現前と存在 

私は、何かしらの像が内面に貼りついて、固着してしまうことが多い

子供用玩具である、マジックメモのボード
上から字が書けて、レバーを操作するとその字が消せるというやつ
書いた字が短期的記憶
しかし、ボードの下には長期的な記憶が残存する
人間には短期的記憶と長期的記憶がある
認識にとって現前しているものは、短期的記憶に入れられる
現前しているものへの記憶は持続せず、短い間で経験を、括弧の中に入れて消されてしまう
そうすることで、人間は、変化していく状況をその瞬間その瞬間で、認識することができる
時間の流れの中で、対象を認識していくことができる
現前しているものへの記憶は、すぐに忘れられちゃうけれども、無意識のなかには、その記憶は保存されている

社会というのは、現前ありきで構成される
しかし、活字の世界というのは、それとはちょっと違うわけですね
Web世界のデータベースというものも、どちらかというと、無意識の空間に近い

流行なり、ポップカルチャー的なものというのは、どんどんと押し寄せ、押し流していく河のながれみたいなもの
あるいは、巨大な波のようなもの
激しくうずまく波の上に乗り続けることができるか
それができるのが、スターなのでしょう
サーフィンがうまいのがアーティストなのでしょう
瞬間瞬間の瞬発力で、おしよせる情報をさばいていく
かっちょええな
まぶしいな

一方、研究者的な視点というものは、ある瞬間をとらえて、その固着したものへの分析をなすことにある

人間、普通が一番だよねーと思う


[ 2008/04/25 15:10 ] .雑談 ノンジャンル | TB(0) | CM(0) | このエントリーを含むはてなブックマーク| |

文学フリマについて――21世紀文学の営業・流通経路 

・文学を扱う同人誌即売会である文学フリマは、大塚英志の呼びかけがもとになって2002年に始まった。漫画の同人誌即売会として、コミックマーケットがあったため、これと同じことを文学でもやれないかというアイディアである。コミケは、たくさんのアマチュアの漫画家を抱え、漫画界を活性化させる一助となっている。コミケでの収入のみで生活できるような、同人作家すらもいる。印刷技術の進歩により、簡易オフセット印刷が可能になったことから、コミケは誕生したという説もある

・コミケの成功は、文学にも生かせるのだろうか? それは、「不良債権」と化している文芸五誌等の、売れない、商業的価値がマイナスに突入している、「大文字の文学」に、新しい息吹きをあたえることができるのだろうか?

・でも、実際問題、コミケで儲かっている作家って、エロと2次創作のおかげじゃないか? 文学には、エロも2次創作も使えない。活字オンリーの大文字の文学で、儲けることって可能なの? ぜんぜんダメなんじゃないの? 大塚の思惑は成功したのだろうか?

・これまでの、文学フリマの出店ブース数と、参加者数をチェックしてみる

↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ 

☆文学フリマ年表(木棚環樹氏が「文学フリマ年表」を作成

○2002年5月=群像6月号に「不良債権としての『文学』」掲載。

大塚英志が文学フリマ開催について呼びかける。

○2002年11月3日(文化の日)=第一回文学フリマ開催 

・参加サークル約70
・来場者数約850人、出店者を合わせれば約1000人

場所:青山ブックセンター内カルチャーサロン青山

○2003年11月3日=第二回文学フリマ開催

・参加サークルは約100サークル
・出店者、来場者あわせて1000人

○2004年11月14日=第三回文学フリマ開催

場所:東京都中小企業振興公社 秋葉原庁舎に変更

・参加サークル134
・来場者600以上、出店者を合わせると850〜900人

○2005年11月27日=第四回文学フリマ開催

・出店サークル160
・来場者・出店者合わせて1200人

○2006年11月12日=第五回文学フリマ開催。

データ不明

○2007年11月11日=第六回文学フリマ開催。

・出店サークル158
・入場者数1300人

この年は、出店希望があまりに多かったため、2008年5月11日に春の文学フリマも臨時に開催されることになった

↑ ↑ ↑ ↑ ↑ ↑ ↑ ↑ ↑ ↑ 

・これを見ると、文学フリマの出店者数、参加者数は、年々増加の一途をたどっているといえる

第四回文学フリマアンケート結果より

・出店参加者平均年齢28.6歳
・来場参加者平均年齢26.6歳
・売れた冊数の平均が一サークル辺り23.5冊、売上げ平均は一サークル辺り6099円、一冊平均259.5円(無料配布本を含むため、単価が安く出る)
・来場参加者が買った冊数の平均が7冊、使った金額の平均が3395円、一冊平均485円
・売り手も4冊ほどで一万円売り上げるところと0円で百数十冊配るサークルなど二極化している
・売上げ平均が6000円台ということは、出店料3000円は回収している計算になる

