全国の初音ミクよ団結せよ! 

クリスマスとか興味ねーよ
という感想を抱いている松平です
皆様はいかがお過ごしでしょうか

その人がどういう仕事についているかとか
クリスマスがどうとか

         \知らんがな/
\知らんがな/
                 \知らんがな/

私とは、私を代表したものなのでしょうか?
私が、キャラクターのなかに消え行くことは、ありえないことなのでしょうか?

どうせ選挙なんて意味ないんだし
民主主義とか、機能失効しているんだし
次は初音ミクに票を入れようぜ!

そういうコンセプトで初音ミクデモをやってみたいと思ったりする

s-20081221002723.jpg

その模様はこんな感じになるのだ!
お前らは、まだ人間をやっているのか?

 お れ は 人 間 を や め た

ブログ「superficialchildren」から転載させていただきました
http://d.hatena.ne.jp/superficial-ch/
某様に、濱野智史さんの「初音ミクに出馬させてみた「共有党宣言」のための覚え書き」(『新文学』所収)についての記事と、マッド画像をお作りいただきました
ありがとうございます☆

初音ミクデモをやろうぜ!
人間なんて消えてしまえっ!
民主主義なんてくそ食らえだっ!
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東浩紀とテロル 

○2008年12月12日(金)、常野雄次郎氏がデジカメを持ち、東浩紀さんの東工大講義に突撃したということだ

・ブログ「(元)登校拒否系」
「あずまんの授業行こうぜー!」 http://d.hatena.ne.jp/toled/20081212/p1
「ここで実況します。」http://d.hatena.ne.jp/toled/20081220

私は以前、「タンクローリーで東浩紀をひき殺す(http://literaryspace.blog101.fc2.com/blog-entry-362.html)」というエントリを書いている

このエントリと常野氏の行動を関連付けた意見をみかけた
責任を感じたので少し私の考えを述べさせていただく
この記事を書いた時点の私は、東さんは、文学というものや、知識人というものの持つ責任を、もっともよく担ってある人物だと考えていた

私は、『動物化するポストモダン』が出たとき、そのアイロニカルな書が持つエポックメーキングな重要性を認めた
一方でこの理論書だけでは21世紀の批評というもののあり方が、とてもまずいものになると危機感を感じてもいた
『動物化するポストモダン』は批評空間派が持っていた啓蒙主義や倫理への偏重を切断したところに成る
だが、『動ポモ』と並立した形で、文芸評論のなかに正義というものを導入しなおすにはどのような方法がありうるのか、検討しなければいけない
そのような理念を抱きつつ、私は『新文学』を編集委員を務めた

・『新文学』増刷分、12月30日(火)冬コミにて発売開始!
http://literaryspace.blog101.fc2.com/blog-entry-387.html

「タンクローリーで東浩紀をひき殺す」で私は、「東浩紀を、思想的・文学的に、タンクローリーでひき殺す必然性に迫られている」と述べている
私にとっては、これを実践したのが『新文学』であった

常野さんらが、南京事件への東さんの認識の点をつらまえて、突撃するというのは、なるほど一つの決起であるかもしれない
そもそも、教員の業績や、文化人の著作は、社会にとってどんな意味があるのかという問いかけは、不断になされなければならない
倫理的・論理的な面での、知識人への具体的な糾弾、悪徳マスコミの粉砕は、人類社会の進歩の原動力となりうる
かつての学生運動が担っていたのも、そのような役割だった

21世紀の現在、その働きは、ネットを中心に展開される
だが、南京事件の規模の大小についての討議というものに、私は興味を持たない
私はより良い未来社会を引き寄せるために、自己の力を尽くしたい

・人間はどのように、貨幣や美の自己疎外を必然的になすか
・そのことが、どのように国家の壁というものを作り出すか。その壁をいかにしたら克服しうるか

ということを目標とし、細やかな分析をなしつつ、国家への弓はひかれなければならない

東さんにはご恩がある
上述のような失礼なエントリを書いているにも関わらず、私はゼロアカ道場で東さんに大変にお世話になった
東さんは、アカデミズムに対して、出版界に対して、画期的なテロルを様々になし、それらの業界の活性化に、大いなる貢献をしてきている
東さんへテロルをしたい人たちが、世間にはいるのかもしれない
しかし、もっとテロルをすべき打撃対象は東さん以外に多くいる
また、東さんもお仕事がありお疲れである
なのでかわりに、あなたはぼくに対してテロルをするがよい
「批評放送」では対談相手を募集している

