マガジンとサンデー、共同で漫画発行 

○「マガジンとサンデー、共同で漫画発行へ 創刊50周年」(asahi.com)という記事より引用する

・週刊少年マガジンと週刊少年サンデーが来年、同時に創刊50周年を迎えるのを記念し、両誌の出版元である講談社と小学館が、共同して少年向け漫画雑誌を発行する。

・両誌は59年の創刊で、高度成長期以降の少年漫画誌をリードしてきた。しかし、ゲームやインターネットなど子どもの娯楽が多様化し、漫画離れが進んだ。

・マガジンの部数は97年に最高425万部だったのが、現在は187万部。サンデーは、80年代に200万部台だった部数が93万5000部まで落ち込んでいる。全盛時には650万部に達していた週刊少年ジャンプも、現在は約280万部だ。

○感想

・漫画は出版業界のなかでも比較的売れ行きがまともな方なのかと思っていたが、さにあらず、そうとう大変なのですね

・文芸5誌も、ライバル同士で手を組んで、企画を打ったりとかしないのでしょうかね
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ロリペド化するポストモダン 

クビシメロマンチスト―人間失格・零崎人識 (講談社ノベルス)クビシメロマンチスト―人間失格・零崎人識 (講談社ノベルス)
(2002/05)
西尾 維新、take 他

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今、西尾維新をジャカジャカと読んでいるところである
宝島社のムック、『このライトノベルがすごい!』で、高評価をえていた作家のようだ
氏の「戯言シリーズ」はライトノベル作品の読者アンケートで2005年2位、2006年1位、2007年3位であったとのこと
同シリーズは、恋愛ありバトルありの伝奇もの
山田風太郎と田中芳樹と荒木飛呂彦に、「萌え」を多量に添加しました、という感じ

・「セカイ系」について
・語り手の「ぼく」の主体性について
・暴力描写とマゾヒズムと自傷感情について
・厭人感覚について
・弁証法的な言語感覚と固有名について

等で、考えるべきことがらがありそうである
しかし、第一に気になったことは、登場人物に少女がたくさん出てくることだ
現代日本の文化において、少年に向けた文学や漫画・アニメの多くが、ロリペドの入っていることが不審でもある

○ロリコン・ペドフィリア

・2008年02月07日、東浩紀は「児童ポルノの単純所持禁止問題」という記事をブログにアップしている

東は、児童ポルノの単純所持を法的に禁止することはできないだろうという意見を表明
さらに、ロリコン・ペドフィリアの欲望そのものは禁止できないだろうと主張している

○死体愛好

2008年02月03日のmine-oさんの記事「ラカンはこう読め!

ネクロフィリアを、ゲイとかレズビアンとかと同列のセクシャルマイノリティのなかに入れて考えるのはどうかという提案を、ジジェクを援用しつつ行っている

○日本社会のロリコン化傾向

杉田俊介氏のブログのタグ「

東浩紀の上記の記事に触発されたもの
児童ポルノをめぐる社会の動静をまとめつつ、漫画、テレビ、雑誌、インターネットにおけるロリコン的な視線を「性暴力」とする論考などを紹介し、「欲望」とは何かを考察している
大きなテーマの記事群である

○感想

東の論と、フェミニストの論
双方を汲んだ杉田の論考の今後の進み行きに注目したい

東の読者が、その筋のものしか読まないことがあるのは問題だ
フェミニストがフェミニスト向け文献しか読まないことも、もちろんまずいだろうけれども

・小谷野敦等、前近代日本の性風俗に関する考察
・「サド論争」等、日本の戦後文学による性解放の文学運動
・フェミニストによる戦後家父長制論議
・宮台真司とギャル
・海外文学
・構造主義と、それ以降の現代思想のセクシュアリティ論

これらの論点を俯瞰していく必要もありそうだ
その作業を果たしたうえで、日本の現在のオタク文化のロリペド性の功罪を知りたいものである

キリスト教には、心で姦淫することは、実際に姦淫したことと同じくらいに悪い
といった道徳がある
なんのかんのいっても、西洋思想は極限的である
一方、日本のオタク文化というのは、常にチンコがはみでているようなところがある

たとえば、日常生活、SNS、ブログ、職場、匿名掲示板
それらのそれぞれで、どのように自己表現を行うか
人格の「乖離」が起こっていたとする
人間、多かれ少なかれ、「本音」と「たてまえ」の分離というものも生じるものだろう
そのような分裂を導き、「内面」を作り出すのは、システム自体であるのかもれない
そして、「内面」を保護し、回収するものが「文学」であった
その「文学」は、Webの方向へと拡散し、島宇宙化・タコ壺化している現象もある
自分のことについて言うと、そういう分裂は面倒くさいので、全部「松平耕一」で通したいものだなと思う
まあ、ハイリスクで、失うものも大きいのかもしれない

時間と歴史を越えて、普遍的な「人間」像というものは成立しうるものなのか?
なぜ私は、道端に落ちている「石ころ」に欲情しないのか?
なんらかの「像」を眺めつつ射精せざるをえないのか?

ロリペド化同様、社会のショタコン化は、メジャーなものになりうるのか?
女性における性欲と、その解放の現状はどのようであるのか?

○チェック

森岡正博『感じない男』
小谷野敦『男であることの困難』『もてない男――恋愛論を超えて』『帰ってきたもてない男――女性嫌悪を超えて』
本田透『電波男』『萌える男』『喪男の哲学史』
滝本竜彦『超人計画』
渋谷知美『日本の童貞』
酒井順子『負け犬の遠吠え』
斎藤環+酒井順子『「性愛」格差論』
渡部伸(全国童貞連合会長)『中年童貞~少子化時代の恋愛格差~』
赤坂真理『モテたい理由』
永山薫『エロマンガ・スタディーズ』

荻上チキ×宇野常寛対談 

◎「「ゼロ年代の批評」のこれから──宇野常寛さんロングインタビュー - 荻上式BLOG」というエントリで、2008年2月7日に、チキが宇野に行なったインタビューを掲載している

「セカイ系」についてと、「ケータイ小説」と「ライトノベル」についての、宇野の指摘は興味深い
文芸評論的に重要

ここ以外の部分は、サブカルをチェックしない私にはピンと来なかった
全部を読むと長くて疲れる

◎内容・セカイ系について

・荻上 そもそも「セカイ系」という言葉を用いている文化圏というか価値観そのものが、「物語からの撤退」という前提のもとに写るリアリティだという指摘がされたということは、同時に歴史を語る視線自体も問われているわけです。例えばセカイ系などについての議論は、「かつてはこうだったけれどそうではなくなった」という喪失のロジックで語っている。

・宇野:セカイ系の話にしてしまえば、後期近代の物語は全部セカイ系という話になってしまう。つまり世の中には「広義のセカイ系」と「狭義のセカイ系」があって、広義の方に関しては、ポストモダン状況を前提にしたすべての文学がそうだということになる。それはほぼ意味がない言葉だし、それならセカイ系という言葉を使うべきではない。

・宇野:僕が批判的に検証している狭義のセカイ系は97、8年ごろからのトレンドでそれは物語が終わったという喪失感を前提としたオタク的レイプファンタジーで語られる作品群ですよね。

◎内容、ケータイ小説とライトノベル

○ケータイ小説はプロットが肥大、ライトノベルはキャラクターが肥大

・宇野:ケータイ小説については僕もちょっとチキさんと話したかったんですけど、今回の『PLANETS vol.4』にも少しだけ書いているんですが、例えばライトノベルというのも文体はない。変わりにキャラクターが肥大しているわけです。ケータイ小説の場合は、肥大している要素はプロットなんです。

