姜尚中トラメガ事件――安田講堂2008年革命 

イタリアの左翼の人、ネグリが、日本政府により入国を阻止されるという出来事が2008年3月におこった
一生懸命ネグリを招くために準備していた方たちにとって、さぞかし残念な事態であったろう
それで、ネグリが講演する予定だった時間枠で「ネグリさんの来れなかった残念会」のイベントがあるという
東大集合だということで行ってみた
目的地の安田講堂が近づいてくると、じょじょにアジ演説が聞こえてくる
東大の左翼って、民青だよね
民青も、活発にアジテーションやっているもんなんだなー
と思っていたら、民青などではない
有名運動家の、早稲田大学の花咲さんだった
ちょっ
花咲さん、何やっているんですか!
何年か前におこった事件、早稲田のビラ巻き不当逮捕のことで、大学の対応のことをアジっていた

昔、中核派が東大に侵入してビラ巻きしたことで、何かの事件が起こらなかったっけ?
最近は大丈夫なんだな

しかし、ぼくもアジへのあこがれはなくはない
久しぶりに聞くアジは熱い
法政大学を糾弾する!
というテーマで、花咲さんからトラメガを借りて、アジろうかとおもった
でも、自分のキャラとは違う気がしたのでやめた
ぼくは運動家になるためのディシプリンとか受けたことないし

妙にデカい立て看板がある
おうかがいしてみると、早稲田から自転車で運んできたとのこと
東大で花咲さんが「不審者」ということで逮捕されたら、それはそれで面白いかもと思ってしまった

んで、会が始まった

姜尚中と上野千鶴子が壇上にあがってトークしている

1968年というのは私たちにとって、特別な年でした
その40年後である、この2008年に、在日と女が教授としてここに立っているのは、当時からしたら考えられないことですし、皮肉ですよね

そんな話に、会場はドっとわいていた
ぼくは、苦々しくこのセリフを聞いた
うらやましいことである

事態が突如として緊迫したのは、石田英敬がネグリとマルチチュードについて語り始めてのこと
早稲田大学の花咲さんと、そのお友達が、石田にアジを飛ばし始めたのだ

内容はよく分からなかったけれども、「駒場寮」という言葉が聞き取れた
「駒場寮」は、東大に昔あった、有名な自治寮だ
関東圏では、東大駒場寮、早稲田学生会館、法政学生会館が、順次、前世紀末から今世紀初めにかけて、強制解体させられていっている
学生による自治区の解体
それは、「帝国」が自治空間を、生権力により蹂躙・変革し、環境管理をすすめていく過程であった
そこらへんの因縁がもとになって、石田が糾弾されたのだとわかった

その瞬間、もっとも迷いなく迅速に動いたのは姜尚中だった
君たちやめなさい
終わってからにしなさい
やめないなら出て行きなさい
大きな声で威圧しつつ、花咲さんたちに詰め寄っていった

それが、マルチチュ-ドについて語る態度ですか
ヤジを認めないのはおかしい
というヤジでもって反駁する花咲さんたち

姜尚中は、花咲さんの足元においていったトラメガを持ち上げ、地面に叩きつけた
トラメガと床が、ごっちんこする音が構内に響いた
暴力反対! という声があがった

そのとき、安田講堂はマグニチュード1ぐらいで震えた
40年前は、マグニチュード7くらいはあったのでしょうか

マグニチュード?
マルチチュード?

昔のマルチチュードは7で、今のマルチチュードは1くらいになっていたりして

衝突はその一瞬でおさまった

やがて、ネグリと石田のトークが始まる
ネグリの電話は、フランス語でぐだぐだと続いた
翻訳が即時的になされるわけでない
聞いている側としては、ちょっと退屈してしまった

左翼同士の内ゲバというのもさもしいものではある
姜尚中なんかも、大学では規律・訓練を行う教育者として立派な人物なのかもしれない
Web状況なんかを見れば、在日差別なんかもひどいものなわけで
当面、マルチチュードたちのアソシエーションなど、行われそうにない日本である

「2ちゃんねらー」とは水と油な雰囲気の、先生たちの集う会合でした
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21世紀のマルクス主義 

○2008年3月27日(木)、ネグリに関する某様の読書会に参加させていただきました

批評家五名様に、有名ブロガーその他の方にお目にかかれて、ぼくの人生において、かつてまれに見る豪華な会合でした

寒空のなか、公園で行ないました
私はガタガタと震えました
あるいは、この寒さは文芸評論家界に吹いている逆風を象徴している、という感じがしてなお良かったです
最弱であるがゆえに最強であるのが、文芸評論だ、という某様のお話が心を打ちました

○ところで、東は、現代社会を、「コミュニティの層」と「アーキテクチャの層」の二層構造で説明しています

東浩紀『文学環境論集 東浩紀コレクションL essays』

それはこういう図で表されます

「主体の(内面の)自由
多様な価値観の共存
コミュニタリアン
多様化主義
規律訓練型権力の作動域
市場の論理が支配
コミュニティの層

          複数のコミュニティ、相互無関連化・島宇宙
         ↑ ↑ ↑ ↑ ↑ ↑ ↑ ↑ ↑ ↑ ↑
――――――――――――――――――――――――――――
                 ↓
          単一のアーキテクチャ、都市・交通(モノとヒトの流通システム)                     市場(財の流通システム)
                     コード(情報の流通システム)

身体の管理
価値観中立なインフラ
リバタリアン
メタユートピア
環境管理型権力の作動域
セキュリティの理論が支配
アーキテクチャの層」

ここで重要となるのは、東は、ネグリの『帝国』を読み、そして、柄谷行人への批判の意図を持ちながら、上記の立論をしていることです

たとえば、一つには、ミクシィだとか、SNSのシステムがアーキテクチャの層にはあるわけですね
そして、その上に、複数のコミュニティがのっかっているわけです

さらに、このアーキテクチャは、「帝国」であるともみなせると、東は主張しています
その場合、複数のコミュニティとは、それぞれの国民国家にあたるそうです

コミュニティの層は、規律訓練型権力の作動域であることも注意しておきたいです

○次に、ネグリの「マルチチュード」について考えてみたいです

藤田直哉さんが、「マルチチュード」とは2ちゃんねらーではないかとの意見を出されています
マルチチュード=2ちゃんねらー説を検討する

興味深い立論です

ただ、「2ちゃんねらー」を「2ちゃんねらー」とくくること自体に、表象の暴力がつきまとうということもあるでしょう

また、ネグリにおいては、「マルチチュード」は、特定のコミュニティの属性を持たないものではないかとも思います

2ちゃんねらーにおける「倫理」が、どう形成されうるかということがらも、問題として生じうることでしょう

○2ちゃんねらーと規律・訓練

そもそも、マルクス主義においては、「コミュニティの層」に属する人員を、「規律・訓練」せねばならないことが、いろいろな困難を生んだわけですね
ディシプリンをしなければ、運動家を組織することが不可能なわけです

