ルソー『人間不平等起源論』3 

不平等論―その起源と根拠 不平等論―その起源と根拠
ジャン=ジャック ルソー (2001/11)
国書刊行会
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○戸部松実訳、ルソー『不平等論』
戸部松実によるルソー『人間不平等起源論』の新訳
とても読みやすく、分かりやすい
しかし、狂ったように長くて緻密な訳注と主要概念解説がついている
あっちにいったり、こっちにいったり、ややこしい
繰り返し読み込む気持ちでかからなければ、戸部氏の気迫にやられてしまう
良書だが、体力を使う
普通のかたは、岩波文庫版でも良いかもしれない
ただ、歴史的文脈をわきまえなければ、『人間不平等起源論』は理解できない
岩波文庫版はよく分からなかったが、戸部版『人間不平等起源論』で、ようやくその魅力に気付きました



○進化論
ルソーの『人間不平等起源論』には、類人猿は未開人に、未開人が現代人に進化してきたという進化論めいたものが見てとれる

ダーウィンの進化論が成るのは1859年だが、それに先立つ百年以上前(1755年)に、進化論的な発想を持っていたことが驚き
このころから、進化論を準備する思想の芽吹きがあったのだろう

ビュッフォン『博物誌』に多くを負って、『人間不平等起源論』は書かれたとのこと
ジャック・ロジェ『大博物学者ビュフォン』がビュッフォンについての参考文献としてよいらしい
この『博物誌』はラマルクの遺伝形質伝達の理論(『動物哲学』)にも影響を与えたらしく、やはり、進化論と幾分かつながりがありそうだ

当時のジュネーブ共和国から、遠く離れた地域の旅行記が『人間不平等起源論』で重要な役割を果しているよう
未開人(ホッテントット等)や、類人猿(オランウータン、ゴリラ、マンドリル等)の見聞録を、ルソーは読み漁っていた
それらの資料の読解から、ルソーは未開人や類人猿は歴史的に古い存在なのだと見なし、「人類の発展の歴史」を想像している

空間の広がりにおいてある種差を、歴史的な流れへと垂直に転倒させることで、ルソーの「自然状態」論は作られている

レヴィ=ストロースが構造主義の祖と呼んだ理由は分かる(レヴィ=ストロース『未開と文明』が参考文献)

ルソーはどのように進化論的発想を持つにいたったのか
古代ギリシャより「今」の方が進歩しているという観念
歴史の進歩という考えは、当時でももちろんあっただろう
しかし、猿が人間に進化する、という考えはなかったはず
『人間不平等起源論』では「歴史における進歩がある」というアイディアが、生物における進化がある、という観念へと接続しそうで、接続しない、接続しないようでも接続しそうな、境にあるものみたい

○聖書、プラトン、ルソー

ルソーはプロテスタントの小さな共和国であるジュネーブ市民であった

聖書におけるアダムと、自分のいう自然状態は異なるのだということは、ルソー自身『人間不平等起源論』で繰り返し語っている

たとえば次の部分

「でも『聖書』を読めば分かるように、最初の人間アダムは、神から直接に知識と戒律とを授かったのですから、彼自身が自然状態に置かれていなかったことは明白なのです。それに、キリスト教神学者たるものは、当然「モーセ五書」に信を置かなければならないのですから、大洪水以前の時期においてさえ、人間たちが嘗て純粋な自然状態にあったためしがあるなどと考えることは、断じて拒否すべきなのです。もっとも何か異常な事件が発生して、人間たちが自然状態に逆戻りしてしまったとでも言うなら話は別ですけれど、そのようなパラドックスは、擁護するだけでも骨が折れ、証明などとうてい出来るものではありません。」

最初の人間アダムの状態で、堕落していたのか堕落していなかったのか、ソルボンヌとジャンセニスト、どちらが正しいのか(p.225-6)
等の論争が当時あったらしい

……どういうこっちゃ(´・ω・`) ?