09098527162

「批評放送」は、あなたによるぼくへのテロルを放映させていただきます


(※批評放送制作委員会はボランティアスタッフ募集中です)

批評放送α すが秀実インタビュー「ライトテロルは正義である!」 

二〇〇八年十二月某日。南京事件を巡る論争に端を発し、東浩紀の東工大講義に左翼系ブロガーが突撃する事件が起こった。この事件は、かつての全共闘運動と比較しつつ考えてみることもできるかもしれない。大学教員と社会との関係について、知識人の役割とは何なのかについて、考えるために欠かせない思想家として、すが秀実がいる。すがの著作には次のようにある。「ぼくは学生運動をやりたいという学生に対しては、「まず、教師と具体的に闘え」と言うことにしております。「何、下らないこと言ってるんですか」から始まってもいい」「教師などという存在は、学生にとって所詮は使い棄てられるべき「道具」以上のものではありえない。」すが秀実は全共闘世代の硬骨の批評家だ。東浩紀、大澤真幸、北田暁大らの仕事も、すがの思想を前提にしなければ十全な理解はえられないだろう。日本における「最後の良心」たるすが秀実に、『新文学』を携え、関連する項目の質問をさせていただいた。「批評放送」すが秀実インタビュー「ライトテロルは正義である!」世界を、革命するために!



吉本隆明の時代吉本隆明の時代
(2008/11/29)
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JUNKの逆襲JUNKの逆襲
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批評放送α 『新文学』増刷分、12月30日(火)冬コミにて発売開始! 

ご好評をいただいている『新文学』の増刷が決定しました!
12月30日(火)の、冬コミにて発売を開始します!

先日、しろうとさんとこの件についてお話をさせていただきました
そのやりとりを録画したものをここに掲載いたします
『新文学』でやりたかったこと、現在の文芸を取り巻く現状について、冬コミでの増刷分の販売開始についてなどが語られています



『新文学』をぜひ、冬コミにご購入にいらしてください!
12月30日(火)の10時から16時
国際展示場( ビッグサイト)
西2ホール”な”ブロック-04a
「萌え理論」ブースに集合です!

アートと公共性 

○東大全共闘

・「東京大学立花隆ゼミ‘08駒場祭企画 今語られる東大、学生、全共闘」
http://kenbunden.net/student_activism/

2008年11月に駒場で行われたイベント「東京大学立花隆ゼミ‘08駒場祭企画 今語られる東大、学生、全共闘」で配布されたレジメが載っている
立花隆ゼミの、学部の一、二年生たちが作った長い参考資料である
全共闘関係者へのインタビューがメインとなっている
若い人たちが精力をかけて資料集めをしている
立花ゼミはインタビューに力を入れていて、能産的だ
企画した学生たち自身は、学生運動に関わるつもりはないとのこと
にもかかわらず、よくも酔狂なことをやっている
表現活動はしたいけれども政治活動はしたくないよね、といったような、学生たちの雑談も収録されていた

○klovさんブログエントリ「「アートと公共性」 あるいはChim↑Pomについて」
http://d.hatena.ne.jp/klov/20081203/1228321767

広島上空に「ピカッ」の文字を書いたChim↑Pomのトークイベントについて、klovさんがレポをあげている
この紹介だけだと、「Chim↑Pom」のリーダー卯城氏は、アートとしてではなく政治的な活動を意図して「ピカッ」事件を起こしたのだと読める
ゲリラ的・テロル的でもある
なぜ飛行機雲で人の神経を逆なでするようなことを書いたのか
公共的空間で政治的活動をしたいなら、ビラ撒きでも演説でも、他にもやり方があると思うが
むしろ、公共圏での政治的活動は、ビラ撒きにしろ演説にしろ、行ないにくい事情があるのだろうか
人目に無理やり入るようなシチュエーションで、政治的なパフォーマンスをすることの是非という問題が生じている
また、klovさんのブログのコメント欄では長文による討議が生じているが、このコメント欄それ自体は、一つの公共圏であるといえるのだろうか?