○まとめ

・芥川賞作家であるとか、有名ライトノベル作家であるとか。そういう人たちは、固定ファンがやってきて行列をなしたりする。

・でも、無名のひとが個人出版で出したものが売れるかというと、キツいものもある。売上が6000円程度じゃ、生活をたてることは当然、できないだろう。

・面白い本を作ることはあたりまえ。クオリティの高い冊子を製作するのは当然のこと。その上で、「ぼくの本は面白いですよ」といったふうに、みんなに知ってもらわなければならない。営業を先行させ、作家自身が有名になることが重要であるだろう

・ブログでクオリティの高い記事をたくさん書く。ウェブにおいて、有名ブロガーになる。それを個人出版で冊子の形にする。このような経路をたどることで、一つ、売れる同人誌を出す可能性が見いだせないだろうか?

・『文学フリマ五周年記念文集』も参考になります
2006 文学フリマ五周年記念文集2006 文学フリマ五周年記念文集
(2006/12/01)
文学フリマ事務局

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[ 2008/04/18 02:35 ] .雑談 ノンジャンル | TB(0) | CM(0) | このエントリーを含むはてなブックマーク| |

東浩紀『文学環境論集 東浩紀コレクションL journals』 

講談社BOX講談社BOX
(2007/04/14)
東 浩紀

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○『文学環境論集 東浩紀コレクションL journals』(2007)

○「誤状況論」(『小説TRIPPER』二〇〇〇-二〇〇一)

・批評空間派を批判したものとして興味深い

・東にとって、柄谷の作品でもっともすぐれたものは、『批評とポスト・モダン』であるとの意見

・NAMとの関連でそれが重視されたのだろう。『批評とポスト・モダン』における「二重性」が失われたとき、「近代性」の肯定と左翼運動が始まる、と

↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ 

517「『批評空間』の共同討議を継続的に追ってきた読者ならわかるように、一九九〇年代の半ばより、柄谷氏は「死者」や「未来」について頻繁に語り始める」

518(柄谷行人は)「超越論的他者の観念に振り回され、経験的な他者たちの集積からこそ超越論的な他者が(デリダ風に言えばデッドストックとして)立ち上がる、という複雑なプロセスをもはや感じ取れなくなったということである」

528「一九六〇年代には思想の世界性が信じられた。しかし、一九八〇年代にはその幻想はもはや解体している(皮肉なことにこの時期には、思想の世界性の解体を補うかのように、モノの世界化、いわゆるグローバル化が進むことになるのだが、それはまた別の話である)」

・「一九六〇年代的な世界性が信じられなくなったあとに、思想はいかにして可能か。柄谷は一九六八年に登場して以来この問題意識を強く抱えており、「批評とポスト・モダン」はその一つの解答として書かれている」

529「そしてその解答として彼は、一方で個々のコンテクスト(小さな物語)に注目する方向を、他方で形式的な新しい普遍性(大きな非物語)を模索する方向をともに提示し、同時に試みようとしていたのである」

・90年代の柄谷は、この視点を失い、日本は近代化を必要だとする立場に転じたが、これは思想的な後退である

○「crypto-survival noteZ」(二〇〇三-二〇〇五)

○第一回

・個人出版の可能性を説いたものとして、重要

・批評の自費出版には、大きな可能性がある

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・『月姫』や『ほしのこえ』の成功に注目され、レッシングも注目しているように、日本の同人市場は成熟している

・柄谷や浅田すら、今後の批評は流通まで自前で用意する必要があると決断していた

・ネットで公開された情報は、パラグラフ単位で瞬時に消費されてしまう

・商業出版のオプションをもちつつ、個人出版で新著をリリースする批評家が何人か存在し、個人出版と商業出版が差別なく等価に読まれるような時代になったなら、批評のイメージは根底から変わるだろう