「スターリン的独裁」への批判というのが、構造主義思想とのからみで、盛んに喧伝されました

フーコーの権力批判や、ドゥルーズにおける「戦争機械」、2期デリダの「否定神学批判」もその絡みで登場してきたわけでしょう

そこで、ネグリのマルチチュードは、「規律・訓練」を必要としているものなのかどうなのかが気になるところです
「規律・訓練」なしに「帝国」の層への、「抵抗」を唱える、ということがあるのでしょうか

それは、オプティミスティックなアジテーションに近いものなのでしょうか
「規律・訓練」のなされることのないフリーダムさが2ちゃんねらーの魅力ですが、その存在は、もろ刃の刃でもありましょう

2ちゃんねる等、Webコミュニテイの環境管理をいかになすか

2ちゃんねるというものを、国際的な観点からみたとき、どのように位置づけられるか
等、分析・検討せねばならないでしょう

○今後のマルクス主義はどのような方向に進むのか

A 従来のマルクス主義……運動家の「規律・訓練」を必要とする……柄谷の「NAM」にもこの要素が含まれた。柄谷の「NAM」は具体性が高い分、失敗したときの反動がデカかった。たとえば、「籤引き制」等により、否定神学的になることを、柄谷は回避しようとしていた。しかし、総体として、「NAM」は、柄谷と柄谷信者からなる小規模セクトにとどまった。この柄谷の「NAM」の弱点をもっともきちんととらえて、苛烈に批判したのは、鎌田哲哉などではなく、むしろ東浩紀である。東の「否定神学」批判とは、柄谷批判として読むべきである

B 構造主義系の流れを入れつつ、マルクス主義についてあれこれいう現代思想系の立論がある。デリダ、フーコー、ドゥルーズの流れをくむ思想家たちである……運動家の「規律・訓練」はあきらめつつ、アジテーションとしての革命をうたう。具体性に欠けるところあり? インテリの景気づけにとどまらないか……?

C 東のやり方……「コミュニティの層」でのマルクス主義的活動は否定神学であるとし、これを批判する。「アーキテクチャの層」を操ることにより、「平等」を構築できるようなシステムを模索している。実質的内容が進展されることを期待する

これらのうちのどれを選ぶのかということで、立場の差も出てくるのでしょう
そう考えさせられた読書会でした

2ちゃんねらーとネグリのマルチチュード 

○イタリアの左翼のネグリが、日本政府により来日を阻止されるという事件が2008年3月に起こった

・「アントニオ・ネグリ氏来日中止について

このネタって、盛り上がるのだろうか?

・姜尚中をはじめとした、東大・京大・芸大の学者さま方はご立腹のご様子である

姜尚中・東大教授ら、ネグリ氏来日中止で政府に抗議声明

・池田信夫もデリダ・ネグリの「歓待」概念を持ち出し、けしからん、とかなんとかいっている

ネグリを歓待しなかった日本政府

・一方、仲俣暁生は、ネグリの「マルチチュード概念」は定義がよく分からん、誰か説明してくれ、などとゴネている

ネグリ来日中止

・さて、ところで、上記の事件に対する日本の大衆(≠マルチチュード?)の反応はいかがなものか?

・藤田直哉さんの報告によると、2ちゃんねる系の「ニュース速報+板」では、アントニオといえば猪木だろう。猪木といえば、1! 2! 3! ダーッ! だろう、ということで、盛り上がっていたらしい

アントニオさん来日中止

面白いな……
「アントニオ」っていわれたら、「ネグリ」だなんて、誰にもわからないよな

・ネグリって、一般にはまったく知られていないようだからな……。まず、ネグリとは誰かを解説してくれ、といったところか。あるいは、「やる夫がネグリを読み始めたようです」とかそういうスレッドをたてることから始めたほうが良いのではないか?

やるおが『資本論』を読み始めたようです

やる夫シリーズ

こういう形式で、2ちゃんねるでわかりやすいネグリ論を展開する。それをブログにまとめる。ブログにまとめたやつを本にして出版する、みたいな

大学にこもって紀要論文ばっかり書いていても、社会的には意味ねーよな

学者たちが一生懸命デリダとかネグリとか読んでいたとしても、それを大衆的なやり方で実践することは、とても難しいことなのだろう

・そのこととも関連する話題であるが、ひろゆきは、「まとめブログ」のあり方について、広く意見を求めている

まとめブログって実際どんな風に思われてるのだろう? : ひろゆき@オープンSNS

・「2chは見たことないけど、/まとめサイトはよく見てるという人が/増えてくる予感」だ、などというコメントもある。これはまったくその通りだろう

「やる夫」のイベントなんかは、知識をうるために優れた手段だと認識されていたりもするようだ

・ひろゆきは、姜尚中や池田信夫よりさらにすぐれた知識人であり、運動家なのだろうかとも考えさせられる

ラノベで一番エロイ作品ってなんだ? 

ラノベで一番エロイ作品ってなんだ?
というトピックが「ニュー速」で取り上げられていた

若い青少年は、えろいラノベとかって、好んで読むものなのだろうか?

私より10歳くらい年長のある方が、若き日に、安部公房の『密会』をオナニーのネタ本としていたことを明かしていて、へええ、フンフン、と思ったものであった
また、大江文学を読んで興奮するひととかも、いたりしたのではないか?
村上春樹や恋空だって、エロなしにはあそこまでの人気作とならなかったんじゃないか

文学をオナニーネタとしうるかどうかってことに、カルスタ的な興味がある

性欲というものは、一生つきあっていかなきゃいけないものである
セックスだけで性欲を晴らせていたら、まあ、それはそれでいいのでしょうけれども
オナニーをどう評価しうるのかということなど、気になるのである

まあ、オナニーする、しないに関わらず、ケータイ小説でも大衆文学でも純文学でも、文学一般においておしなべて、エロ要素があった方が基本、ヒットしやすい
そもそも、雑誌でも映像媒体でも、「人間」が関わるジャンル一般では、エロの介在するものの方が衆目を集めやすいのは当然だ

○映像におけるエロ
・テレビ
・映画
・漫画、アニメ
・アダルトビデオ
・ギャルゲー

○活字におけるエロ
・ライトノベル
・ケータイ小説
・大衆文学
・純文学

これら全体を相互に検討するとする
そのとき、漫画、アニメにおけるエロと、文学におけるエロは、それぞれ、どのように位置づけられうるのだろうか?