・宇野:逆に言えば、プロットしかない。ちょっと遠回りな話になりますが、オタクの人がなぜ空気が読めないかというと、東さんとか伊藤剛さんの話って究極的にはキャラクター理論なんですよ。キャラクターというのは設定がすべてで、「○○した」ではなく、「○○である」がすべて。トラウマを負っていて、何が好きで、どういう喋り方をしてと。そしてキャラクターというのはどんな物語に登場しても丹下左膳は丹下左膳、ハルヒはハルヒとして揺るがないんです。ところが実際の人間のコミュニケーションって、例えばキレンジャーはデブで陽気な人間がなりやすいというイメージが世間一般にありますが、デブで陽気な5人だけ、例えば伊集院光、内山君、ホンジャマカ石塚、松村邦弘くんとかの中に新しくデブで陽気なキャラを入れたら、誰が黄色になるかはわからないわけです。あるグループにいけば、クールで知的な青レンジャーかもしれない、あるグループにいけばリーダー気質の赤レンジャーになるかもしれない。これが実際のコミュニケーションなんです。僕は引越しが多かったので、実感していることですが。

・荻上:進学したり、会社員になったりしても、実感することですね。

・宇野:でもこれって超常識で、いまさらいうようなことでもないですよね。でもオタクをオタクをたらしめている部分ってここだと僕は考えている。つまりオタクは、キャラクターが物語から独立して存在するということを、この3次元の世界でも信じている人たちなんです。だから彼らが浮くのは、自分の中で出来ているキャラクターを、あらゆる場面で通用させようとするから浮いてしまう。

・宇野:ケータイ小説って、逆に言えばキャラクターが存在し得ない空間なんです。

・宇野:双子にして正反対という関係。その両者は、普遍的なものの置き方は異なっている。ケータイ小説は人間の外側にあり、ライトノベルは人間のキャラクターにあると。で、今の時代にケータイ小説が強くなるのはしごく当然のことで、島宇宙化時代には、キャラクターというのは棲み分け易いけれど通りづらい。

・荻上:『DeepLove』にももちろん萌芽があるし、モバゲーでの連載小説を見てると、『恋空』以降の流れと言うのも意識されつつありますね。作品によっては微妙にキャラクター文化の力がちりばめられてたりもしていて、面白い流れだと思う。さっきのオタク分析ですが、多くのギャルゲーでは純愛や崇高な自然というものが描かれやすい。そして同時に、父が不在ですね。父が出てくる作品もありますが、そうではなくて、彼女のトラウマを何かで埋めようとしたときに、自らの小さな抱擁で埋められるという設定がされている。

・宇野:男根でしょ(笑)。自分がこのセカイで面白さが見つけられないけど、傷ついた女の子なら自分でも慰められるというレイプファンタジーです。

・荻上:それは、東さんのように『AIR』を「萌えの一歩手前」と評価しても変わらないわけです。

・宇野:「一歩手前」どころか、むしろ再強化しているというのが僕の批判です。

・宇野:キャラクターの過剰か、プロットの過剰かの違いですよね。キャラクターをプロットに置き換えるだけで、ケータイ小説の大体は説明できるし、そこに結構本質的な問題もあるというのが僕の見方ですね。

・荻上:そしてどちらにも「崇高なもの」が突如登場するんですね。『恋空』であれば、「みんなの幸せ」とか。その一致も面白い。

・宇野:キャラクター小説はオタク的なレイプファンタジーへ、ケータイ小説はKY的な暴力へつながっていく。当然、比喩ですけどね。

・荻上:岡田有花『ネットで人生、変わりましたか?』で、インタビューをされていたギャル社長こと藤田志穂さんが「ギャル=オタク」説を唱えていました。「ぶっちゃけギャルもオタク。好きなことしかやらない」「オタクもギャルも、お互いに対して同じことを思ってる。臭そうとか汚いとか気持ち悪いとか」と。僕も同じような意見を持っていて、それは『げんしけん』の笹原妹の役割なんかでも描かれていましたよね。ギャルとオタクの問題は、それこそ90年代からもテーマになってますけど、しかし何を「汚い」と思うか、つまり何を悪く、何を善と評価するかの置き所が違う。この対比に、都市論=トライブ論的な面白さはあると思う。

・荻上:自然主義についてはどう思いますか? 『ゲーム的リアリズムの誕生』についてでもいいですが。

・宇野:あれだけ東さんを批判している割に、その議論だけは僕は本質的だと思ったことが実はないんです。自己実現や承認欲求のベースをどこに求めているのかという違いでしかないと思っている。

・荻上:しかし例えば、自然主義的な描写のスタイルは、その文体によって国民国家の形成や、逆に権力性の批判として機能したという議論がある。だから公共圏について語る際、文学をどう位置づけるかという議論がひとつの役目をもっていたわけですよね。その歴史を前提にしすぎてそれが失効してしまったという議論や、あるいはそれらをフラットにして、自然主義、キャラクター、ケータイ、それぞれのリアリティのどれを取るかという問題だという議論にしてしまうと、意味が無いのではないかと思う。

2008年2月の、東浩紀の「2ちゃんねる」でのコメント 

○2008年2月26日、「2ちゃんねる」にて、東浩紀が3時間超にわたってコメントを展開
東浩紀スレが、同掲示板で、全部で100のスレがたったことを記念したとのこと

東は、2ちゃんねらーから寄せられた質問に対し、即断即応で回答を提出した
フットワーク、軽いですね

東浩紀のこういった類の営業努力と読者サービスは、世界文芸史的観点からみて注意するに価する

昔から文芸誌では、文学者に一問一答してもらう企画が恒例としてあった
それをはるかに凌駕する大規模なイベントが、「2ちゃんねる」という媒体により可能になった

○東の発言は「萌え理論Blog」の「東浩紀2ちゃんねる降臨まとめ」などにまとめてある

・当ブログから、私の気になった東の発言を抜粋しておく

○内容

>一日の読書量はどれくらい?速読とかします?教えてくださいまし

まったく読まない日と、

数冊読む日がある。

速読は習ったことないけど、

つまらない本だと思ったら

小説なら1時間で読む。

おもしろかったらゆっくり読む。

そりゃそうだよな

>ゼロアカは若い人の意識をどう変えたいのか。

変えない。

>フランス現代思想には拘らないのか。

拘ってる。

>ヱヴァがゲーム的リアリズムなループものになりそうな件について一言。

いいことじゃないでしょうか。僕の本的には。

でも個人的にはいやだな。

>今アニメ見てますか?

子供といっしょにジブリ。

あとは秘密。クラナドとかtrue tearsとか?

>アベ公房の小説は好きですか?

好きだけど批評的に読んでない。

>あずまんにとって現代の純文学の社会的役割とは何か?あるいは何をなすべきか?

好きなひとが読めばいい。好きな人が書けばいい。象徴資本の占有だけ止めるべき。

>これから先、東工大以外の大学で授業を持つとかそういう予定はないのでしょうか。

>正直、喋りもうまいと思うので、学生にとっては有意義な授業が出切る方だと思うのですが?

Thanks. でも大学は僕が嫌いなのだ。君たちが支えてくれ。

>sightに連載もってますが

>あの雑誌と渋谷陽一さんについてどう思ってます?

とくに思い入れはない。業績は大きいと思う。

>リトバスは面白かったですか?

とても難しい。

麻枝准は家族を禁じ手にしても仕方ないと思う。結局、あれは疑似家族の話じゃん。

>ニュー速やvipもみたりするんですか?

当然

>郵便本のコストって金じゃなくて、

>あれだけの本を書くのは並大抵の情熱じゃ無理だよね

>確信らしきものがあったんですか?

あった。だから失望も大きかったわけよ。

>文学板や創作文芸板も見ますか?

そっちは見てないな。

>現在、ライトノベルを書いてる人で注目している方はいますか?

秘密。でも相対的には関心下がってる

>宇野さんは、国内のサブカル評論家の言説しか勉強していないようですが、

>これは東さんがSF大会で述べていた「学力低下」問題

>(国内のわかりやすい評論しか読んでいない若い人が増えた)

>に当てはまるのではないでしょうか?