・一万部以上売りたければ出版社から出し、一〇〇〇人しか読まなくてよい文章は自費出版で出せば良い

・批評には需要がある

○第七回

・ラカンのうさんくささについて扱ったエッセイ。ラカンはたしかにうさんくさいけれども、それはこういうことの結果なんだよ、と解説したもの

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・ラカンの説得力は、脳科学的に実証されるかどうか、治療効果があるかどうかといった実証性や有効性の彼方にあり、その力の源泉は、特定の時代的・社会的条件に縛られている

・心そのものは時代によって変わったりはしないが、社会の構造が変われば、そこで正しいように見える「心についての理論」の構造も変わる

○第八回

・「僕が「ラカンの限界」について語るときは、ラカン派精神分析学が科学的に限界をもっているということが言いたいのではなく(そんなことを言ったら、そもそもラカン派は科学的に正しくない)、ラカン派精神分析が正しいように見える時代に限界が訪れた、ということを述べている」

○第九回

・ラカン派精神分析によれば、人間のアイデンティティは「想像的同一化」と「象徴的同一化」という二つの契機の重ね合わせで作られている

・お父さんのようになりたい、というモデルへの単純な同一化が「想像的同一化」である。あるべき父親像と、父への批判的視線を身につけ、モデルをモデルたらしめている社会構造への参入をなすのが「象徴的同一化」である

・尊敬する相手を自信をもって冷静に批判することができるようになり、その相手に依存しない主体的な価値観を身につけることが大人になることである。これを、想像的同一化から象徴的同一化への移行と呼ぶ

・ラカン派精神分析では、人間は、オブジェクトレベルとメタレベル、想像的同一化と象徴的同一化、「ベタ」と「ネタ」(メタ)に切り裂かれた存在だと考えられる

○第一〇回

・メタゲームを止める装置としての「大きな物語」について言及

・Web環境における「メタ」「ネタ」と、「ヘーゲルにおける国家」という意味での「メタ」の違いは大きい。そこらへんをごっちゃにしたかのような昨今の社会学については、検討すべきじゃないかと疑われる

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「僕はここで、ポストモダン論が「大きな物語」と呼んできたものを、「メタゲームを止める装置」として捉えなおしてみたいと思う。それは、「なにかをベタに信じていること」と「それに対してシニカルであること」のバランスを取る装置、ラカン派精神分析の言葉で言えば、「想像的同一化」と「象徴的同一化」を縫合する装置である。もっと簡単に言えば、ホンネとタテマエを切り離しつつ、結果的にその両者の矛盾に関係なく同じ行動を強制してしまう装置だ」

○第一一回

747・「近代では公共性を形成する要素となっていたメタレベルへの遡行が、ポストモダンにおいては、いかなる公共性にも結びつかない単なる遊戯となってしまった」

○第一四回

初期東は、「存在論」に関する理解が浅いが、このエッセイでは割と手際よくその点を補い、まとめている

↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ 

760・「言語には、本質的に、経験=表象可能なものの論理を超える「剰余」が宿っている。このように考える近代の哲学者たちは、必然的に、詩的言語の探究に向かっていくこととなった」


[ 2008/04/17 14:32 ] .レビュー 文芸書 | TB(0) | CM(0) | このエントリーを含むはてなブックマーク| |

出版社と文系大学は社会にとって不要である 

Webには、良質なテクストがあふれている
ネットの世界におけるこれらのコンテンツは、その一定程度を、紙媒体へと落とし、活字化することに意義があるだろう
今後、自費出版・同人出版が全面化していくはずだ
そのとき、出版社は、製本業以外にやるべき仕事があるのか

出版社、および文系大学は、すでに社会にとって不要なのである

私たちマルチチュードは、この流れを活性化させなければならない
出版社や文系大学がかすめとっている利潤
盗み取っている上前を、民衆の手に取り戻さなければならない
この文学運動は、私たちマルチチュードのなした新たな革命として、世界史のなかに燦然ときらめくことだろう


[ 2008/04/14 17:59 ] .雑談 ノンジャンル | TB(0) | CM(0) | このエントリーを含むはてなブックマーク| |

なんか 

<胸のこの辺りが変なんだ
これは、いったい……?

<はっひふっへほー!
こんなこともあんなこともしちゃうぞっ!

<そんなことをしちゃ、ダメだよっ!