日本のオタク文化における性欲のあり方を、考察していくことは必要だろう
児童ポルノ法との絡みで、オタク文化論は揺れている
東浩紀の「キャラクター論」も、オナニーとの関連が重要なのじゃないか?
人間をキャラクターとしてとらえるか、自然主義文学的にとらえるかという分かれ目が、性欲の問題と、接続していそうな気もする

東浩紀『批評の精神分析 東浩紀コレクションD』 

批評の精神分析 東浩紀コレクションD (講談社BOX)批評の精神分析 東浩紀コレクションD (講談社BOX)
(2007/12/04)
東 浩紀

商品詳細を見る

◎2007年刊行。単行本に収録されていない原稿を整理・収録した『東浩紀コレクション』の第三巻。二〇〇一年から二〇〇七年にかけて行われた対談を収めたもの。「東浩紀コレクションL・S・D」の三部作のうちでも、もっとも読みやすく、また、オタク論から都市論までの広い領域にわたる東の仕事の全体を見渡せるため、推薦できる一冊である。ちなみに、「L」は分厚いので読むのにとても疲れる。「S」は一度破棄された論文であり、マニア向きである

・「あとがき」
2007年に東は六冊の著作を出した。それまでのペースからは考えられないような、堰を切ったような矢継ぎ早の出版をなしたのはなぜか。東は、それまでは、「批評」の規範意識にのっとることで、著作の刊行を抑圧していた。しかし、新しい「批評」を若い人のあいだで育てることを目的として、この枷を外すことにしたらしい。その経緯を記した「あとがき」は興味深い。私の考えによれば、この東における批評のあり方、書籍刊行への意識の転換のあり方は、『キャラクターズ』での柄谷行人殺害と対応している。2007年は、東において、大きなターニングポイントの年であった

・神

自分は「神」に興味がない、という日本人は多い。西洋思想の文脈において、「人間」であるということは「神」がいることである。「神」がいないことは、「動物」であることとセットである。しかし、日本人が「人間」であった時代は、本当にあったのだろうか?

○宮台真司との対談「第一章 データベース的動物の時代」(2001)

・『動物化するポストモダン』出版記念対談

・オタク文化の江戸起源論はおかしい。アメリカの影という断絶を挟んで理解しなければいけない

・良いシミュラークルと悪いシミュラークルを選別排除する装置として、データベース的なものが機能している。ボードリヤールのシミュラークル一元論は間違っている

・シミュラークルの戯れを享受する人々における人間性とはなにか

・ポストモダンは日本的な「スノッブ化」とアメリカ的な「動物化」の二者択一ではなく、「動物化」のみがある

・「あえて」形式とたわむれるスノッブであるが、その「あえて」の契機が抜けるのが「動物的な社会」である

・「動ポモ」は宮台の『終わりなき日常を生きろ』への応答である

……(→オウムか、コギャルか、どちらかを選ぶなら、コギャルである、というのが宮台の仕事。同じことのオタクヴァージョンとして東の仕事がある)

・カタログ化されたディズニー的なキャラクターも、ディズニーランドも、ハイパーリアリティだと言われていた。しかし、実は、カタログはデータベースであり、そして、ディズニーランドが作りだす空間はシミュラークルである

・宮台 コギャルもオタクも共通して、ホメオスタシスのために物理的環境ではなく情報的環境を使う

・宮台 プラトン主義化したキリスト教の本質論が近代社会の母体であるが、その本質論が近代社会のサステナビリティを脅かすようになった

・「現実には、世界はすっかり工学的な知で覆われて、聖性などなくてもやっていけるようになっている」「「聖性」すらも工学的に供給しようという方向の世界になっている」
・「聖性」の体験は「文学」や「お祭り」が担っていた。しかし、認知科学的な聖性の供給システムとして、「萌え」が登場した。動物的な消費者が記号的差異に身体的に反応するのである

○大澤真幸との対談「第三章 虚構から動物へ」(2002)

・大澤 東さんのアニメに関する論で言えば、ガンダムの場合はひとつの物語があるが、ある時期から物語よりもキャラクターのほうが前面に出てきた

……(→これは反証できそうでもある)

・小さな物語は想像界、大きな物語が象徴界で、データベースは現実界にあたる。大澤ふうに言えば、大きな物語とは「第三者の審級」であって、データベースとは、第三者の審級を加工することによって取り込まれるはずの無限、もしくは世界自身のことである

・ある固有名を自分のものとして引き受ける、つまり「自分は自分である」というトートロジーを確信をもって主張するためには、第三者の審級が必要である。第三者の審級がなければ、「自分はだれだ」という問いは無限の確定記述に分解していく。ポストモダンの世界においては、世界が確定記述の集合に分解される。これが「データベース」である

・「僕は「否定神学」という言葉をとても単純に使っていて、神でないことこそが神であることの根拠であるというロジック、ただそれだけです」

……(→「否定神学」という言葉への東の定義。この理解には問題がある)

・大澤 否定神学とはキリスト教の三位一体論などとの関係で出てきた論理である。神についての積極的な判断が不可能であり、不可能であるがゆえに、そうした積極的判断を超えたものとしての超越的なものが存在すると考えるのが否定神学である。つまり、麻原は狭義の否定神学とは異なり、「過視的」に現前している

……(→アニメやパソコン画面も、「過視的」に現前している。これを、古代的な偶像崇拝よりマシなものと位置づけて、いいのだろうか?)

・東 コークは、「コークイズイット」(ジジェク)だからいい、といえるのと同じように、麻原は、「アサハライズイット」であった。超越論性は不在であるが、その不在自体が超越論性を保証しているかのような構造があるのではないか

・風俗等、動物的な性の処理の伝統はずっとある。近代の人文系言説はセクシャリティに過剰な「主体的」意味を付与しすぎなのではないか

・象徴的媒介を通して世界と繋がるのが近代的人間だったとすれば、現在は、その象徴的媒介を各人に叩き込むはずの規律型社会のシステムが機能不全に陥っている。そこでいまは、世界との関係を工学的媒介を通じて作るほかなくなっている

・石と人間の区別をなくしてしまうと、すべてがグラデーションというか、一種のアニミズムになる。しかし、人類は、そういう感情移入の世界に長く生きてきた

・私たちのコミュニケーションにおいては、インターフェイスの向こう側にいる存在が人間かどうかは関係なくなっている

・大澤 まず、アニミズム的な多神教的な世界がある。しかしこの場合現われるものがそのまま神になってしまう。これは肯定神学的である。ところがそれは神の超越性に反する。そこで今度は、現れていないことが神の根拠になる。それが偶像崇拝を禁止する否定神学的なものに転換する。多神教的な世界から、偶像崇拝禁止をともなう一神教的な世界へ。これが否定神学の段階である。それが終わったあとでもういちど表面的に見れば、明らかに多神教的な世界になっている。これは前の段階への回帰ではないか

……(→この指摘は重要。「萌え」とか「アニメ・漫画・ゲーム」というのは、アニミズム的な多神教の世界に逆行しているだけなのだと)

・東 現実界とは私たちにとっては不可知な世界である。そのとき世界そのものを仮象として代補するものが象徴界だった。その象徴界はかつて物語としての形式をとっていたが、いまはデータベースという形式をとっている