○東さんブログエントリ「歴史認識問題についていくつか」
http://www.hirokiazuma.com/archives/000465.html
東さんが南京事件について言及した件が波紋を呼んだ
南京事件は実際にあったと考えているという、東さん
しかし当地を訪れてみると、そこで大事件が起こったという実感がえられなかった、と
この発言をめぐって、一部左翼ブロガーから批判の声があがる
PC系左翼VSポストモダン派の戦いである
昔からよくある衝突である
しかし、むしろPC系左翼のほうが戦闘展開が華々しい様子である

私としては、東さんは文学者しているなと思う
武者小路実篤みたい
馬鹿一でも、それはそれでOKじゃん、みたいな
中途半端で分かりにくいエントリではある

○文学者と不謹慎ネタ
政治的に不謹慎なネタをあえてしゃべるのも、かつては、しばしば文学者が引き受けていた
しかし、現代人は長大な文学に浸る余裕もないかもしれない
むしろ2ちゃんねる系で不謹慎ネタは活発だ
ネットでは書籍と異なり短文によるフレキシブルな発言が論陣の主軸となる

アートと公共性、政治と美は、本来、切っても切り離せない関係にあることだろう

・作家、小説が、政治と美をまとめて代行しえない
・政治的活動がある面では封鎖されている。ある面では、ネット上で新たなものが勃興している

この二点について、注意してみておきたい
作家よりも批評家のほうが、ネットを利用しての全人的な文学を実践しやすいかもしれない

若い小説家や教員たちは、政治的問題をスルーしがちだ
まったく政治的な発言をしないより、「君たちも南京に実際いってみるといい。新しいものが見えるかもしれないから」ぐらいのことを言って炎上したほうが、いくらか真摯ではあるかもしれない
四六時中、政治的問題を考えていることなんて、普通の人にはできないし、それはそれでいい
でも、情報伝達の媒介となるような発言をなせる文化人も、社会には必要だろう
資本の運動に跪拝するだけの文学や教育が、あまりに普通になってしまっている
編集者や出版社が政治的な具体的な話に関わらないよう、作家たちに仕向けている
オタク系文化にはそういう傾向もありそうだ

Chim↑Pomの「ピカッ」騒動には、「現実的なもの」を公共圏から隔離しておこうとする、大衆的な圧力、生権力を見出すことができる

新文学は敗北しない 

『新文学』について仲俣暁生さんに言及をいただいた

・仲俣暁生「雑誌と批評について」(海難記)
http://d.hatena.ne.jp/solar/20081109

少し引用させていただく

「『新文学』のほうは、雑誌名は信じられないほどひどいし、インタビューや対談も多いのだが、雑誌というインターフェイスをさまざまな形で機能させようとする工夫を感じる。とくに後半のパートの、松平耕一の「ライトテロルの新文学」という文章がいいと思った。ことに「ゼロ年代ほど、学生運動がさかんだった時期はない」というくだり。なるほど、サブカルチャーとかオタクという言葉ではなく、この世代の一連の批評家やそのフォロワーがやっていることは文化的な「学生運動」だと考えたほうがわかりやすいし、学生に影響を与えている主要な批評家の位置付けも、私も知らない、かつての「学生運動」の時代によく似ているのかもしれない。

私はいまの若い人が好んで参入しているサブカルチャーにはほとんど興味がないし、それらだけがベンヤミンのいう「歴史がそこに集中しているひとつの焦点ともいうべき」ものでも、「きわめて危険視され、排斥され、あるいは嘲笑される作品や思想として、つねに現在の底ふかく埋もれている」ものでもないと思うが、しかし同時に、そこにまったく可能性がないと言い切る気もない。」

私は仲俣さんの出版論に以前から注目していた
尊敬する仲俣さんに取り上げていただいたことは光栄である
ちなみに、「『新文学』のほうは、雑誌名は信じられないほどひどい」ともご指摘をいただいている
思い出してみると、これについてはフラグがあった
以前、法政大学の学生サークルが、仲俣暁生さんと田中和生さんを招いてイベントを行った
私は観客としてこの場に赴いた
高橋源一郎の文芸評論家不要論への、田中による反論などが話題になっていた
質疑応答のパートで、私は、ゼロアカ道場の同人誌競作に参加していることを自己紹介した
そして、売れる雑誌を作るためにはどのような工夫が必要なのかとお二人にご相談した
このとき仲俣さんに、「雑誌のタイトルと表紙は気をつけた方がいい」というお答えをいただいたのであった
このやりとりは、「海遊制作委員会」発行の同人誌『界遊』に収められている

