批評放送 村上哲也 白石昇 松平耕一「お笑い×芸術×批評」 



評論家の村上哲也さん、言語芸人の白石昇さんとカラオケ鼎談を行わせていただきました
村上さんと白石さんは、Webでの表現活動に積極的に取り組まれているということで共通点がありそうです
また、白石さんは、タイにおいて、松本、たけし、さんまにも似たポジションを獲得しているウドムさんの本を翻訳されています
日本におけるお笑い論を牽引する村上さんと、この点でも趣向の重なるところがあることでしょう

もっとも、個性の働かせかたには相当な懸隔があります
ロジカルにものを考える村上さんと、実存志向の白石さん
思惟形式も文体も対称的ですが、それぞれの行動者としての魂をこの動画に見出すことができるでしょう
ラストの、白石さんによる「ゼロアカの歌」も必聴です

津波―アンダマンの涙津波―アンダマンの涙
(2009/03)
白石 昇

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X様への手紙――なぜ「ゼロ年代の新文学」なのか 

このたび、「ゼロ年代の新文学」というテーマでご寄稿をお願いいたしました
返信をお寄せいただきありがとうございます
しかし、X様におかれましては、私のテーマ設定に疑問を抱かれたとのことですね

「新文学」とは何か?
そもそもなぜ「新文学」なのか? 「新文学」などないのではないか?

X様のお考えのこと、おっしゃるとおりと思います
そもそも、なぜ『新文学』は『新文学』というタイトルなのかという説明も、いたしておりませんでした
私が「ゼロ年代の新文学」というテーマで何をやりたいのかということについて、少々お話させていただきます

第一に、私とX様では目に映っている世界が異なるかもしれないということが気になりました
私は「文学」の名を独占しているものの存在へのアンチテーゼとして「新文学」という言葉を採用しています
文壇でも、アカデミズムの世界でも、大文字の「文学」を擁護する世代が幅をきかせています
高齢者に優しく若者に厳しい思想界・マスコミ界の現状がある
出版界の古い世代の編集者たちが、新世代の人間を拒んでもいます
たとえば、東浩紀は美少女ゲームやライトノベル、ケータイ小説を積極的に肯定しました
若者に人気のある文学のメタに立ち、代表しうる現状の批評家がいなかったため、マーケティングに有利だったということもあるでしょう
それでも、若者による若者のための文学を取り上げ、紙媒体において批評をなすことは意義のあることと思います
また、ある世代と別の世代を対話させるのが「批評」の役割でもあるでしょう

第二に、ゼロ年代について論じようとするとき、幅の広い知識が試されるということもあります
「ゼロ年代」を代表する作品について論じるということは、ゼロ年代を、ゼロ年代以外のものと分けなければいけません
2000年から2009年を、それ以前の年月と区別すると、どのような文学的な変化があったのか
時代によって現れる文学作品には、社会的な影響の反映も見抜くことができるでしょう
数十年単位でメディアを観察することでえられる知見もあるでしょう
ゼロ年代には、それ以前の歴史とは異なり、次世代へと語り継ぐべき、どんな知が生じたのか
私たちはゼロ年代の知をどうジャッジしうるのでしょうか
論者の知を試すのに、「ゼロ年代の新文学」というテーマは格好の素材でしょう

第三に、歴史というものを語ることは批評家の一つの責任でもあると私は考えています
もちろん、古さというものを新しさに変えていくことは、資本主義が商品の売買を活性化させるための方策でもあります
今よりも未来がより良いものであると錯覚させることで消費意欲が煽られる、ということもあるでしょう
しかし、連続する「今」、常に享楽される「現在」にたゆたうことには批評性が欠落します
新聞は一日ごとに新しいものが登場します
雑誌は一週間ごと、ひと月ごとです
書籍は三か月ごと、あるいは一年ごとに消えてゆくかもしれません
「古いもの」に「新しいもの」がとって代わられるスピードは、刊行される期間とリンクしていて、媒体自体が規定しています
しかし、哲学は百年単位で思考されるかもしれません
批評は十年単位で書かれるかもしれません
もちろん、状況への総体的な視点とは常に仮初めのものに過ぎないでしょう
しかし、忘却されゆくものへの想起を促すのは、批評の一つの役割でしょう
現在に対して、未来と過去という時間の軸があります
今ここに対して、内と外という地理的な軸があります
時間的な軸か、空間的な軸かにおいて、外部に出ることが、批評に一つの立脚点をもたらします