[ 2008/04/12 08:40 ] .雑談 ノンジャンル | TB(0) | CM(0) | このエントリーを含むはてなブックマーク| |

論理の臨界点 

<外部との情報接続を切断
以降しばらくのあいだ状況分析を最優先
自閉モードに入ります

<人間が日々おこなう活動は、次のような項目に仮に分けられる

0 特定の目的を持つ
1 目的と関わる情報を集める
2 それらの情報を整理整頓し、正しい順番へと並び替え、再構築する
3 その情報を身体的に実践する

1と2は「論理的思考力」と関わる
これを測定するために、世間的には、IQとか偏差値とかいう手段が使われる
学校教育で全面的に取り入れられている偏差値というシステムは、知識量との縁が深い
知識量それ自体は、1と関わるが、2とは関わらない

0 特定の目的を持つ
「特定の目的」というのはある種の「神」である
「神」というものを疑ったり、崩したりする行為を、「メタ的な行為」と呼びうる
クラインの壺図式ですね
学校の先生のいうことを聞けるようになるというのは、神に従えるようになるために必要なこと
社会人になるためには、「金」を「神」として認められるようにならなければいけない
「大きな物語」のない世の中とは、「金」が「神」である世の中ということ


[ 2008/04/11 22:19 ] .雑談 ノンジャンル | TB(0) | CM(0) | このエントリーを含むはてなブックマーク| |

情報処理速度 

しばしば、自分の内面の世界に沈潜する
対他的に反応ができなくなって、フリーズしてしまう

よどみなく自己の時空を展開できる方は、うらやましいものです
偏差値が高いのでしょう

情報処理の速度は、文学者たちもいろいろらしいですね

三島由紀夫は頭の回転が速かったらしい
さらに、武田泰淳は三島をさらに超えて、超速の反応を示すのだって

一方、野間宏は、超スローモー
「○○について、どう思います?」とか聞かれる
その場では反応がない
半日後に「……うん?」といい始める
ずっと考え込んでいたんだって
岡本太郎に「のろまひどし」って、二つ名をつけられちゃうくらいだったそうです

ぼくもそんな感じです
社会的な感覚を、自分は、逸脱しちゃっているよなーとは思ったりもする

あーあ


[ 2008/04/11 01:28 ] .雑談 ノンジャンル | TB(0) | CM(0) | このエントリーを含むはてなブックマーク| |

出版残念会 

「出版記念会」というシステムが出版業界にはあるそうだ
本を出版したことを内々で祝うパーティーである

それから、もうひとつ
出版記念イベントというものが、しばしば、ジュンク堂とか青山ブックセンターとかでもある
お友達の批評家を読んで、その本を褒めてもらったりする
いい本出せたね
みんな買ってよ
という販売促進の行事である

なので、逆に、「出版残念会」みたいなイベントがあってもいい気がする

いやあ
くだらない本、また出たね
こんな本が世に出ちゃうなんて
日本オワタ\(^o^)/

みたいな感じ
批評家たちが集まって、みんなでけなす
Web上で開催していけばいい
これはウケるだろ


[ 2008/04/08 03:10 ] .雑談 ノンジャンル | TB(0) | CM(0) | このエントリーを含むはてなブックマーク| |

『探偵小説のクリティカル・ターン』――現代日本に批評家は必要なのか? 

探偵小説のクリティカル・ターン探偵小説のクリティカル・ターン
(2008/01)
笠井 潔

商品詳細を見る

・2008年1月発行『探偵小説のクリティカル・ターン』を流し読み

・ゼロ年代の「探偵小説」を扱った評論集、笠井潔と、若手の批評家からなる「限界小説研究会」の評論集

・この時点で、論じている「小説」の点でも、論者たちの若さの点でも、ゼロ年代の文学を扱った「批評」として、日本における最新・最速のものか

・この本を、大学の先生たちは「日本文学」の「研究書」としてとらえうる視点を持ちうるのだろうか? 

○福嶋亮大「構造を擬態する―西尾維新論」

西尾維新って、『クビシメロマンチスト』を二日だか三日だかで書いちゃったという話なんかを聞くにつけても、まぎれもなく天才だと思う
こんな文体で小説を書けちゃうのかと感心する
読んでいると、文体の点で影響を受けてしまう気がする
大衆文学としてスゴイ
でも、ホントにそこまで全面化しちゃっていいのか?
『刀語』とか悲惨だろう
自慰的なところがある気がするし

○渡邉大輔「ファンタジー・プラグマティズム・見立て―辻村深月論」

ファンタジーって、そんなにすごいものなの?