・「界遊001 創刊号  発売中」(「界遊」ブログ)
http://d.hatena.ne.jp/inamo-dereda/20101231

確かに、「新文学」とは、いささか大仰なタイトルではある
反省点はどんなところにあったのか
仲俣さんにこの件について、もう少しお伺いしてみたいところではある

さて、東さんの今年の活躍は目覚しい
早稲田文学主催『文芸批評と小説あるいはメディアの現在から未来をめぐって』「10時間連続シンポジウム」では、前田塁が、世代とジャンルを超えた著名な文芸評論家を一堂に会させた
このシンポで東浩紀は司会を務め、一騎当千の論客ぶりを見せた
三田文学、江古田文学、法政文芸より早稲田文学が優れているとは常々思っていたが、早稲田文学の、文芸五誌をも超えた企画力を印象付けた
東・前田コンビが、文壇制覇を成し遂げたのではないかとすら思わせられた
早稲田シンポとゼロアカ文フリ対決
二つに代表される東浩紀の獅子奮迅の戦いは、ゼロ年代の文学のあり方を決定付けていた

東は、同人誌対決を、ブログなど、Webでの道場生の動きまで含めて審査すると述べていた
そのため競争はヒートアップし、関係者たちの好奇の目を集めた
Webを利用してのサスペンシブルな駆け引きがなされ、文芸系のものとして異例なゲームとなった

東さんは試験の合否を決める立場である
選ぶ側も選ばれる側も、お互い、顔の見える仲での戦いである

極めて画期的な企画であったが、主催者側において多くの誤算が生じていたようだ
編集者が作家との関係を維持しつつ、成長に導くことは、難しくも重要なことである
この同人誌対決は、編集者と作家の関係、出版社と作家の契約のあり方に混乱をもたらす可能性を持っていた
編集者の仕事を、アマチュアがいきなり行おうとすることでの、トラブルも生じえただろう

また、ネットの一部では東さんをバッシングする言説も観察された
たとえば、ゼロアカ道場門下生の、筑井真奈さんと文尾実洋さんが出したクレームにも注意しておきたい

・門下生が道場主に物申す(形而上学女郎館)
http://d.hatena.ne.jp/metaphysical_jyoroukan/20081105/1225916717

・「東浩紀のゼロアカ道場」第四回関門 結果報告 (沸騰空穂葛日記)
http://d.hatena.ne.jp/boilednepenthes/20081112

この件については東さんも精神的にくるところがあった模様である
東さんのブログのエントリを読んでいても、外的状況や道場生との関係の変化に影響を受け動揺するさまが見てとれる

試験では選択と排除がなされる
落とすものと落とされるものが分けられねばならない
筑井さんと文尾さんが東さんに抗議を寄せたことは注意に値する

東さんは飲み会などにも積極的に参加し、道場生とも懇意にしている
しかし、その集団に女性が溶け込むには、多少の敷居もあることだろう
東さんがフェアでないという云々の以前に、ここには、男性共同体と、女性との間の懸隔を見出せる
たとえば、築井さんの作った雑誌『チョコレートテロリスト』は、峰尾俊彦さんと村上裕一さんの雑誌『最終批評神話』に、同人誌対決の順位で敗れた
築井さんは敗因について、ustでの放送で次のような言及をしていた
『最終批評神話』は、非モテの非モテによる非モテのための雑誌である
それゆえに、2ちゃんねるやブログ論壇などに多くいる、オタクたちのファンを強く惹きつけることが可能であったのだと
『最終批評神話』はニコニコ動画と美少女ゲームの紹介をメインにした雑誌である
オタク業界の最先端の題材を取り上げていた
批評の領域を広げるべく行ってきた東さんの仕事を延長させ拡張させる役割を果たしうる
若いオタク男性たちに吸引力のある題材であった
しかし、女性が、「非モテの非モテによる非モテのための雑誌」と位置づけたことには、納得のいくところでもある

