タンクローリーで東浩紀をひき殺す 

今年の五月、「文学フリマ」を見学するために、秋葉原に行った
激しく驚いた
駅前にたくさんのメイドさんが立っていたのだ
どんな天国かと思った
メイドさんが大挙して、ビラ巻きをしている
「メイドさんと一緒に秋葉原の街を一日デートできますよ」というビラが多かった
それから、メイド喫茶の宣伝のものも、少々あった

ええっ
メイドさんと秋葉原の街をデートできちゃうのっ?
萌え死ぬ……
ぼくはしゃがみこんで泣き出しそうになった
ぼくにお金さえあれば、あんなことやこんなことをしちゃうのにっ
こういう水商売も登場しちゃったんだなーと、狂おしくなる
私は嫉妬した
三島由紀夫の『金閣寺』の主人公が、美の象徴たる「金閣寺」を燃やしたごとくに、秋葉原の街を燃やしたくなった

そのとき感じたのは、秋葉原とは、三重の意味で屈折した街なのではないかということだった

話は少し遠回りする
そもそも、人間にとって「文学」とは何なのか、「アート」とは何なのか?
初歩的な話だが、私はこう考えている
ここに幼児がいる
幼児は、母が好きで、母を独占したいと考える
そこに父が来て、母への接触を妨げる
幼児は、父を厭う
そして、幼児は、父を仮に、いないものと考えてみる
父というものは、頭のなかにおいて、存在しなくなる
幼児は、脳内において、父の存在しない世界を手に入れる
しかし、現実には、いくら目をつぶっても、目を開くと父はそこにいる
ここに、一つ、「文学」というものの始まりがあるだろう
文学とは、現実に存在する困難に対し、精神の安定をはかるためになされる、現実に反する、想像力の飛翔である
文学は、政治的な敗北のなかに存在する

このような古典的な話を踏まえたうえで、「ゼロ年代の日本社会における文学」とは何かということを考えてみる
もちろん、人間精神を代補する「アート」というものは山ほどの種類がある
ここでは、「純文学」と「漫画・アニメ」に絞って、言及することにする

現代文学を考えるうえで一番大切なのは、そのモードが、東浩紀のパラダイムにあるということだ
そもそも、純文学とは、私たちそれぞれの、三次元における生に対して、メタレベルに立つ反省として、虚構の世界を活字によって記述するものである
さらに、漫画・アニメは「像」という記号を利用することにより、純文学・近代文学と同様、人の精神に慰安をもたらす二次元の世界をつくる
純文学に記述されるのは、一つには、理想のイデアである
漫画・アニメにおける記号化は、純文学以上に、さらに進展させられる
純文学における性愛の対象は、作者による理想の人間が呼び出される
現実の、手の届かぬ恋人・スターへの一次的接触へのあきらめのもとに、「文学」における恋人が生ずる
一方、漫画・アニメにおける異性像は、それ自体が性愛の対象となりうる
「漫画・アニメ」における異性像は、テレビ文化等の作り出す社会的価値を飛び越え、直接的な恋愛・性愛の対象を創出させる
そうすることで、ハマるひとにはハマり、入りこめないひとには入り込めない虚構世界を形作る
二次元の恋人は、オタクにとっては麻薬みたいなものである

麻薬やシャブの販売は法的に禁止されている
それは、一つには、国が、社会へと貢献する人材を育てることを望むからである
国家は、国民が、どんな個人へと育つことを推薦するのか
純文学・近代文学を読むことで、現実への耐性を得るということは、一つの理想の国民像であった
社会生活を営むなかで受ける精神的ダメージを、純文学により軽減させられ、社会的逸脱を阻止する
国民国家の始まりにおいては、そのような市民が、理想とされる時代もあった

21世紀には、純文学というもの、近代文学というものの残りかすが消し去られた
そのことに一役買ったのが、東浩紀であった
東は、純文学というものを一掃し、漫画・アニメを擁護することで、青少年の精神を代補した
東は、小説「キャラクターズ」のなかで、朝日新聞社にタンクローリーで突撃をかける
そして、柄谷行人を炎死せしめた
私の考えるところ、柄谷が日本で果たしていた役割とは、中核派的・革マル派的な倫理と精神を、知的言語でもって代補することにあった
東は、主著である『動物化するポストモダン』(二〇〇一)のなかで、柄谷を、思想的・文学的に炎死せしめた
東は、柄谷ごと、旧弊な学生運動と新左翼運動をひき殺した
この東の行為は、柄谷以上に倫理的であったといえる

もしも人が秋葉原でテロ活動を行おうと考えたとき、それは三重の意味で屈折している
それは、「秋葉原的文化」が、新宿的・池袋的・渋谷的な風俗文化・水商売文化に対する、アンチテーゼとして存在しているからだ
「秋葉原的文化」は、本来、虚構の中に、データのみで存在するものである
イデアというものは、物質を与えられない限りにおいて、イデアである
それを、現実の秋葉原という街に落としこまれたとき、混乱が生ずる
現実の街というものは、生権力によって包囲される、まぎれもない「人間」が集まる場所だからだ

そしていま、私たちは、東浩紀を、思想的・文学的に、タンクローリーでひき殺す必然性に迫られている
そうでなければ、私たちが、倫理的・美的に「人間」であることは、不可能だと思われるからだ
スポンサーサイト

自分の 

<中にこもっていると、それにおさまりがつかずに、じりじりしてきたりする
他人の中にこもっていると、それにおさまりがつかずに、じりじりしてきたりする
そういう心身の状態というものも、ホルモンバランスが悪いからだったりするわけで
まあ、長年、退屈な授業時間にめげず、よく学校に通ったものだ
適度な刺激はいつも必要

小田 光雄『出版社と書店はいかにして消えていくか』 

出版社と書店はいかにして消えていくか―近代出版流通システムの終焉出版社と書店はいかにして消えていくか―近代出版流通システムの終焉
(2008/03)
小田 光雄

商品詳細を見る

名著です

批評放送γ 白石昇さんインタビュー――自費出版で三千部売る方法 

――「言語藝人」の白石昇さんはタイに留学しているおり、書店で、ウドム・テーパーニットさんのエッセイ『ナンスー・ポー』(1996)と出会った。ウドムさんはタイの人気芸人である。平積みになって並んでいた『ナンスー・ポー』に魅せられた白石さんは、独力で途中まで翻訳。ウドムさんの事務所に印刷見本を持ち込んで、邦訳版の出版許可をもらえないか、かけあったという。白石さんは、原著におけるタイ語の不明箇所を、ウドムさんや事務所の方に、質問しに行く生活をタイで続ける。出版のあてがないのにもかかわらず、一年四か月をかけて『ナンスー・ポー』を邦訳した。日本語版タイトルを『エロ本』と名づけ、三千部をタイの印刷所で自費出版した。

・ウドム テーパーニット著、白石昇訳『エロ本』
エロ本エロ本
(2002/08/19)
ウドム テーパーニット白石 昇

商品詳細を見る


帰国後、日本の書店やアマゾンへの流通経路を作り、本書を営業して回った。白石さんの訳された『エロ本』についての、新聞社などによる書評はこちらで読める。

http://hp.vector.co.jp/authors/VA028485
/erohonyakaritenpomedia.html#erhn-press


原稿用紙換算で150枚ほど。ウドムさんの『ナンスー・ポー』は、タイでは30回以上も印刷された大ベストセラーである。タイ人ならだれでも知っている芸人さんであるウドムさんは、コメディアンとして、タイのテレビで活躍したのち、映画に主演したり、歌手をしたり、美術の制作をしたり、多方面にわたる活動を展開。日本で言うと、明石家さんまと松本人志とビートたけしを合わせたような人であるらしい。さんまの人情味あふれる丁寧な物腰、松本のブラックユーモア、たけしの前衛性、アート性、社会批評性とのそれぞれを、持ち合わせたような感じといったところか。
邦訳タイトルは『エロ本』だが、内容はまったくエロくない。ウドムさんのお笑いのネタにあたるものを、上品で紳士的なテイストで綴っている。タイでは当時、芸能人がヌード本がたくさん発売していたという。それらに対し、身体のヌードではなく、「頭の中のヌード本」を出したいと考えたウドムさんは、このようなタイトルに決めたという。本書を買う人を、からかうためのタイトルであるとのことだ。生まれて初めて本を買うようなタイ人が、次のようなやりとりを、お母さんと交わしたらいいなと考えたという。

「「お母さん、本を買うからお金をちょうだい」「何の本だい?」「エロ本」そしてお母さんに怒られる。」(
http://hp.vector.co.jp/authors/VA028485/h150107koko.png

ウドムさんのかわいらしいユーモアが伝わってくる。この『エロ本』というタイトルは、ほぼ原題の直訳だという。あるいは、ウドムさんのこの命名は、松本人志が自己の初のエッセイ集に、『遺書』(1994)というタイトルをつけたようなものと、反転した位置にあるものなのかもしれない。松本は日本において有名人であり、その強烈な個性のゆえに、本のタイトルにも、アクの強いものをつけるよう要請されたことだろう。松本の『遺書』というエッセイは、一九九四年に刊行され250万部を売り上げた。暗い時代であった。オウム真理教による松本サリン事件、村山内閣発足、中華航空機事故、愛知県いじめ自殺問題のクローズアップ等、世をにぎわす驚くべきトラブルの多く起こった、当時の日本人の心性とマッチしていた。
ウドムさんを知らないぼくが、『エロ本』というタイトルを聞くといささかぎょっとする。あるいは、タイでは日本より「エロ本」の存在がいくらか物珍しいものなのかなどと、国家的・文化的な背景を想像させられる。細かい事情を知ることはできないが、『エロ本』という題名は、ウドムさんのキャラクターがタイにおいて、社会的知名度があることによる、歴史的文脈が可能にするところもあったことだろう。『エロ本』というタイトルが必要とされた、タイの文化というものを、おぼろげに忍ばせる記述がそこかしこに潜んでいる。読んでいて見てとれるのは、全体としてノスタルジィを感じさせる、郷愁的で牧歌的な雰囲気だ。『エロ本』の原著『ナンス・ポー』は、松本の『遺書』とおおよそ同時代にタイで出版されたものだが、その内容において、極めて対照的である。『遺書』は暗いが、『ナンス・ポー』は明るい。やわらかで温かみがあるウドムさんの人情を感じさせる。田舎が広がっている。そのなかを、大衆消費社会が、徐々に進展していくのである。ウドムさんは次のようなことを上記のインタビューで言っている。

「タイの社会は禁止事項が多くて、王様、大物政治家、警察、軍、グラミーのスーパースターなどを冗談にすることは禁じられている」

いまだアメリカ型のネオリベ的な社会ではなく、封建的な遺制が残存してもいる。かような世間の空気の中で、エロというものを家庭的な雰囲気でユーモアにくるみ、暖かく抱擁することに、一つのアクチュアルな社会的背景があったのだろうか。白石さんに『エロ本』の出版背景について、おうかがいすることにした。

――白石さんの『エロ本』は、もとは自主制作本なんですよね?