「モーセ五書」における大洪水の記述
プラトン『法律』における「デウカリオンの洪水」での、国家制度はどのように成立してきたかへの考察
これらも合わせていずれチェックしておきたい

上記のルソーの言葉は、当時の、キリスト教神学者と、ホッブズ、ロックなどに対する牽制の言葉でもある

戸部松美によれば、ルソーの「自然状態」は、キリスト教的であることを退け、プラトンのイデア論に近いのだという

実際、古代ギリシャの神に言及しているところもあり、プラトンの『国家』との影響関係も大きそう

しかし、総体としては、聖書における「エデンの園」と「堕罪」という神話が、ルソーの「自然状態」論の背景を支え、それがあるゆえに、こういうものが書かれ、こういうものが読まれたのじゃないのという気がする(論証には手続きが必要)

モンテーニュ『随想録』の次のような言葉が『人間不平等起源論』と関わりがあるのだと、ゴールドシュミットは注意を促しているらしい

「神が人間に与えた最初の法規は、絶対服従の法規であった」「ところがこれに反して、悪魔の側から人間性に到来した最初の誘惑、その最初の毒は、彼が我々に学問と知識とを与えると約束した、《汝らは善と悪とを知りて神のごとくなるべし》という言葉によって、我々の間にしみこんだ……人間の持病(ルビ・ペスト)は、「おれは知っておるぞ」という思いあがりである。だからこそ、無学ということが信仰と服従とにふさわしい性分として、我々の宗教によってあんなにも推奨されるのである」

なるほど
この言葉は、これまで私がいくつかの記事で話題にしてきたアイディアと、関わりがあるな
アダムがエデンを追い出されたのは、服従の罪を破ったから
悪魔の誘惑により、人間は、学問、善悪の知識を知り、神のごとくなろうとした

……キリスト教は、無学を推奨しているのか?
モンテーニュはどういうつもりでこれを喋っているのかな……?

つまり、『人間不平等起源論』=生物学的なもの+文化人類学的なもの+キリスト教+プラトン

類人猿→未開人→現代人
という発展の図式は、『人間不平等起源論』の中に見られるが

これは、アダム→ギリシャ人→当時のフランス人
という発展の図式と、不整合を起こしてもいるだろう

アダムと類人猿を比較する場合、キリスト教においては、アダムの方が先のはず

しかし、もしも実物を眼の前において、アダムと類人猿を見比べたら、アダムより類人猿の方が、原始的な感じがする
類人猿なんて、やつら、まだ、ウホウホやってるぞ、というレベルだし
あるいは、エデンの園は、オランウータンがウホウホやっているセカイなのか

どうやって、当時の人々は、この不整合に目を瞑り、自己を納得させていたのかが不思議でもある
本来、動物が人間に進化した、という考えは、異様な思想であるはずだ

○「自然状態」とは、どのような言葉であったか

1、キリスト教神学における用語として「自然状態」は、以下のようなものであったとのこと
p316
「恩寵の状態」と対立する概念、「未だ恩寵によって救われていない「未更正」のものであるから、当然「堕落した自然」、「腐敗した自然」ということになる」(戸部松実)

「自然状態(原文ゴシック)にある人間は、悪しき欲望に苛まれ、さまざまな災厄を背負った惨めな存在と見做されることとなった」(戸部松実)

2、ホッブズにおける定義
ホッブズは自然状態という用語を政治学、法学に導入した最初のひと、のよう
「戦争状態」と位置づける

3、プーフェンドルフ『自然と万民の法』、ロック『市民統治論』、

4、ディドロ『プラド神父弁護続編』……「自然状態とは堕落するまえのアダムの状態を言うのではありません」「この状態における人間には、動物に抜きん出た特別な性質、或いは動物と同列に置かれるような動物と共通の性質、或いはまた、幾つかの欠陥、というよりは人間を動物以下に置く、もっと情けない性質も認めることが出来ます。この状態がどのくらい続くかということは、人々が国家を形成し(se policer)、群れの状態から社会の状態に移行する機会をいつ持ち得るかによって変わって来ます。」

ディドロにおいて自然状態とは、「アダムの子孫たちの現実の状態」であり、未開人の営む、非文明的な生活の状態を指す
未開人と、動物は、ディドロにとって蔑視の対象であり、彼らの生活環境を「自然状態」としていることを、チェックしておく
ディドロは動物差別者だ!