また、文尾さんは、以前から、批評に興味がないという旨の主張をしていた
東さんはこの点を減点の対象としたとブログで述べている
私は以前、文尾さんに、インタビューをさせていただいている
このときも、文尾さんはその種の違和を表明されていた

・文尾実洋インタビュー――腐女子化するポストモダン(文芸空間)
http://literaryspace.blog101.fc2.com/blog-entry-375.html

文尾さんには批評への不信感がある
それは、批評が常に男の言語で書かれてきていることと、関わりがあるだあろう
学問は、ロゴスによって、男によって築かれてきた
批評言語というもののしっくりこなさ
身に合わないということ
男性言語で積み重ねられてきた文系学術の歴史への、違和というものはありうることだ

たとえば、腐女子のコミュニティはWebでの検索に引っかかりにくく、プロテクトが幾重にもかけられている
腐女子は、男性のオタクを超えるほどの人数がいるとも言われるが、その文化は人目に触れにくい
男のオタクと腐女子の差異はどこにあるのか
男のオタクはあけっぴろげだ
腐女子の文化は、男のオタク以上に、公的な場から疎外され、歴史から秘されている

おそらく、築井さん文尾さんは、正統なる東さんの弟子たちと異なり、東さんへの転移をなしえない
彼女ら自身が、東さんに匹敵する社会的ポジションにつきえないものなのか、考えてしまうところではある
そのためには、「社会にとって女とは何か」という問題を脱構築する、大きな手術が必要だろう

さて、「ゼロアカ道場」は批評家養成の塾であった
もともと、小中高における「国語」の授業が、何を教えるものなのかは、怪しいものである
テストに合格するか不合格になるかは、先生に従順であるか否かで決まる
もちろん、大学受験はそれなりに役立つ経験となる
しかし、大学院の論文審査、教員試験、文芸誌の新人賞、芸能界のオーディションなどのテストは、その審査基準が何なのか、しばしば謎に包まれている
審査の過程は表に出ない
合否の判定の理由が不明であり、どうにもうさんくさい
ゼロアカ道場における情報開示は、それらに比して、はるかに風通しが良かった
なにしろWebという場において、生徒の側で先生に反論する機会が与えられている
このことは思想的な冒険であり蛮勇だった
セクシュアリティについて、法について、脱構築について、否定神学について、無意識について、教育について、理性について、転移について、Webにおける「ライトテロル」とでも呼びうる現象について
様々な検討課題を、このイベントの過程でおきた諸事件に読み出しうる

東さん、太田さんや講談社の側でも、この同人誌対決には疲弊を感じることが大きかったかもしれない
それでも、たとえ彼らがこの企画を後悔し反省したとしても、間違いなくゼロ年代の文芸史における、大きな事件であったことにかわりはない

文学とは敗北者に寄り添ってある
生に勝利しているものに文学は不要である
『新文学』は同人誌対決に敗北した
この敗北を受け止め反省しつつ、次の挑戦へと向かいたい
文学は常に敗北とともにある
大田克史は、ゼロアカ道場に、16歳の男の子の人生に、カーブを切らせるような批評家を求めていると述べていた
ゼロアカ道場企画が成功した暁には、「16歳からの動物化」とでも呼ばれうる批評書が書かれて欲しい
それは社会へのアイロニーとして、文化の豊饒をもたらすために有益なことだ
私は「16歳からのライトテロル」を著し、真っ向これを迎え撃つつもりである
敗北と勝利の脱構築が文学である
ゆえに、新文学は敗北しない
プロフィール

松平耕一

Author:松平耕一
○twitter登録名:matudaira
○ツイッターまとめ:http://twilog.org/matudaira
○Facebook登録名:松平耕一

☆文芸空間社企画
◎批評放送
・批評放送は松平のプロデュースする動画配信企画です。ツイキャス http://twitcasting.tv/matudaira 、youtubeなどで配信されます
批評放送@USTREAM

○松平耕一・文芸空間社・批評放送へのカンパ振り込み先は
・三菱東京UFJ銀行の吉祥寺支店普通口座1896022 マツダイラ コウイチ 宛になります

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