・社会の統合のメカニズムが、近代的な象徴界の論理からポストモダンの工学的な論理に大きく移行して、その結果「データベース」という表象が現れた。そこでは人間はそれぞれ多様な神(象徴)を信じていて、そのあいだに実効的なコミュニケーションは断たれている。各自は小さな窓を一個だけ開けていて、そこから必要なデータだけをやりとりする

・60年代のデリダ、ドゥルーズ、フーコーは否定神学的な論理こそが未来の哲学だと主張しているように見える

・70年代あたりを境に、記号的世界の巨大な変容が始まった

・「ポストモダンになって社会の統合が象徴的媒介から工学的媒介によって担われるようになった」「超自我のイメージが「神」や「父」から自動機械的なネットワークに変わっていった」

……(→ホントか? そもそも、東は、自分にとっての無意識を、自己認識しえているのだろうか? たとえば、一般に、「父」や「神」が内在していなければ、一人で読書をしたり、勉強を続けることすらできないものだろう。東が仕事をし続けられるのはなぜか。東にとっての「父」と「神」が、東のなかにいるはずだ。たとえばそれは柄谷であり、浅田であるのではないか。東は、自己分析が不足してはいないのか。「キャラクターズ」は父殺しの物語として読むべきではないか。だれにとっても、「神狩り」をすることは大変であろう。東がそれをなすのは、2007年を待たねばならなかったのではないか?)

・『存在論的、郵便的』は郵便が到達しない可能性について書き、ネットワークの領域について論じている。『動ポモ』は到達する郵便を扱っていて、こちらはデータベースの領域に関することである

○「第五章 シニシズムと動物化を越えて」(2003)大澤、斉藤環との対談

・大澤 「もし象徴界がなくなったら、だれもが精神病になってしまう」

・東 マクドナルドやコカ・コーラは「動物性の論理」で理解すべきものであり、スターリニズムはシニシズムの論理で解釈すべきである

・大澤 全体性への参照を含んでいくのが固有名であり、断片というのが確定記述である。確定記述はひとを断片としてしかとらえない。これが多重人格と関わる

……(→ホントか? 東の「解離」論と多重人格論については疑問を感じる。日本社会においては、「ホンネ」と「タテマエ」が分離していて、これは日本がいまだ村社会であるからだとする論が昔からある。これと異なるところがあるのだろうか? 封建的遺制の弊害、といった論のヴァリエーションにみえるのである)

・東 多重人格の個々の人格は漫画的な平板なキャラクターだとよく言われる

○「第七章 どうか、幸せな記憶を。」更科修一郎、佐藤心、元長柾木との対談(2004)

・1995年が『新世紀エヴァンゲリオン』の年で、その後、サブカル業界での実存主義化が一般化した。思春期の悩みがストレートにアニメやゲームで表現される流行である。しかし2004年には奈須きのこ、冲方丁などが評価されたのは、この流れから切れている

・弱くて女々しい物語でも男性読者はついてくるというのが『ファウスト』の発見であった。当初、舞城王太郎、佐藤友哉、西尾維新のための雑誌として『ファウスト』があったのにもかかわらず、『ファウスト』第三号は「新伝綺」偏重であるのは、いかがなものか

○「第八章 オルタナティブの思想」福嶋亮大との対談(2006)

・「メタとベタの二重体」とはフーコーが『言葉と物』でいった「経験的‐超越論的二重体」のことである。ようはクラインの壺のモデルである。人間を、神と動物の中間の存在としてとらえる思想である。東はこのモデルを批判し、再考することをめざした

・フーコーが『言葉と物』を書いた1960年代には、「経験的‐超越論的二重体」という人間観が壊れつつあって、それを認識したうえで歴史をとらえ返していた

・メタゲームを止めることが人間にはできる。人間は人間的なものと動物的なものとのバランスを取ることができて、それが主体性の根拠だ、という発想は70年あたりで命脈が尽きたのである

……(→東は自己を、「人間」だと考えているのか? 「動物」だと考えているのか?)

・ヨーロッパの思想においては、経験的な領域に偶然はない。自由や偶然は人間の領域、超越論的領域にあると考えられる。人間には経験的な認識と超越論的な認識が可能であり、前者で思考した場合は宇宙には限界があるが、後者で思考した場合は限界がない。これがカントの答えである

・東はこれを間違いだと考える。人間の自由は、経験的な領域のノイズから発生するのではないか。これが「幽霊」「誤配」「確率」である

・東がオタクを解離的な存在だと考えるのは、オタクのなかに動物性と人間性が共存しているからだ

……(→パスカル的で当たり前な話ではないか?)

○「第九章 ポストモダン以後の知・権力・文化」(2006)稲葉振一郎との対談

・ライトノベルは物語構造としてもレーベルとしても定義できない。そこで、キャラクターのデータベースという考え方が出てくる。物語と物語の隙間を埋めている想像力の環境の特性で捕まえるしかない

・オタクの世界で起きていることは、あるテーマパークが分解されて別のテーマパークが作られるダイナミズムにある

・萌えとはアニメ・漫画の素材を使って自分の性的な欲望をコントロールするための人工環境を作ろうという消費者側の動きである

・動物が増えて問題が起きたら、教育ではなくて、別の要素で調整すべきである

・過度に内省的なひとたちに知的な権力を集中させるシステムの崩壊が起きている

・実存主義と構造主義の対立は、内省的=人文的知と工学的な知との対立であった

・東の「動物化」は、パンセ・ソバージュ「野生の思考」の話である。パンセ・ソバージュは自然環境が相手であったが、パンセ・オタク(オタクの思考)は人工環境を対象としている。東の仕事において、否定神学批判をやったのちにパンセ・ソバージュの分析(社会学ふうにみえる)がくるのは20世紀思想史的に当然の理路である

・北田、鈴木謙介は、個人の自意識を出発点としている点で東と異なる

……(→北田、鈴木は、「社会学者」であるが、東より社会学的ではなく、文学的である)

・東の立場は工学的ポストモダニズムである

・1970年代にオフセット印刷が安くなり、それによってコミケが出現した

・人類はコミュニケーションの人工環境をすごい勢いで拡大させている。キャラクターのデータベースはその一部である。その人工環境を分析する知が必要である

○「第十章 工学化する都市・生・文化」(2007)中俣暁生との対談

・『東京から考える』の成功は『思想地図』の創刊をもたらした

・人文的な「文化」の領域が、きわめて具体的な技術の問題ときわめて抽象的な構造の問題に解体されていく、という感触において、『東京から考える』と『ゲーム的リアリズムの誕生』は共通している

・世界は保守化している、というより「工学化」している

・下北沢が再開発に抵抗するしないという話は、文芸誌がライトノベルに抵抗するしないという話と似ている

○「第十一章 ナショナリズムとゲーム的リアリズム」(2007)大澤真幸との対談

・『ゲーム的リアリズムの誕生』のなかの「プレイヤーの視点」は「第三者の審級」である

・『ゲーム的リアリズムの誕生』は環境がしいる自己言及性を帯びた物語を主題としている。それは「どんな物語でも選べるのでオッケー」という主題の物語と、「決断が必要であるがゆえに倫理が要請される」という主題のものに分かれる

・普遍性への欲望をあきらめつつ、可能世界の想像力をテコにして、他者への倫理的態度を育てることができないか

・「第三者の審級」ではなくて、「身体の共感可能性」「可能世界の想像力」からの倫理の構築を推すべき

……(→「可能世界」論で東はギャルゲを特権的に肯定するが、既存の小説との間で差異付けをする必要が本当にあるのか?)