問題は学力より視野なんだよ。語学なんてどうでもいい。宇野くんはその点は多少いいと思うよ。世の中で思われてるより。

東浩紀先生の前期(郵便本)と後期(動物本以降)の仕事の乖離

>を結びつける試みについてどう思われますか?

オレ的には乖離してない。だから当然。

>>>東浩紀先生

>私からの質問としては、児童ポルノ禁止法案が改正され、

>単純所持が違法化されようとしていますが、

>この改正問題について東先生がどう思っていらっしゃるか、

>ご意見をお聞かせ願えませんか?

これはブログで書いたぞ。

kagami君は知っててスルーなんじゃなかったのか(w?

僕的には、「なにを守るべきでなにを捨てるべきか」を考えるべき局面に差し掛かったという認識。真に重要なのは、欲望の自由です。

>講談社BOXに入った「サイバースペースは~」を読んで大傑作だと思ったんですが、

>なんで東さんはあれの評価が低いんですか?

アイデアだけで結論がないから。

思考の過程がそのまま出ていて、うまく隠せてないから。

>『動物化するポストモダン2』ですが、

>固有名が確定記述に還元されないように、

>キャラクターはデータベースに還元されないとは

>考えられないものでしょうか。

キャラクターの「一部」に還元されないものがあると考えるべき。

でもそれはラカン的トレ・ユネールではなく、

二次創作の海が生み出す幽霊として捉えるべき。

>あずまんって英語できるん?

わからん。

>ゼロアカの0次選考(書類審査)ってどんな感じでしたか?

>あの材料でどういったことを基準に判断したのでしょうか?

レポートの採点と同じ。書類をまじめに書いたやつが勝ち。

あと、ブログが変なやつとか壮絶な人生とかも通した。

でも判断材料が少ないから

もしきみが落ちたのだとしたら、ほんと、あまり気にしないほうがいい。

>最近対談した批評家の中で最も手ごわい、というか感心した方は誰ですか?

>北田、伊藤剛、高橋源一郎、大塚、田中、笠井なんかがすぐに思いつくのですが

おいおい、そりゃさすがに秘密だよ。

でも疲れたのは大塚で、新鮮だったのは高橋かな。

>田中ロミオはガガガ文庫のエースと化しましたが、

>美少女ゲーム等ノベルゲームの有名ライターがライトノベルという媒体に

>執筆することが多くなった昨今のライトノベル業界をどう思いますか?

それしかやることないんだろ。

「人類……」より、彼のシナリオのほうが好きです。

>2ch以外の場所、個人ブログ等は読んだりしますか?

はてな巡回。読売新聞の発言小町。Jcast、gigazine,cnet、そのほか。

(340 名前:しろうと ◆AUSirOutoE [sage] 投稿日:2008/02/26(火) 02:07:06 0

『動物化するポストモダン2』ですが、

固有名が確定記述に還元されないように、

キャラクターはデータベースに還元されないとは

考えられないものでしょうか。)

466 名前:東浩紀 ◆zdy8MT3NA6 [sage] 投稿日:2008/02/26(火) 02:37:40 0

キャラクターの「一部」に還元されないものがあると考えるべき。

でもそれはラカン的トレ・ユネールではなく、

二次創作の海が生み出す幽霊として捉えるべき。

(485 名前:しろうと ◆AUSirOutoE [sage] 投稿日:2008/02/26(火) 02:42:21 0

その場合、キャラとキャラクターの二層構造で、

キャラの方はデータベースに還元されるが、

キャラクターは幽霊性があり、「半透明」だとすると、

『動ポモ2』がスッキリ読めるのですが、いかがでしょうか。)

537 名前:東浩紀 ◆zdy8MT3NA6 [sage] 投稿日:2008/02/26(火) 02:53:42 0

おいおい、この速度で議論は無理だ。

だがきみの理解は正しい。そういうこと。

ただ、それは伊藤剛用語では逆になるかも?

>郵便本のストーリーって現代思想からの前期フロイト擁護に読めませんか?

前期ではなく、神経生理学系の草稿時代のフロイトね。

>哲板で自分以外のスレ見るの?

正直見てないw すまん。

>『ゲーム的リアリズムの誕生』で用いた環境分析の手法って、

>現代の文学理論(フェミやポスコロ系)で行なわれている手法、

>すなわち、従来のテクスト論に歴史的要因や文化的要素を

>挟み込むものとなんら変わりがないと思うんですがどうでしょう?

全く違う。

同じだと思うなら、その手法でラノベを分析してごらん。

>白田秀彰氏が発起人として参加されているMIAUについてどのように思われますか?

がんばってほしい。ぼくは運動は馴染まないので距離とってすまないと思う。

>2.動ポモシリーズにはキャラのデータベース以外に、物語の構成・設定のデータベース化の問題が欠けているという批判はどう感じるか。

そりゃそうだ。

でもそんな話をしたら、それこそ「東のやっていることは昔からやられてる」と言われたと思うねw なんでも批判はできるんだよ。

>2ちゃんねらーに生産的な何かを生み出したり何かを変える可能性はあると思いますか?

まあ、あるんじゃないの?

というか、2000年代の日本の最大の文化的発明はWiiでもケータイでもなくて2ちゃんねるだろう。JK。

>ソーカル事変以降、フランス現代思想を読むのって難しいというか

>でたらめな擬似科学的記述をうまく無視しながら読むしかないんでしょうか?

理工系の科学者の薄っぺらな人生論も、経済系の人間観の底の浅さも、人文系の人間からするとかなりキツいよ。

たがいにそういう限界を尊重するしかないんじゃないの。

>東さんが吉本隆明について言及している文章をあまり見たことないんですが、

>吉本隆明さんをどう思ってますか?

教養ていどにしか読んでいない。ぼくの世代では存在感がなかった。

>それと前回と今回の日記は読者との相互作用が起こっていてある意味前衛的ですが、

>筒井ファン的に何か思うところはありますか?

前衛はよくわからんが、筒井は先駆者だと思う。

批評空間は彼を評価するべきだった。まじで。

>こちらも環境分析について。

>ラノベは自然主義文学と違い、そのまま現実を投影するわけじゃない。

>しかし作品外の流通による効果をフィードバックすることで、フィクションに

>新たなメッセージを読み取ることが可能になる。その意味で上にある現代の

>文学理論とは異なる。

>こうした認識は正しいでしょうか?

はい。そこで重要なのは「流通」と「社会」は違うことです。

かっこつけていえば、僕はあの本では、

流通のトポロジーだけが大事だと言っているんです。現実は写せないから、その構造だけを写すのが新しいリアルなのだと。

だから「ゲーム的」は、カルスタよりはるかにレヴィストロースやバルトに近い。そのことを暗黙に指摘しているのは福嶋亮大だけなので、ぼくは彼を評価します。

>小松左京先生は戦争がなければSFにいかなかったと発言されましたが、

>東さんは「これ」がなければ現代思想にいかなかったものはありますか?

作家名なら、小松左京、新井素子、押井守。これはまじです。

そして彼らがもともとベースなので、現代思想からも外れるのだと思う。

>もし感想がありましたら、

>参考にしますので、

>ぜひお聞かせ下さい。

いや、きみはきみのまま書けばいいのだ。

ぼくはブログを続けている人は、それだけで信頼する。

>ご自身の名を冠したスレッドが100に到達した(哲板ではダントツの最速!)感想を一言お願いします

超嬉しいです。はい。

>ひろゆきについてはどう思います?

やつの思想については真剣に考えねばならない。

日本論はひろゆきについて考えればいいんじゃないの? 濱野に任せた。

>理工系は理論的であること、体系的であること、反証可能性があることなど

>きちんとしたプロセスを踏んでいます。人生論の話をいつしましたか?