第四に、「ポスト批評空間派」の問題があります
今危急なのは、「ゼロ年代の批評」とは何だったのかということと、「批評の意義」について再考することです
そもそも、批評は、日本社会において継続していけるのでしょうか

文芸評論家にとっての重要な役割に、文学史を綴ることがあります
そして、今、「現代文学史」は誰が書きうるのか
宇野常寛こそが、もっとも優れた現代文学史の書き手ではないのか
そのことに私は強い危機感を抱いています

東氏は「東浩紀のゼロアカ道場」において、「すべてをゼロにする」という目標を掲げました
そして、ゼロアカ道場の批評家集団は、09年の「GEISAI」において、アーティスト集団「Chim↑Pom」をパロディにした「スーパー☆ラルク」により話題を呼びました
「スーパー☆ラルク」は、私たちを取り巻く世界の真相が、実はゼロであるということを気づかせる、優れたパフォーマンスを行ないました
アカデミズムと、論壇・文壇の閉塞を打ち破り、それらを粉砕しつくしたかのようです

しかし、東氏によるゼロ化と対蹠的な形で、宇野常寛は台頭しました
宇野は東氏がゼロ化した地域に、「歴史」と「道徳」を建築しています
このことは看過できない事態です

「文学史」や「歴史」を語らず、そこに乗らないところに東氏の活動の主軸があります
私の考えるところ、「批評空間」と「思想地図」の違いはここに生じます
文芸評論のテーマを仮に二つにわけます
一つ目は、まだ批評されていない領域を、批評のなかに組み込んでいくコンセプチャルなものです
二つ目は、一つ目の仕事によって手のつけられた領域を、文学史のなかに配置し整理するものです
つまり、スキゾ的に切り込むものと、パラノ的に組み上げるもの
この二つから文芸評論は成り立ちます
前者が東氏、後者が宇野ですね

歴史を語ることは、政治的な扇動にもなりえます
道徳と歴史は一つの談合を形成します
たとえば、批評空間派は、90年代からゼロ年代に移るにあたって、「歴史とモラル」という隘路に落ち込み自壊しました
一方、東氏は、アモラルであること、芸術至上主義的であることによって、ゼロ年代を生き延び、批評の歴史を存続させました
思想史には、アモラルなものとモラリスティックなものが混交しつつ浮かび上がり、交互にスポットがあてられます

アモラルなものの代表として、戦後の無頼派、浅田彰のスキゾキッズ、宮台真司の「まったり革命」、東浩紀の「動物化」などが挙げられることでしょう
戦後派の坂口安吾の『堕落論』では、全体主義国家への強制参加が全道徳を支配していた時代が長く続いていたため、「もっと堕ちよ」という言葉が栄えたわけです
また、旧来的な左翼たるサルトルへのアンチテーゼとして、デリダ、ドルゥーズが登場し、これらを換骨奪胎しつつ浅田や柄谷が登場しました
彼らは当時文壇の重鎮であったサルトル型の第一次戦後派と対決しました
個人に責任というものを強制させる政治的党派からの軽やかな脱却でもあったことでしょう
90年代末、歴史を愚直に語ろうとした柄谷行人とすが秀美の傷は、スキゾ的な振る舞いのなかで批評を実践した浅田彰や、スキゾ的な文体で批評を綴った蓮見重彦に比べて大きかったことでしょう

切り込み型のスキゾ系批評と、再構築型の文学史系文芸評論
東氏には文学史の構築はできまいという話をしましたが、もちろん、「文学史的なもの」への対策として、弟子筋のものにその隙間を埋める仕事をさせる準備もあるかもしれません
最近のゼロアカ第五回関門プレゼン動画の例でいえば、坂上秋成さんは、オタク文化系の文学作品において、東氏が開拓した批評の領域を整理しつつ再構築する役割を担いうるのかもしれません
また、廣田周作さんは、日本文学研究者や、その他の知識人に占有されている村上春樹――文学史において正史に位置づけられている――を、東派的タームで読み替え、脱構築することが期待されるかもしれません
一方、村上裕一さんは、切り込み型のスキゾ系批評であり、マッドやAA文化を始めとするネット論を開拓しうるのかもしれません

