズムを重視した「スイーツ」系文学だと仮に呼べるとする。この小説は「ジャンクスイーツ」とでもいった感じ。文章は丁寧だが、描写に過度に筆を割かない。寓喩性、暗喩性、象徴性が高く、改行・会話が多い

・ちょっとSF、ちょっとファンタジー

・人類の滅亡しかかった世界で送る、ほのぼのとしたたそがれの生活。設定はそれなりに手が込んでいる

・エスプリの効いた会話

・頭にお花の咲いた脱力系の不思議ちゃん女の子が、のらくらする童話風のストーリー。やわらかで温かみのある話なのだが、しかし、裏がある。性的なくすぐりやブラックなものが少々ほのめかされている。2巻まででは、それが全面化することがない。もっと出てこないと、他者がいない感じでよくないかもしれない

・現代的なジャーゴンを多用し、また、ポストモダン系の言語観、思想、時間感覚等がちらちらと開陳されている

・明瞭な起承転結のあるプロットが組まれているわけではなく、その点で肩透かしを食わされるところもある。世界観の仕掛けが先行していて、幻想的なムードのなかでぐだぐだと話を進めていくことを可能にしている

・『不思議の国のアリス』みたいな物語は、コバルト文庫でしばしば見かけた。そちら系である。田中ロミオの生い立ちは、「私は男です。しかし、コバルト文庫を読みますが何か?」というパターンだったのじゃないか? コバルト文庫的なものを少年文化に輸入してできたのがライトノベルだ、ということも指摘されるが、そういう面も確かにあるのだろう。しかし、洗練されている

・コバルト文庫は、小学校の図書館に置いてあった気がする。ラノベは置かれうるのか?

・SF性、ファンタジー性を利用した「ユートピア」論、「自然状態」論がいくらか含まれている。「人間」とは何なのか?

大討論 高橋源一郎×田中和生×東浩紀 

新潮 2008年 02月号 [雑誌]新潮 2008年 02月号 [雑誌]
(2008/01/07)
不明

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◎「新潮 2008年 02月号」「[大討論]高橋源一郎+田中和生+東浩紀-「小説と評論の環境問題」」を読む

○内容

・熾烈な論争を繰り広げていた高橋と田中を対面させてしまうという企画
しかもそこに、「キャラクターズ」で物議をかもした東浩紀も呼んでしまう
これは、期待が盛り上がる

高橋田中論争の発端は、「小説のことは小説家にしかわからない」という高橋の発言にあった
しかし、東が乱入することで、高橋源一郎(小説家) VS 田中和生(評論家)の構図が、一挙に崩れる
東が、評論家でありながらも私小説家的な身振りでもってライトノベル論に基づきつつ小説を書き、それを文芸誌に載せたからである

・東は高橋に応対する

「僕は、裏返して言えば、評論もまた評論家にしかわからないと思っている」

この一言が言えるのは、評論家として自立できている東の強み
自分の評論によほどの自信なり、社会的評価なりがないと言えない

○「キャラクター」概念は疑わしい

・東「僕にとって、評論を書くことは、あるときから、キャラクター・東浩紀をどう演出するかという感覚にとても近くなってしまった」

「キャラクター小説と私小説のちがいを最もシンプルに言うと、キャラクター小説は、テクストの向こう側に、作者だけではなくキャラクターのデータベースがある。だから物語と関係なく特定の人格を呼び出せる。」

キャラクターとかデータベースとか、目新しい言葉を使って煙に巻こうとしているが、このあたりは、詐術だと疑われる部分
在原業平や小野小町だって、キャラクターだ、と
日本民話における「狐」とか「一寸法師」とか「桃太郎」だってキャラクターだろう

○「評論」とは何か

・東「もともと僕は、評論の起源に関心がある。その作業をさらに先に進めるために、評論家が行なっていることを私小説のかたちに偽装してみた。」

このアイディアは、デリダにおける文学的な側面を実践しているものだろう

・田中「僕としては、東さんがおっしゃるように評論が自立して成立するかどうかというのは問題ではなく、評論という道具を使うことでいかに文学に触れるのかという考え方が重要です。」

