西川美和『ゆれる』 

ゆれる ゆれる
西川 美和 (2006/06)
ポプラ社
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西川美和『ゆれる』

西川美和の『ゆれる』を読んだ。
『ゆれる』はカンヌ映画祭で激賞された同名の映画を、監督自身が小説化した書き下ろしの作品である。
結論から先に言うと、「ゆれる」の構成は次のようにまとめられる。



この小説には〈特別/平凡〉〈都市/ふるさと〉〈孤独/共同体〉〈彼岸/此岸〉〈エロス/節制〉〈祝祭/日常〉〈親不孝/親孝行〉〈身勝手/こらえ性〉〈鬼/驢馬〉といった二つの対になる対立軸がある。
そして、上の項を代表する人物として早川猛がいて、下の項を代表する人物として早川稔と川端智恵子がいる。
川端智恵子は上の項に移動しようとして死ぬことになり、早川稔は上の項に移動しようとして刑務所に入ることになる。
二つの項の「あいだ」を象徴するものとして「吊り橋」があり、この二つの項の「あいだ」で心が「ゆれる」こと、その葛藤がもたらす、ある家族の運命の変転を書き表した小説である。

〈特別/平凡〉〈都市/ふるさと〉〈孤独/共同体〉〈彼岸/此岸〉〈エロス/節制〉〈祝祭/日常〉〈親不孝/親孝行〉〈身勝手/こらえ性〉〈鬼/驢馬〉

〈早川猛/早川稔・川端智恵子〉
 ←「橋」「ゆれる」→
   
この物語は、早川猛の母の一周忌の場面から始まる。
早川猛は母の法事に喪服も着ないで、まっ赤な服で遅刻してやってくる。
一年前に行われた母の葬式には、猛は女の子の所で油を売っていたために欠席し、さらに、母の死を悼むような言葉も出さなかった。
彼はふるさとと決別して生き、親不孝と身勝手の果てに成功を手にした男である。
一方、早川猛の兄、早川稔は「こらえ性」の性格であり、父の仕事を継ぎ、実家に残った男だ。
稔は、高校時代に猛と付き合っていて、今は稔と同じ職場に勤める川端智恵子に、想いを寄せている。
この作品のヒロインである智恵子は、物語の序盤で死に、作品から退場してしまう。
兄の稔は智恵子に想いを寄せ、智恵子は弟の猛を慕い、猛は二人に対して屈折した態度をとる、というのが最初の時点での三人の関係を表すおおまかな図式である。
智恵子には父がおらず、母の手一つで育てられた。
智恵子の父は女の人にだらしない人物で、智恵子の母は、「お酒を注ぐ女の人に父をとられたことの悔しさ」を娘に伝える。
「スナックで働くこと」に対し、智恵子の母は次のように評価している。
「そんなところで働くと、他所にあんたが何と言われるかわからないもの、と母は言いましたが、そういうことを言う張本人は、うちの母にほかなりませんでした。」
ここには、旦那なしで、恋人も持たず、一人の手で子を育てなければいけなくなってしまった女性による、水商売で働く女性への嫉妬が表されている。
智恵子はもちろん「エロス」の行為の結果生まれた子である。
しかし一方で、エロスというものへの嫌悪や、禁欲的な態度を母の態度に感じつつ智恵子は成長し、エロスに対し両義的な感覚がもたらされていた。
猛との間に肉体関係ができたとき、母への背徳感を智恵子が感じるのはそのためであろう。
智恵子と猛は小学生からの幼馴染だが、猛は学童保育でも人気者であり、智恵子にとって気になる存在であった。
十六歳の頃、智恵子と猛には肉体関係ができるが、猛は上京して智恵子の傍らを去ってしまう。去りぎわに、猛は智恵子に対し、「お前は意思ってものが無くて、おもしろくねえ」という言葉を残す。