○蔓葉信博「トリック・スタイル―北山猛邦論」

なんだこりゃ

○渡邉大輔「How to do things with MAPs or unconsciousness.―米澤穂信論」

ヘーゲルとかラカンとかキットラーとか、そこらへんのカタカナがちょくちょく登場していて、ガチで優秀な人なのだなーと思う
でも、読みは深いのか?
風聞の意見を寄せあわせていないか?
細部の理論は詰められていないのじゃないですかー? などと少々疑う

○蔓葉信博「プロット・スタイル―道尾秀介論」

報告としては参考になりました

○前島賢『ひぐらしのなく頃に』の二つの顔―竜騎士07論

東浩紀の手のひらでダンスしている感じ

○飯田一史「ほんとうの出雲―桜庭一樹論」

桜庭のおおよその傾向を見抜き、指摘できていそう

○モナドロギーからみた“涼宮ハルヒの消失”―谷川流論

「ハルヒ」ってエンタメとしては一流だと思うけれども、文学としては二流じゃないですか?

○小森健太郎「サバイバル・ゲームと本格ミステリの融合―矢野龍王論」

なんだこりゃ

○小森健太郎「一九九六年以降の探偵小説ジャンル新人の輩出と動向」

狭い分野の話をさらに狭く区切って話をしていて、研究論文風なのかもしれないが「批評」としてはつまらない

○渡邉大輔「小説分析の地殻変動―『ファウスト』と文学的想像力」

なんだこりゃ

○蔓葉信博「ライトノベルミステリの輪郭」

軽い

○笠井潔「批評をめぐる諸問題ーーおわりに」

本書で一番興味をもって読めた「批評」
笠井が批評家不要論について触れている
いや、そんなことはない批評は必要だ、と評論の擁護をおこなっている

・魂が、震えるほどビート!

みたいな文章が読みたい
ぼくはそれを「小説」にも「批評」にも求める
「文学」というのは、「生き方」だと思うし

「これぞ文学」みたいなものを提示してほしいのだが
いまいち、頭に残らなかった
探偵小説って、面白いの?
探偵小説の批評って、必要なの?

成功した批評は成功した小説より面白いが、失敗した批評は失敗した小説よりつまらない

そこらへんのことから、批評家不要論が出てきていそうだし


[ 2008/04/07 23:40 ] .レビュー 文芸書 | TB(0) | CM(0) | このエントリーを含むはてなブックマーク| |

表現の時空と恋愛の時空 

2008年3月、4月
この月の課題は、表現者さんにお目にかかること
木棚環樹さん

白井昇さんと少々お話をさせていただいた

木棚さんも白石さんも
積極的な行動性において、パワーがあふれていらっしゃる
身体的な表現能力が優れている

ぼくなんかは、これまで「活字」のみに絞って表現と関わっている

木棚さんは、ポエトリーリーディングにラップ、漫画、同人出版など
白石さんは、翻訳業に音楽、ポッドキャストに、タイへの旅行、2ちゃんねるも

お二方とも、言語的な文筆活動に加えて、「声」「音」「視覚的な像」を活用した、オールラウンダーな活動をなさっている
全方位的な文学ですね

活字オンリーよりも、視覚や聴覚に訴えたほうが、やっぱり集客力があるよなと
自分にとっての「文学」のあり方を内省させられた

そのことと関わって、東京のポエトリーリーディングのイベントに、ちょっくら行ってみた

ベンズカフェ

SSWS(Shinjuku Spoken Words Slam)

二つとも、短く言えば「詩」を、ライブで展開する場なのですね
こういう空間を観覧させていただいても、まあ、自分は、どんな立ち位置のひとなのかと、考えてしまう

あとね
恋愛成績表」とか、この手のものを久しぶりにやってみた

参考資料※

松平への「総合評価
恋愛レベル
「がっかり合コン級」 (18段階中 14位)
恋愛タイプ 「努力空転型」 」

自分の恋愛内申点の低さにヘコんだ
この手のやつをやると、たいがい評価が低いです

自分の恋愛における欠点をあげると

・ちゃんとした社会人をしていないのが、大きなマイナス
・初対面でのアプローチが下手
・恋人との間での感動の共有が下手
・経験不足

とか、そういうことなのでしょう

基本的にぼくは、第一に自分の健康を、第二に自分の勉強を重視して、行動の指針を立ててます
そうじゃないと、自分で自分をうまく保てなくなる

そのせいもあってか、恋愛についてはオクテです

「恋愛」ってなんなんだろう?