田中にとって、「評論」とは「道具」である
しかし、東にとって、「評論」はそれ自体が「文学」なのであろう
私は、この論点では東を支持する

○田中による東「キャラクターズ」批判

・田中「僕は文学作品を読む際に、そうはなれないと知りつつ、文脈を共有していない無垢な読者、先入観のない読者という目を持ちたいと思って読みます。そうすると、東さんのこの小説には文学についての現代的な思考がありますが、しかし小説としての本質を求めていって、どこかでそれだけを取り逃したのではないかという感じを受けました。」

「僕が「キャラクターズ」を読んでいちばん知りたかったのは、東さんが言うキャラクターと、東さんが考えているキャラクター文学の関係性が、「キャラクターズ」に十全に反映されているのかという点です。」

・田中は、「オーソドックスな自然主義の枠組み」の内部に、東の「キャラクターズ」はあるのではないかと指摘している

「大正や昭和初期の私小説作家は、間違いなく文壇ゴシップを自分でも耳にしながら、書けない作家を自分で演じつつその上で小説を書いていた」

・東浩紀が、自身を「キャラクター」として自己演出することは、単に、私小説の方法ではないのか
そして、「キャラクターズ」は、文壇事情や、東について知らない読者には理解できない小説ではないか?
この場合、オタクにしかわからない、「失敗したタイプの私小説」とみなされうることになる
この点では、田中の言うことに理がありそうである

○ライトノベル

田中「ライトノベルと対比した時点で、どんな作家でも入ってしまう自然主義的リアリズムという言い方の、あまりに大雑把なところが気になるんです。」

東「そんなことを言ったら、「ライトノベル」という言い方も大雑把ですよ。」

東は、デリダというハイソな文学と、ライトノベル・携帯小説といったジャンクな文学
二つの周縁的な「文芸」を持ち上げる
そうすることで、アカデミックな文学概念と、文芸誌における純文学を、まとめて挟撃にしている
この攻撃的な身振りそれ自体が、「文学的」なものとして、若い読者を喜ばせるものとなっている

○感想

高橋は、変人耐性があり、東を面白がっているよう
田中は、東の思考の飛躍を持て余し気味

◎チェック

赤木智弘『若者を見殺しにする国』

○田中和生VS笙野頼子論争

So-net blog:郷士主義!:「三田文学」2008年冬季号

・『群像』二〇〇七年十一月号 笙野頼子「さあ三部作完結だ! 二次元評論またいで進めっ! @SFWJ2007」

・『文藝』二〇〇七年冬号 笙野頼子 「近況という名の、真っ黒なファイル」
蓮実重彦「書けない理由」

・「群像」二〇〇六年新年号 笙野頼子『だいにっほん、おんたこめいわく史』

・「群像」二〇〇六年二月号

・笙野頼子『絶叫師タコグルメと百人の「普通」の男』

So-net blog:郷士主義!:いまさらですが……

・「群像」二〇〇七年十月号 田中和生「フェミニズムを越えて」

・「群像」二〇〇七年十一月号 笙野頼子「二次元評論またいで進めっ!」

・「三田文学」2008年冬季号

『思想地図』創刊記念シンポジウムに関するレポート 

2008年1月22日に東工大で開催された「思想地図」の創刊記念シンポジウムを聴講してきた
テーマは「国家」であった
各パネラーの議論をレポートしたい
私の記憶にもしも誤りがありましたらご指摘ください
お詫びして訂正させていただきます

・北田暁大

浅田彰風の立場
フーコー、ギデンズ、アンダーソン、ホブズボウム、バトラー等に言及
性差・ナショナリズムへの言語論的なアプローチについて語り、それらの脱構築の可能性についてさらりと解説
社会構成主義の立場について説明するが、構成主義と構造主義の違いの定義が分からないと、聴衆が乱入する局面も
東氏はハーバマス主義者的なんじゃないかと指摘
中島に対して、保守における伝統も、コミュニタリアンにおけるコミュニズムも、説明不能の概念ではないか、動機づけとしてのナショナリズムは機能するのか、実感として理解できない、といった趣旨のことを反論
90年代半ば以降、新しい歴史教科書を作る会、嫌韓等のプチナショナリズムは特に、サブカルのものであった
それらのサブカル的なナショナリズムと、社会構成主義の立場は、表裏のものとして出てきたが、双方はともに国家を「幻想」としてとらえることに特徴がある、とシンポシウムのまとめをなす

・萱野稔人

暴力機関を独占するものとしての国家について解説
警察機関としての国家、という話は、重要な論点足りえたのだろうか?