白石昇さん もとはそうですね。本当は人に金を出させようと思ってたんですよ。向こうの、タイの出版社に金を出させようと。今から冷静に考えてみるとむちゃくちゃな話で、タイの出版社が自分たちが読めない日本語の本に金を出すわけないんですけどね(笑)。一応会議はしたらしいですけれども、やっぱり無理、ってことだったんでしょうね。しょうがないから自分で金出すしかないなと。それで人に金を借りて出して、その人に裏切られてと。

――こちらのページで、そのご苦労なさった経緯は事細かにお書きになっていらっしゃいますね。興味深く拝読いたしましたけれども。(http://ana.vis.ne.jp/ali/antho_past.cgi?action=article&key=20050618000038))
――ようは『エロ本』は自費出版ということになるわけですよね?

自費出版です。最終的に俺が金払ったんだから。

――白石さんは実際に自費出版して、三千部お売りになったわけですよね

三千部は売れてますね。第二刷も三千部刷りました。もう四千部いったのかな。この間五十冊、買い取りで納品してきました。

――初めてお作りになる本で、三千部刷るなんて度胸がございますよね

四日に一冊のペースで売れば三十年くらいで売り切れるなとか本気で思ってました。

――今回のインタビューのテーマは、自費出版本で三千部売るにはどうしたら可能なのかということを、白石さんにお伺いしたいと思ってました

ぶっちゃけ一番大きいのは製作側が泣くことですね。要するにバイトでもして金作って、全部売れたところでトントンになるような値段設定で出して、自分だったら絶対買うというクオリティと値段設定のものを売ると。それだと思いますね。それで駄目だったら駄目だろうと。そしたら三十年覚悟してたのにバンコクの方で火がついて品切れになっちゃって。でも冷静に考えたらそりゃ買うよなと。安いし。タイでは現在150バーツ(約450円)で売ってます。初版は120バーツだから、360円くらい。読売新聞が向こうで70バーツ。タイで一番発行部数の多い新聞が10バーツくらい。日本の本は一律、日本で買うより30%は割高なんですよ。そん中で120バーツで出したから、俺だったら絶対買うなと。普通なら読めない内容だし。そこが一番の要因だと思いますね。

――『エロ本』の邦訳版を、タイで買うかたが多いと

でも日本でも直販の場合は送料込みで800円。本体価格678円ですから、買いやすい値段ではありますね。アマゾンの場合は送料が一律340円、合わせて1000円超えちゃうかな。アマゾンと直販、同じくらいの数が出ています

――カラーですよね。この鮮やかな色のクオリティで、その値段はありえないですよね

泣きましたよ、ホントに。

――四色刷り、三千部をタイで刷ったとのお話ですが、日本円にして印刷費用はいくらぐらいだったのでしょうか?

いくらぐらいだったかな。五十万円は超えてないです。間違いなく。でも、日本に持って来るとなると、送料が一番高いような気がします。僕が取っているのは、3%、増刷分で4%の翻訳者著作権料だけです。DTPから自分でやって校正をボランティアの人たちにやってもらったから編集費用は0です。二刷目はパソコンと家賃だけ自分持ちで、仕事用の机と食事はウドムさんの事務所で出してもらってました

――三千部とは、普通、今の時代、なかなか本は売れないですよね

そうですね。ちょっとびっくりですね。初版のやつは日本でもっと売れると思ってて、ほとんど日本に持ってきたんですよ。そしたら日本よりタイの方が足りないということになって。日本に送った分を再度ハンドキャリーでタイに持ってきてもらうんですけど、日本に一回送ってすでに送料がかかった本をタイの値段で売るわけですから、一冊100円くらい赤字が出るんです。それでも書店さんから売りたいって言われるから200くらい日本から持って来ましたね。
それで、しょうがないからウドムさんと相談して、初版分が日本に何百冊か残っているけれども増刷しようと。せっかくだから訳文から全部作りなおそうということになって、カラーページも増やして、DTPもInDesignを借りて一から組み直しました

――最初は赤字が増えちゃう感じだったと

初版はトントンになっているのかな? 儲かってないとは思いますけれどもね。微妙なところですね

――ちなみに、アマゾンでは年に何冊くらい売れるのですか?

数十冊じゃないですか? 百とか行かないと思いますよ、たぶん。タイの方は桁が違いますけど。バンコクの紀伊国屋さんとか、結構発注してくれますね。この前も五十冊です。むこうは返本なしの買取ですからそのまま実売です。泰国紀伊国屋書店に限って言えば、発売された2002年の冬、発売されたばかりの『海辺のカフカ』や『わしズム』より売れてたと思います。増刷したときも200冊一気に平積みにしてもらえたし、新刊の『gu123』が出たときも、一気に200冊くらいレジ脇にバーッと縦に四冊重ねでガンガンガンと積んでもらえましたからね。うれしくて記念撮影しましたよ。

・ウドム テーパーニット著、白石昇訳『gu123』
gu123gu123
(2005/09/01)
ウドム テーパーニット白石 昇

商品詳細を見る


――個別の書店さんに直接白石さんがかけあって置いてもらっているのですか?

いやあの、タイだと限られているじゃないですか。タイの本で日本語訳だから。基本的には紀伊国屋さん、東京堂さん、泰文堂さんなんかの日系書店にファクスでリリースを出すだけですね。現地の書店でも買ってくれるところもあるけど、商売的に難しいみたいです。売るほうも困るだろうし。現在はほとんどバンコクの紀伊国屋さん中心ですね。
日本だと個別に回って書店の仕入れ担当の方に相談します。そうするしかないです。初版出してから実家の長崎にバイトしに帰ったんですけど大変でした。東京は同人誌なんかでも直で取ってくれるところいっぱいあったから楽だったけど。神保町のアジア文庫さんとか。あそこは何百も売ってくれましたし、月間ランキングで二位に入ったこともあります。年間で十七位かな。タコシェさんとか模索舎さんとかは確実に置いてくれるし、まだまだとってくれる書店もたくさんあると思いますよ。

――『エロ本』の日本における営業はどのような感じで始まったのでしょうか?

最初は長崎の紀伊国屋さんに行ったのかな。紀伊国屋さん、すごくよくしてくれて、「これいい本だと思うんですけど、このままじゃ売れないと思うんでマスコミ回ってください」って言われて。マスコミ行ったらマスコミがほとんど扱ってくれるんですよ。パブリシティがあるんですよね、たぶん。タイの有名タレントというか、有名アーティストのエッセイを翻訳した事にニュースバリューがあるってことで長崎新聞は書評を書いてくれたし、西日本新聞なんかインタビューまで掲載してくれました。そしたら今度はその記事持って書店に行くんです。こういう本なんです、できれば置いて欲しいんですけど、って。説明するのあまり得意じゃないんで。

――書評が先行している自費出版本なわけですね。普通の商業出版からすると、極めて異例のやり方ですよね

書店さんが入れてくれるって決めた時点で書棚には並びますからね。並べる気がないなら最初からうんと言わないし。後から知ったんですけど、普通は取次がダンボールをボンと書店に送ってくるんですね。その箱の中にどんな本が入っているか分かんないです、書店さんは。で、それを店に並べる並べないは書店の裁量なんですよ。返本してもいいんだから。だから、置いてみて動かなかったら棚から外されることもありますよ。エロ本も外されたことあったし。新聞に掲載された記事のコピー持って行ったら平積みに復活しましたけど。復活のお札ですね報道実績は。

――出版社を出たのちに、本が店頭に並ぶまでに、取次と書店で二段階のジャッジが入ると

自費出版で問題になるのは、本屋に並んでいるとかいないとか、そういう契約の問題ですよね。取次から書店に本を送っちゃったら棚に並ばなくても、版元として義務を果たしたことにはなりますし。並ぶ並ばないは本屋さんのあれだから。
エロ本はまだ、東京では売れる余地があると思います。本屋が密集してるから営業もやりやすいし。文学フリマのときなんか、結局、終わりのオフ会も合わせて四十冊、五十冊くらい売って帰ったし、横浜トリエンナーレの売店でも三百冊近く売れたし。

――文学フリマでそれだけ本を売るのは、出店者のなかでも、相当上位の方なんじゃないですか?
当日以前に『エロ本』を売ることを、何らかの手段で告知したり、営業をなさったりしたのでしょうか?