このとき、智恵子は意思のない人物として、猛は意思のある人物として本人達に認識されている。
しかし、猛の叔父、早川修はのちに、「猛はやはり、僕と同種の人間なのかもしれない。
信じるものがあるのではなく、欲することがあるだけだ」とコメントしているように、猛という人物は智恵子や稔といった人物に対し、「意思がある」ようでありつつ、別の面からみれば「欲することに素直」なだけなのかもしれない。
法事で、十数年ぶりにふるさとへと戻ってきた猛と智恵子は再開を果たし、セックスをする。
猛と智恵子のセックスがなぜ行われたか。
智恵子は猛に想いを寄せていて、猛が自分を誘うように工作を行ったことは、「第二章 川端智恵子のかたり」に明らかである。
しかし、猛の方ではこのセックスに対し、屈折した感情を抱いていた。
猛は稔の働くガソリンスタンドで、稔と智恵子と、ガソリンスタンドの従業員である岡島洋平が、仲の良さそうにしている様子に出くわす。
そしてガラス越しに三人を眺める猛は次のような感想を抱く。
「この、磨き上げられたガラスの壁が、もはや絶対の隔たりのように思えた。」
「俺は決して兄のことを出し抜こうとか、おとしめようと思ってきたわけではなかった。負い目すら感じてきた。しかしそうであっても、兄の方は俺のことを、いつもどこかで羨んで、眩しそうに見つめてくれているものと思っていたし、それを望んでいた。」
一つには、ふるさとをすてた猛の、稔らのつくる共同体への疎外感が表されている。
稔は家族から離れ上京した、所属する共同体を持たない男であり、ここに〈孤独/共同体〉という対立の軸を見てとれる。
二つ目に兄の稔に対して、自分の方を見て欲しいのだという猛の気持ちが描出されている。
これら二つのことが前提となったうえで、猛は智恵子を誘うのである。それゆえ、セックスののち、
「……彼女が俺に対して共犯者のような連帯感を向けてくることが、たまらなく苛立たしかった。 「稔さん、ものすごく張り切っちゃてた」
くすくすと智恵子は笑った。兄のことを笑うその表情が、恐ろしく醜かった。」
という語りが入る。猛にとっての関心事は、智恵子というより稔に向かっているのである。
東京へと戻る猛に、智恵子はついていくことを望むが、猛にはその気がなく、智恵子は失望する。
猛、稔、智恵子は山へと観光に出かける。
ここで、この小説でもっとも重要な「吊り橋」の場面になる。
「吊り橋」の彼岸には猛がいて、此岸には智恵子と稔がいる。
智恵子は「今度こそ橋を渡る」と決意する。
稔は、「ゆれるのが苦手」と言い、智恵子が吊り橋を渡るのを止めようとする。
智恵子にとって此岸に、稔とともにいることは、「自由を奪われ、可能性を踏みにじられ、人生を封鎖され、未来を抹殺され」ていることでもある。
しかし、橋を渡ろうとした智恵子は、智恵子が「橋を渡る」ことを快く思わない稔ともめ、橋から落ちて死んでしまう。
その瞬間、「この人は、私だ。おとなしい驢馬のような顔をして、こころに鬼を飼っている。」と、稔に対し智恵子は考える。
智恵子と稔の二人が共通して「こころ」に飼っている「鬼」とは、「エロス」「親不孝」「身勝手」「都市」といったものへの、強烈な憧れなのではないか。
智恵子の渡橋を遮る稔も、遮られる智恵子も、それらの魔性に魅了される心を持ちつつ、「意思」を打ち出せず、「欲求」に対して素直になれない。