5、ルソーの自然状態
未開人、動物に対して肯定的であり、ディドロに対して逆説的

○ルソーの自然状態

ルソーにおいて不平等はまず、自然的、物理的不平等と、社会慣習的、政治的不平等に分かれる

そして、特に社会慣習的、政治的不平等は、自然状態から社会が形成される過程で生み出されたものだと、ルソーは考える

そして、自然的不平等は制度的不平等により助長される(第一部、46)

ルソーの自然状態は、三つの段階に分かれる

自然状態「1」

狩猟採取のみを行なう
定住をせず、分散して生活
人々は、理性に先立つ二つの原理として、「自己愛」と「憐憫の情」を持つ
虚栄心、教育、進歩がなく、人間はずっと「子供」である(第一部、44)

この段階にある存在の具体例としては、類人猿が挙げられる

自然状態「2」

技術の発達により小屋が作れるようになる
鉄の利用法を知るが農業は行なわない
定住が始まり部族ができる
被害を受けた場合、復讐がなされるようになる
法律はいまだない、野蛮人
関係の知覚、序列の区別、対動物関係において、自種族は上である、他人に対して自己は上であるという自尊心が、じょじょに生まれゆく
欲求は、肉体的欲求すなわち食べ物と雌と休息を求めることに限られ、死に関する知識や、未来という観念を持たない

具体例としては、ホッテントットなどが挙げられる

自然状態「3」

冶金と農業の発明により、分業と交換が必要になる
需要と供給のアンバランスにより、所有権の観念が発達し、不平等が拡大する
→土地所有等をめぐる戦争状態が生じ、ホッブズ的な自然状態へと転落する
自由を確保するために、社会契約が行なわれる
→政治社会の誕生を招く
この段階が、人類全体の一般社会でもある

そして、社会的不平等が次のように生まれる

1法と所有権の確立→富める者と貧しい者の不平等
2為政者の制定→強いものと弱いものの不平等
3合法的権力から恣意的権力への転化→主人と奴隷の身分確定という不平等

自己愛は利己愛(特殊意志)に転落し、憐憫の情が失効するようになる
憐憫の情の代わりを果たすものとして、「一般意志」と、それを実践するシステムが希求されるようになる

一般意志とは、『西洋思想大辞典』によれば、
最初は神に結びつく言葉であったが、ディドロが人類全体の一般社会に結びつけ、さらに、ルソーが個別的な社会の問題へと移し変えた

○「自然にかえれ」と「動物」

ルソーは哲学的な知性を批判し、人間的な理性の存在しない「自然の状態」を肯定する

ルソーの哲学批判、理性批判および、社会制度における教育論と自由論をどう評価するか
ルソーは人間を考察するために、動物との比較を多く行なったよう
ナチュラリストのはしりみたいだ
他人を害するべきでないのと同様、ゆえなく動物に危害を与えるべきでない、といった、ちょっとした動物愛護的発言もしている(序文、9)

ルソーの動物観は、どのていど西洋において一般的なものであったのか
(モンテーニュ『随想録』、シャフツベリー『才能と美徳に関する考察』、ラ・ボエシ『意志の隷従について』など、参考文献か)

「自然の状態」にある人間を特徴づけるのは、「憐憫」と「自己愛」である
「憐憫」は理性に先立つ本能的で純粋な衝動
「憐憫」を失わせてしまうのが「社会」である
ルソーにおける自然は肯定的なイメージだ

たとえば、漱石や埴谷の小説における「自然」という語と、ルソーの「自然」の関連はどうか
ゾラの自然主義との関係はどうか

キリスト教の「自然状態」は「神の恩寵」を欠いたという内容を持ち、悪い意味である


まとめなおしてみよう

Aホッブズ、キリスト教神学の自然状態はネガティブな意味

1アダム
→堕罪
2→自然状態(=ホッブズの自然状態、戦争状態)
→現在の社会

Bルソーにおける自然状態は、ポジティブなものからネガティブなものへと段階的に移行する

1エデンの園的なもの=自然状態1=理想的なもの
→堕罪
2自然状態2(=戦争状態)
→現在の社会

キリスト教神学では「自然」は悪のようだが、ギリシャでは違う
ギリシャの「自然」は生成発展するものであり、肯定的なものである
ギリシャの「自然」には、ネガティヴな意味はない