○チェック
稲葉振一郎『モダンのクールダウン』

東浩紀×近藤淳也×鈴木健対談――人類の99パーセントは馬鹿である 

東浩紀のブログのエントリ、「近藤淳也氏宅訪問」で、東浩紀・近藤淳也・鈴木健の対談を公開(2006年02月27日)している。お酒を飲みながら、砕けた感じで雑談をpodcastしたものらしい

○木棚環樹さんがこれをブログで文字に起こしている

・近藤淳也が理想主義的な自由論を述べる。これに対して東浩紀がクールで淡泊なつっこみを入れている

東浩紀の国家観って、どうなっているの? というのは常々疑問ではあった。『動物化するポストモダン』では、単一のアーキテクチャと、その上に乗る多様なコミュニティが存在する。国家も、このコミュニティの一つにすぎない、という二層構造が語られていた。

・また、『思想地図』発刊記念シンポでは、それぞれのコミュニティのメンバーが、それぞれのコミュニティに属し、それぞれのコミュニティのなかで社会参加を行う。その社会参加の結果を政治へと反映されうるように、アーキテクチャを整理し、再分配と調整をなすべきだといった趣旨のことを東は述べていた。この弁論は評判が良かった。しかし、私には、具体性の点でイマイチ信頼にかけるもののように感じた

・批評空間派は「国家の悪」をながらく検討していた。日本において、良識的な文芸評論は、「国家の悪」をいろいろな形で分析した。東は、この点を回避しているのか、展開していくつもりはないのか。いまいち態度が分かりにくい。東における左翼運動への距離も含めて、この対談では、氏の国家観の一部がうかがえて、興味深い

◎内容

・一つ目の話題。「2ちゃんねる語」のような普遍性のない用語がWebには登場してきている。そのため、翻訳が難しく、国際性がなくなり、島宇宙化している現状がある

○「東:いやねぇ、あのねぇ。インターネットとかが出現することによって。様々な言語圏というのが一気にリンクし出現するわけですよね。で。例えば僕だったら、英語とかフランス語とかのブログが読める。読む可能性は出来た。かといって読むかというと読まないわけ。何故かっていうと、つまり、日本でもそうだけど「2ちゃんねる」を外国人が読めるかっていうと読めないわけじゃない。外国人の日本語研究者っていうのはさぁ、日本について、何か知ろうと思ったら、昔だったら朝日新聞とNHKを押さえておけば何とかなったわけね。けど、いまだったら2ちゃんねるを押さえとかなきゃいけない。でもそれは、障壁がめちゃめちゃ高いわけじゃない?

近藤淳也:確かに。「キターーー(・∀・)ーーー!!」とか。」

○「東:インターネットで何を起こしたかっていうと、一言でいうと方言とかすごい共同体同士の言い回しとかを表面に上げていくわけですよね。」

・この認識は重要である

○「東:かつてだったならば、そういうことは全部活字にならないと。活字になったり、放送に載るっていうのはかなり標準化された情報で、その標準化の過程ってのが、日本とかドイツとかフランスとかアメリカとかっていう各国民国家ごとに行われていた。それが流通するってのがやっていたわけですよ。だから、国際的に成れるわけね。全部、本当にそこら辺の言葉が全部表面に出てきて、それで流通するっていった場合、インターナショナルっていうか、グローバルであることの障害・ハードルはむしろ高くなる。しかもこれはやっぱりいま言っている事の性格上、自動翻訳によってとかはどうしてもカバーできないはずなんですよね。」

・これまで、「活字になるもの」は、国民国家の単位でのまとまった言語たる標準語によってなされていた。活版印刷機とテレビは標準語を作る。標準語の習熟と普及が国民国家を成立させる。しかし、情報化社会においては、国民国家の内部でも、「方言に類するもの」が分裂して、Web上に露出する

・私としては、現代社会における「ギャル文字」。新左翼運動における「左翼的な言い回し」なども、同位相のものとして考えてみたくはある

・もともと、若者の集団には、特有のスラングがうまれる。また、特定の職能集団には、その組織ならではの専門用語、ジャーゴンが不可避的に生じるものである

・第一に、ある集団と別の集団とでは、直面している状況が異なり、そこで細かく分節化すべき対象となる事象も異なる。これは、技能的、現実的、実際的な面での、言語の固有性の発露である

・第二に、特別なスラングを使用することで、共同体内部の結束を高める作用がある。「言葉」とは、「自己」と「他」を区別するために使われ、アイデンティティをうるための手段となる

・たとえば、「アイヌ語」をたやさぬようにするために、アイヌ語講座に通うという人がいる。また、万葉集を研究して、古語の意味を精査することを生涯の課題とする人がいる

・「キターーー(・∀・)ーーー!!」であるとかいった「2ちゃんねる語」は、意図的に標準語とは異なった語彙を、コピーアンドペーストをすることで、「自己」を獲得する手段ともなっていよう

・そして、それは、マルクスの思想や左翼用語に詳しく練達していることと、いかなる差異がありうるかということもまた、課題となろう

○「東:アラビアまで行かなくても、ハングルとか中国語でも良いですよ。つまり、例えば、日本語で嫌韓という言葉がありますけど、嫌韓というのは普通の辞書にも載ってないし、ATOKでも翻訳されませんですよね。アメリカ人が、コリアバッシングが日本のネットで起きていると思う、しかも日本語が多少読めるアメリカ人だったとしましょう。そいつが「嫌韓」でGoogleで検索するかっていうと、検索しないわけですよ。嫌韓て言葉知らないんだから。そういう問題が起きるんですよ。これがなかなかクリアできない。

近藤淳也:それを全部オープンにしたら良いんじゃないですか?

東:オープンにしたとしても、そのオープンな情報にどうやってアクセスするかっていうところの障壁は、なかなか崩れないだろうと。」

・オープンに情報が開かれていたとしても、それぞれの組織間での、固有的な言葉を共有しないがゆえの島宇宙化が維持されるであろうことが指摘されている

・柄谷行人が大塚英志との対談で述べていた。Webにおける言説のレベルはひどい、前近代よりなお悪い、と。しかし、この手の主張は、転倒しているのではないか。もともと社会は島宇宙的な共同体により形成されていたものであった。その島宇宙的な現状が、Webに、反映されるようになったというだけのことではないのか。「ケータイ小説」にしろ、Web発の「ライトノベル」に類するものにしろそうである

・Webは、かつては、活字にならなかった大衆の生活がWeb上の活字へと表象されるようになった。そうすることで、以前より、社会の深層が表層へと露出するようになってきたのではないか

◎内容

・二つ目の話題。東における、社会参加検討

○「近:国家への多重所属というのはないんですか?