>人文系の良くない点は知ってないくせに嘘ついてあたかも理工系よりも自分

>たちのほうが崇高だと見せしめようとする点です。

>そういう嘘でさえも豊かな人間性だとして肯定されるのですか?

>それはもはや学問と呼べないのではないですか?

きみのそういう言い方がキツいのでは。

学問は近代だけのものじゃないよ。知って反証可能性だけじゃないよ。

「学」という言葉が体系や理論や反証可能性を意味するようになったのが、

いつのことからか、調べてみてもいいと思うよ。

>すみません。私もしろうとさんと同じく、もし私のブログ・サイト

>を東先生が読んでいらっしゃるということでしたら、どうか感想を頂けたらと…。

みんな、どうしたんだ!

ぼくはその領域では一読者だよ。

sirouto2やkagamiのほうがはるかにアクセス数があるだろう。これからも楽しませてくれ。

>ドゥルーズ=ガタリの欲望する諸機械の領域と

>ラカンの現実界って領域は同じようなものなの?

僕の理解では、前者が郵便的で後者が否定神学的。

>今思いついた尊敬する思想家を3人あげてもらえないでしょうか。

フロイト、ドストエフスキー、ソクラテス

変な返答でごめん、

>「キャラクターズ」の「ボロメオの環」は、斎藤環先生なのですか?

あれは斎藤さんの遊びだろ。だって本当は「輪」だし。

>ショタでは抜けないのか。

むろん抜けるが趣味というわけではない。

>具体的に、16歳の人生観を変えるにはどのようなアプローチをされますか?

おれにできるのは文章を書くことだけだ。

>男性読者と女性読者の比率についてどうお考えでしょうか?

たいへん嘆かわしい。。と思うのだけど、

そもそも日本では戦後若者文化で性分割が厳しくて、

そういう意味では不可避なところもあると思う。

男性が男性作家/批評家を支持し、女性が女性作家/批評家を支持するのは

しかたないぶぶんもあるから、

無理に性横断的な読者は想定しなくていいのではないか。

。。。といっても、ちょっとぼくの読者は問題だね。

というかおれが問題。

>むかし早稲田文学の「思考の地盤沈下」で大杉重夫と話してたときも

>今回田中和生と話してたときも思ったんだけど、東さんは純文学畑の

>人間に対してキツイですよね。なんか理由あります? テンションが違ったり。

今回の田中さんもそうだけど、

単純に 純文学のひとって失礼な質問するんだよね。

だって、初対面のひとにむかって、「あなたは無責任だ」とか言う?

しかも、そういうことが言えることこそ「文学の自由」だとか

カンチガイしているところもある

そういう甘えこそが純文学の制度なんだけど、

だから純文のひとと話すとぶつかっちゃうんだろう。

>それ言ったら元も子もなくなるような、原始時代までさかのぼりますか?

たとえばいまから300年ほどまえには、工学部は存在しない。

理学部は神学部に近かった。

反証可能性などの概念が出てきたのは、

20世紀初頭に数学・物理学で基礎付けの危機が出てきたから。

そういう話をしている。

ポパーとかファイアーアーベントとかクーンとか、読んでみたらいいと思う。

ちなみにぼくはもともと科学史・科学哲学出身でね。

>あずまんのサイトのアクセスって1日どれくらい?

カウンタとってません。サーバのどこかで見れるはずだけど。数千?

>科学における反証可能性のように批評や評論の根本の支えている

>ものや考え方ってありますか?

ない。

ない、と言われて失望すると思う。ぼくも15年前にそうだった(信じろ)。

しかし、その「ない」ことこそがなにか重要なのだと、

そのうちわかってくる――かもしれない。

そうすれば批評が読めるようになる。

>自分は不勉強なのですが、そういったことについて書いてあるお薦めの本ってありますか?

うーん、これも難しいんだよね。。

ぼくは、あとで薄っぺらだと打ち捨てることを織り込み済みで、

入門書とかキーワード集を片端から読むことをお薦めします。

「あいつはよくわからない言葉を並べているだけだ」と

批判されるのを怖れてはいけない。

実感を伴った言葉で話す20代なんで、それこそ退屈に決まっている。

>腐女子の消費形態についても何かお言葉を戴きたいかもです。

>(このへんは男も楽しめるコンテンツなのがキモですが)

腐女子について僕のような男性オタクの批評家が語るのはとても危険。

サブカルチャーと当事者性の問題が絡むから。

政治的に正しく沈黙します。

そのような態度こそが政治的に問題かもしれないけど、それ以外に選択肢が思いつかない。

>ゼロアカ一次審査で何人まで絞りますか?

25-26人。

>ノベルゲームのライターである奈須きのこと田中ロミオだと

>どちらを批評的に見てますか?

批評的、とは批評的な読解に値するものとして、ということ?

田中ロミオ。

――なのだが、難しい問題はある。

奈須きのこの重要性は物語だけ見てもしかたないかも。

>ポストモダン文学というタームから受ける印象とイメージする作家を教えてください。
>アカデミックな意味でも気分的な話でも結構です。

高橋源一郎。それに尽きる。

鼎談やったからのリップサービスではなく。さよならギャングたちとかいいんだよ?

>前に後期の政治的転回以降のデリダは評価しない、といっていましたが一方では『法の力』を褒めてたように思います。この時期のデリダに関しては結局肯定、否定のどちらなんでしょうか?

おいおい、そういうもんじゃないだろう。

「法」よりはさらに「マルクス」のほうが好き。正義とは脱構築不可能なもので計算不可能なものだって、なんか簡単すぎる。

>2ch等で見られる「嫌・文系」みたいな現象についてどう思います?

>ソーカルを引き合いに出すものから、「文系学生はセックスしてばかりだから気にくわん」とか

>色々な論調がありますけど、嫌韓厨と同じぐらいに無視できない規模の現象と思うのですか

そりゃ、ネットに強いのは理系で、彼らは文系が嫌いに決まってる。

でも紙に強いのは文系で、彼らは理系が嫌いで、いままでさんざん象徴資本を占有してきたんだから、少しぐらい譲り渡してもいいんじゃないの?

>フランスでベストセラーになったって信じられませんよね

いや、本当に。

>ベンヤミンの言う「神的暴力」の現実的具体例というのはなにかありますか?

>もしくは、いまだ存在したことがないとしたらこの先どういった形で具現化すると考えますか?

ないんじゃないか。だから否定神学なんじゃないか。

>ついでに実生活に哲学なんか必要ない=意味はないみたいな考え方とかもどう考えているの?

そりゃ、実生活に哲学なんて必要ないよ。

ゲームやアニメやマンガが必要ないように。あたりまえじゃん。

>最近読んだ小説で恋空以外に面白いものがあったら教えて欲しい。

ない。……というか、最近小説読んでないぞ。

>ブログで『恋空』に関して「自分の仕事じゃないけど」って断ってから分析してたけど
>正直自分の分析はお粗末なこと書いたなーって思う?

そうなの? 別にあれはあれでいいんだけどね。

社会学的分析だけが知的なわけじゃない。物語の構造分析ってのもあって、それは趣味としてやりたい、というか、あの「分析」がぼくの素の感想なんだな。

>初期ハルキと高橋源一郎はいっけんとても似ていると思うのですが、

>批評空間系からの評価はまっぷたつです。どう思われますか?

まっぷたつだった? 批評空間は最終的に中上健次しか評価しないんじゃなかったか。

>中野昌宏氏が『貨幣と精神』という本の第6章で

>東さんのデリダ論(郵便本)の批判をしていましたが、

>お読みになられましたでしょうか?