自分のメルマガとサイトくらいですね。三回目か四回目の文学フリマでも八冊売れましたし、『gu123』も1、2冊売れましたよ。知ってるサークルさんに間借りして、隅のちっちゃいスペースで、ウドムさんの作ったぬいぐるみを振り回して遊んでいただけなんですけどね。でも、東京は同じようなことやってるひといっぱいいるでしょ? タコシェさんに何冊も積んでる『PLANETS』もそうだし、『本の雑誌』とかももともとそうだし、『STUDIO VOICE』も確かそうだったんじゃないかな。

――紀伊国屋で50冊、買い取ってもらえるって、すごいですよね

現在は実質泰国紀伊国屋さんとあと、数店舗でしか売ってないですけど。でも、売り上げの結果が出たからでしょうね。最初が十冊くらいで、置いといてくださいと。で、追加注文が三十冊くらい入ってそれが百になって、五百欲しいって言われたときには、もうタイにはなかった。増刷したときは一気に二百取ってもらって、その後は何度か百単位でポンポンポンと取ってくれて、それがまだほそぼそと続いていると。安くて、あとはクオリティでしょうね。金をかけている割に安い。ウドムさんも、自分の本の日本語訳に関してはあんまりお金儲けとかどうのこうのとか考えてませんからね。舞台の収入だけで億万長者だし。全部売れてほしいとは思ってるでしょうけど、日本人に自分の書いた本を読んでもらいたいって気持ちが第一でしょう。だから、日本語版『gu123』の表紙とか、装丁とか細かいところはウドムさんが自分でやったりしてますよ。

――値段の安さが重要だったと。白石さんのように、タイで作るとか、そういったことはなかなか他に転用できないやり方ですよね

でも、ダイソーなんかは中国で作ってるでしょ? 二色刷りのやつ。ISBN取ってなくて取次も通していないし。で、あの値段で夏目漱石とか芥川龍之介とか読めるんですよ。青空文庫のデータ持ってきて作ってるみたいですね。だから百円で売れる。あれのミステリ書いてた人から話聞いたんですよ、何十万円かもらって、最初に何十万部も刷るらしいんですよ。それで増刷かかったら印税が出るシステムみたいです。初版八十万部とかじゃないですかね。それで全国のダイソーに流してるんだから面白いやり方だと思いますよ。

――それで、百円ショップで過去の名作やマニュアル本を売るという、めちゃくちゃな荒業が可能になっているわけですね。超格安で驚きました。でも、一個人がやるのは難しくないですか?

見積依頼さえ書ければ可能ですよ。何ページの本を、何冊、ここにカラーを入れて、こういう体裁にして、さて、あんたのとこいくらで刷る? って。それ書いてデータ入稿すれば印刷物はできるわけですから、あとは現物をどこでどうやって売るかという問題ですよね。個人でできないことはないと思います。

――白石さんの本作りは『エロ本』が初めてだったわけですよね

そう。とりあえずテキストだけ作って、ソフト買う金もないから、友達のパソコンのIllustrator借りて、ちょこちょこちまちま作っていきました。一ページ一ファイルで百六十ページ以上。増刷分からInDesign借りて作ったんですけど楽で楽で。初版はなんであんなに苦労したんだろうと。Illustratorで読み物はもう二度とやりませんね。InDesignだったらPDFで出力できるから、PDFそのままサーバーに上げてダウンロードできるようにしたら、それでもう電子出版じゃないですか。きれいに作れるし、InDesignはいいですよ。本の形になるワープロみたいで非常に楽。あのソフトなら十万は安いと思いますよ

――『エロ本』の成功の秘訣は、安い値段と高いクオリティだったと。これを出されるにあたって、いろいろなご苦労をなさったわけですよね

まあでもパトロンに騙されて在庫取り返すためにタイまで飛行機代使って行って赤字が増えたりしても、その結果ネタとして面白ければまあいいかなと。そう思うようにしてます日々してます今でもしてます。ぶっちゃけ五年以上経った今でも時折思い出してむかついたりもしますけど。

――タイに留学でいらっしゃって、本屋に平積みに並んでいたウドムさんの本を、「これだ」と思われたと

やっぱりあれですね。ウドムさんの本だけが「日本語に翻訳してくれよお」ってお願いしてたような気がしましたね。ていうか、表紙の見た目からして挑戦的でしたね。パッケージングの問題ですよ。本の中身、分かんないんですから。書物として総合的に読者を引っ張る力があるんでしょうね。ずーっと平積みで何年も売れ続けてましたから。あれ、十何年前の仕事でしょう。92年でしたっけ? 読者にそれだけ支持され続けるんだから書物としてそれだけの力があるんでしょう。

――確かに、コンテンツにしろ外装にしろ、強い魅力を放ってますよね。翻って、白石さんご自身の話もお伺いしたいですけれども、大きな範囲から見て、翻訳を選ぶというのは、どういった戦略に基づいていたのですか?
もともとは、小説をお書きになっていたわけですよね。日大文芸賞を受賞なさっていらっしゃる(白石さんの小説はこちらで読めます。http://www.geocities.jp/shiraishi_noboru/


まあ、他にもいろいろ書いてますけど、小説というか短篇ですよね。短篇はある程度やったんで、しばらくはいいかなと。そのあとで小説書いたんですよ。長いの。何年も前に書きあがってるんですけど、いまだに自分のメルマガで連載してます。(http://www.mag2.com/m/0000012912.htm
自分がやりたい日本語表現を新しい形式とか、やり方でやるには、翻訳をやる必要があったからタイに行ったし、翻訳やるならちゃんと残したかったんで本という形にしただけです。。

――他にもいろいろ、やっていらっしゃる

あとはおうたを歌ってますね。三十二歳になってからギター買ったんで。三十八歳にしてストリートデビューですよ。代々木公園の路上で歌ったりしてます。

――自分の小説を自費出版なさることはお考えにならなかったのです

営業力のない版元から出した無名の著者の小説なんて商売になりません。だからできるだけ腐らないものを書いて、商売になるようなタイミングが来たら出してもいいと思ってますけど。翻訳よりもそっちの方を読みたいというお客様もいらっしゃるんですが、商売になんないです。

――商売になるならないのジャッジは、どのあたりにあるのでしょうかね

売る立場で考えたら売りにくいもん。パブリシティがないから。簡単なことですよ。本屋に行って無名の人の短篇集が置いてあったと。それなら、なんかウリがないとだめでしょう。帯に誰が書くか書かないかで、本が出るか出ないかという時代ですよ。自分の小説を自分の金で出して売るとなるとぜんぜん違う話になりますね。

――サイトに載せていらっしゃるものは10年前の作品ということで、その時点で表現したいことは表現できたということですか

あのあと短篇、何やったかな……。いくつもあるんですよ、公開してないのが。金もらってないのは自分のサイトでは公開しないんで。短いものをある程度やった後に長いやつ、小説をやって、で、翻訳に入ったんです。次にやる小説はもっとハードル高いから、しばらくはやらないですね。お話は結構いっぱい、それこそ軽く本が3、4冊できるぐらい書いてます。商売になるようだったら出すんじゃないですかね。
でも今やってるのはいわゆる私小説に近いのかな。うまくいけば今年中に出ると思いますけど。今っていうか書き始めてからもう三年以上ですね。書き上げてから編集さんと、もう二年ぐらいずっとキャッチボールしてる状態です。

――出版関係の方に話をうかがっていると、商業出版は厳しいということですが

いや、商業出版って言葉の意味はよくわかんないけど、今は自由でしょう。だって、アマゾンで売れるんだもん誰だって。アマゾンで売って千人支持者がいて、その千人が時間決めて同時刻に注文出せば、一気にランキング一位獲れますよ。アマゾンで一位取ったって実績があれば書店さんも置くの嫌とは言わないでしょうから、ぱっと売り込んでいっても取ってくれるんじゃないですか? で、それで売れたらまたさらに部数伸びるし。

――自費出版をなすにあたって、ためになる話をたくさんおうかがいすることができました。本日は大変ありがとうございました
――自費出版本を売るためには何が必要か。パブリシティとパッケージング、そして値段の安さ。白石さんに、インタビューをすることで、この三つの重要性を知ることができた。

――『エロ本』は、お笑いのネタ本のようなものでありながら、ひねりが効いていて、論理的な思索がありもする。そして、聖と俗を転倒させるようなユーモアに満ちている。ケダモノ野郎、と他人を罵るように見せかけて、自分をもしもケダモノだったらと推定し、むしろケダモノこそが素晴らしいものだと裏返しにして考え、自分がケダモノになっちゃうみたいな。
本書の中には、タイの国勢やエートスの一部をうかがい知ることができる。タイでは、どんな商品が出回っているのか、どんな食事をしていてどんな文化が流行っているのか、家族愛や恋愛がどのようであるのか、どの程度ネオリベ的なものが侵食していて、どの程度タイ特有の宗教性が残っているのか、ユーモアというものがどのような局面で必要とされているのか。それらの国情の一部分を垣間見せつつ、楽しくタイ人の息遣いを伝えている。タイで生まれ育った人たちに共有されている知識のバックボーンや、エトス、無意識的な文化性を持っていないと、理解しにくいと思われるウドムさんのユーモアを、白石さんは、苦労しながら翻訳した。本書は宗教や民主化のあり方について、タイ文化の現在について、知るための資料ともなりうる。東南アジアにおけるカルチュラルスタディーズに役立ちそうな情報が豊富である。私としては、『エロ本』を比較文化的に考察した本格的な批評書や研究書が読みたいと思うくらいだ。
この『エロ本』に内在するパブリシティが、新聞等のジャーナリズムで高く評価された所以だろう。そのパブリシティが、マスコミで評価され→書店で売れ→商業出版化される、というルートを可能にした。また、観光旅行者の心をつかみそうな、造本でもある。タイに興味がある、タイへの旅を望む日本人は、かなりの数がいることだろう。そのような層の人々を魅了する本のパッケージングと、ウドムさんの暖かなセンスが、やわらかに融合している。
しかし、白石さんが本書を日本で流通させるのも大変だった。長崎の本屋に行ったが、本屋になかなか置いてもらえず、新聞社に行くよう促された。新聞社で記事を書いてもらい、それを手に本屋へ。文学フリマへ出店。そこまでやらなきゃ本というものは売れないものだなと思わせられるところもある
白石さんの体感的、行動的に文学を実践するやり方には、頭が下がる。白石さんはWeb有名人でもある。白石さんのWeb利用のやり方も、自費出版をしようとする作家には、おおいに見習うべきところがあろう。白石さんはサイト運営を十年以上も続けてきている。2008年6月現在、ブログ、「白石昇日刊藝道馬鹿一代。」(http://d.hatena.ne.jp/whitestoner/)のページビュー数は480000強、ポッドキャストのリスナー数は1000人強、メルマガの読者数は350強であり、それぞれ大変なものである。ポッドキャストには、自己の歌の弾き語りも流し、代々木公園で路上ライブもする。バイタリティあふれる行動をなす白石さんは、全身をつかった総合的な表現活動によりファンの数を増やしている。2ちゃんねるの翻訳板や創作系のページなどでも有名だ。Web上での白石さんの活動の総体は、『エロ本』の営業へともリンクしている。食うや食わずの生活をしつつ、日本で少々のお金を稼ぎ、タイで生活をしたりもする。まさに領域横断的な生だ。亡命者的であり、移民的である。「文学と政治」の一致した、移民としてのマルチチュードの姿勢が、白石さんにはある。実感に基づく体験を、言語における藝として魅せていく白石さんの活動には学ぶところが多い。


