すが秀実編著『1968』1 

1968 1968
スガ 秀実 (2005/01)
作品社
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すがさんの一九六八年論は、いくつかの書で読めるが、『1968』に収録されている「一九六八/一九七〇――そこで始まったこと」はもっともシンプル
ぼくのような初心者でも分かりやすい
でも、アマゾンレビューなどを見ると、あんまり評価されていないようですね……
もったいない

この論の要点と、その前後のコンテキストをおおざっぱにまとめる
 
 
◎まず、前提的な話、戦後の政治党派はどのようなものがあったか
自民党と社会党と共産党などがあった
自民党は親米、共産党は親ソであった
共産党は左翼であったが、これとは別に「新」左翼が登場した
なぜ新左翼ができたか
一つには、ソ連のスターリンへの批判から
また、共産党を信じていても革命は起きなさそうだぞということ
共産党の奉じる議会革命に対する、暴力革命の要請から
反米反ソの新左翼が誕生した

一 自民党(親米)

二 共産党(親ソ)
↓暴力革命論+スターリン批判
三 新左翼誕生(反米・反ソの革命運動)

◎すがさんの「1968年」論
新左翼登場後、いろいろあって、新左翼はバラバラになっていく
メチャクチャおおまかに言うと、もと新左翼だったものは、三つほどの勢力に分けられる
(こういう数は便宜的なものであり、テキトーです
今、アクチャリティーのある言説を行なうなら、特に三つに絞って考えてみると、都合がよい、といったところ)

一 吉本隆明系(→大衆へと分散)
二 革○派系、黒田寛一、埴谷雄高系
三 中○派系
である

すがさんの「一九六八/一九七〇――そこで始まったこと」は、「三 中○派系」をちょっと持ち上げている論考だ

吉本隆明はまあ、ある意味常識的で、最終的には大衆につく
革○派はインテリ集団系
中○派はもっとも暴力的、攻撃的、また、大衆運動性もあった

◎一九六八年世界革命後の新左翼

中○派は暴力性とマイノリティ運動を特徴とする
そして、中○派と革○派は内ゲバ70年代、苛烈な内ゲバを繰り広げる

一 吉本隆明(大衆派)

二 革○派 黒田寛一、埴谷雄高     VS  三 中○派、マイノリティ運動
(インテリ系、永遠の未来における革命)
(労働者中心の革命運動)

一九七〇年の七・七集会
華青闘(華僑青年闘争委員会)による新左翼への、自民族中心主義の告発、差別の告発が行なわれる
これが、マイノリティによる新左翼への告発の初めであり、その後のマイノリティ運動展開へのきっかけになったというのが、すがさんの論である

それまでの新左翼は、労働者を中心とした革命運動論であった
労働者を中心とするとき、レーニン的な中央権力闘争になる
これは、グラムシの用語で「機動戦」による革命ということになる

しかし、マイノリティ運動の要素が加わると、中心がなくなりバラバラになる
一九六八年の革命を特徴づけることは、マイノリティ運動にあり、これが世界史に登場したことがエポックメイキングである
たとえば、「在日」などの民族問題、部落問題、水俣病等の環境問題、障害者問題、フェミニズム、三里塚闘争等々である
そして「倫理の中心」が拡散するわけですね
ネグリの用語ではマルチチュード、グラムシの用語では陣地戦による運動のモデル、ということになる

マイノリティ運動の継起が入った中○派
マイノリティ運動の継起がはいらず、永遠の未来における、中央権力闘争をもくろむ革○派
二つの方針の差異はより大きくなる

そして、七〇年代と八〇年代の新左翼運動は、マイノリティー運動と内ゲバの二方向へ分裂する
この二つが新左翼運動における車の両輪になった
というのがおおまかな、すがさんの「1968年論」ですね

◎さて、以下は私の意見
内ゲバが良くないものであるということは、誰もが認めることだろう
日本における学生運動を退行させた最大のものだという世評は正しいだろう

一方で、マイノリティ運動をどう評価するか
マイノリティ運動を良いものだと肯定する
その場合、新左翼運動の特徴たるマイノリティー運動と内ゲバ
二つのうち、内ゲバは、現在、大分おさまった
マイノリティー運動だけが残ったので、めでたしめでたし、ということになるのか

それとも、マイノリティー運動には、内ゲバ的なものを引き起こす基本的継起を秘めているのか?
PCという、「政治的正しさ」の問題がマイノリティ運動にはある
お前には差別されるものの痛みがわかるのか
足を踏まれているものの痛みは、足を踏んでいるものには分からない
マイノリティ運動の運動家は、自分への差別を告発する過程で、自分が神になってしまうこともある

もともと、何がマイノリティを作るのか
一つには、「法」の隙間がマイノリティを生む
「法」の整備がなされていないところ
「平等」の行使されない、「不平等」の平面にマイノリティが生まれる
そのため、マイノリティ運動は「法」を越えてあろうとすることがある
そして、革命運動も、法を超えてあろうとする
「法」を越えてあろうとする、暴力革命論と、マイノリティ運動
二つが合体してしまったとき、内ゲバが起こりうる、といえるのか

国家に対抗して作られた党が、国家的な悪を内包してしまうことがあるように
党から離れてあるマイノリティ運動体も、国家とは異なる悪を孕むかもしれない

一方また、各個の運動体が別々に活動していていいのか
結局は、個人主義的なものに結果し、国家の悪を食い止めることができないのじゃないか

マイノリティ運動体相互を結びつける連合が必要ではないのか
党なき時代に、党を形成することは可能か
という課題が浮上する

◎倫理的主体が形成されるレベルは、いくつかのモデルがある

神→主体
国家→主体
党→主体
マイノリティ共同体→主体
個人主義→主体
ポストモダンにおける主体(→結局は、国家へと吸収されてしまう?)
世界共和国→主体

どういったモデルが可能であり良いものなのでしょうね
ぼくはよく分かりませんけれども
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