・中島岳志
学生に、モノまねがされそうなちょっと癖のある語り口
西田幾多郎、ガンジー、陸羯南、竹内好、福田恆存、アレント、丸山眞男、フーコー、本居宣長、橋川文三、三島由紀夫等に言及
ルソーの「一般意志」の話題を持ち出す東に対し、橋川文三、三島における「天皇」の問題を対抗させる
生の実存を見出すための、「方法としてのナショナリズム」を訴える

・白井稔

コミュニタリアンの立場を代表
アルチュセールのルソー論、ゲルナー等に言及
マルクス主義における「国家論」について、最後の最後に少しだけしゃべる
しかしむしろ、このシンポジウムは、そこから始めてもよかったのじゃないか?
吉本隆明『共同幻想論』以来の、日本における国家論にどんなものがあったのか
このシンポジウムは、新左翼系、批評空間派系の国家論が、それと名指されて言及されていなかった
意図的に皆がその話題への言及を避けること
その点が、むしろ、「極めて政治的」だったのじゃないか?
70年代生まれの知識人の集まる場が、どんな傾向を帯びるのか、その特徴が露出しているかのようで興味深い
また、大澤真幸や小熊英二や、あるいはPC派の論客がもしもいたら、どんな展開になっていたのかも、気になるところ

・東浩紀

ルソーの『社会契約論』を中心に据えて論を展開
ホッブズにおける「暴力」、ロックにおける「所有権」、マルクスにおける「商品」に対し、ルソーにおける「一般意志」は、実際に存在しうるものなのか?
「一般意志」という疑わしい概念が中心に据えられたルソーの『社会契約論』のようなものに基づき運営されている現状の議会制民主主義の制度は、うさんくさい
そんなもの、なくしてしまえないものなのかと問題提起
ウェブにおけるコミュニティは、一つの社会参加である、と考えている節をみせる
社会における個々のコミュニティが、総体として、重層的に決定していくようなアーキテクチャが作れないか、ということを考えているよう
また、PC派への批判も念頭にあるよう

以下、「東浩紀の渦状言論: シンポに向けてのメモ2」を、少々細かく読んでみたい

「ま、実際、ぼくは「ノンポリ」なんだろう。しかし、政治ってなんだろう? 靖国とか格差とか言ってれば政治なのか? 選挙とか内閣とか? 本当に?」

→靖国、格差、議会制民主主義などの、通常あがる国家論の論点をずらしている

「ぼくは「政治」という言葉は、個々人の立場表明を意味するのではなく、社会共通の資源のよりよい管理方法を目指す活動を広く意味するべきだと考える。だとすれば、それは必然的に、物語なき進歩主義、というか物語なき改革主義の立場になるはずだ。それなのに、物語の衝突ばかりが「政治」だと思われるのはなぜなのか。」

→ここで言及されている「物語」とは何なのか?
「政治と文学」という問題機制へ、どのように対応するのだろうか

「そもそも、いまの時代、友と敵ってなんだろうか。物語ってなんだろうか。冷戦崩壊まで、政治は確かにイデオロギー=物語の衝突の場だった。そして、それには現実的意味があった。その時代は、確かにイデオロギー=物語はひとびとの資源配分の方法を規定していたからだ。そして、イデオロギー=物語の数も極端に少なかった(二つか三つだった)からだ。」

→マルキシズムとアメリカニズムについて、言及している
「イデオロギー=物語の数も極端に少なかった」というのは、本当に正しいのだろうか?
認識の側の問題という気もいくらかする

「まあ、ともかく、ぼくの思うに、ぼくたちはまず、「政治的であること」とはなんなのか、そこから根本的に考え直さねばならないのだ。ぼくは『思想地図』は「政治的」な雑誌にしたいと思うが、それは、この世界のよりよい資源配分について語りたいからであり、物語=イデオロギー闘争をやりたいからでも、また弱者代弁競争をやりたいからでもない。」