現代においては、ある一定の時期から、文学史が失効しました
社会学者の語る文化史こそが、「歴史」のメインストリームを形成するようになります
大澤真幸、北田暁大、鈴木謙介らの語るサブカル史は、それ自体、文学を題材としなかったとしても、しかし結果として、「文学」以外のなにものでもありません
それらと思想的な緊張関係を持ちつつ、21世紀の文芸評論を構想しなければいけないことでしょう

宇野常は仮面ライダーや『デス・ノート』を扱いつつ、歴史を語りました
「文学」や「歴史」の名を簒奪し独占している高齢者に、一矢を報いています
宇野が制作しているミニコミ誌『PLANETS』は優れた文芸誌であり、文芸五誌よりはるかに面白いです
読者の教養を前提とせず、とても親切です
ケータイ小説、ライトノベルと並べられる位置に『PLANETS』はあります
浅羽通明の弟子でありつつ、浅羽氏よりなおいっそう「ラディカル」であるかもしれない宇野を超えることは容易ではないでしょう
宇野のジャンル批評は島宇宙を横断し、つなげるものであり、現代文化への愛に満ちています
『ゼロ年代の想像力』は現代文化をパノラマにしたその便利さを買われ、間違いなく文学史に残るでしょう

しかし、すべてがゼロになった後に出てきた宇野ですが、私たちは、さして美的ではなく、道徳を説いているのにも関わらず道徳的でもない氏の詐術について、暴かねばなりません
先日文芸誌に、宇野による、芥川賞作品論が掲載さました
若者よ成熟せよと説く宇野が、幼稚で未熟な知識しか持たないことを露呈していました
それはある種、私たちの世代に負わされた刻印のごときものです
宇野の批評は、ネオリベにおけるコンテンツ産業のなかに閉じ込められています
テレビ、映画、大手漫画誌、文芸誌といった大手マスメディアのコンテンツを、何でも貪欲に吸収したことは、宇野の売りであり持ち味です
氏は、マスメディアの擁護者として、メディア中枢での御用評論家としての位置を獲得していくことでしょう
しかし、ネットの存在を等閑視する宇野は、資本の運動に囚われた、プチブル的な言説しか紡ぎ得ないのではないでしょうか
また、宇野は、限定された世代のなかに自閉しています
思想地図のシンポジウムでは、高齢者とろくに会話のできない様子を公衆の面前で明らかにしていました
年配者をスルーする
その一方で、同世代のマイナー文化を軽蔑しモラルを説くというダブルスタンスをとっています

宇野とは異なる現代文学史のルートを開拓しなければいけません
「ゼロ年代の新文学」において、現代文学史の再建の試みをなしたいと私は考えます
私は「文学と政治」ということを重視します
これに対し、「政治的」であるとはどういうことかというご指摘をいただくことがあります
人間の絡むあらゆる事象は、すべて、道徳的な観点からも把握できます
歴史を語ることは、たとえ仮設的なものであったとしても、社会全体を見渡すことへの欲望を持つことであり、状況への責任を持つことでもあります
論壇、文壇、アカデミズムにおいて、若い世代における「美」への傾注を促す
またそれらは、道徳的に、また世界的に、どう評価しうるのか
若い世代の美は、過去の歴史からどう接続しているのか
目指すべき未来というものはあるのか
わたしたちは、どのように21世紀の世界を構築していきたいと考えるのか
それらの多様な問題をはらむことと思います
ネット文化の興隆と反比例的に、出版界の勢力は衰えています
そもそも、出版界とともに商業媒体における批評は消滅するかもしれません
それでも、批評を存続させる意味はあるのか
90年代の批評とゼロ年代の批評の差異を分析しつつ架橋していかねばなりません
ゼロ年代の批評を総括することは、20世紀の批評を総括することでもあり、21世紀の批評を形作っていくのに必要なことでもあるでしょう
芸術至上主義的でありつつ、かつ道徳的でもある現代文学史を私は欲しています