○「東:国家への多重所属はヨーロッパにおいて実現していますよ。ポルトガルとフランスの二重国籍とか。」

○「鈴:それはだから、構成的社会契約と僕が言ってる奴だけどね。」

○「東:それが理想だというのは僕も分かる。僕もそれには同意します。ただ、人類の多くはそんな面倒臭いことに加担しないと思いますね。」

・「面倒臭いことに加担しない」、この認識も正しい。左翼の理想通りに、人類が動いていくわけはない

○「東:近藤さんにしてもそうだし、鈴木健さんにしてもそうだけど、すごい意欲が高い人なんですよね。人間ていうのはたいてい適当で、なんとなーく、ここで生まれたから、なんとなーく周りで友達を作って、なんとなーく死んで行くんですよね。どうのこうの言いながら僕はこれは人類の生物学的条件だと思うわけですよ。」

○「東:podcastとかで録られているから、あんまりこんなところで言いたくないのですが、人類は99%ぐらい救いがたく馬鹿なんですよ。」

○「東:その条件を認めない限り社会設計は出来ないわけですよね。意欲のある人間、それぞれの地理的条件も全て引き払って、家族関係とかからも完全に自由になることができる。自由になり方もいろいろあって、他の国に行ったとしても家族との関係を絶やさないということもあれば、別に完全に切り取るということもあるかもしれないけれども、いずれにしても、それは大変にエネルギーの要ることですよね。」

○「国民国家という19世紀に発明された概念が素晴らしかったのは、人類全体を救おうと思っていたからなんですよ。すごい貧しい奴も、すごい能力が低い人も、すごい能力が高くて富裕層の人も、全部一緒くたにして国民なんだって事を言ったわけですよね。それはフランス革命の「平等」って理念なんですよ。自由・平等・博愛ってあったでしょう?博愛と自由は誰でも達成できるわけ。むしろIT的な物は自由と博愛だけが突出していると言っても良い。平等ってのは何かって事ですよね。」

・「国民国家は人類全体を救おうと思っていた」という東の認識は正しいのだろうか? 国民国家というものの「平等」の対象は、国家内部を超えることがなく、国家と国家の「間」に被害者・被差別者が発生する

・これに対して、「人類全体を救おう」という理念を代表したものして、マルクス主義であったのであろう

○「東:最近でもそうだけど、自民党も民主党もあんまり政策変わらないわけでしょう?いろんな政策のオプションがあるのに、それを全部パッケージ化して、こいつを選ぶかあいつを選ぶか二者択一にするわけですよね?あんなのまったく原始的なシステムで、ああゆうの僕ちょっと嫌いなんですよね。」

○「東:政策ごとに選挙権を分割すべきだと思います。」

○「近:なるほど。全員で決めるみたいなのに近いですよね。」

○「東:ん、いや、一人一票である必要もないと思いますよ僕は。最初に生まれた段階で、政策ごとに割り振った選挙権パッケージみたいなのを与えて、それを選挙権同士で売り買いするみたいな。」

・東のこの意見はどういうことなのだろうか?

○「近:市場があるんですか。」

○「東:それは、いわゆる経済的な関与をそこに入れないべきなんですけど。」

○「近:権利は平等であるべきだみたいな。

東:僕はコンテンツ産業系の選挙権を持ってて、コンテンツ産業系選挙権は、北朝鮮系選挙権の0.3みたいな。そういうような市場を作るということですね。

東:市場ってシステムが素晴らしいのは、みんなが馬鹿でもなんとなく幸せになれるってのが、市場ってシステムの素晴らしさなの。

東:物を売り買いする人ってのは自分が儲かることしか考えてないわけだ。例えばさぁ、原発問題だけに関心がある人がいるとするでしょう。別にイルカ問題でも良いんだけど。原発問題にだけ関心がある人ってのは、原発にしか興味がないわけですよ。社会全体を見渡す必要がないわけ。でも、原発には妙に興味があるから、原発関係に票を集めようとするわけだよね。自分の他の政策関係に持っていた権利を全部売り払って、原発関係のことを集めるわけだ。で、彼は大変なる極小的な利害で動いているんだけど、でもそういう人がいっぱいいれば、原発関係に関してはそれなりに政策が良くなったりすると思うのね。」

・話が唐突で分かりにくい

・たとえば、ある人は障害者介護を重要だととらえ、福祉活動を行う。別の人は、下北沢再開発問題が、クリティカルに感じられるかもしれない。それぞれは、それぞれの倫理的運動を課題とする。それらの総体をとらえ、権利の配分を正当になすことは、どのようにしたら可能なのか?

○「鈴木:例えば自民党で言えば部会政治みたいなもんでしょう?

東:違うと思うけどねぇ。もっとマーケットに近いんだけど僕的には。みんなが馬鹿でもどうやって上手く回っていくシステムを考案するかってところがキモなんじゃないかと。
東:僕はアメリカ大統領選挙とかも本当はイラクの人とか参加出来るべきだと思うからね。でもそのためには、日本国民だから日本の選挙権を一票みたいな考え方を根本的にくつがえす必要があるんですよ。そういうようなことを考えた時にいきなり世界政府ってわけにも行かないので、選挙権一人一票という原則から考え直す必要があるであろう。政策ごとに選挙権を細かく分割できると。選挙権証本みたいなのをもらうわけですよ。毎年毎年。「お前の選挙権マネーは五千マネーだ」みたいな。」

・「アメリカ大統領選挙とかも本当はイラクの人とか参加出来るべきだと思うからね」というのは普通にすごいな

・知識人とか大学人には、「大衆は馬鹿である」と主張する人が多い。「大衆は馬鹿である」といった発言は、ぼくは好きではない

・しかし、「政治」と「経済」にまつわるシステムにおいて、もしももっと、「自由」「平等」「博愛」を、世界的に実現できるようなシステムを開発できるというのなら、その人を尊敬するけれども

椹木野衣『シミュレーショニズム』 

シミュレーショニズム (ちくま学芸文庫)シミュレーショニズム (ちくま学芸文庫)
(2001/05)
椹木 野衣

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◎1991年に単行本版が刊行。2001年に増補版が出る

・「シミュレーション・アートとハウス・ミュージックを〈サンプリング・カットアップ・リミックス〉というキーワードで横断的に論じ、1990年代の文化を予見した」(ウィキペディアより)評論書

・「サンプリング・カットアップ・リミックス」の歴史を、現代美術史とポップカルチャーのなかに探り出す。「サンプリング・カットアップ・リミックス」には、「引用・コピー・パロディ」と類する問題性をはらむ

東浩紀『動物化するポストモダン』の参照先の一つ

・『西鶴という方法―略奪・切り裂き・増殖・滑稽』で浅沼璞は、「サンプリング・カットアップ・リミックス」は近世の連句においても多用されていることを指摘している

◎本書を読んでの感想

・たとえば、「ニコニコ動画」におけるマッド動画。たとえば、コミケにおける同人誌の即売会。たとえば、「2ちゃんねる」におけるアスキーアートや定型句。それらに代表されるように、「サンプリング・カットアップ・リミックス」といった手法は、現在、「2ちゃんねる」や「ニコニコ動画」において全面化されている

・ところでそもそも、唯一性というのは、どうやって生じてくるものなのか?