むろん。ここで反論するのは誤解を生む可能性があるので控えます。

>あずまんの後悔発言

>・結婚は人生一回の諦め(←嫁さん激怒)

おいおい、そういう意味じゃない。

人生は一回しか生きられない、

だからこのとき、この瞬間にはひとりしか選べない、

そのことの重さを引き受けるのが大事ということ。

それに、それは結婚とか子供とかの話じゃなくて、

人生すべてそう。

ちょっとマジレスしときます。

浅見真州さんの『屋島』を観覧する会 

浅見真州さんのお能の公演がございます

日程:2008年3月18日(火) 午後6時開演 (5時半開場)
場所:国立能楽堂

チケット代:A席1,1000円 B席9,000円 C席6,000円です

松平の活動に深く関心を寄せている者が、松平に「学生席」を数枚提供していただけました
興味のございます方は、ぜひ松平に声をかけてみてください

能楽師 浅見真州 公式ホームページ

「平家物語」などに取材した世阿弥の作と伝えられる「屋島」
源平の合戦の模様が描かれ、義経の勇姿が浮かび上がるとともに、修羅の苦しみの描写
も存する、非常に構築的な大作です(参考資料http://www3.ocn.ne.jp/~masakuni/asami.html)

演じられるのは芸術院賞、紫綬褒章等の受賞者でいらっしる浅見真州さん
浅見さんは法政大学日本文学科卒でございます

この機会に、松平と一緒に、伝統芸能の息吹きに触れてみませんか?
左のメールフォームからご連絡ください

21世紀の知識人 

社会学者の芹沢一也は「シノドス・セミナー」というものをやっているらしい

以下、同セミナーの紹介の文言

・「現在、日本社会では一体どのようなことが問題となっているのか、
そしてそのための解決策としては何が考えられるのか。
セミナーでは各界の第一線で活躍する論客たちをゲストに招いて、
参加者のみなさんとともにアクチュアルな問題を考察します。」

・「参加者の声
 「何よりも少人数で落ち着いた雰囲気がとてもよかったです。総じて、セミナーの方向性が「アクチュアルな問題をいかに考えるか」という点で一貫していたので、私はとても好感がもてました。」
 「社会人になると本を読む暇も無くなってしまい、久しぶりに知的刺激を頂いた感じです。
今を時めく著名人とカフェの距離感で話すことが出来るのはとても貴重な体験だと思います。」」

第1回目の「シノドス・セミナー」は、2007年の4月に雨宮処凛を呼び、ネオリベラル社会をテーマにしたとのこと
2008年2月24日(日)のセミナーではすが秀実さんを招き、吉本隆明について語るのだそうだ
これが第13回目であるとのこと。一年弱の間に、結構なペースで開いているのですね
これまで、萱野稔人、鈴木謙介、中島岳志などをゲストに、活発にセミナーを開いているみたい

荻上チキもこのセミナーにホストとして関わっているとのこと

[シノドス] - 荻上式BLOG

ウェブの機能をいかすことでいろいろな知識人が、公開講座を開きやすくなったはずだ
青空大学みたいなものなのだろう
こういう形で知識人たちが開催する寺子屋的なイベントは、一つの商売を形成するかもしれない
これも、大学界・出版界とは異なる領域で「知」というものを実践する契機となるはずだ

ちなみに、「定員 10名 費用 7,000円(学生・大学院生 3,000円)」であるらしい
参加する側からみれば結構な値段だな

もしも一般参加五名、学生五名であったら、主催者は50000円の収入をえるということになる
しかしこれでは、講師代を支払えるのかな? なんて思ってしまうけれども

ぼくも一般参加を呼び掛けた読書会をもう何年もやっている

・「「必読書150」を読む会

しかし、参加者からお金をとれるくらい内容のあるセミナーを開くのって、難しいよなと思う
いろいろな知識人を招いて、出版界や大学から外れた場所で、活発な議論の場を作っていく、といった作業の行なえる知識人には憧れる

こういうイベントは、知識力に加えて、情宣力、企画力、有名なひとを招ける営業力、政治力等の、総合的な能力が要求されることだろう
ちなみに、グーグルで知識人たちの名前を入れて検索をかけると次のような件数が出てきた

芹沢一也 「約 34,600」
荻上チキ「約 648,000」
吉本隆明「約 272,000」
夏目漱石「約 983,000」
東浩紀「約 432,000」
小谷野敦「約 297,000
ハイデガー「約 192,000」
松平耕一「約 1,170」

荻上チキの知名度はウェブにおいて吉本隆明より上である
ウェブにはウェブ特有の磁場がある
ウェブ知識人、ウェブ評論家として、チキは優秀な広告媒体をもっているのだろう
今後、ウェブ上で、話題喚起力持ち、衆目の注意をひきつけられるパフォーマンスをなせるかどうかは、その知識人のスター性をはかる、一つの指針となるのだろう

ウェブ上での言論の力が、紙媒体や大学での業績を超える意味を持つ日も、やがて来るかもしれない

21世紀は、Webを中心として活動する「ウェブ評論家」が縦横無尽に活躍し、ウェブ文芸誌、ウェブ論壇誌が、世界を席巻することだろう

東浩紀「想像界と動物的回路」 

講談社BOX講談社BOX
(2007/04/14)
東 浩紀

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◎「想像界と動物的回路――形式化のデリダ的諸問題」(2000年初出)は、『文学環境論集 東浩紀コレクションL』の「essays」所収

◎感想

ハイデガーラカンデリダをセカイ系的に読解している感じ。デリダ『郵便葉書』『グラマトロジーについて』、ハイデガー『存在と時間』、ラカンを短い文章で簡潔にまとめたお得感あふれる論文

・東にとっての「動物」概念を理解するためにとても重要である

・この論の文脈でいうと、「動物」は必ずしも否定的な言葉ではない。東の思想全体にとって「動物化」っていいことなの? 「人間」であることはファシズムを招くことなのか?

デリダがダジャレ魔である理由がよくわかる

・ジジェクのラカン理解が輸入されているのだろうけれども、東のラカン論は正しいの?

・第二期デリダのなした韜晦は、冷戦下でこそ意味をもちえたのではないか? 冷戦終了後に第二期デリダのポストモダン的な身振りを利用することは、思想として有効なのか?

・サルトルと論争になったハイデガー『「ヒューマニズム」について』はどう評価しうるのか?

・市川浩の「身体論」なんかはどうなるの?

◎内容

○デリダ『精神について』とハイデガーの「動物」

・東は、デリダのハイデガー論『精神について』を取り上げる

・デリダは、ハイデガーが「動物」に与えた存在論的位置づけに注意を促している

・ハイデガー哲学は人間中心主義から手を切ったはずであったが、そこには実は再び人間中心主義が回帰している

・『存在と時間』は「人間」という概念を不必要にしたことが画期的であった

・ギリシャは、人間を「理性的動物」として、キリスト教は人間を「超越するもの」としてとらえてきたのが伝統であった

・しかし、そこでは定義の循環が起こっていて、「存在」への問いが忘れられている

・「存在」とはあらゆる存在者を存在者たらしめるシステムである

・「人間とは存在者の総体、簡単に言えば「世界」全体を産出するひとつのシステムなのであり、したがってそれをあれこれの性質を備えた存在者として規定して探究することはできない」

・伝統的人間学は存在者としての人間を扱うが、ハイデガーの思考は存在者総体を産出するシステムとしての人間、「現存在」を扱う

・存在者総体を産出するシステム(現存在)についての考察は、存在者総体がどのようにして存在するようになっているのか、その構造の抽象化によってのみ進められうる

・現存在は、「二重襞」という隠喩で呼ばれうる構造的な二重性を抱え込む

・人間は一方では世界全体を産出するが、他方では世界のなかの一事物である

・現存在はオブジェクト・レベル(存在させられている諸事物)とメタ・レベル(それらを存在させている根拠)とに同時に位置する

・ここには綻びが生じるが、この綻びについてのハイデガー哲学の考察は、ラカンにおいてさらに洗練されて継承されている

ラカンにおいて、141-142「……人間=主体の核(ファルス)は、世界を構築するシニフィアンの集合にただひとつ侵入するメタ・レベルのシニフィアン、「象徴界」の論理的不完全性からの必然的帰結として捉えられている。そこではもはや人間は、「世界が存在すること」の_¨数学的¨_構造そのものから導かれる効果のひとつとして、純粋に形式的に定義される」