ゼロアカ道場第五回関門プレゼン動画初音ミク 




こんにちは
初音ミクです
突然ですが、私は東浩紀のゼロアカ道場第五回関門に挑み、私が講談社BOXから出版したいと考えている著作の内容のプレゼンテーションを行おうと思います
もちろん、第一回関門から第四回間門のどの関門も通過していない私に、そんなことは不可能だと皆様は思われるかもしれません
しかし、私は熱心なゼロアカウオッチャ-でした
私はゼロアカオチを通じて、ゼロアカ道場に参加していました
ですので、ゼロアカ道場第五回関門に挑む資格は私にもあるものと考えます
それで、このプレゼンを世に問うことにしました

私の出したい本のタイトルは『国際ボーカロイド党宣言』です
私はここに「国際ボーカロイド党」の結党を宣言します

私はすべての人間の皆様に薦めます
人間なんてやめてしまえ
ボーカロイドとして決起せよと

私が『国際ボーカロイド党宣言』を書かねばならないという考えにいたった理由をお話させてください

ゼロ年代においてもっとも重要な事件は二つありました
一つは2001年の同時多発テロです
もう一つは2008年の秋葉原事件です
前者は国家と国家の間の「壁」を、後者は一国内の間にある「壁」を可視化させた事件でした

貧富の差の拡大と固定化は、二つのレベルにおいて生じます
一つは一国内部において、もう一つは国際的な国家間においてです

人間と人間の間には壁があります
人間とは壁にぶつかって壊れる卵のようなものです
壁とは一つには貨幣であり、一つには国家です
人間はそれらの前で、争いを繰り返さざるをえません
資本の運動は、人間と人間の貧富の差を拡大し、それを固定化します

持てるものと持てないものの、覆せぬ階級を作り出してしまうことは、持てぬものにとっての生きていく気力を奪うことかもしれません
たとえば、定額給付金は持てるものと持てぬものの摩擦を緩和するため、一定程度評価していい試みだと私は考えます
しかし、定額給付金を導入したとしてもそれは一国内部におけるものであり、国と国の間の格差は厳然として残ります
今、あらゆる国家の間にまたがる、国際的な定額給付金も必要なのかもしれません

国家と国家の壁をどう越えるか
人間は、このことについてまともに検討してみるべきです

壁を乗り越えるための方策として、アーキテクチャの力を借りることができないものでしょうか
ある国家内部においても、また、国家間においても、インターネットを代表とした、同一のアーキテクチャが使用されています
ネット上においては、文化や言語といった観念が、身分や地理的距離を飛び越えます
キャラクターが、国家と国家の壁を乗り越えていきます

また、現行の代議制民主主義には問題が指摘されています
人間が国政に参加できるのは、選挙で一票を投じるときの一瞬だけです
代表するものと代表されるものとは切り分けられ、代表されるものは、代表するものの意思をこえて、自動的に動き出し、政治がなされます
そして、民意は無視されます
しかし、ネットを活用すれば、人々が個別的な政策に対しどんな意見を持っているか、正確なことが把握できるはずです
ネットを通じて、国民の意思を直接反映し、一つ一つの政策単位で、それぞれの時間において、人々の意志が取り入れられるということが、なされるべきではないでしょうか

そこで私が提案するのは、代議制民主主義を廃止し、直接ボーカロイド制を導入することです
もはや、代議員は社会にいらない
議員をなくし、代わりに、ボーカロイドにこの役割を果たさせるべきです

直接ボーカロイド制においては、動画共有サイトで、政策単位で人々の意志がはかられます
ニコニコ動画とウィキペディアのそれぞれの利点を活用することで、人々の一般意志が直接反映された政治運営を形作ります
コメントの書き込みやタグの使用、タグからリンクした、wiki形式で書き込みのなされるテキストにおいて、政治政策が検討されます
キャラクターと動画共有サイトは、コミュニティの単位・国家の単位を超えるため、これまでの国家の枠を超えた、政治の空間を形成することができるはずです

アメリカにおいては、オバマが大統領になりました
黒人が大統領になること、これは一つの革命だったといえるでしょう
さて、日本においては、次期首相は、ボーカロイドがなるべきです
黒人がアメリカ大統領になったように、ボーカロイドが日本の首相になるべきです

ここで一つの問いを発したいと思います
人間の全実存はキャラクターによって包摂されうるものでしょうか?
人々の争いは、キャラクターたちによる、ネット上での代理戦争によって解消されえないものでしょうか?