白石昇 69年生。言語藝人。第十二回日大文芸賞受賞。白石昇さんの略年譜はホームページ(http://www.geocities.jp/shiraishi_noboru/)で読める

批評放送γ ぶんがく社インタビュー ――嘘のない自費出版について 

――私の守備範囲は、文芸評論や哲学、人文社会科学系の学術書である。商業出版しようと考えても並大抵のことでは適わない。
 そこで気になるのは、自費出版の現状だ。ネット検索で「自費出版」というキーワードを入れると、膨大な数の自費出版社がヒットする。一見どの自費出版社も大差ないように見えるが、費用一つとっても千差万別だ。印刷形式もオンデマンド印刷から本格オフセット印刷まで、実に幅がある。
 現在の自費出版を取り巻く環境はどのようなものであるのか。そして、最も理想に近い自費出版とはどんなものなのか。新たに自費出版事業を立ち上げた「ぶんがく社」編集部の笹川道博編集長に聞いた。

・ぶんがく社ホームページ
http://www.bungakusha.jp/

――二〇〇八年一月の新風舎倒産で、自費出版事業への風評はかつてないほど厳しいものになっています。笹川さんは、この時期になぜ、自費出版事業に乗り出したのでしょうか。

笹川:特にこの時期を意識したわけではありません。たまたま新風舎の一件が今年の一月に明らかになっただけです。実際企画を立てたのは去年の春、動き出したのは五月、六月でしたから。ただ、私が自費出版事業を手がけようと考えたのは、かつての碧天舎と今回倒産した新風舎、それに現在がんばっている文芸社の自費出版大手三社のシステムに、大きな疑問を持っていたからです。私は、この三社の「自費出版書籍を一般書店に棚置きする」、さらに言えば「棚置きさえすれば自費出版書籍であっても売れる」という誤った認識を与えかねない触れ込みに疑念を持ったんです。おそらく、実際に配本はしていたんでしょう。しかし、新風舎や碧天舎の状況を聞く限り、無理があったのは間違いありません。文芸社においても、基本的には同じでしょう。書店にむりやり、「自費出版だけれども置いてください」と頼んでいるわけです。紀伊国屋とかの大手書店のチェーン店に専用の棚を作ったりするのも、それなりのお金を出版社側が払わないといけないのでしょう。最初から、書店がほしいものを供給しているわけじゃないですからね。需要がないのに「あなたの書籍が本屋に並びます」と言って供給するのは、最初から無理があるでしょう。そこにひずみが生じるであろう事は容易に想像できました。

――基本的に自費出版書籍は売れない、とおっしゃるんですか?

笹川:残念ながら、そうです。「あなたの本も本屋に並べれば売れる」などと一般の方に請け合うこと、それ自体に非常に大きな嘘があるんです。自費出版の作家さんというのは、出版業界の事情に明るい方ばかりじゃありません。むしろほとんどの方はそういうことを知らない。本屋に並べれば、売れるんじゃないかと思うのは、無理からぬところです。しかし、実際には、まず売れません。私もこの業界に二十五年以上いますから、それくらいは分かります。市井の方が執筆されたものでも、売れるに越したことはありませんし、そうあってほしいのですが、現実はそうではありません。大手の自費出版社が作家さんたちに宣伝していることと、一般書店での棚置きの実態は違っていたんです。売れるといいですね、なんてことを言っていて、実際はほとんど返品になるのは間違いない。平積みはもちろんなかなかやってくれないし、棚出しも、自費出版ならせいぜい一冊ですね。書店に十冊入れたとして、九冊は倉庫に眠ってしまう。書店さんも自費出版がなかなか売れないものとわかってくれば、配本された書籍の結束さえほどかないで、そのまま返品してしまうケースだってあるでしょう。実際、今回の新風舎の件では、そういう問題がクローズアップされています。

――実際には売れないものを千部につき二百~三百万円、ものによってはそれ以上の費用をかけて出版していたのですね。

笹川:「実」がないんですよ。システムに実りがない。ケースバイケースでしょうけれども、実際に売れないにも関わらず、売れている商業出版書籍と同じ事をするのは、たとえ最初から採算を度外視した自費出版であったとしても無理があるんです。

――書籍としての品質はどうだったんですか?

笹川:新風舎は、最盛期には年間約二千件にも及ぶ発刊数を誇っていました。これだけの点数をさばくとなると、外部の校正者、編集者、デザイナーに委託していたでしょうし、タダ働きに近いような状況だったという噂もありますが、それにしてはちゃんとしたものを作っていたと思います。新風舎から出された自費出版書籍は、私も数冊拝見しました。いい本を作られています。文芸社もそうです。「法外なほど利益を貪っているひどい会社」みたいに言われていますが、本の出来自体は悪くないんですよ。しかし、「本屋に並ぶ」という部分にシステム的な欠陥があったんです。全国の書店に流通するという話でも、そうです。新風舎の場合、実際は系列の書店である熱風書房などで、せいぜい十冊、多く見積もっても三十冊くらいの本しか流通していない、なんてこともあったと聞いています。文芸社はそこそこやっているらしいですがね。新風舎には、謳っているものと大きな食い違いがあった。そして、何度も言いますが、書店に並んだとしても売れないんです。

――なぜ、自費出版書籍は売れないんでしょうか?

笹川:書店で本をお買い求めになる一般の方々は、書店さんにいらっしゃる際に、あらかじめ何かを手がかりとしていらっしゃるわけですね。著者の名前があって、作品名があって、どういう内容かという情報です。それがあって探しに行くというのであれば、一般書店であってもネット書店であっても売れるかもしれません。ところが、自費出版書籍に関して同様のことを考えてみると、書店さんにいらっしゃる一般の方々は、著者の名前もご存じないんです。もちろん作品名も知りません。これでは、注文のしようがない。書店に行っても、膨大な書籍のなかから、あえてそこで著者も作品名も内容についてもまったく分からない自費出版書籍を選んでいくということがありうるか、疑わしいわけですね。

――御社は、どのようなやり方で自費出版に取り組むのでしょうか?

笹川:「全国の書店に置きます」「書店に置けば売れるかもしれません」というのは、作家さんにありもしない希望を与えるシステムです。希望を絶望に置き換えるわけではないですが(笑)、ありもしない希望を与えるようなことは、システム上も宣伝等のアピール文においても、省かなくてはいけない。自費出版の実態というものを、作家さんだけでなく、我々サイドも共有した上で、「さてどうしようか」というところからしか始まらないだろうというのが、弊社の基本認識です。まず、書店配本は行わず、価格を下げるということ。前述の通り、自費出版書籍は書店が求めていないのですから、書店の棚に並べようとすれば、どうしても無理が生じる。無理の生じる部分は、最初から求めない。主要販路は、ネット書店最大手の「amazon.co.jp」(以下「アマゾン」)です。

――「アマゾン」を主要販路にした理由は、単に書店配本の代替ということですか?

笹川:「アマゾン」を単なる書店配本の代替販路と考えている人がいるなら、その人は、現在書店で起きている現実から目を背けているだけだと思いますよ。

――それはどういう意味ですか?

笹川:これからは、急速に少子化と高齢化が進んでいきます。子供は少なくなって、団塊の世代がみんな高齢化していって、お年寄りばかりになっていく。本屋に行くと気づくことは、お年寄りがいないということです。書店に行って、高齢者なんて見たことがありません。高齢者の方々が本を読まないわけではないのですが、書店まで足を運ぶのだって大変です。たとえ書店までやってきても、我々でも圧倒されるような、日々更新されて新しい本が並んでいる状況の中です。どこから探して手をつければいいのか、途方に暮れてしまうのも無理はないでしょう。あらかじめ読みたい本があるのであれば、それこそネット書店で十分なわけです。高齢者が自分でできないのであれば、お孫さんや娘さんや息子さんに頼めばいい。「この本を買って」と、お金さえ渡せばすぐに翌日、二日後には手に入るわけです。ましてや、今の若い人たちは、本屋でなんか本を買いませんよ。これからは、はっきりと自分の好きなカテゴリー、得意なカテゴリーが特定していて、ネットで買う。そういった時代に入ってくるとすれば、ますます書店から人は遠のく。そうすれば、書店は危ないと思います。いまですらそうですが、ネット書店各社が、どんどん業績をあげていくでしょうし、出版社も独自でネット販売ということを考えていくんでしょうが、今のところ出版社というものは、一番ネットに疎い。遅れています。

――なるほど。

笹川:弊社の自費出版への取り組みで、「書店配本は行わず、価格を下げる」と並んで重要なのは、高品質の書籍をご提供するということです。当たり前のことですが、この点がおろそかになったら、お話になりません。それともう一点挙げるとすれば、インターネットを通じた宣伝を展開していくことです。

――新風舎の場合は、新聞広告についても作家さんからお金をとっていたと聞きましたが。

笹川:そうです。なぜかというと、新聞広告はとてつもなく高いからです。たとえば四大紙といわれる読売、朝日、毎日、日経の全面広告ですと、一紙あたり、朝刊一回だけでも一千万円程度の費用がかかります。商業出版なら、これだけ高額な広告費をかけても、何十万部と売れるベストセラーに育ってくれれば元が取れますから、出版社側も投資という形でリスクを背負い、さらに広告費をつぎ込んだりするわけですが、たかだか出版部数が一千部程度の自費出版書籍の場合は、そうはいきません。全部売れたとしても、とうてい一千万円もの宣伝費を賄う利益が出ないからです。

――確かに。でも、そうだとしたらどんな宣伝をしたらいいのですか?