・極限的に言えば、まったく「引用」の含まれない文章はない

・たとえば、「こんにちは」という言葉は、もちろん、なんら独創的なものが含まれる単語ではない

・「こんにちは」と言われることに対し、「こんにちは」と返すことには、すでに「引用に類するもの」が生じている

・「ロジカルなもの」とは、「A=A」が成立することである。1+1=2。ここには独創的なものはなんら含まれない。数学性は「普遍」と「神」に供する

・「サンプリング・カットアップ・リミックス」には、なんらかのカノンにおける「A=A」といった同一性と関わる。カノンに含まれる「A=A」という同一性を略奪し、切り裂き、増殖させる。そうすることで、「A」にダッシュをつけ、「A´」へと変更する。これが2次創作である。

・カノンに手をくわえ、カノンのなかに自己を滑り越せるシミュレーションを行うこと。これがシミュレーショニズムである。シミュレーショニズムをもっとも形式的に実践したものがテレビゲームだ

・人は、テレビゲームのなかに唯一性を感じることがある。感じないこともある

○Web環境は、データの吸い出しと改竄を容易にする。マッド動画や同人誌において、オリジナルの作品を、視聴者が手を加え、2次創作をする

・オリジナルなき、シミュラークルが全面化していくのがポストモダン社会である、というのが『動物化するポストモダン』。作家主義の駆逐。キャラクターの増殖。(しかしここには、「東浩紀」という固有名は当然のごとく残存し、その理念を欺いている)

・人は「唯一性のなさ」に耐えられるのか?

・近代社会において。「唯一性」を「視線」が支える。「唯一性」を「神」が支える。同一的な「神」が「法」を制定する

・「サンプリング・カットアップ・リミックス」は近代的な手法ではない。近代性は、同一性を要請する。近代性は著作権を認める。「サンプリング・カットアップ・リミックス」は、不法な所業として駆逐される

・人が「アート」と呼ぶもの。それは、選挙用ポスターの政治家の額に書かれた「肉」という文字でしかないのだろうか?

・「ロジカルなもの」と「ロジカルでないもの」に分けるとする。ある人が「ロジカルでないもの」にこだわり文を綴るとする。一字一句独創的な構成をなして文の連なりをつくりだすクラシックな文芸が、「詩」であると、一義的にはいえる。唯一的な個を求める、創造的表現

・もっとも、「引用」がまったく含まれない「詩」もまた、存在しないことだろう。詩と、現代のサブカルを代表する「二次創作」の違いはどこにあるのか? 

・ひとつはもちろん、情報化によるコンピューターツールの普及があるだろう。コンピューターはA=Aを完膚なきまでに守る。二次創作をなすものは、ある情報のクラスタ、固まりを、そのまま盗用できる

・もうひとつは、「詩」には作者がいて、「現代二次創作」においては、作者がいない、ということがある

・しかし、それらも、程度の問題ではないのか?

・唯一性への憧れと、作家性への憧れ。そこから逃れることは、本当には不可能なのではないのか?

○チェック
ボードリヤール「シミュラークルとシミュレーション」(1981)

やるおが『資本論』を読み始めたようです 

やるおが『資本論』を読み始めたようです
やるおが『資本論』を読み始めたようです 2
マルクス『資本論』の内容を「vip」で楽しく解説。60分でわかるマルクス『資本論』。いい企画ですね
     ____
   /      \    
 /  ─    ─\   
/    (●)  (●) \   疲れたお
|       (__人__)    |   一生働きたくないお
\      ` ⌒´   ,/


世界を革命すれば働かなくてもいい世の中ができるわ!
私について来なさい!
             , - ─- 、_
       /        `丶
      rー‐<::/ ン-―ー- 、   、 \
  {(こ 〆.:::/  ____ \ ヽ..::::ヽ
  __/'´/  〃7了.:.:.:.:.:.:.:.:`ヽ.j ::ヤ¬寸
/,イ>/ .:::/,':::{:::::!:::::::::::::::::ヽ ::|:. ::::Vヽ_,イ
レ/,イ ::/ :{:ハ\{ ::、::ヽ ::::::}::_|_: :::::l >::|
{/::| :!{.::ィ'f坏ト\{ヽ ,><ム:!:::::::: Kヽ:ト、
  |::::ヽ::i:ヽi. r'_;メ  ヽ´ イ圷ハ|::::::::::|\/ヽ>
  |i:::::::トl::ハ.     ,    r';ン´j::::::::: l: V
  |i::::::::!:::: ヘ  {>ーァ   /:!::::::::/::/
  lN:ヽ:ヽ::',:::ヽ、ヽ _,ノ  ,.ィ::/::::::/ /  
    ヾ /}::}八::::ヽ>.-‐か/7::/∨
 r<¨ リ\`ヽ、\__ {  〉/イ l  )}
 f⌒ \ \ヽ  )' \ニニ∧ | |!彡ヘ
 |    \ ヽム    ヽ‐' .| | }ヘ,__,イ
r-ヽ     ̄ )\     Vrj/ ̄ヽ ヽ
|  \     // /)ミ ー-∨   / ̄ ヽ
|   (>―‐'/ /勺ヽ¨ア    /    }
\三三‐'ノ ^ヽ/   /-―一 '

・こういうことを松平はマジで言われたことがあります

・今、マルクスを読んでなんの意味があるの? と思われるかもしれません。それでもマルクスはおもろいと思いますよ。機械的に働き続ける毎日って、何かおかしいな。そう感じる人は、労働とは何か、貨幣とは何か、社会の構造はどうなっているか。いろいろ精査してみてもいいのじゃないでしょうか。鬱病系の人にはおすすめです。まあ、『涼宮ハルヒの憂鬱』みたいなもんです

資本論 1 (1) (岩波文庫 白 125-1)資本論 1 (1) (岩波文庫 白 125-1)
(1969/01)
マルクス

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「ひぐらしのなく頃に」は中上健次の嫡子である! 