こころに飼った鬼を、猛がそう出来ていたようには上手く、日常の生活へと現実化することができなかったのだ。
殺人という行為は、殺したものに罪があり、殺されたものが被害者である、というのは世の常識であろう。
しかし、「ゆれる」では、第一に、事件がどのように起ったのか、本当に殺人なのか事故なのかが分からず、幾分かミステリ風にストーリーが進んでいく。
そうして第二に、智恵子の死の起った理由は、この小説に登場する様々な人物たちへの責任へと拡散されてもいる。
智恵子の死の直接の原因となったのは稔であると疑われるが、他に猛や、智恵子自身や智恵子の母、猛と稔の父である早川勇や、その兄、早川修にさえ、まったくの遠因がなかったとは言えないのである。
順にみていく。
物語の後半部、稔を裁く法廷で、稔は勝訴を勝ち取るために平気で嘘をつき、良心に溢れた人物であるかのように裁判官に見えるよう演技をする。
以前の稔にはなかった、前言をやすやすと翻し、役者がかった態度を平然ととる稔を見て、父の勇は落ち込み、もう法廷に出向かないことに決める。
猛はそのことについて次のように述べる。
「もしこの事件を起こしたのが俺だったなら、父もこんなには弱らなかっただろう。」
稔は智恵子が川に落ちた直後の時点で、警察に対しこれが事故である旨を述べていた。
その後この発言を撤回し、警察に、自分が智恵子を殺したと自白した。
さらにその後、この事件は事故であったとして、法廷で自己弁護をする。
稔の言動は支離滅裂で、一貫性を欠いている。
第一回公判ののち、叔父の早川修と猛は稔について次のような会話を交わす。
「「見事に一本とられたな。君が言うよりずっと曲者じゃないか。あれは役者だぞ。ざっと考えて、全てのつじつまが合ってるもの。君が余計なことでも吹き込んだかと思ったよ」
(……)「何でもいいさ。兄貴の言った方向でいいとことに進むんなら、俺は声も聞くよ」
(……)「なるほどね。今度は僕らが乗っかるしかないってことだわな。」」
勘ぐってみれば、ここでは稔が、猛と修を気まぐれな行動から操っているかのようだ。
また、猛は、この裁判に至ることではじめて露出してきた、稔と、稔を取り巻く父や弟や叔父などの周りのものの関係について、次のように述べる。
「一つ一つの兄の言動や、振る舞いを頭から信じて受け止めることしかできず、まるで兄に土俵を叩かれて哀れに踊る紙相撲の力士だ。」
稔が、身内や裁判の全体を振り回す様子が表されている。周りの者に迷惑をかけず、誠実に堅実に振舞い、稔は生きてきた。
しかしこの事件で、稔は、自分の生活で負わされた苦渋に耐えられなくなり、全ての周囲のものを困らせてやり、心配をされたい、巻き込んで迷惑をかけてやりたい、注目を集めたいといった気持ちが、爆発したのではないか。
この小説全体を読んで、稔は裁判所を、兄弟喧嘩と親子喧嘩の場所にしたのではないかと、私は邪推するのだが、それは言い過ぎだろうか。
しかしもともと、猛と稔の間には子供時代、次のような齟齬があった。猛は、悪さをしたのちに父に殴られる場面で、次のように考える。
「真理はこっちにあるのだ、という確信だけが俺の心を優位に立たせ、父に殴られてもその痛みに耐えられていた。しかし兄が見かねてそこに飛び込んで、俺が黙って守っていた道理をぶちまけたとたん、俺は唐突に「本当は理由のあった可哀相な子供」に成り下がる。」
猛は「理由なき狂気」の中に生きていることをのぞむ。
そもそも、「理由なき狂気」のなかにこそ、自由というものはあるのではないか?