笹川:自費出版書籍の場合、作家さんが、自分の作品を売ろう、理解していただこう、読んでいただこう、という努力がどうしても必要です。弊社のシステムが顧客ターゲット層として想定しているのは、ネット環境をお持ちの方です。もちろん、お孫さんや息子さんや娘さんがネット環境に明るい方であれば、著者ご自身がそうでなくても構いません。弊社もホームページで広告したりいろいろやりたいと考えていますが、まずはご自身でブログやホームページを持っていただきたい。それで、ブックマークをはっていくとか、あと友人で、知人でこういう本を出された方がいると、そういう輪を広げていくことですね。

――口コミが一番強いということですか?

笹川:口コミに限らず、本をどう売るかに知恵を絞っていくしかありません。まずは自分でネット環境を持つことです。あとは知人、リアルで知っている人、会える人、電話できる人、メールできる人がいれば、その人たちが百人いれば、百人に本を買ってもらうことです。で、その百人に、これを読んだら、合わせてご紹介くださいと、ブログ等お持ちでいらっしゃったら、それについて紹介してもらえませんかねと、お願いしていくことです。資金に余裕のない一般の方の作品は、その人自身にしかプロモートできないんです。

――自費出版系で広告費用を会社負担している出版社というのは皆無なんですか?

笹川:私が知っている中では、幻冬舎ルネッサンスがそうです。あそこは、全部会社負担で広告もやっています。完全に商業作家を相手にするような態勢で、本当に高品質な自費出版書籍を作っています。印刷、デザイン、校正、編集、ライティング、どの面をとっても厳しいです。妥協はないですね。親会社が「文芸の幻冬舎」で、背負っている看板がありますから、逃げられない。先行する自費出版業界の失敗というアンチテーゼがあって、それらの問題に対する解答として彼らも自費出版部門を作っていますからね。じゃあ、おれたちがちゃんとしたものを作るぞ、という気概がよく伝わってきます。

――自費出版で実際に行われている編集品質と商業出版の編集品質の間には、どれくらい差があるんですか?

笹川:一般的に言って、母体が印刷屋の自費出版社は、値段が安いとしても、経験豊富な編集者がいるかというと疑問ですね。商業レベルの編集が出来て、メジャー出版社と相撲をとっても負けない品質のレベルのものを作れる編集者がいるかというと、まず、いないんじゃないかなと思います。それは、作家さんとやりあって、ここはこれじゃないでしょうといえる、はっきりとした自信を持っているレベルの編集者です。幻冬舎ルネッサンスの編集者は、商業編集者としてそれなりのキャリアを重ねた人たちですし、スムーズな書店流通が可能な出版社であるということを考えれば、ますます元気な会社になるでしょうね。ただし、幻冬舎ルネッサンスの出版費用は、安くないですよ。それでも儲かっているかどうか怪しいですが(笑)。

――御社と幻冬舎ルネッサンスとは競合しないのですか?

笹川:私は、書店に並べる自費出版ということなら、幻冬舎ルネッサンスをお使いになるという選択はありだと思います。親会社が書店に多くの本を流通させていますし、そのこともあって自費出版の本も書店に置かせてもらえます。さらには、自費出版から口火を切ったベストセラー、ミリオンセラーも出そうという気概にあふれています。だから、競合と言うより棲み分けですね。書店に並べたい、二百万から三百万円出せるというのであれば、幻冬舎ルネッサンスをお選びいただけばいいですし、そこを百万以内におさえたいというのであれば、選択肢は、ぶんがく社しかありません。私はこの業界でずっとやってきていますから、本作りにおいては、絶対の自信を持っています。原稿を読めば、どこにどう手を入れると、よりクォリティの高いものにできるか、大体の方針が脳裏に浮かびます。

――笹川さんの書籍編集経験は、二十五年に及ぶそうですね。

笹川:はっきり言って、ぶんがく社の一番の売りは、値段の安さにそぐわない私という編集長です(笑)。冗談めかして言っていますが、これに関しては絶対の自負があります。安易な妥協はしません。あと一点付け加えるなら、システムとして嘘はないということです。それで、作家さんがより良い方向にいけるよう、ご指南もさせていただきたいし、一緒に相談にも乗りたいし、いろいろ話もお聞きしたいと思います。全部がちゃんとした形になるまで、船を出すことができないというのでは、一生船を出すことができないし、何も始められません。まずやれることからやって行けばいいんじゃないでしょうか。

――商業出版業界は、すでに構造不況業種と言われて久しいですが、そんな中で自費出版というものにどんな可能性があると思われますか?

笹川:仰るとおり、商業出版は楽じゃありません。楽じゃないと言うより、むしろ非常に暗い見通ししかないと言った方がいいでしょう。しかし、商業出版が置かれている現在の状況に自費出版を置き換えてやると、希望の光が見えてきます。例えば弊社の自費出版の場合、百部から作れるわけです。一番ローリスクと思われる範囲の中で、出版社に代わる努力を作家さん自身が自分で払う。それをやりながら、自分が努力していく姿勢の中で前途を開いていける、という事なんですよ。

――「一番のローリスク」の中に希望があると?

笹川:ないとは言えません。決定づけるのは、その作家さんの姿勢です。百部から始まって、それが五百部、千部になる人もいるでしょうし、個人で自費出版で二千部、三千部と作られる方も出てくると思います。そうなれば、私も弊社とは別の商業出版社に紹介できるかもしれません。弊社で出版した書籍を他の商業出版社から出す方が現れたら、私は諸手を挙げてその方を送り出しますよ。

――プロ作家を目指す人は、自費出版などせず、新人賞に応募すべきという声もあるようですが

笹川:自らの原稿を一冊の本にするということで、初めて見えてくるものもあります。表紙カバーなどのデザイン、文字組や、四六版の本のなかに文字が並んだ時に感じるものですね。本文の組んだ形のイメージ、自分の書いたもののボリュームなどです。プロ作家を目指すのであれば、作品が本になって、読者が一枚一枚ページを繰って最後に感じる何かを、知っておいた方がいいと思います。

――プロ作家を目指すのなら、本作りのノウハウに精通しておいた方がいい?

笹川:もちろんそれもありますが、もっと重要なのは、あきらめないことです。あきらめなかったからこそ、一冊の本になりえたわけですから。

――本としてまとめることを、作品を完成させるモチベーションにして欲しい、ということですか?

笹川:書くということ、書き続けるということをあきらめないひとは、創作に対する才能があります。あきらめずに、一途な思いを自分の作品創作に向けていくかどうかです。ただし、ただひたすらに自分の思いを凝らせるだけだと、どうしても独り善がりなものが出てきてしまう。そういう意味で、原稿を一冊の本にして、自分の作品を客観的に読んでみる、そしてまた、自分の知り合い、友達、親戚、そういったひとたちに読んでもらい、意見をいただくということは、書斎にこもって原稿のマス目を埋める、といったこととは、別次元のものです。そういう体験を積み上げて欲しいのです。

――アマチュアのうちから「読者」を意識して、作品を客観視できないと、とてもプロではやっていけないということですね

笹川:確かに、今の日本の文壇の現状でいえば、何かの賞を獲らなければ、なかなか専業作家としては残れません。しかし、獲ったからといって残っていける保証が得られたわけでもありませんし、獲らないでもちゃんと専業作家としてやっている人もいます。本を出すということは、原稿を書くことだけでは見えない何かを得るために、非常に重要なことだと思います。プロ作家を目指すには、もうちょっと余裕を持って考えたほうがいいと思うんです。芥川賞をとるために、まずは文学界や群像の新人賞を獲らなければいけないと思いがちでしょうけれど、プロ作家として身を立てるのが本当の目標なら、実は地道に営業を重ねることでチャンスをつかむ場合もある。「そうやって自分は上っていくんだ」と決意を固めることです。

――自費出版書籍を営業ツールに?

笹川:そうです。たとえば、ぶんがく社のスタンダードコースで一冊の本を出すのに三十万かかったとします。自分が有名人でなければ、プロ作家でもないのだから、そのなかでリスクを背負うのはしょうがないんだと、だけど自分には夢があるから、そこに到達するためには今はしょうがないんだという想いを、ご自身が持つか持たないかです。私が本当にプロ作家になりたいと思っていたとしたら、そういう努力をします。だからこそ、我々は、自費出版するにあたっての値段が安くなければいけない、そして、少なくともいい本を作ってあげなければいけないんです。世に問うていくための手段ですから。ぼくらの応援できるのは安いことといいものを作ること。それから、相談に乗ってあげることです。百部二百部を売るのだって、バカにはできません。二百部売るには、二百部売るための努力が必要です。たとえば、ネットでアマゾンで、知らない人がいきなり百部買うかというと、そういうことはありえないです。しかし、時間をかければ二百部、三百部は売れてくる。そのなかで、自分の培った努力とか、その過程でいただいた意見を次回の作品に投影していく。そこが重要なんです。

――「プロ作家を目指す人にとっての営業ツール」というのは分かりましたが、そうでない人にとっての自費出版の可能性とはなんですか?