→ここの主張は納得できる

「しかし、政治の本来の目的が共通資源のよりよい管理にあるのであれば、その過程が必ずしもそういう人間的で高級なコミュニケーションに結びつく必要はない。ポリシーなき政治、討議なき政治だってありうるはずだ。アーレントの言葉で言えば、政治を、「活動」の場ではなく、「労働」(=消費)の場に落とすこともできるはずだ。つまり、無意識で工学的な意志決定の場所に(なお、「よりよい」という価値設定にこそが問題で、その部分にこそ実際は功利主義的イデオロギーが入りこんでいるだからだめだ、的な反論が容易に思いつくが、それについてはここで再反論するのはやめておく)。」

→「政治を、「活動」の場ではなく、「労働」(=消費)の場に落とす」「つまり、無意識で工学的な意志決定の場所に」
というところが、東氏の持論なのでしょうね
環境管理型の権力というやつですね
具体的にはどうするのか?
マクドナルドの椅子を固くする、ホームレスが横になれないよう突起をつける、駅のホームで、飛び降りができないように壁をつける、ウェブでの自動的な誘導システムを作る、等が具体例としてあるのだろうけれども
それらの権力操作は、経済的効率を重視する方向で、功利主義的なイデオロギーに基づいてなされているわけであろうし

「ここで「資源」というのは、むろん経済的なことだけではない。たとえば、ぼくは、Googleの出現はとても「政治的」なことだと考える。なぜなら、それはぼくたちの世界の知的資源の配分を変えたからだ。あるいは、9.11以降のテロの問題も「政治的」だと考える。しかしその理由は、そこで資本主義とイスラムが戦っているとか、アメリカの地政学的野望がどうとか、そういうことではない。世界のセキュリティ化は、リスクという資源の配分を大きく変えたからだ。格差問題も環境問題も同じだ。要はぼくたちは、「政治」としては資源配分のより巧妙な方法だけを考えていればいいのだ。」

→「Google」と「9.11以降のテロ」が、現代における「資源」分配の一つ焦点だと設定し、ここに「政治」の問題を見出している

「たとえば、ぼくは富の再配分はがんがんすべきだと思う。しかし、そのメディア(媒介)として、国家単位の議会制民主主義と官僚制は原理的にそぐわないと考える。ぼくたちは、市場=動物=自然状態=無意識的創発=格差拡大、vs、民主的討議=人間=イデオロギー=意識的管理=平等志向みたいな対立図式にいつのまにか囚われているが、ほんとうにそれしかないのか?」

→「国家単位の議会制民主主義と官僚制」はいらないのじゃないか、という案がほのめかされている
「市場=動物=自然状態=無意識的創発=格差拡大、vs、民主的討議=人間=イデオロギー=意識的管理=平等志向みたいな対立図式」というのは、ここを読むだけの分ではなんのことか、いまいちよく分からない

自費出版大手新風舎倒産 

自費出版大手新風舎倒産

・自費出版大手、新風舎が破産した。そもそも、新風舎は講談社よりも年間書籍刊行数が多かったのだから、明らかにおかしかった。現代社会の象徴的なできごとだという気がする

・コミケであるとか、漫画における同人出版は比較的うまくいっているようにみえる。それに対し、新風舎の自費出版・共同出版はどのような欠陥を抱えていたのか。漫画という媒体に対し、活字での表現にはどのような弱みがあるのか

・ながらく、本を出せるのは、一握りの優秀な人間だけであった。「本を読む」という行為において、作者と読者が一対一で向き合うのが、読書という行為である。たとえば、ある作者の書いた本を、3000人の読者が読むとする。書くことと、読むこと。この非対称的な関係は、どのように評価できるのか

・ウェブの到来した現代社会において、はじめて、「だれでも物書きになれる時代」「だれでも表現者になれる時代」がやってきた。わあい

・出版界における一つの歴史的問題がここにはある。そして、同じ問題は、大学界にも内在している

・映画、テレビ、書籍、学校における教師等。「見られる」ことの集中される焦点がある。「見る―見られる」という関係性は、人間社会における基本的な行為であり、社会が存続する限り、なくなることはないだろう。「視点」の集中される地点に、「価値」や「商売」が生まれる。そして、商売となりうるほど、視点の集まるようなスポットは、以前より減少した、ということができるだろうか。純文学なら、村上春樹であるとか。学者の業界でも、売れるような書籍を出せる人は数人だけであろう。一部の有名人と、そうでない多数の人がいっそう分離していく