つい思弁的になってしまうのですが、時間と空間の共有、共感が、恋愛の中心になっているのじゃないのかと思います

人間のあらゆる個人は、その人固有の「時空」を持っている

恋愛とは、他者の時空に入っていく行為であり、また、「恋愛」なり「性愛」なりの「像」は、特定の個人の時空の中へと、必ず侵入してくるわけで

人間にとっての時空は、つねに半ば、「他者」の方へと、溶解している

誰しも、自分独自の時空が存在する
誰しも、自分独自の時空は、破れ目を抱えている

その上で、どんな「他者の時空」、どんな「共同体の時空」にアクセスするか? 選択するか? ということが、その人の人生を形作っていくものでしょう

たとえば会社で働くこと、何らかの組織で働くことは、大人にとって、もっとも重要な事項だろう

・営利共同体の時空
・恋人、性愛の時空
・政治的共同体、芸術的共同体の時空

などなど、いろいろな時空が、重なったり、無関係なままに存在しているのが「現世」なわけで

「文学」の問題なんかも、この「時空」のあり方の問題と接触している
「文学」なり表現活動なりといったものは、自分固有の時空を、ある特定の形式で、外部へと露出させ、展開させていく行為でしょう
そこに、どれだけ多くの他者を引き込めるか、魅せることができるか、なんてことが、集客力のある表現となりうるか、なりえないかの境目となっていそう

ぼくなんか、しょっちゅうヘコんで鬱になるわけですが
鬱病なんかは、自己のみの属する時空への、撤退をなす病なのでしょう

さらに、

・商品の売買
・表現のインプット、アウトプット

これらは、特定の時空への、参入をなす形式なわけですよね

ある時空への接続と、ある時空からの切断
これが、人間における「行動」の基体となっている

どんな時空へと参入するか
どんな時空を表出するか
そこに、その人の実存が賭けられている

・時空において、「他者」とは何か
・時空において、「恋愛」とは何か
・「風俗」と「ギャルゲー」における「像」というものの諸問題
・「セカイ系」の諸問題
・普遍的な「時空」は、存在しないのか
・「時空」と「活字」
・「時空」と「像」「音」
・国家における「時空」とは何か
・「時空」における、「革命」とは何か

なんてことが、今、ぼくにとって興味のあるテーマです


[ 2008/04/06 19:54 ] .雑談 ノンジャンル | TB(0) | CM(1) | このエントリーを含むはてなブックマーク| |

批評における「エロス」と「名誉」――宇野常寛×東浩紀論争 

批評における「エロス」と「名誉」――宇野常寛×東浩紀論争

宇野常寛が「“ナンパ師”でも“ギャルゲーマー”でもない、第三の道を!――『小さな成熟』をめぐって」という文章をメルマガに書いた

これを、東浩紀がブログで批難している
ちょっとひとこと。

宇野は、宮台みたいなナンパ師の道と、東みたいなギャルゲーマーの道以外の、第三の批評の道を探りたいといった記事を書いている

これ自体はとても素朴なエッセイなのですが

でも、日本における「批評」をやることの難しさ、「思想」をやることの難しさというものは考えさせらる

「批評」とは何なのかを考えるにあたって、まず、人間には、何を必要とする生き物なのかを考えてみたい

人間にとって、不足しているものは何か
人間は何を欲するのか

そう考えたとき、

1衣食住
2エロス
3富
4名誉

なんかがあげられるわけだよね
んで、「文化」や「芸術」の中枢には、一つ、大きな役割をもって、「エロス」が鎮座していることだろう

とある有名雑誌編集長が、売れる雑誌に必要なのは「エロス」と「占い」だ、と言っていた
確かに、もっとも多くの部数が出版されている雑誌なんかは、「エロス」や「占い」の組み込まれた大衆雑誌だ
商品として、多くの人に売ろうと考えた場合、表現系の文化というものは、多く「エロス」に集中しちゃうわけで

それで、電車内のつり広告なんかの雑誌は、そういう筋のものが目立ったりする
文芸誌なんか、それらとは比較しえないくらい、販売部数が低い
雑誌を売るというのも、大変なことだ