笹川:弊社は、プロになりたい人のお手伝いはもちろん、生きてきた証しとして本を残しておきたいという方たちの役にも立ちたいのです。自費出版の価値は、多角的に見ていろいろあると思います。残すだけでいいんだという人もいるでしょう。本を作ってみて、一冊の本を出すということ、それがどれだけの高揚感があるかということは、出した人にしかわからないと思います。私も、かつて文芸同人誌を出したことがあります。学生時代、お金を集めてタイプで打ちました。印刷所からの冊子の出来上がりがものすごく待ち遠しくて、タイプ原稿を何度も何度も読み返しました。いまだにそのときの同人誌はちゃんと持っています。私が出版の世界で四半世紀生き残れた原動力は、あのときのときめきにこそあると思っています。

――よく分かりました。どうも本日は大変ありがとうございました。

――21世紀の現代社会において、物書きとして生きることがいかに大変かということを、図らずもうかがい知ることのできたインタビューであった。ぶんがく社さんの刊行された書籍には、以下のようなものがある。皆さんにもぜひ、チェックしていただき、そのクオリティの高さを実感してみてほしい。

・中里尚雄さん『ディセンション~自らを下げる~』
Descention ディセンション~自らを下げる~Descention ディセンション~自らを下げる~
(2007/10/14)
中里尚雄

商品詳細を見る

・笠井駒三郎さん『軛(くびき)』
軛〈くびき〉軛〈くびき〉
(2007/11/10)
笠井 駒三郎

商品詳細を見る


◎笹川道博(ささがわ・みちひろ)1957年生まれ。ぶんがく社編集長
過去に『ポケモン』『ときメモ』を始めとするゲーム攻略本や設定資料集、実用書の編集プロデューサーとしてベストセラーを量産。他にも漫画原作、サブカル、アーティスト系の書籍の執筆もこなす

「週刊少年ジャンプ」2008年28号 

○2008年 六月二十八日発行

BLEACH……なんで人気があるのか分からん

NARUTO……「ハリウッドの映画術」をシナリオを作るときに利用していると、前のジャンプで作者がインタビューに答えていた。「ハリウッドの映画術」を利用する程度でも、「ジャンプ」のなかでは知的に見えるところが不思議

ONE PIECE……ルフィが天竜人を殴るシーン、超スカっとしたお(^ω^) 魚人差別はいけないお(^ω^)

ダブルアーツ……ヒロインがかかっている病、・触れると感染し ・罹っているものは死に至る という点で、ハンセン病っぽくねーか? 着想はいいが、このテーマを扱えるほどの力量が、作者に欠けているのじゃないかと思う

アイシールド21……展開がありがち。帝国アレキサンダースに買っちゃったら、この漫画、終わるの?

リボーン……絵がカワユス(^ω^)

PSYREN……ジャンプでサバイバルものは無理じゃねーか?

銀魂……神楽の兄ちゃんが夜王を裏切るのはありがちな展開でゲンナリ。夜兎を殺すところはオッケー

D.GRAY-MAN……神田・ラビがイノセンスなしで、困っている状況が延々と続いているところは暗くて良い

SKET DANCE……展開にびっくりした。この作者はときどき、うまいと思う。でもそろそろ打ち切りなのかな

ピューと吹く!ジャガー……ジャガーさん、カワユス(^ω^) 私も雨の日は裸で買い物に行くお(^ω^)


☆今週もジャンプはつまらなかった。やはり、漫画・アニメは文学に劣る

☆「すばる」を廃刊して、ジャンプを値下げしよう!

批評放送γ 第3回日本SF評論賞受賞記念、藤田直哉さんインタビュー――「消失点、暗黒の塔」を読む 

S-Fマガジン 2008年 06月号 [雑誌]S-Fマガジン 2008年 06月号 [雑誌]
(2008/04/25)
不明

商品詳細を見る

――SFマガジン二〇〇八年六月号に、第3回日本SF評論賞・選考委員特別賞受賞作である、藤田直哉さんの「消失点、暗黒の塔 《暗黒の塔》Ⅴ部、Ⅵ部、Ⅶ部を検討する」が掲載された。これは藤田さんの文芸評論家としてのデビュー作となる。
この評論は、スティーヴン・キングの畢生の大作「ダーク・タワー」を論じたものである。キングは構想と執筆に三十年もかけて、超長編である「ダーク・タワー」を二〇〇四年に完結させた。「ダーク・タワー」の前半は、重い緊迫感、意表をつく展開、活気あるアクションシーン、練りに練った構成、主人公たちの不屈の闘志等を合わせ持つ、名作である。しかし、前半にくらべて、後半、および物語の結末への評価は、ネットなどにおいてかなり低い。藤田さんは非難を多く浴びている後半および結末を、むしろ積極的に肯定して取り上げる。否定されることの多いここにこそ、キングの魅力が現わされ、現代社会の状況が写しとられているのだと分析している。普通に読むと、一般の方にはやや難しいかもしれない藤田さんの評論「消失点、暗黒の塔」の内容について、藤田さんご自身にお話をうかがった。

――藤田さんが今注目している作家は円城塔さんだそうですね。

藤田直哉さん 先日イベントがあって、直に円城さんとしゃべりました。円城さんの作品の、あれってデリダですか、ディファランスですかと、直球で質問しました。円城論が書きたいからヒントをくれと言ったら、(円城さんは)浅田キッズだとおっしゃっていました。

――円城さん以外で、注目している作家さんはいるのですか?

藤田 最近の作家では、木下古栗さんが気になってますね。「無限のしもべ」、面白かったな。頭でっかちな変態みたいなやつがいる。それと、イケてる男と女がフリスビーをやって遊んでいるんですよ。そこに仲間に入りたくて近づいてくるんだけれども、挙動不審でテンパッちゃって、浮いているんだけれどもそれでも近寄っていく、みたいな。その両者の裂け目みたいなところに無限というのが出てきて、その無限というのが重要かなと思っているんです。面白いんですよ、それが。単純にユーモアとして面白いんです。

――藤田さんにとって、無限というのはちょくちょく課題になるのですね。今回、第3回日本SF評論賞・選考委員特別賞を受賞なさった作品、「消失点、暗黒の塔」も、無限についての話でしたね。受賞、おめでとうございます。

藤田 ありがとうございます。

――こちらの賞に応募なさったきっかけはどうしてだったのですか?

藤田 第一回目のときに気づいて、書き始めて、第二回に応募しようとしたけれども間に合わなくて、三回に送ってと。創設のときから、これはいい賞だなと思っていました。

――SFマガジンも歴史はあるようですが、この賞をやり始めたのは最近なんですね。

藤田 評論は遅いのでしょうね。小説とか詩とかより、評論が出てくるのは時間がたってからなんじゃないかと思います。本当は実作と両輪を携えていくのがベストな評論のあり方だと思いますけど。去年はSF作家の評伝がブレイクして、最相葉月さんの星新一さんのものとか、宮野由梨香さんの光瀬龍さんのものとかが出ましたね。評伝というジャンルも、今まで純文学作家とか自然主義作家とか、そういうジャンルのものばかりだったんですが、SF作家の評伝もあってもいいし、漫画家やゲームクリエイターについても評伝を書いてもいいと思いますね。むしろ出てきて欲しいと非常に思っています。個人的に読者としても読みたい作家はたくさんいる。

――純文学作家の場合、その作家の生きている環境で起こった事象の全部と、純文学の作品との対応をチェックしたい欲望に読者が駆られやすく、その構図がみやすいものであり、評伝が書かれやすかったのでしょうね。純文学は「作家の死」というものがいわれるまで、作家主義的な読まれ方をしていました。であるからこそ、かつての時代では、一人の作家が文壇において、長生きしやすかったのでしょうね。逆に、ライトノベルなんかが問題になっているのは、若い作家の使い捨て状況になってしまうと。桜庭一樹みたいに、直木賞へと出世する以外に方法はないと。昔の純文学の作家は、その人の生の全体と作品との対応が喧伝されやすかった。だから評伝が活発だったのでしょうね。しかし、ジャンル小説的なものが、個別の作品だけが存在し、作家というものが前面に出てくることが少なく、その作家の存在というものに、気づかれにくいわけですね。

藤田 日本SF評論賞の正賞を受賞された、宮野由梨香さんの「阿修羅王はなぜ少女か」は、SFの作品を私小説として読むというやり方で、このやり方もオッケーだとぼくは思っていて、一見幻想小説だとか、荒唐無稽に見えるものが実はある私小説的内面の表現だと考えれば、自然主義文学の側からジャンル小説を読むやり方も可能になるんじゃないかと思うんですよね。

――評伝だと、非常に具体的にやれますからね。理論系プロパーでやっているとだんだん不安になってくる、というのがぼくはあるんですけれども。証拠がないのに、こんなこと書いちゃっていいのかなと。

藤田 ありますね。案外、そういうことしなきゃいけないことも多いですけれども。

――藤田さんが今回書かれた評論は、キングの「ダーク・タワー」論ということで、キングのこの小説は、ものすごく長い作品ですよね。

藤田 長いですよね。文庫本全十六冊です。中学生くらいから好きで読んでいました。

――キングのなかで、他に好きな作品はありますか?

藤田 意外にこれ一本というのはないですね。やはり「ダーク・タワー」じゃないかな。

――『スタンド・バイ・ミー』とか『グリーン・マイル』とか、映画化もなされて知名度の非常に高い作品などもあるわけでしょうけれども。

藤田 そこらへんはベタなんで実はあまり好きではないんですよ。キングは感動するほうよりもゾンビとか怪獣とかが暴れたりするほうが良くて(笑)。『デスペレーション』とか、リチャード・バックマン名義でやっている『レギュレイターズ』とかの方が面白いですね。リチャード・バックマンはキングがC級な作品を書くときのためのペンネームなんです。リチャード・バックマンの『死のロングウォーク』は、高見広春の『バトル・ロワイアル』の元ネタになった作品ですね。『デスペレーション』と『レギュレイターズ』の、キングとバックマンの二つの小説は並行世界になってたりもして、仕掛けが面白いですね。バックマンは「偽名癌で死んだ」とプロフィールに書かれています(笑)

――今、キングは二〇〇八年で六十一歳ということですね。日本では誰にあたるのでしょうかね。

藤田 日本で言うと、……宮部みゆきでしょうか。ちょっと分からないですけど。

――キングは、世代的にはちょうど六八年の学生騒乱を大学生時代に体験しているわけですね。

藤田 アメリカでは公民権運動とかがあって、キングは割とそういうのに言及するので、影響関係は著しくあると思いますね。ある種のSFも、そのころ同時におこった左翼的な理想と、共鳴はしているんじゃないだろうか。ぼくの評論では内奥性と祝祭が大事だと論じています。それが当時の新左翼の主張から影響を受けているという部分は正直多い。近代というのは、大きな物語というか、ある焦点に向かって欲望を注ぎ込む。そうすることで社会を動かす運動だとぼくは考えています。その運動の反動として必然的に生じるものが内奥性だと捉えているんですね。
消失点と内奥性というのは、共犯関係ですよね。それこそ全体的に、資本主義を駆動させている、ともいえるわけじゃないですか。祝祭を原動力にする。鉄の牢獄に抗う祝祭が人間の心の内部に生じて芸術や娯楽として表現されるや否や、それがさらに資本主義を駆動させる商品となる、という。この困難こそが「ダーク・タワー」の臨界点であるというのが僕の今回の論の焦点です。

――藤田さんの評論は、ぼくの興味の持ち方と非常に近いアプローチの仕方だったので面白く読みましたけれども、難しい参考文献を手際よくまとめて、わかりやすく論じていらっしゃいますね。キングは「ダークタワー」を一九七〇年ころ、大学生のころから構想をあたためていて、完成させるまで三十年ほどもかかってしまったということです。執筆期間がとても長いですね。

藤田 埴谷雄高の『死霊』みたいですね。内容は全然違うけれども。

――執筆が長期に渡ると、最初と最後で構想の変化が生じるのではないでしょうか?