・一方で、ウェブにおける表現行為はかつてなかったほど活発化している。小規模のコミュニティで、「見る―見られる」という関係を作り出すこと。そのようなツールとして、ウェブは機能している。「見る―見られる」という関係を作り出す機会を、驚異的に広げたのがウェブである

・たとえば「スターリン批判」も、「見る―見られる」という関係に対する批判という面はあったのだろう。ウェブとは、68年革命的なツールである

・ブログ、ケータイ小説、匿名掲示板は、自費出版よりも、メディアとしてましなように感じられる。素人が「本を出したい」という欲望には、倒錯したフェティシズムが内在しているように感じられるからだ。一方、ウェブでの表現者は、足で稼いで、「言葉」への注目を集めようとしているようにみえる。おかしな文章、不快な表現は、単に無視される。「誰もが表現者になってもしょうがない」という面もあるかもしれないが、新風舎の倒産は、既存メディアに対し、ウェブが優位していく現象の、一つのメルクマール足りうるのだろうか

○「2ちゃんねる」の「【経済】新風舎、破産」より、いくつかレスを抽出しておく

14 名前:名無しさん@八周年[sage] 投稿日:2008/01/19(土) 20:28:18 ID:3g4AFoHJ0
ちょっと待って!俺の小説どうなるの!「あなたの才能を待ってる人たちがいる。
彼らのためにも是非出版しましょう」って言ってくれたじゃないですか!

31 名前:名無しさん@八周年[] 投稿日:2008/01/19(土) 20:45:08 ID:Pn8p4mv00
会社の名前だけは知っていたが、
ボッタクリでもしない限り儲からんシステムだとは思う。

ま、ブログやケータイ小説に負けたんだな。

34 名前:名無しさん@八周年[] 投稿日:2008/01/19(土) 20:47:37 ID:u77MTTG5O
>>28
書店に並ぶことやテレビに映ることの価値が暴落してるんだよ。
既存メディアの冬の時代さ。

39 名前:名無しさん@八周年[] 投稿日:2008/01/19(土) 20:51:18 ID:u77MTTG5O
みんなブログ書いたり2chで長文持論展開したり、自作作品を
youtubeやニコニコ動画にアップしたりで満足してる。

出版に対するニーズなんて無い!!

48 名前:名無しさん@八周年[] 投稿日:2008/01/19(土) 21:01:42 ID:u77MTTG5O
>>42
本や新聞やテレビ等既存メディアのニーズは全く無いわけじゃないと
思うけど、減ることは確実だと思う。問題は、リストラをして
身の丈に合った経営を模索すべき時期が来ているのにその気配が
既存メディアには見られないこと。今までの社員数、給与を維持したままの
経営はできない。そんなときにリストラをせず住専の如く国に泣き付いたら
さらに国民(消費者)の気持ちは離れて行く。

ま、既に手遅れだと思うけどね。

53 名前:名無しさん@八周年[] 投稿日:2008/01/19(土) 21:04:23 ID:EkSdXCF90
>>48 新風舎は普通の意味での出版社でなく、夢を売るサービス業。
占いや宗教に近い存在だったから、新聞やテレビの役割が小さくなってきた、
というような話とは別だと思うけど。

59 名前:名無しさん@八周年[] 投稿日:2008/01/19(土) 21:10:18 ID:u77MTTG5O
>>53
確かに、ちょっとズレていたとは思う。

でも、「夢」の価値が昔と比べたら安いんだろうと思う。
本を出すことの喜びが無い。発表することの敷居が非常に低くなっているからね。

既存メディアの権威低下は、直接は関係無いけど無視できない
因果だと思うよ。

89 名前:名無しさん@八周年[] 投稿日:2008/01/19(土) 21:42:20 ID:zYV5wvsi0
>>83
芥川賞受賞は野球で言うと甲子園優勝ぐらいのレベル
数ある新人賞の受賞者100人のうち、
5年後に自分の本を出版してるのは2,3人、
本は出せないまでも執筆活動でお金を貰っているのは3,4人
あとは全部消える、という世界らしいからね

437 名前:名無しさん@八周年[] 投稿日:2008/01/21(月) 20:44:32 ID:uraAj0GIO
これだけの状態でも、文芸社は潰れないということは、文芸社なら訴えたら金を返す力があるってことかな?