・物と人間の区別を「存在者」と「現存在」のかたちへと形式化する。そうすることでハイデガーは人間中心主義を退けた

・しかし、デリダはこの点について疑問を提出している

・『形而上学の根本問題』でハイデガーは、「石は世界がない」「動物は世界が貧しい」「人間は世界を形成する」というテーゼを提出している

・「世界がない」と「世界を形成する」の対置はオブジェクト・レベルとメタ・レベルを往還するもの(現存在)の対置なのだから、その中間項は論理的に考えられようがない

・ハイデガーは物と動物と人間の区別を位階秩序を導入して説明している。そのため、形式性の消失と人間中心主義への回帰を招いているのだと、デリダは指摘している

・『存在と時間』の理論的パースペクティブにおいては、現存在の世界解意は「として」構造に先立たれている

・その構造があるからこそ、現存在は意味に満ちた世界に住まうことができる

・動物的経験は「として」構造の欠落により特徴づけられる

・現存在の世界解意が「として」構造に覆われているという主張は、現存在の世界が「意味」をもった諸記号、すなわち「言葉」により覆われていることを意味する

・たとえばハイデガーは次のように言う

・ハイデガー「言葉は存在の家であるがゆえに、私たちが存在者に到達するときには、たえまなくこの家を通り抜けている。泉へ行くとき、森を通り抜けるとき、私たちはもうすでに『泉』という語、『森』という語を通過している。たとえこれらの語を口に出したり、言葉のことを考えていないとしても」

・「現存在がつねにオブジェクト・レベル(世界)とメタ・レベル(存在)のあいだを循環してしまうのは、ハイデガーの考えによれば、現存在が森を通り抜けるとき、つねにそれを森_¨として¨_、「森」という言葉を介して経験するから」である

・存在者と現存在の区別は、世界を言葉によって覆われているものとみなすことでのみ成立していたのだと考えられる

・つまり、言葉を介さず世界との関係を持つ動物的経験は原理的に排除される

・このため、ハイデガーの形式性はある地点で躓き、人間中心主義へ、さらにはナチ・イデオロギーへと陥った

・「人間」の実体的な境界確定にはさまざまなイデオロギー的前提が侵入する

・「人間」についての思考をハイデガーとは別の形で形式化するためにはどうすればいいのだろうか?

○ラカンについて

・ここで、デリダのラカン論について注意を向けたい

・ラカンの理論はハイデガーに多くを負っていて、ラカンへの批判は間接的なハイデガー批判とも読めるからである

・デリダのラカン論は、「言葉」、すなわちラカンにおける「シニフィアン」が抱える問題が問われている

・ラカンは人間(主体)を動かす無意識的な欲動の構造を_^言語【ランガージュ】^_をモデルに捉えようと試みた

・無数の欲動はそれぞれシニフィアンに代理されるものと見なされ、それら諸シニフィアンの無意識的運動を規制するシステムが「欲望の形式」として探究される

・ラカンはそのシステムを「象徴界」と呼び、そこへの参入が人間的主体を成立づける条件だと論じた

・ひとは幼児期にはイメージに満ちた世界、「想像界」に住み、いまだ主体性をもたない

・イメージには現前しかないので、そこではひとは物の不在を対象とすることができない

・したがって必然的に、いまだ人間的主体を特徴づける欠如への欲望を抱くこともない

・幼児が「主体」になるには、

①不在を対象化可能にする「シニフィアンの論理」の導入

②その論理を用いて欲動の多形的運動の直中にひとつの絶対的欠如が穿たれる(去勢)

③絶対的欠如をノズルとして諸欲動=シニフィアンの流れが整えられ、ひとつのシステム(象徴界)へとまとめあげられる

といった発展段階が必要である

○デリダのラカン批判

・しかしデリダはラカンのこの論を批判する

・「デリダによればこの考え方は、一方で主体の統一性を脱構築しながらも(意識的主体が統御できない欲動=シニフィアンの自律的運動を想定するのだから)、他方で絶対的欠如の代理である特権的なシニフィアン「ファルス」を導入し、かつその機能を徹底して観念論化することで、主体の統一性を再び裏側から承認してしまっている」

・ラカンにおいてシニフィアンの同一性は理念性のもとに守られてしまっている

・デリダは欲動を表すものとして処理される単位(表象代理)を、シニフィアンよりもむしろエクリチュールとして、つまり、破壊可能性と誤配可能性に曝された物質的条件のもとで捉える

・デリダの『郵便葉書』では、手紙の隠喩でそれを語るのである

・デリダは表象代理をエクリチュールとして、つまり、欲動を文字として捉えた

・エクリチュール(文字)は理念的同一性に統御されず、たえず分割され誤配される

・デリダにおいては欲動はひとつにまとまらず、主体もたえず拡散している(散種している)

○ラカンの「想像界」

・ラカンにおいて、象徴界は欲動を代理する諸シニフィアンの集積、一種の言語構造を意味する

・現実界はその構造の直中にあいた「穴」、より正確には、その構造が縫合されるために不可欠な絶対的欠如(ファルス)が示す主体の無根拠性を指示する

・象徴界と現実界の関係は形式的、数学的なものであり、ゲーデルの不完全性定理が援用される

・他方、象徴界と想像界の関係は形式的ではない

・想像界の概念は臨床的に、「主体」の発展段階についての、あるいは各主体が抱く経験の質についての具体的考察から導かれている

・幼児が想像界しか知らないのは欲望が構造化されていない象徴界以前の段階にあるからである

・ラカン派以外の精神分析が想像界しか扱えないのは、ひとを駆動する無意識的な構造に注目せず、意識された経験の解釈のみに依存して、象徴界について無知であるためである

・ラカンにおいて、想像界は経験的概念であり、象徴界により克服されるもの、あるいは象徴界が意識=自我に差し出す効果を名指すものにすぎない

・ラカンにおける「想像界」は、ハイデガーにおける「動物」と対応している

・ラカンは「主体」の根拠を無意識の_^言語【ランガージュ】^_的構造化に求めたのであり、そこでは人間と動物の峻別がおこらざるをえない

・ラカンはセミネール『精神病』で次のように語る

・象徴界は人間に世界のシステムの全体を与える。人間が物を認識できるのは人間が語をもっているからである

・想像界は対象を性愛化する領域である

・人間存在における性的位置の実現化は、フロイトによれば、エディプスの関係を通過することと結びついている

・性的位置が実現化するのは、男性あるいは女性の機能が象徴化されるかぎりにおいて、つまり、その機能が想像界の領域から根こそぎにされ、象徴界の領域に据えられるかぎりにおいてなのである

・東の考えによれば、ここにはハイデガーが動物を扱う際に陥った(とデリダが指摘した)ものと同型の理論的困難、および人間主義の回帰が確認できる

・「象徴界」という概念の導入は人間の世界がシニフィアンに覆われていると考えること、物=存在者への接近可能性と命名能力を不可分だと見なすことを意味する。そこでは人間と動物は峻別される

・他方、「想像界」の概念の必要性は、人間と動物の連続性を示唆する

・ラカンはここで、正常に完成された人間的性愛の実現化という、目的論的モデルを再導入している

・人間的性愛は言葉を介しているがゆえに動物的性愛と異なると主張するこのモデルは、人間を「理性的動物」として捉えたギリシャ的規定と変わるものではない。動物において「世界は貧しい」と規定したハイデガーの身振りと対応している