藤田 意外に一貫していると思う。神と無限の話が、本当に初めの時点で明示されていて、まさにその通りの結末になっている。キングのやろうとしていることは、一面では変化しているけど、もう一面ではかなり一貫性があるものとぼくは感じています。

――神へと至る道というのが主題としてあって、それが物語の全体を引っ張っていっていると。藤田さんの評論に「端的に言ってしまえば、「暗黒の塔」とは中心ゼロのことであり、辿り着くことのできない「消失点」であり、それはポストモダン思想が否定する真理であり、それらのメタファーである」とありますね。ポストモダン的なものとして、この小説をとらえていらっしゃるわけですね。

藤田 キング自身も、自分が否定したいものは近代合理主義だって明言しているんです。世代的にもポストモダン思想の世代だと思うんで、影響があるんだと思っています。ジジェクなんかも、しばしばキングに言及しますね。キングをくだらない作家のように言う人は多いけど、そうじゃない部分のほうがずっと多いと思う。

――「ダーク・タワー」本文の、キングから読者に対するセリフ、あなたは「目的地に着くことを優先する容赦のない人だ。あなたはいまだに、事の行き着く果てのくだらない射精とセックスそのものを完全に混同している」というくだりについて、ラカン=ジジェクの意見をイメージできると藤田さんは論じています。

藤田 たどり着けないことこそが、たどり着いていることであるという結論ですね。ループすることによる快楽、目的地へたどり着くことなく、ループすることに快楽を見出すという側面も考えられます。多分そこには理想社会や進歩というものを設定する思想への批判があるわけですね。それらへと、達成しないこと自体を楽しもう、というメッセージは含まれていると思いますね。二瓶勉さんの『BLAME!』なんかは典型で、ループしながら、その過程にある奇妙な建築物にフェチズム的な欲望を喚起され続けて、その快楽を無限に続ける。ある種のヲタク的な生にも近いのかもしれない。

――「ダーク・タワー」のⅠ~Ⅳ部は三人称小説ですが、後半のⅤ~Ⅶ部は作者のキング自身が一人称で出てきたりしている。このことをとらえて、後半部ではメタフィクションのようになっていることを重視して、藤田さんは論を展開しています。

藤田 普通は作者が出てきたりとか、作者とキャラクターが座談会するとか、そういう一見小説のルールからするとふざけて見えることを、こういう命をかけた作品でやっちゃうのはすごいですよね。しかもあんまりギャグじゃないふうに出てくる。本人が出てくるのは、ネットの評判では袋叩きにあってますね。結末も。いや、そうじゃないんだと思って、この評論を書きました。いわゆるアメリカのメタフィクションは一九六〇年代にポストモダン思想とほぼ同時に発生しています。それに、影響を受けているのでしょう。つまり、自然主義文学というのはモダンの原理のもので、ポストモダンの世界ではそういう原理じゃない。視線の分裂や多層化が現れる。そういうのをやっているのが、メタフィクションなんですね。カート・ヴォネガットやドナルド・バーセルミが有名です。現代日本のコンピューターゲームの、『半熟英雄』(はんじゅくヒーロー)や『メタルギアソリッド2』なんかもメタフィクションですね。

――メタフィクションというものは、視点の混乱を狙っているわけなのでしょうかね。神的なものが全体をつり下げるというのが自然主義文学の形でしたが、それが壊されて、自己の視点と他者の視点が入れ替わる。ぐるぐる回っているという。

藤田 ボードリヤールとかがもとになっているのでしょうね。映画の『マトリックス』みたいなものを想像してもらえばいいのでしょうけれども。マトリックス世界にいたと思ったら、そこが現実だった。と思ったら、マトリックスだった。と思ったら、現実だった。そういうふうに無限にメタに進んでいき、一番上に行ったらまた下につながっていて。そういうふうに入り組んでいるのが現代の現実なんでしょうね。北野勇作さんはそういう複雑に入り組んだ世界を描くのがすごくうまい。

――「ダーク・タワー」のラストにも言及されていますね。「「作者」の登場は、物語を読んでいる人間の期待値の動きを利用し、「結末」の絶望感を高める。作中のあとがきなどを含めて、全て作品の一部だと考えてみよう。それらは戦略的に、結末の効果を高めるために書かれていると見ることはできないだろうか。」

藤田 「ダーク・タワー」の結末の絶望感は有名ですね。「2ちゃんねる」にあった比喩では次のようなものがあります。すごく難しいゲームがあるとするじゃないですか。一週目クリアするじゃないですか。次に裏面が始まり、二週目が始まる。二週目をクリアして、三週目に入る。で、ラスボスを倒してようやく真のエンディングが見れると思ったら、途中でアイテムを取り逃していて、最初の面に戻ったみたいな。あれえ、何十時間やったと思っているの、みたいな(笑)。そういう感じで、しかも伏線がないという終わり方です。それは「ええー!?」ってなりますよね、普通。

――それをキングは「あえて」狙ってやったというのが藤田さんの意見だと。

藤田 それは「あえて」でしょうね。「あえて」というか、そうなるしかない必然性がある、と思って僕は論を書きました。

――評論でいうと次のところですね。「……キングがこれまでに書いた全ての作品は『暗黒の塔』に集約され、その結末に辿り着くために長い長い小説を書くというキングの苦役があるのだと期待する。そして、語られた言葉の量そのものに圧倒され、その苦役の、全ての中心の中心、目的が、単なる徒労であり、本当の目的地に近づくためには同じ努力を何周も続けなければいけないと知ったときに生じる、あまりの落差への落胆。これを演出するために全てが用意されていると言ってもいい。」長く長く歩いてきて、これで終わるのかよ、という。

藤田 ただ、それこそが快楽だという話です。結末にたどり着けなかったことがです。何かがこの先に待ち続けているかもしれないと考えることが、彼の快楽なんです。その状況が維持されることのほうが、欲望というのが清算されうる状況にあるから、それこそがいいんだ、ということですね。

――どこまで進んでも目的にたどり着けないというのは、カフカの『城』にも似ていますね。

藤田 カフカの『城』との比較でいうと、カフカの『城』は、確かに中心にたどり着けない未決定性のなかでぐるぐるまわっているけれども、文体や構造はジャンクじゃないんですよ。すっきりしているんですよ。ゾンビとか変な怪獣とか、出てこないじゃないですか。メタフィクションでもないし、ジャンク性がない。「ダーク・タワー」はジャンクコラージュ的なカフカの『城』っていうような言い方で捉えられる。

――カフカはリアリズムですものね。

藤田 そうですね。でも構造としては似ているとは思います。

――カフカというのは、徹底的に「神」の影が見えない作家かとおもいますけれども、その点、ここなんかはどうなのでしょうか。「この『暗黒の塔』は二つの相反するエネルギーや思想が鬩ぎ合い、対話し、バトルしている小説であり、その衝突の現場なのだ。最終的に「神」への批判に行き着くが、そこまでは闘いが延々と続いているのである」

藤田 そうですね。バトル小説というところもあると思います。エンターテイメントは小説は何かがバトルしているものが多い。バフチンによれば、ドストエフスキーの『罪と罰』は、ロシア正教、右翼、左翼、社会主義思想といったもののバトル小説じゃないですか。それで最後にソーニャが勝つわけですけれども。衝突やノイズがドストエフスキーの小説にはあって、それが祝祭になっている。キングの小説もそういうものになっていると思うんです。

――ドストエフスキーは最後は神が救っていると思いますが、キングの場合、神への批判が強いのじゃないでしょうか。

藤田 ドストエフスキーの肯定している神と、キングの否定している神は違う神のような気がする。ドストエフスキーの場合、土着的というか優しさがある、豊和的な神だと思う。キングの想定している神というのは、シビアで理不尽で嫌なやつっぽい感じがする。

 (ここで、蜂が突如として現われ、藤田さんの周囲をつきまとう)……蜂だ、蜂だ、助けて、蜂だ、蜂だ蜂蜂、蜂だ……これは記事にしなくていいよ。してもいいかな、しても面白いよ、これは。なかなか臨場感があっていい……あ、やだやだ助けて……これ入れようね、残そうよ、これ。残せるなら残そうよ(笑)……これ、削っていいよ……

キングの核心というのは、内奥性とか祝祭という概念で把握できるんじゃないかと思います。怪物が出てくるじゃないですか。怪物って、くだらないものとか幼稚だとかってとらえられている。でも、SFとかって、怪物がしょっちゅう出てくる。これをくだらないものととらえるのでなくて、怪物というものの出てくる必然性をとらえることで、ジャンル自体の特性が見えてくると思うんです。アンドレ・シャステルは『グロテスクの系譜』のなかで、怪物というのは祝祭であり、ユーモラスなものであると言っています。ユークリッド空間的な物語に、静謐で清潔なルネッサンスに対抗するために、民衆が無意識的に呼び出したものがそれで、怪物とは面白いもので、カーニバル的なものだと。日本においても怪物というのは幼稚なものととらえられていますが、純文学的な規範そのものにジャンルとして抗うために、怪物とかが形成されてきたと受け取ることができるじゃないか。グロテスクもそうですが、正しさとかある規範が暴力的に押し付けられているときに、民衆がそれに対して反動としてやる表現であると。
2ちゃんねるもぼく、そうだと思うから。大衆の熱狂ですね。怪物です。内奥性であり、祝祭であり、ユーモラスなあべこべ世界です。倫理が逆転していますね。2ちゃんねるにおけるいわゆる「祭り」は、身分や物の価値観が逆転するわけですね。貧乏人や道化が聖なるものになったり、王が転落したり。権威が地に落とされ、ダメ人間が上がったりする。雑多性、怪物性、カーニバル性でとらえられるわけですね。2ちゃんねるの祭りって、よく知識人に批判されるけれども、本当の祭りだってやばいんだから、2ちゃんねるだけ批判するのはよくないよ。本当の祭りなんて、人間に杭を落としたり、家を壊したりしてるんだから。2ちゃんねるだけ責めるのはよくないよ。まあ、2ちゃんねらーも良くないんだけどね。

――ちなみに、2ちゃんねるの、どの祭りとかが好きなんですか?