446 名前:名無しさん@八周年[] 投稿日:2008/01/21(月) 23:51:07 ID:V79Y8CWd0
>>437

ちょっと計算してみたよ。
新風舎の流通在庫 6,000,000冊
1冊の平均単価  1,000円

●当初予定の定価4割で著者が買い取らされた場合の総額
1,000円×6,000,000冊×0.4=24億円

#20億円の負債が消えて、おまけに4億もうかります。

●今回修正された定価2割で完売した場合の売り上げ額
1,000円×6,000,000冊×0.2=12億円

#負債は約6割減の8億円にまで圧縮できます。

【付録】900人の著者の仕掛り中の損益計算

前受け金 1,000,000円×900人=9億円
製作実費 380,000円×900件=3億4,000万円
粗利益  9億円ー3億4,000万円=5億6,000万円

∴8億円ー5億6,000万円=たった2億4,000万円の赤字

倒産してもあんまり痛まないのではないのかな?

448 名前:名無しさん@八周年[] 投稿日:2008/01/22(火) 00:05:55 ID:qhjUo5uZ0
失礼した。編集者の経費を計上していなかった。

新風舎程度の書籍なら、1人の編集が月に20冊はこなせる。
900件÷20冊=延45人の編集マンパワーで1月間で処理可。

新風舎で働く編集者の報酬の相場 200.000円/月
200.000円×45人=900,000,000円
900件の仕掛り中案件は、900万円の人件費で処理できる。

実に、安いもんです。

449 名前:名無しさん@八周年[] 投稿日:2008/01/22(火) 00:10:51 ID:aEsLYZmH0
20冊こなせねえよ

451 名前:名無しさん@八周年[] 投稿日:2008/01/22(火) 00:17:17 ID:qhjUo5uZ0
>>449
業界の奴隷編集者なら、楽々こなせるって。
ただし最低限の校正しかしない流し込みだし、
その金額でカバーデザインもするわけだよ。

∵濡れ手にアワのやっつけ仕事だってことね。

455 名前:名無しさん@八周年[] 投稿日:2008/01/22(火) 00:31:45 ID:bGiORXXA0
1週に1冊、本を作っている編集者を知っているが、
尋常な仕事量じゃないよ。

457 名前:名無しさん@八周年[] 投稿日:2008/01/22(火) 00:35:01 ID:Zr5q49Fv0
#敗戦処理の短期決戦のやっつけ仕事であるのが前提
#編集者にまだ多少の良心と技量が残っている場合
#役員・出版プロデューサー等の間接部門の給与無視
#校正は誤字訂正程度、1回のみ(本来の新風舎品質)

ってことだけどさ。

464 名前:名無しさん@八周年[sage] 投稿日:2008/01/22(火) 00:49:24 ID:/cTLGmd40
>>449,451
全盛期の350人体制の時は「1人当たり、週に10冊」だったよw
一番多い人で月に100冊。例の樋口君ね。

488 名前:名無しさん@八周年[] 投稿日:2008/01/22(火) 03:12:01 ID:rYk71wuE0
自称被害者は馬鹿ばかりだし
商業出版に対する下らない幻想を打ち壊し
ネット配信や同人出版の方が数段まともだと証明してくれたわけだから
力んで責めるような話ではない

矢部史郎、山の手緑『愛と暴力の現代思想』 

愛と暴力の現代思想愛と暴力の現代思想
(2006/04)
矢部 史郎、山の手 緑 他

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二〇〇一年というと、世間的には「9・11」のアルカイダテロの年かもしれない
しかし、ぼくにとっては「9・21」テロの印象が強い
別名、「法政大学ボアソナードテロ」である
二〇〇一年九月二十一日
法政のノンセクトの活動家が、当時の法政総長、早稲田総長、その他業界の社長等の集まる記念式典に乗り込み、ペイントボールを投げつけたというものだ