・ハイデガーにおける〈存在者/存在〉といった形式化における動物の排除と同じ理論に従い、ラカンは〈象徴界/ファルス〉といった形式化において想像界を排除した

・ハイデガーにおいて言葉の特権化は前提であった

・ラカンにおいてシニフィアン(言葉)の優位は発展段階論のかたちで正当化されている

・人間における想像界、つまり、人間が世界とのあいだでイメージを介して結ぶ関係は、ラカンによれば、動物の想像界と異なり不安定である

・そして人間において、象徴界は、人間における想像界の不安定性、「裂け目」を埋めるために要請される

・象徴界による想像界の止揚、つまり、シニフィアンによるイメージの置き換えは、ラカンにおいて、欲動に対する同一性の付与として捉えられている

・イメージはつねに解体の危機に曝されている

・欲動の対象を「幻影」から「名」へ、つまりイメージからシニフィアンへ移動させることで、ひとははじめて欲望の宛先を同定する(同一性を定める)ことができ、またそれに呼応して「主体」の場所も定められる

○デリダにおいて

・159「デリダの「エクリチュール」という述語は、教科書的には、同一性を_¨もたない¨_記号の運動を指示するとされている」(「署名、出来事、コンテクスト」『現代思想』(88年5月臨時増刊号))

・表彰代理をエクリチュールに読みかえるというデリダの提案は、シニフィアンによるイメージの止揚がつねに失敗すること、欲望の宛先がつねに不完全にしか同定できないこと(誤配可能性)を意味する

・つまり、人間においては象徴界が完全ではなく、想像界(世界との動物的関係)が残存することになる

○デリダの『グラマトロジーについて』をラカン論として読むことができる

・扉の絵は、一方で、物を表象し、扉の意味として用いられ、他方で、「ト」という表音要素としても表れうる

・ひとつのエクリチュールはイメージであると同時にシニフィアンとして機能しうる

・これはあらゆる文字の一般的機能である

・この二重性から、ひとつのシニフィアンが音の分析を介し複数のシニフィアンへと解体され、さらにそれぞれのシニフィアンが今度は別々の物を指し示す可能性、つまりある対象の名指しが複数の諸対象の名指しへと解体する可能性が帰結する

・161「デリダがエクリチュールと呼ぶものは、物と音、イメージとシニフィアンのこの混同可能性である」

・シニフィアンがシニフィアン(記号)であるためには、必ずなんらかのエクリチュール(物質的側面)をもたねばならない

・しかしエクリチュールはつねにイメージへと転化する危険を抱え、そのことで逆にシニフィアンの同一性は原理的に限定される

・対象の命名、欲動の同一性は、シニフィアンのシステムによって保証されえない

・想像界と象徴界のあいだの往復運動、イメージ‐象徴代理(想像的対象)とシニフィアン‐表象代理(象徴的対象)のあいだを欲動が移動し、一方では欲動そのものが解体され、他方ではふたたび「同一的なもの」へとまとめあげられる、その運動をつかまえる分析装置が必要である

・『夢判断』のフロイトにおいて、夢は、抽象的観念が視覚象で表現されるものである。夢解釈はそれを訳しもどす

・ラカンはその対称性を形式化したが、その対称性、すなわちイメージとシニフィアンのあいだの往復そのものの条件については問うていない

・デリダにおいて、その条件が「エクリチュール」と呼ばれる

・ハイデガーとラカンは言葉を特権化した。ハイデガーにおいて、現存在的な世界形成と動物的な世界窮乏が混同され、ラカンにおいて、シニフィアンによる対象関係(象徴界)とイメージによる対象関係(想像界)の間の短絡が起こる

・デリダの「エクリチュール」について、再検討しなければいけない

大塚英志『キャラクター小説の作り方』 

キャラクター小説の作り方 (角川文庫)キャラクター小説の作り方 (角川文庫)
(2006/06)
大塚 英志

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◎講談社現代新書版は二〇〇三年刊行、書き下ろしの補講を2講を加えた角川文庫版は二〇〇六年刊行

◎感想

東浩紀『ゲーム的リアリズムの誕生』のネタ本の一つ

・大塚は「キャラクター小説」を普遍的なものとしてとらえている。一方、東は「ゲーム」というものの構造に注意を促しつつ、現代のライトノベルの歴史的な新しさを強調する。東は、「大きな物語」をしばしば批判するが、大塚や新城アズマより、「大きな物語」のごとき観点をもって、「歴史的新しさ」「歴史的な事件」を語ろうとしている。ここには現代思想とWeb状況に詳しい東と、古典的な文学作品を読むことを重視する大塚・新城の差が露出している

・「文芸誌的な文学」への下剋上を狙う文芸評論書

◎内容(ページ数は講談社現代新書版)

○大塚における「自然主義文学」の定義とは

22・「「自然主義文学」とはこういうことです。「自然主義文学」とはぼくたちが生きるこの現実を写生のように写しとる文章の書き方を言います」

・「絵巻物の絵はいわゆる遠近法が採用されていませんし、浮世絵だったら人間の顔や身体はずいぶんと変な形に歪んで描かれています」

・「自然主義文学というのは文章で現実を正確に、まさに写真のように「写生」しようとした小説のあり方を言います」

○「スニーカー文庫のような小説」の発生を招いた新井素子の発想について、大塚は言及する

25・「彼女(引用者注・新井素子)はある新聞のインタビューで「ルパンみたいな小説を書きたかった」と答えています」

「この新井素子さんの思いつきは実は日本文学史上、画期的なことだったのです」

○大塚における「スニーカー文庫のような小説」の定義とは

28・「「スニーカー文庫のような小説」とは以下のように定義されます。

①自然主義的リアリズムによる小説ではなく、アニメやコミックのような全く別種の原理の上に成立している。
②「作者の反映としての私」は存在せず、「キャラクター」という生身ではないものの中に「私」が宿っている。」

○「キャラクター」と「パターン」

・『キャラクター小説の作り方』の「第三講」で大塚は「キャラクターとはパターンの組み合わせである」と主張している

65・「手塚治虫インタビュー「珈琲と紅茶で深夜まで」「ぱふ」七九年一〇月号」について。「手塚はここで自分のまんが絵とは「記号」だと言っています。そして「記号」とは「パターン」の意味であり、自分はパターンとパターンの組み合わせで絵を描いているのだ、とも説明しています」

79・「小説の中には極端に分ければ「写生文」的なリアリズムに基づくものと「記号」的なパターンの組み合わせに基づくものの二通りがある」

・「ぼくたちが目にする物語は「写生」的リアリズムと「記号」的組み合わせを相応の割合でミックスしたものです」

東浩紀『動物化するポストモダン』では、おたく表現をポストモダン文化の特徴としてあげているが、それは誤りであり、文芸史に広くあるものだ、と大塚は主張する

85・「……東浩紀くんの『動物化するポストモダン』のみを読み、今日のおたく表現はデータベースからの「萌え要素」のサンプリングによって作られていることがポストモダン的というか今日的だと単純に考えてしまわれるとちょっと困ります。中世の語り部や、この本では説明しまぜんが、近世の歌舞伎、そして戦後まんがと、その時代時代の物語表現は常にデータベースからのサンプリング、あらかじめ存在するパターンの組み合わせなのです」

○大塚の考える物語作りの普遍的なパターンとは

114・「「欠けている」→「それを回復する」というのが「お話」の一番根源的なリズムの一つ」である

・お話づくりにおいて、民話、昔話等は重要である

○大塚は、まんがやアニメは「死にゆく身体」を描くこともできることを重要視する

・手塚治虫はまんがやアニメの「死なない身体」に「死にゆく身体」を与えてしまったのである

・ハリウッド映画の主人公は死ににくい身体を持ち、写生的リアリズムの極地とも見える

・日本の記号的リアリズムは逆に「死にやすい身体」を抱え込んでいる。しかし、「スニーカー文庫のような小説」は「死にやすい身体」を描けていないことが、その可能性を狭めている