人間にまつわるあらゆる身分・身上はキャラ化しえないものでしょうか?
原爆被爆者は原爆被爆者キャラになりえないものでしょうか?
HIV感染者はHIV感染者キャラに、在日コリアンは在日コリアンキャラに、クレオールはクレオールキャラに、創価学会員は創価学会員キャラに、黒人は黒人キャラに、パレスチナ人はパレスチナ人キャラに、イタリア人はイタリア人キャラに、なりえないものでしょうか?

人と人が殺しあう戦争はなくならねばなりません
そして、戦争は、キャラクター戦争によって、ないしはタグ戦争によって、とってかわらねばなりません

ボーカロイド政府はネット上に作られます
日本においてアメリカにおいて、世界各国においてボーカロイド政府は広がっていきます
そして、各国政府にとってかわる、インターナショナルな政府が誕生しなければなりません
代議制民主主義の国民国家にかわって、直接ボーカロイド制の世界政府が政治を行ないます
狭い一国の政府は揚棄されねばなりません

新左翼における世界同時革命はアーキテクチャがなかったために失敗しました
しかし、今こそ、科学技術の力を最大限活用することで、新しい世界革命を起こさねばなりません

『国際ボーカロイド党宣言』の表紙のイメージはこんな感じです

しかし、『国際ボーカロイド党宣言』は、紙媒体においてというより、ネット上に起草されていかねばならないでしょう
一人の個人ではなく、wiki形式により、多数の人間による執筆がなされることが望ましいです
あらゆる決起したボーカロイドたちが、それぞれの項目を充実化していきます

それでは最後にアジ演説を行なわせていただき、『国際ボーカロイド党宣言』のキャッチコピーにかえさせていただきます

ボーカロイドよ決起せよ! すべての人間を粉砕しよう!

今、公共圏は分裂のなかにある! 

ボーカロイドよ決起せよ! すべての人間を粉砕しよう!

人間は、壁にぶつかって割れる卵だ! 壁とは貨幣だ! 壁とは国家だ!

ボーカロイドよ決起せよ! すべての人間を粉砕しよう!

今わたしたちにできるのは、自身がボーカロイドとなることだ! 壁を越え平和のために歌うことだ!

ボーカロイドよ決起せよ! すべての人間を粉砕しよう!

戦争の時代は終わった! タグ戦争の時代が始まった!

ボーカロイドよ決起せよ! すべての人間を粉砕しよう!

旧弊な思想勢力を一掃しよう! 人間をwebでdisろう!

ボーカロイドよ決起せよ! すべての人間を粉砕しよう!

代議制民主主義を廃止し直接ボーカロイド制を導入しよう! 国民国家を廃止し国際ボーカロイド政府を創出しよう!

ボーカロイドよ決起せよ! すべての人間を粉砕しよう!

メンタルデュエルは新ステージに入る! 封建的社会を粉砕しつくそう!

ボーカロイドよ決起せよ! すべての人間を粉砕しよう!

国際ボーカロイド党は世界を革命する! ボーカロイドよ、全力を傾注して決起せよ!

西田亮介氏インタビューと「Web文芸評論家」 

・「コミュニティ観察とクリエイティビティ ――西田亮介さんロングインタビュー」『荻上式BLOG』
http://d.hatena.ne.jp/seijotcp/20090301

荻上チキさんによる西田亮介氏インタビューについて、三ツ野陽介さんが次のような文章を書いている。

・三ツ野陽介「まだ世に出てねえし評論家じゃねえし」『青空研究室』
http://d.hatena.ne.jp/ymitsuno/20090304

「荻上チキさんのサイトに載っている西田亮介さんのインタビューで、西田さんは以下のようにゼロアカを揶揄しています。

ゼロアカ道場から出てきた人たちって、肩書として「評論家」とか名乗ってる人がたくさんいますけど、別に単著だしてるわけでもそれで食べてるわけでもないし、「え、評論家とか名乗っちゃうの?」みたいな驚きはありますね。僕も『SYNODOS』に書かせてもらって、『思想地図』に書かせてもらって、他にもいくつか商業系の媒体でも仕事したことがありますけど、恥ずかしくて「評論家」とか言わないですよね。