ぼくも、知人のノンセクトの活動家の子に、松平君はこういう式典、どう思う? みたいな感じで、事前にその抗議行動への参加を軽く誘われていた
9月21日の「出撃」時、学生会館でシャワーを浴びていた
シャワー室の隣の部屋で、シュプレヒコールのあがるのを聞いた

この事件は、法政の学生運動にとって、一つの大きな後退をもたらしたものであっただろう
学内から主要なノンセクトの活動家が一挙に消えていった
中核派ばかりが残された

矢部史郎・山の手緑『愛と暴力の現代思想』におさめられた文章、「声明なき攻撃」(初出は『現代思想』2002年4月号)で、矢部は次のようにこの件について語る

「で、二〇〇一年九月二一日、私立大学連盟の五〇周年記念祝賀会は、黒いヘルメットをかぶった数十名の学生たちによって実力で破壊された。祝賀会の会場には、数百のペンキ玉が投げ込まれ、消化器が噴霧され、出席者は声をあげて踊った。文部科学省の役人と有名私大の総長、オリックス、日本IBM、その他大学に寄生するドナルドダックたちは、もれなくペンキを浴びせられ、最大の標的であった奥島孝康は演壇で立ち往生しながら体中にラクガキされた。
 これは、よい。
 問題はここからだ。
 こうした戦闘的な行動を組織しながら、しかし、学生たちは声明を出さなかった。言葉を駆使して大学を批判し、自らの正当性を訴えることを、彼らはしなかった。注目してほしい。彼らは的確に狙いを定めて、私大連と奥島孝康に打撃を与えた。にもかかわらず、一切の声明がないのだ。なぜか。なぜなら、彼らもまた言葉を失った大学の中で、所在なくうろつくしかない者たちだからである。」

テロ実行時のかなり細かな情報を矢部氏が手に入れていたことは不審だ
「最大の標的であった奥島孝康は演壇で立ち往生しながら体中にラクガキされた」とある矢部氏にとっては、早稲田の奥島総長(当時)が「最大の標的」であった、と認識されていることが興味深い
早稲田の活動家と法政の活動家がどうしてつながっていたのか
矢部氏は何を知っていたのか
なんでこの事件が起こったのか
いまだにぼくにはよく分からない

この事件ののち、数年の間、このボアソテロについてどう考えるか、学生組織の内部で毎週会議が行われた
ぼくは、この事件を繰り返しその場で批判した
また、裁判闘争の救援も行わなかった
そのことは、少々負い目に感じてもいる
この事件がなければ、ぼくは法政の大学院に進まなかったかもしれない

9・21テロ実行者には、「資本の運動の粉砕」ということが一つのテーマとしてあったようだ
無理だろう
それは、結局は、一時的な「祭り」にすぎないものだったのか
学生運動は、こういうテロに落ち込まざるをえないものなのか
もしもそうだとしたら、学生運動には肯定しうる要素があるものなのか

あるいは、まともな指導者がいなかったからなのか
それとも、日本特有、東京特有の現象なのか

・学生運動とは「セカイ系」みたいだな
中核派の活動家は、法政の学生会館を拠点に、世界を革命しようといつも主張していた

・監視社会、管理社会を必ずしも否定できない

そんな感想を持ったのである

しかし、ぼくは心性において、アウトローであることへの憧れがある
ぼくにとって「テロ」というものと、「文学」のあり方は、いくらか近接している
「現実」と言葉において切り結ぶ作業が「文学」であると思うからだ
漫画・アニメ・ライトノベルなどといったものへ耽溺することは、自慰的なものに感じられ、やましい気分になったりもするのである

○チェック
マリアローザ・ダラ・コスタ『家事労働に賃金を』
パオロ・ヴィルノ『マルチチュードの文法』
酒井隆史『暴力の哲学』
プロフィール

松平耕一

Author:松平耕一
○twitter登録名:matudaira
○ツイッターまとめ:http://twilog.org/matudaira
○Facebook登録名:松平耕一

☆文芸空間社企画
◎批評放送
・批評放送は松平のプロデュースする動画配信企画です。ツイキャス http://twitcasting.tv/matudaira 、youtubeなどで配信されます
批評放送@USTREAM

○松平耕一・文芸空間社・批評放送へのカンパ振り込み先は
・三菱東京UFJ銀行の吉祥寺支店普通口座1896022 マツダイラ コウイチ 宛になります

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