藤田 スピード感とか集合感とか熱闘感とかあるのが好きだね。闘いが面白いよね。ニュース速報プラス板が好き。闘ってる方が好きだよ。闘いが起こって、レスがいっぱいついて、祭りが起こるのはみんな挑発的なことをわざというからだよ。
あとは、文学関係の板とか。文学に関する見解とかが分かれて、喧嘩になるわけ。ポストモダン文学とかについて語っていると、「日本の心がどうこう」とか、そういう古い右翼みたいな考え方をもっている近代文学主義者がきて、おれに説教していく。で、闘いですよ。すごい闘いますよ。

――「2ちゃん炎上事件」とかが起こるわけですね。

藤田 起こる起こる。僕は2ちゃんねるで朝鮮人ということになってますからね(笑)。あいつは朝鮮人だから受賞したんだ、とか言われるわけです。事実無根ですが。「2ちゃんねる」について一言だけいうと、2ちゃんねるは物質を使わない祭りじゃないですか。記号だけの祭りだから。資本主義が、祭りを駆動原理にして、高度消費社会になって、服とかも、記号の消費なわけじゃないですか。それは物質を持っていた。金がかかった。でも、2ちゃんねるにおいては、金がほとんどかからない上に、物質が必要ない、つまり、エコに優しく、貧乏人に優しい記号の消費で祝祭をえているから、あれは意外といいことだと思っている。

――物質なき場で起こる、ある種の精神戦闘ですね。そろそろまとめに入りましょう。藤田さんの評論から再び引用します。「後半のジャンクな構造や引用のパッチワークと化すシミュレーショニズムのような構成は、このキングの小説が、二次創作やネットも含みこんだ物語消費の世界にも足を踏み込み、ネット‐二次創作的な現代の物語消費環境の変化に対応しているのかもしれないという点において、現代文学作品としても、過去のものに回収しきれない部分が多々ある」と。

藤田 引用のパッチワークやブリコラージュ、ジャンク性やシュミレーション性、二次創作性に注目していくわけですね。東浩紀さんのデータベース消費みたいな話ですけれども。インターテクスチュアリティですね。作品だけでなくて、作品の連鎖を、産む作品の全体として見る、みたいな。インターテクスチュアリティとWebとの関係については、アメリカ電子文学会なども言及しています。これって、自然主義文学的には評価できないじゃないですか。ネットの文学とか。でも、そうじゃない評価の仕方ができるんじゃないかと。その考え方を導入して、キングを読んでみたわけなんですが。

――2ちゃんねる的なアスキーアートとか、あるいはニコニコ動画のマッド動画とか。特定の形式を、引用に引用を重ね、すべての人が共有し、また同時に改変が続けられていく。それらの運動の総体を、現代特有のアートとして見る視点ですね。

藤田 そうですね。雑多性、コミュニケーション性、反応性、そして二次創作とか評論とかも全部含みこんで、インターテクスチュアリティに広がっていく。その運動自体に可能性を見出していきたいですね。

――それがこの「ダーク・タワー」という小説にもある、と。「視点や語りの位相を複数化させようとしているメタフィクション的な仕掛けにもその戦略は窺える。分裂するジャンクの怪物の祝祭。この点において、『暗黒の塔』はインターネットとも共振するのである。」とお書きですね。2ちゃんねる的なごちゃごちゃ感というか、混濁した感じが、このダークタワーという小説にもあると。ここで話がつながってくるわけですね。素晴らしい。

藤田 つながりました(笑)。猥雑性、ジャンク性、雑多性、ユーモア性。昔の純文学とかのように、それらを否定する文学観というものがあると思うんです。でも、それだけではない文学の読みかたもあるし、そういう表現もあるはずだと。そういう評価もできるんだというのがぼくの読み方ですね。

――ラストの部分、引用します。「『暗黒の塔』はそれ自体が「対象a」となり、たくさんの読解や解釈へ誘い続けるだろう。その際に生まれた評論やブログや掲示板での解釈、素人の二次創作や、映画化、スピンオフなどや、各国語の翻訳を含めて、『暗黒の塔』という巨大な建造物が増築されていく過程だと受け止め、この全てをひとつの作品と考えることもできるのではないだろうか。」

藤田 そうですね。キングは映画化できない作品を書くっていいはっていたんです。映画化させないって言っていたんですが、映画化権を最近売ったんですよ。コミックも出ているみたいなんですよね。スピンオフとかメディアミックスとか、そういうのを作品の一部として意識しているんだなと感心しました。そういうふうになっていくことをオリジナル至上主義者は否定するでしょうけれども、それらが増殖していくのも面白いじゃんと思っているんでしょうね。角川なんかはそう思っていると思いますし。

――なるほど。ダーク・タワーについてはまとまりましたね。「消失点、暗黒の塔」は何枚くらいの評論なんですか?

藤田 80枚ですね。

――80枚くらいの評論、ちょくちょく書かれているのですか?

藤田 いや、二本目です。卒論でヴォネガットを扱って、その次。

――すごいですね。二本目で受賞なさるなんて、才能あるんですね。

藤田 個別の作品に対する短いものならちょくちょく書いてましたけれどもね。

――藤田さんは、今回、批評家としてデビューなさったわけですが、創作もなさるわけですよね。批評と創作という問題機制で言うと、二つは藤田さんのなかでどういう関係にあるのですか?

藤田 もともと創作の方が長かったです。まず創作があって、それをネットとかに発表して、思ったように読まれなかったり、批判されたりするから、理論武装していくわけじゃないですか。理論武装をして闘っていくうちに、また、創作するわけじゃないですか。闘っているうちに、フィードバックしていく、そして創作のネタを探すために批評とかを読む。その過程を繰り返していくうちに、自分のがまともに読まれないときがある。逆に、他人の作品をどれだけ誠実に読んでいるのかと考えたときに、すごく誠実に僕は読まなきゃと反省もする。いろんな読みかたを自分ができるようになりたいと思って、他人の作品を理解できるようになりたいし、あと、自分の作品も理解してもらいたいというのがある。自分が下手なのか、ほんとに分かられていないのかが分からなくて、その辺も、新しい環境で新しいものを書いたら、批評も必要なんだなと最近分かってきて。評価とか世間の認知とかが追いつかないんだと思うんですよね。

――創作を補完するために批評を始め、批評をやることで創作をより良いものにもする。小説と、小説を理解するための批評。二つのうちのそれぞれが、互いを生かしあう形で、藤田さんのなかに共存しているのですね。「批評の可能性」というものを愛する私としては、藤田さんの今後のご活躍を心より期待いたします。本日はどうも大変ありがとうございました。


藤田直哉(ふじた・なおや) 83年生まれ。SF・文芸評論家
ブログ 「the deconstruKction of right」 http://d.hatena.ne.jp/naoya_fujita/

ダーク・タワー1 ガンスリンガー (新潮文庫)ダーク・タワー1 ガンスリンガー (新潮文庫)
(2005/11/26)
スティーヴン キング風間 賢二

商品詳細を見る

ダーク・タワー〈2〉運命の三人〈上〉 (新潮文庫)
ダーク・タワー〈2〉運命の三人〈下〉 (新潮文庫)
ダーク・タワー〈3〉荒地〈上〉 (新潮文庫)
ダーク・タワー〈3〉荒地〈下〉 (新潮文庫)
ダーク・タワー〈4〉魔道師と水晶球〈上〉 (新潮文庫)
ダーク・タワー〈4〉魔道師と水晶球〈中〉 (新潮文庫)
ダーク・タワー〈4〉魔道師と水晶球〈下〉 (新潮文庫)
ダーク・タワー〈5〉カーラの狼〈上〉 (新潮文庫)
ダーク・タワー〈5〉カーラの狼〈中〉 (新潮文庫)
ダーク・タワー〈5〉カーラの狼〈下〉 (新潮文庫)
ダーク・タワー〈6〉スザンナの歌〈上〉 (新潮文庫)
ダーク・タワー〈6〉スザンナの歌〈下〉 (新潮文庫)
ダーク・タワー〈7〉暗黒の塔〈上〉 (新潮文庫)
ダーク・タワー〈7〉暗黒の塔〈中〉 (新潮文庫)
ダーク・タワー〈7〉暗黒の塔〈下〉 (新潮文庫)

今週は 

<机の下にもぐって出てこないことにする

緒戦が 

<いきなりラスボスだったあなたはラッキーです
プロフィール

Author:松平耕一
○twitter登録名:matudaira
○ツイッターまとめ:http://twilog.org/matudaira
○Facebook登録名:松平耕一

☆文芸空間社企画
◎批評放送
・批評放送は松平のプロデュースする動画配信企画です。ツイキャス http://twitcasting.tv/matudaira 、youtubeなどで配信されます
批評放送@USTREAM

○松平耕一・文芸空間社・批評放送へのカンパ振り込み先は
・三菱東京UFJ銀行の吉祥寺支店普通口座1896022 マツダイラ コウイチ 宛になります

管理者ページ

FC2カウンター
ツイッター@matudaira
カレンダー
05 | 2008/06 | 07
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 - - - - -
全記事(数)表示
全タイトルを表示
カテゴリー


  1. 無料アクセス解析
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。