んで、「批評」というのは、そもそもなんのためにあったのか?
「批評」というのは、「4名誉」に属するジャンルなのであろうとぼくは思う

そして、これは、1衣食住 2エロス 3富 に較べると、マニアックな趣味である
衣食住やエロス、富というのは、誰にとっても明瞭な欲望の対象であろう
でもそれらからは、ちょっとずれたところに「名誉」における価値観はある

「名誉」は、国家や村落共同体、各種コミュニティや、国際的なものに宿るだろう

東大の先生になるとか、政治家になるとかはそのトップだ

そこで、次に「批評」というものの歴史的考察に移る

「大きな物語」が生きていて、左翼運動なんかも活発だった時期は、もっと多様な形で、「名誉」というものがあったのじゃないかとぼくは想像する

悪ければ悪いほどいい
ダメであればダメなほどいい
そういう、闇世界に属する名誉もあったのじゃないか
左翼運動内部には、社会に対して、反転した形で名誉が存在していた
ドゥルーズの「戦争機械」とかネグリの「マルチチュード」なんかも、これと関わってはいないか

しかし、現代においては、「大きな物語」がなくなり、歴史が途絶えてしまう
「大きな物語」の解体とともに、その「悪」という名の名誉は、解体され、規格化され、制度のなかへと囲い込まれていってしまった

たとえば、批評の系譜である、小林秀雄、吉本隆明、江藤淳、柄谷行人といった人たちを考えてみる
それらの人と比較すると、東浩紀と宮台真司というのは、圧倒的に、「大きな物語」から切断されていちゃっていたわけですよね
宮台は、「大きな物語」を復活させる方向へと転回していったわけだけれども

そして、そのような状況下で、大衆に読まれ、供される「思想」というものを著作にまとめようとするとき、否応なく、東浩紀と宮台真司がそうしたように、「エロス」が焦点化されざるをえないのだろう

ちょっと勘ぐってみれば、小谷野敦の本なんかが多く単行本化されているのも、「エロス」が主題となっていることが大きいだろう
じゃないと、出版不況の今日び、売れないジャンルトップテンにランクインされるであろう日本文学の研究書を、小谷野さんほどしばしば、単行本化することなんてできないだろうし

「エロス」というものを表から扱った宮台と、裏から接近した東
彼らのようなやり方でなければ、あるていど大きなムーブメントとなりうるほど成功した「批評」は書けないのじゃないのか
私はそう、恐れるのである


[ 2008/04/04 18:45 ] .雑談 ノンジャンル | TB(0) | CM(0) | このエントリーを含むはてなブックマーク| |

「屋島」観覧 

新編日本古典文学全集 (58) 謡曲集 (1)新編日本古典文学全集 (58) 謡曲集 (1)
(1997/04)
不明

商品詳細を見る

2008年3月、浅見真州さんの能、「屋島」を観覧してきた
内容について云々したかったのだが、なにぶんにも能を観るのが初めて
ギリシャ神話と能、コロスと地謡の比較とか
能における「キャラクター」の表われ方は、近代小説とどのように異なるのか
等々といったことに興味がありました
浅見さん特有のお能の演出法も、勉強できれば良かったのですけれども

そんな理想的な地点には到底至らず、頭のなかに、たくさんのクエスチョンマークが飛び交っていた松平でございました
というのも、使われている言葉が、日本語であるにも関わらず、聞きとれなかったことが原因です
我ながら情けなくはございますが
「能」というものの、日本近代文学との差異や、同質性について、比較してみたかったですが、今後の課題である
「これが狂言か」とか「ここで場面が展開したのね」とか「ここらへんで盛り上がっているようだぞ」とか
おおよその枠組みを見てとるていどのことしかできなかった
はい
いきなり観て理解できるようなものじゃないですね
何でもそうだと思うけれども
たとえば、ビールやコーヒーなんかの味も、一発で解るようなものじゃないし
萌え漫画・萌えアニメを観て、生まれて初めてそれを体感し、いきなり萌えることなんかできないように
能の萌えポイントは、ある程度続けて観覧していかなきゃ解らなそう