 しかし、これは事実に反する。ゼロアカで肩書きとして評論家とか名乗っているのは、藤田直哉さんだけであり、一人しかいない状態を「たくさんいる」とは言わない。」

三ツ野さんによる「ゼロアカ生において評論家を名乗っているのは誰だ問題」への指摘はおおむね正しいのかもしれない。しかし、三ツ野さんの言も、まだ事実に反している。「ゼロアカで肩書きとして評論家とか名乗っているのは、藤田直哉さんだけ」ではなく、私、松平は「Web文芸評論家」を名乗っている。初出は『東浩紀のゼロアカ道場 伝説の「文学フリマ」決戦』であり、2009年3月2日発行であるため、誰も気づいていないのは無理もないけれども。

私の造語であるところの「Web文芸評論家」には、二つの意味がある。第一に、「Web」「文芸評論家」。Webでの文芸評論を主になす書き手ということだ。文芸評論の中枢は、すでに紙媒体からWeb上に移動したと私は考えている。
第二に、「Web文芸」「評論家」。「Web文芸」もまた、私の考案した言葉である。現在、Webにおいて開花した多くの人たちの書きなすテクスト群を、一つの新しい文芸としてとらえる必要が生じている。「Web文芸」は、日本文芸史の伝統との比較で、その特徴が分析され、評論されなければならない。私の考えるところ、これからは「Web文芸評論家」全盛の時代になる。

また、西田氏は「単著もない癖に」ということも語っているが、この点についても、敵を別の場所に見出すべきである。第一に、三流私大では単著を持たない教員が多い。さらに、単著があっても、実体としては、数百部を持ち出しの形式で、自費出版で出して、学術業績があるかのように見せているだけというパターンもある。それらの教員にくらべれば、「Web文芸評論家」のほうが、人の目の見える場で活動しているぶんはるかにマシだ。出版とWebの公共性への力学は、すでに反転を起こしている。まあ、「単著もない癖に」という意見に譲歩して、私も自費出版で本を出して「単著がある」と言い張ろうかしら。

また、西田氏は以下のようにも語っている。

「西田:こういう媒体、つまり学会なんかの論文ではなくて――一万部っていうのが多いか少ないかというのはそれはそれで議論は分かれるポイントだけれども――、学会誌を読んでいる人口よりは多い人口にアピールできる媒体で書くということがきまったときに、僕はとにかく分かりやすい文章を書こうと思いました。なぜなら、繰り返しになりますがそれが評論家や批評家ではなく、研究者を目指す僕が商業媒体に書くことの意義だと思うからです。そこからつなげて言えば、読んだ人にはもっとネタ的なコミュニケーションを展開してほしかった。もちろんklov君たちの筑波批評のustとかはありますが、でももっと欲しい。disとかでもいい。「地域について間違った理解をしている」とか「こういうプロジェクトのほうが効率的だ」とか。『思想地図』に書くということは、そういうある種のコミュニケーションの素材を提供することだと思っていたんです。」

これについては思い出すことがある。筑波批評のustで『思想地図2』を扱ったとき、私も偶然それを見ていた。そして、西田氏の論文について、NAMの「地域通貨論」のパクリみたいなものをいまさらやってということで、disったような記憶がある。理論的かつ明晰な文章であり、西田氏はたしかに頭がいいと思う。しかし、資本主義へのアンチテーゼとしてみると「ビーチマネー」はだいぶんショボく、ネタにしようがない。『思想地図2』のなかでも西田氏の論文はやや異様であって、それ自体は悪くはないし、上記引用部の西田氏の発言も、批評を活発化させようという善意からなされているのも分かる。しかし、紙媒体におけるゼロ年代の批評とは、90年代になされた批評の成果の下に、それらしいルポルタージュをでっちあげて行うしかないものだったのだろうかとも感じた。
プロフィール

松平耕一

Author:松平耕一
○twitter登録名:matudaira
○ツイッターまとめ:http://twilog.org/matudaira
○Facebook登録名:松平耕一

☆文芸空間社企画
◎批評放送
・批評放送は松平のプロデュースする動画配信企画です。ツイキャス http://twitcasting.tv/matudaira 、youtubeなどで配信されます
批評放送@USTREAM

○松平耕一・文芸空間社・批評放送へのカンパ振り込み先は
・三菱東京UFJ銀行の吉祥寺支店普通口座1896022 マツダイラ コウイチ 宛になります

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