○TRPGを行うことは、小説の創作の訓練としてとても有効であると大塚は考える

○「キャラクター小説は「文学」であるべきだ」と大塚は考える

キャラクター小説というジャンルには、大きな可能性がある

・「多くの文芸誌的「文学」や、その志願者たちは今もなお、「私であること」を「文学を書くこと」で保証してもらおうと考えているふしがあ」る

302・田山の『蒲団』の芳子は「自分の「私」は仮構だったことに気づい」たが、「花袋以降の「私小説」は、そして、大抵の近代文学は今日に至るまで「文学」の中に「私」と記せば、そこに「私」があたかもあるように「私」が現れる、その「言文一致」という新しい文学のためのことばがもたらした仕組みの成り立ちについてすっかり忘れてしまったかのようです」

303・「ぼくはキャラクター小説を「作者としての私」ではなく「キャラクターとしての私」を自覚的に描く小説だ、と記しました」

・「「文学」が、「私」という存在がその起源において「キャラクター」であったことに無自覚な小説として今、あり得るのなら、キャラクター小説は「私」が「キャラクター」としてあることを自覚することで、いっそ「文学」になってしまいなさい、とぼくは主張することで、この小説講座を終えようと思っている」

・「「仮構の私」をあることにして、西欧の概念が先行して入ってきた「仮想現実」をあるものとして描いたのが「文学」だったとすれば、「文学」と「キャラクター小説」は実は明治期に同時に成立していたことにな」る

○「あとがき」における大塚のモチーフ紹介

307・キャラクター小説と「文学」は実は同じものである

・「戦後の文学がある時期からサブカルチャー化している、と江藤淳が語ったことを検証していくうちに」「そもそも、最初から「文学」はサブカルチャー文学=キャラクター小説であったのに、それを無理やり峻別したところに文学の「サブカルチャー化」という考え方が成立する余地があったのではないか」と気づいたのであった


◎チェック

新井素子
ニール・D・ヒックス『ハリウッド脚本術』

東浩紀『不過視なものの世界』 

不過視なものの世界不過視なものの世界
(2000/10)
東 浩紀

商品詳細を見る

○2000年刊行の東浩紀の対談集

○東の「想像界」―スキゾフレニアと「象徴界」―パラノイア理解

13・「一般にスキゾフレニア(分裂病)とは、去勢のシステムがうまく働かず、象徴界がうまく機能していない状態を言う」……想像界のみの世界

・「……ラカン派においては、主体化された(大人になった)人間は、多型的な欲望を断念するかわりに、「ファルス」と呼ばれる特権的な記号(去勢の徴)を抱えていると主張されている。逆にそのファルスがうまく形成されないと(去勢がうまくいかないと)、人間はいつまでも想像界的な幼児性を断念できず、主体化することができない」

・「他方パラノイアのほうは、象徴界にあまりにどっぷり浸かっていて、むしろ象徴界が変形されて妄想が紡がれるような状態」

○東は柄谷、浅田は「空間的」だと考え、デリダをつかって二人を相対化する

156・柄谷、浅田は「空間」の人。思考、文体が空間志向。京都哲学派やハイデガー、ベルクソンのような「時間」の哲学への警戒感があった。しかしそのやり方では、精神分析的なもの、転移的なものについては考えられない。そのため、他者概念が欠落した

157・「……時間的な論理というのは、僕がいて、他者たちがいて、その相互の転位関係の中で生成されていくものであり、真実があるのかどうかもよくわからない。ただこの転位関係の中に完全に取り込まれてしまうと、ユング的というか何というか、神秘化された集合無意識みたいなものの中にはまりこんでしまうわけで、これもまたまずい感じがする」

・空間と時間の折衷案としてデリダの「手紙」がある

「転位関係はあるのだけど、その他者は目の前にはいない。だから神秘化しようがない。しかし数学の命題もまた目の前にあるわけでなく、ときどき手紙というかたちで送られてくる。それに対してこちらもときどき返信するという離散的なコミュニケーションの中で、少しずつ命題が現れたり消えたりしている。そういう光景こそがデリダの考えていたこと」


○チェック
法月倫太郎『名探偵の世紀』の「クイーン論」

東浩紀『動物化するポストモダン』 

動物化するポストモダン―オタクから見た日本社会 (講談社現代新書)動物化するポストモダン―オタクから見た日本社会 (講談社現代新書)
(2001/11)
東 浩紀

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○2001年刊行

○感想

・純文学の終わりと「SF的なもの」の全面化を説いた一冊

・純文学は「大きな物語」ありきのものである

◎本書の内容

○東の二つの問題意識

「近代ではオリジナルを生み出すのは「作家」だったが、ポストモダンでシミュラークルを生み出すものは何なのか?」

「近代では人間性を神や社会が保証することになっており、具体的にはその実現は宗教や教育機関により担われていたのだが、その両者の優位が失墜したあと、人間の人間性はどうなってしまうのか?」

○「ツリー型世界からデータベース型世界へ」

○近代の世界像(ツリー・モデル)

        →小さな物語

大きな物語 →小さな物語  ←私
                  私は物語を通して決定される
        →小さな物語

   → → → → → → →

○ポストモダンの世界像 a ――データベース型世界

             小さな物語たち
データベースの深層 データベースの表層  ←私
                            私が物語を読み込む
 
○ポストモダンの世界像 b

大きな非物語 
絶対的に見えないもの
深層
匿名的/統計的/集合的世界
                    ←  小さな物語、見えるもの、表層、超平面的な世界←私
                    →
              「過視的」な超越
               見えないものへの遡行の失敗

○ポストモダンの二つの特徴

・「解離的」……122「近代の人々は、小さな物語から大きな物語に遡行していた。近代からポストモダンへの移行期の人々は、その両者を繋げるためスノビズムを必要とした。しかしポストモダンの人々は、小さな物語と大きな非物語という二つの水準を、とくに繋げることなく、ただばらばらに共存させていく」「ある作品(小さな物語)に深く感情的に動かされたとしても、それを世界観(大きな物語)に結びつけないで生きていく、そういう術を学ぶのである」「筆者は以下、このような切断のかたちを、精神医学の言葉を借りて「解離的」と呼びたい」

・「過視的」……158「_¨過¨_剰に可_¨視的¨_という意味を込めて筆者が作った造語で、見えないものをどこまでも見えるものにしようとし、しかもその試みが止まることがないという泥沼の状態を指している」

○四五年から七〇年までは「理想の時代」であり、七〇年から九五年までは「虚構の時代」である(大澤真幸)

・九五年以降は「動物の時代」である(東)

○ギャルゲー『Air』に言及

129・「……オタクたちの行動原理は、あえて連想を働かせれば、冷静な判断力に基づく知的な鑑賞者(意識的な人間)とも、フェティシュに耽溺する性的な主体(無意識的な人間)とも異なり、もっと単純かつ即物的に、薬物依存者の行動原理に近いようにも思われる」

130・「動物的な欲求と人間的な欲望が異なるように、性器的な欲求と主体的な「セクシュアリティ」は異なる。そして、成人コミックやギャルゲーを消費する現在のオタクたちの多くは、おそらく、その両者を切り離し、倒錯的なイメージで性器を興奮させることに単に動物的に慣れてしまっている。」

○ツリー・モデルと形而上学システム

・180ページ注「浅田の説明では、ツリー・モデルは前近代のモデルで、クラインの壺モデルこそが近代のモデルだということになるのだが、この両者はむしろ同じシステムの表裏であり、その表裏が一体となってツリー・モデルは維持されると考えたほうがよい」(『存在論的、郵便的』では)「ツリー・モデルが「形而上学システム」と、クラインの壺モデルが「否定神学システム」と呼ばれている」

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岡田斗司夫『オタク学入門』
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