ルソー『言語起源論』 

言語起源論―旋律および音楽的模倣を論ず (古典文庫 (37)) 言語起源論―旋律および音楽的模倣を論ず (古典文庫 (37))
小林 善彦、ルソー 他 (1970/01)
現代思潮社
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ルソー『言語起源論』に関するメモ。

『人間不平等起源論』を書く過程で生まれた断片であるらしい。
死後三年経った一七八一年に出版。
ルソー本人は、本作に自信がなかったよう。
レヴィ=ストロース『人類学の創始者ルソー』(一九六二年、山口昌男編『未開と文明』平凡社所収)、『悲しき熱帯』
デリダ『グラマトロジーについて』
桑原武郎編『ルソー研究』
等で取り上げられて、有名。
デリダとの関わりは重要みたいだ。

小文ながらも、様々なことに言及している濃密な文章のため、読み手は混乱する。
自然状態から社会状態に至る過程で、どのように言語が獲得されたかがテーマ。
大問題だ!



本作では、言語を次のように分ける。
第一に、地域別、空間的にわけ、第二に歴史的、時間的に分ける。

1 言語の発生の地域の異なり

A南の地域で発生した言語
ルソーにとって、プラスのイメージのよう。
情熱的、恋愛的、感情の共有を生み相互交流的、想像力を呼び覚ます、音楽的な言語。
→歌における「旋律」であり、自然を、心の動きに基づき、写生する。

B北の言語
ルソーにとって、マイナスのイメージのよう。
必要の言語、法律や交易を生みだす、全体的な共同性を維持する、道具的な言語。
→歌における「和声」であり、慣習に基づく人為的なものである。

2 言語の発生の時間の異なり
歴史的段階を三つないし二つに分類する。

未開→野蛮→開化
象形文字→漢字→アルファベット
狩猟→牧畜→農業と商業
情念言語、詩人の言葉→分析的言語
旋律→和声

なるほど。
あるものと別のものを二つにわけて整理するのはよい。
しかし、上下の優劣を決めてしまっていて、そこが論としてうさんくさいところ。
ルソーは一言語しか使えなかったみたいだし。
うさんくさい。
その欠陥にはルソー自身気付いていて、それで本作は微妙な扱いだったのじゃないかな。

言語は情念から起こった。
言葉は元は詩であり歌であった。
言語は歴史の過程で情念を失った。
説得する技術が先行するようになった。
さらに「公共の権力」がこれにとって代わるようになった。
と、ルソーは考える。

プラトンは詩人を国家から追い出したというけれども、ルソーはまったく反対の発想。
プラトン的な弁舌みたいなものも、最後に批判しているし。
ルソーは情熱的です。
ダンバーの言語論も、ルソーのものが元ネタかな。

○以下、各章をチェックしていく
ここが試験に出る!

・「言葉は、動物のなかで人間を特徴づける」(第一章)
→動物と人間を分ける定義をしている。

・「眼に訴えるほうが耳に語るよりもはるかに効果がある」「たとえばこれは苦しい状況だということがよくわかっていると、それで苦しんでいる人を見ても、泣くほどまでには心を動かされないだろう。けれどもその人がいま感じていることを何もかも、あなたにゆっくり打ち明けるとすれば、あなたはたまらずに涙を流しはじめるだろう。」「眼に見えるしるしは、内容をより正確に写しだすが、関心をより強くかきたてるのは音声である。」(第一章)

現実生活での悲しみの表われ・表現より(可哀相な状況にある人が、肩をがっくり落とす、とかそんな風な情景か)「悲劇」の劇詩を、共感できるものであると評価している。
へえ。
そういう考え方ってできるものなのかな。
ぼくはなんとなく、文学の悲しみより「現実」の悲しみの方が上だと思っていた。
「現実」の悲しみは伝わりにくいとのこと。
音声を優位においている。

・最初の表現は「たとえ」「比喩」であった(第三章)

・音声(歌)は「書くこと」(文字)に歴史的に先行する(第五章)
音声は情熱的(ルソーにとってプラスイメージ)で、感情が豊かに表される。
しかし、「書くこと」(文)は観念の表現(ルソーにとってマイナスイメージ)であり、正確さが問題になり、言葉の力を弱めてしまう。
→「自然にかえれ」ですね。
「文」より「歌」「詩」が自然であると。

・狩猟→牧畜→農業・商業、という順序で歴史的に進展した(第九章)

農業は、「技術(テクネー)」「善悪の知識」「政府」「法律」の獲得とともに立ちあらわれたとし、『創世記』に言及している。

・「音は、そこに表現されている心の動きを私たちのなかによび起こし、その心象を私たちは自分のなかに感じとる」(第十五章)

「私が猫の鳴き声をまねると、それを聞いた猫はその瞬間、注意深くなり、不安そうな、動揺した様子を示す。だが仲間の声をまねているのが私だと気がつくと、その猫はまた座りなおし、安心して休息する」

歌も、ある人々にとっては快いものと、別の文化の人にとってはそうでないもの等がある。
あるシニフィアン(デリダ)の位置は、その文化の全体的なシニフィアンの連鎖において、どこにそのシニフィアンが位置づけられているかで決まる、といったところか。

・「絵画の方が自然に近く、音楽はより人間の技術に依存している」(第十六章)
絵画におけるデッサンは、音楽における旋律であり、絵画における色彩は、音楽における和声である。
両方とも自然の模倣であるが、絵画は空間的、音楽は時間的である。
絵画は見ることができないものを表現することは不可能である。
しかし、音楽は自然の情景を見て得られる情感を、魂のなかによびさます、とのこと。
音楽大好き人間ですね、ルソーは。

・自然状態では言語はなかった。
ホッブス的な、敵対関係の強い自然状態観である。
単独的で、分裂病的な世界だ。
結婚はあったが、恋愛はなかった。
社会なきところに、言語もない、とのこと。
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