ひぐらしのなく頃に 第二話~綿流し編~ (下) (講談社BOX)ひぐらしのなく頃に 第二話~綿流し編~ (下) (講談社BOX)
(2007/11/02)
竜騎士07

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◎『ひぐらしのなく頃に 第二話~綿流し編~(下)』(2007)について

・「ひぐらしのなく頃に」(講談社BOX文庫)は人気同人ゲームのノベライズ。美少女ゲーム系で、中途半端に小説化された胡散臭い作品は多いが、これはちょっと違うようだ。編集者の本気感の伝わる造本である

・ジャンルはホラーミステリー。しかし、多量の「萌え」がまぶされている

○作中に登場する「綿流し」という異様なお祭りと、「ダム建設反対運動」。この2点は、少々検討してみたい要素が含まれる

・「ひぐらしのなく頃に」には、「綿流し」という村落共同体における伝統的なお祭りが象徴的に登場する。このお祭りは、かつて、田舎の共同体で秘密裏になされる、食人の儀式だったのだそうだ。ある口伝によると、「犠牲者を狩り、それを食す宴」「女子供は蒼白になりながら震え、血に弱い者は嘔吐しながらも、それでもなお、宴(解体作業)を見ることを強要された」「見せしめの処刑」であるらしい(p.58)。この儀式は、明治末期ないしは、江戸以前に行われたとのこと

・『ひぐらしのなく頃に 第二話~綿流し編~(下)』のメインとなる作中時間は1983年(昭和58年)。都会からやってきた主人公は知らないことであるが、70年代末、ダム建設計画により作品の舞台、「雛見沢村」は廃村の危機をむかえた。これに対し、雛見沢村の住人達は、苛烈なダム建設反対の抵抗運動を行なったという。この運動の渦中において、また、そののちに出た死者が、様々な謎を巻き起こしていく

○これ、「特殊部落問題」と関係があるの?

・主要登場人物の園崎魅音の祖父、園崎宗平は、戦時中、死体運搬の仕事をさせられていたとのこと。「……出身を理由にした不当な扱いだった。」と語りが入る

・作中では、戦時の日本軍が、中国人、および日本人の人肉を缶詰にして、食料源としていたとのこと。これを、園崎宗平が戦後、日本で売りさばいたとの風聞が語られる(p.300)。そして、人々は、「人肉を売って材を成した鬼畜と呼び、…(引用者注 雛見沢村の)村人をまたしても蔑み始めたのです」「……差別したりされたり、したりされたり。どうして優劣や等級をつけたげるのか。どうして人間は人間を見下ろさないと生きていけないのか。」

・「時代は昭和三十年代の半ば、日米安保条約を巡る騒動が世間をにぎわす、戦いと運動の時代だった。雛見沢の人々は連帯し、一人が受けた不当な差別を全員が受けたものとして戦った。」これらの記述は、部落解放運動を思わせるものがある

・つまり、新左翼のマイノリティ運動と、運動体内部でのリンチ事件が作中の大きなテーマとなっていそうなのである。「ひぐらしのなく頃に」は、ドストエフスキーや島崎藤村『破戒』、埴谷雄高や大西巨人、中上健次に連なるテーマを受け継いだ、現代的な作品だと言えそうである

○論点
・「鬼」「神社」「祟り」についての民俗学的分析。村落共同体における「崇高なもの」と「不気味なもの」のジジェク的な分析
・互酬的共同体における「話すこと」と「話さないこと」。殺人について
・「隠喩としての病」「俗情との結託」等の問題点がありそうである

○チェック
横溝正史『八つ墓村』

Web環境における文系研究と21世紀の文芸誌 

・女子院生による新書、金益見『ラブホテル進化論』について小谷野敦ブログで記事を書いている。
(美人!?)女子院生を、(三流私大の!?)大学の先生は、とりたがるものなのかな、というお話。もともと、博士課程を出る以前に、単著を出してもやっかまれるだけだよ、というのが小谷野さんの持論であったようだ。女子院生の新書出版というのは、その件と関わる話題なのでしょう

・「神戸学院大学の院なんか行っても未来はないので、みなさん勘違いしないように。」というのが小谷野氏の結びの言葉。しかし、そもそも、行って未来のある院って、あるのかなとも疑う。文系大学院って、何のために存在するのかしばしば分からなくなる

・また、博士号をもっていなくても単著出してたりする先生も学科によってはいるだろうし。そしてそもそも、本をまったく出していない先生って、どういう活動をしているのかなと不思議ではある

・文系の院は

○その大学を出ると何になれるのか

・就職先一覧
・所属人数
・何年で卒業したか

といったことを、どの大学も標準的にWebで公開していくべきだろう。ちゃんとした大学ではやっている。三流私大ではやっていないところが多いよう
それのみならず、

○その院で、どんな研究をしているのか

・何本のどんな題材の論文をどこに発表したか
・論文を全文アップ
・紀要を全文アップ
・レジメをアップ
・Web上での論文・レジメの検討をできるように、コメント欄・トラックバックを可能にする
・修士論文・博士論文をアップ

○といったことも、行なっていくべきなのじゃないか?
とある大学では、とある学会では、とある思想のパラダイムのみが通用する、という状況がもしもあるのだとしたら、奇妙なことだろう。Web上で、すべての学者同士が相互検討・相互批判できるように、学術研究のやり方を変えていかなければならないのではないか。つまり、「Web環境における文系研究」のシステムを開拓する必要がありそうである

○上記の小谷野氏のブログの後半の文章も面白かった

・田中和生と高橋源一郎の批評家は不要か? 論争とも関わるもの

・「それにしても、作家と批評家が対立関係にあるみたいな言い方はおかしいのであって、作家だって時評で悪く書くことはあるし、作家から言われるならいいが批評家から言われるのは嫌だ、というのは、実はちょっと理解するのだが、昭和初年は作家でもけっこう厳しい時評をしたものである。私はごく単純に、文芸雑誌の編集部が、厳しいことを言う批評家、たとえば糸圭秀実、渡部直己に始まって、斎藤美奈子とかを排除しつつあるのではないかという疑念すら抱くのである。」

・文芸誌の編集者は、厳しいことを言う文芸評論家を排除しつつあるのかと問うている。しかし、文芸評論は、文芸誌の売上、文芸評論書の売上などで、出版社に貢献しうるものなのか? 文芸評論家の社会的役割って何なのでしょうかねーと思う

・とある方に、最近の松平のブログは東浩紀偏重なのじゃないかと指摘を受けた。東の文芸評論なんて、文芸評論じゃないじゃん、というのがその方の主張のよう。でも、多くの読者の心性を、知的な文章でもって代表することが評論の役割だと思う。なので、多数の読者に読まれるようなテクストを生産できる人も、まあ、すごいとぼくは思いますね

○チェック
斎藤美奈子『週刊朝日』の桜庭一樹評
プロフィール

Author:松平耕一
○twitter登録名:matudaira
○ツイッターまとめ:http://twilog.org/matudaira
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☆文芸空間社企画
◎批評放送
・批評放送は松平のプロデュースする動画配信企画です。ツイキャス http://twitcasting.tv/matudaira 、youtubeなどで配信されます
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○松平耕一・文芸空間社・批評放送へのカンパ振り込み先は
・三菱東京UFJ銀行の吉祥寺支店普通口座1896022 マツダイラ コウイチ 宛になります

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