ルソーは、ホッブズやディドロに対し、ギリシャ的な「自然」概念を導入しつつ、「自然」という言葉を肯定的なものへと変えたよう
ルソーの論が当時の社会に受け入れられる下地があったのか
『人間不平等起源論』では「自然」からの変化は、みな、「堕落」として捉えられている
○分業と所有
自然では不平等と依存関係が存在しない
自然の人間は他人との関係を持たず、独立した一つの存在足りうる
都市の人間は、分業の体制を持ち、相互に物理的・道徳的依存関係があり、共同体に従属してしか生きられない
→自然では人間は自由である、という結論を引き出している
(しかし、本当にそうなのか?)

○なぜ、「不平等の起源」を語る文脈で、「言語の起源」もまた、同時に語られねばならないのか?

ルソーはコンディヤック『人間認識起源論』の言語起源論に強く影響を受けたらしい

形容詞は抽象語であり、抽象作用は自然でない頭脳の働きによる(第一部、27)
抽象作用は、「自然」から遠いものであるとルソーは強調する

言語やテクネーを、人間はどのように獲得したのか
今現在「あるもの」である言語やテクネーが、以前は「ないもの」であった
言語やテクネーは「ないもの」であったが、「あるもの」に変化した、というのが、ルソーの切り口の独創的なところ
簡単なようでいて、意外にできない
ふつう、言語もテクネーもあってあたりまえだと、その存在に疑問を抱かない
「なかった状態」から生成変化を起こし、「あるもの」になったと想像し、その過程を滔々と語るところに、『人間不平等起源論』の面白さがある
そこに「進化論的」なものも含まれる

○恋愛
自然状態において、夫婦愛はあったが恋愛はなかった
「恋愛」とは何か
恋愛には、社会的な美や才の観念、比較対象を行なう知性が必要
「ルソーによれば、人間を文明化したのは農業の発明であるが、人間を都会化したのは恋愛の誕生」(戸部松実)
ルソーにおいて「恋愛」が肯定的なものとして語られていないことに注意

自然の愛は物理的なものであり、女であれば誰でもよいようなもの

社会慣習的な愛は美と才に関する観念と、比較に基づくもの(第一部、38)

○自然法と万民法
社会が成立しても市民社会どうしは戦争的な自然状態にあるため、自然法と万民法(→今日の国際法)は似かよる
自然法とは、ルソーにおいてあまり使われない概念だが、強者が弱者に勝つ、ということに近いよう

○「悟り」と「革命」
「自由」で「平等」で「言語の存在しない」のが「自然状態」
すべての人が、そのような状態で生きている世界への理想が『人間不平等起源論』には見られる

社会契約の崩れた、国家のない状態では、人は自然状態にあり、これは「自由」な世界である
このようなアナキズム的な発想が、『人間不平等起源論』には含まれる

たとえば、仏教に対する通俗的な批判として、「坊主が増えれば国が傾く」と言われる
これは正しい
「悟り」というものは個人的なものである
ルソーにおける自然状態における人間は、修験者や山伏みたいな感じがいくらかする
修験者や山伏というのは個人的なあり方だ
ルソーの「自然状態」では、存在するすべての人が解脱している世界のよう

すべての人の「悟り」というのは、「革命」のビジョンとして面白い
世界の全人民が、一度に、ニルヴァーナに達した世界が、ひょっとしてありうるのじゃないかと感じさせるところ
人類補完計画、みたいな
そこに、『人間不平等起源論』の一番の面白さがある
(もちろん、仏教における解脱と、ルソーにおける自然の人間には、いくらかの類似性と、いくらかの差異がある
両方とも、脱俗的であり、過剰な欲望への戒めがあり、言語的なものから脱却しているところは共通点だろう)

○『社会契約論』にある、人間は自由であることを強制される、という一文
これは、どういうことか
アドルノ、サルトルとの関連は?
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なかなかよくできた哲学史。覚えるより読んで楽しい読み物です。文体があまり上手くないが、やっぱりヘーゲル左派からマルクス、エンゲルスに至る時代がスリリング。カントが最近、とみに再評価されてるのも良し。構造主義、ポストモダンあたりからを、続編か別冊で新たに書
プロフィール

松平耕一

Author:松平耕一
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