でも、体の動かし方とか、音楽の盛り上げ方とか、独特の言い回しとか、そういうものの連鎖で、特有のアートをやっているのだなー、とは体感できました

能を観覧する場合、私のような素人は、あらかじめ、その演目の現代語訳を読んでいったほうがいいですね

んで、おうちに帰ってから、小学館の「日本古典文学全集」「謡曲集1」で、「八島」(屋島)をチェックしてみました
面白いです
……フツーにいい話じゃん

旅僧が西国への修行に赴き、八島の浦で一夜の宿を請う
漁師の老人のところにとめてもらう
近くにいた住人に、八島の合戦について質問すると、那須の与一が扇の的を射た話を、身振りを交えて語ってくれた
さらに、旅僧が出会った老人が、実は義経の幽霊であったことが分かり、夢に出てくる
義経は「弓流し」のエピソードを明かす
そういうストーリー

老人は、何者かと聞かれたところ、「たとひ名のらずとも名のるとも、よし常の憂き世の、夢ばし覚まし給ふなよ」と答える
「よし常」
すなわち、「義経」と、「常の憂き世の」という、謎の掛け言葉により水面下で自己の身分を明かす
俗と聖の間を、日常世界を、不安定なままに揺さぶる言語的なトリック

修行の巡礼をおこなう僧と、英雄武将の幽霊の取り合わせ

死よりも栄誉をとり、しかし、いまだに成仏せず、その海にただよう義経の執念

八島の浦の自然ののどかな光景を、かつてそこであった、修羅の戦時のイメージとオーバーラップさせながら二重に浮かび上がらせるラスト、などなど

構造的なことを検討していくと、面白い仕掛けがいろいろとありそう
そうとうな技量でもって描かれた、彼岸と此岸の交錯する世界だ
死と生の境を夢幻的に浮かび上がらせている

ところで、義経は、海に誤って落とした弓を、敵に殺される危険を冒してまで、無理やり回収するのである
義経は、弓を惜しんだのではないとまっすぐに言う
武勇のあげる以前に、弓を敵に取られてしまって、馬鹿にされてしまうのは無念なことだ
弓を取ろうとして、そのために討たれたとしたら、それはそれで仕方がない
「死」よりも「栄誉」を取るのだ
武士たる者の名は末代まで残るから、当然の行為だ
と弁じる場面は感動的だ

でも、翻って私たちの世界では
現在の日本の状況においては、死よりも名誉を取るという行為が、「かっこいいもの」であるというふうに、つながるものなのだろうか
義経は「歴史」のなかを、歴史を動かす人物として登場している
だからこそ、「死」よりも「栄誉」を取ることが、クールなことかもしれない
「歴史」なきところには、「名誉」もまた、存在しないのかもしれない
現代社会には「歴史」はあるのか
そんなことが、私は気になったりする

それだけに、義経の亡霊がいまだ海をさまよっていることの持つ暗示も、心を打つのである


[ 2008/04/03 00:20 ] .雑談 イベント | TB(0) | CM(0) | このエントリーを含むはてなブックマーク| |

エイプリルフールは真実をのべる日 

嘘をつくのはいけないことだ
でも、生きていくためにどうしても必要なら、ついたとしてもしょうがないかもしれない
ここ20年くらいのあいだ、ぼくが考えているのは、そういうていどの単純なことだ
生きていくのはまあ、しんどいものですよね

生きていくために必要な嘘は、「方便」という
あるいは建前ともいう
「方便」が「方便」する
ネタがネタをする
シミュラークルが全面化する
そういう状況って、あるいは、日本特有の現象なのでしょうか

「4月1日は嘘をついてもいい日」だ
それがエイプリルフールの定義だ
しかし、この定義自体に、虚偽が含まれてはいないか?
皆さんは、毎日、「タテマエ」のなかを、生きていたりはしませんか?
生活のなかで、「方便」が含まれない瞬間というのは、どれほど多いものなのか?
「エイプリルフール」という制度が擬制なのは、4月1日以外の日は「本当のこと」をいっていることに、「タテマエ」上、なっているからだ

これは「文学」の問題でもある

一年に一度だけ、真実しかいえない日をつくってもよいのじゃないか
この国においては

いいことを思いついた
これから、4月1日は、「真理」のみしかしゃべれない日にしたい
嘘をついちゃダメだよー?
タテマエも方便も禁止
この日にしゃべったこと、誓ったことは、永遠に守らなければいけないのだ

無理かな


[ 2008/04/01 22:55 ] .雑談 ノンジャンル | TB(0) | CM(0) | このエントリーを含むはてなブックマーク| |
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