一方稔は、理屈と現実と「良い子であること」の中へと、がんじがらめにされて生きていた。
智恵子を殺すことにより稔は、「理由なき狂気」へと身を任せ、はじめて他者からの自由を手に入れることができたのかもしれない。
また、猛は稔の罪を次のように評している。
「ずるいんです。闘わず、傷つかず、勝利を勝ち取ろうともしないくせに、零れ落ちた売れ残りの汁を吸って、生きながらえようとするんです。」
「兄の恐ろしさに、彼女は気付いていたのに、僕は聞き入れず、彼女を死なせてしまった。」
「これは兄の復讐です。兄は僕のことが憎くてたまらないのです……。」
一つには、稔による殺人は、内気な稔による、強気な猛への嫉妬の暴発が原因である。
しかし、嫉妬を駆り立てるような行為をした猛にも、殺人の理由を招く原因はあった。
稔が刑期を服し、刑務所から出てくることが決まった後、猛は次のように独白する。
「誰の目にも明らかだ。最後まで、俺が奪い、兄が奪われた。けれど全てが頼りなく、はかなく流れる中でただ一つ、危うくも確かにかかっていたか細い架け橋の板を踏み外してしまったのは、俺だったのだ。」
貨幣は、他人にとって価値のあるものであるから価値がある。
他人にとって価値のない貨幣は、すでに貨幣である資格を失っている。
人間は、他人の欲望を欲望せざるをえない。
異性やエロスにも、この他人にとって価値のあるものであるから自分にとって価値が生じる、といった要素が、あてはまる。
兄弟とは、貨幣や名声、エロスへの欲求において、潜在的なライバルとなりうる。
猛は都会で成功をし、貨幣もエロスも手中に収めている。
しかし、猛の手に入れている貨幣やエロスは、稔のような人物の欲望の対象を、横取りしたものだ。
そのように考えれば、稔による智恵子殺害は、猛という主人に対する、稔という奴隷の反逆であり、クーデーターであったのだ。
猛と稔、搾取するものと搾取されるものの対立が、この犯罪を招いた。
さらに、猛と稔の父、早川勇は、稔と智恵子の間におこったことを想像して次のように述べている。
「あんな危なっかしい吊り橋に稔が連れてくわけがない。きっとそれも智恵ちゃんのわがままなんですよ。みくびってたんですよ。親父が女こしらえて蒸発したってので、昔からなんだかんだとこっちは融通利かせてやったのに。母親だって娘だって、外面ばっかり気にして、きっとどこか捻じ曲がってんだ。稔は殺すつもりなんてあったとは思えませんよ。ただ、起きたことに対して責任を感じたんだ。それでも殺人になるんですか?」
勇は智恵子と、智恵子を取り巻く環境に対してきつい評価を下している。
もちろん、死者や、社会的弱者に対して言うような言葉ではないだろう。
しかし、智恵子に内在していたかもしれない、稔への甘えを鋭くあげつらっているのかもしれない。
確かに、智恵子は稔を利用しつつ、しかし、稔を猛より魅力のない人物として蔑んでもいたようだ。
稔と猛、二人の間で中途半端に、「揺れる」ような動作をみせること。
そうしたことをした上で、自分が、稔よりも猛側の人物なのだと同定する行為は、稔に対し残酷なダメージを与えるものであったろう。
また、智恵子は〈エロス/節制〉という対立する二つの組の間で「ゆれる」が、この「ゆれる気持ち」を生み出したのは、母に植え付けられた、エロスへの劣等感に由来するのではないか。
「第二章 川端智恵子のかたり」で智恵子は述べている。「再婚を打ち明ける母は、緊張に強張って、額に汗をにじませ、手を震わせていました。
まるでペアの耐久レースでリタイアを宣言する伴走者のようでした。」
智恵子が二十七になったころに智恵子の母は再婚をするが、それまで二人は互いに互いを縛りあい、禁欲的な生活を行っていた。
そしてさらに、智恵子の父は女好きだったが、この父への憧憬が、無意識のうちに、安全な男である稔を切り捨て、危険な匂いのする猛へと接近する結果をうんだのだろう。
勇・智恵子の母・稔等、様々な周囲のものから、稔と智恵子の結婚が、穏やかな形で望まれていた。
しかし、それらを拒絶し、猛の方向へと向かうことが、智恵子の「意思」であった。
勇は次のように語っていた。
「けども智恵ちゃんは、今どきの人にしてはどこか男に対して奥手というか、苦手意識みたいなのがあったというかね、私なんかには一歩引いたところがありました。」
智恵子の男性観には不自然なものが含まれ、それは智恵子の心の中にいる「鬼」でもあり、これが男性関係でのトラブルへと巻き込まれる原因を生じさせたと、いえないだろうか。
おそらく智恵子の母も、自分が娘を「耐久レース」へと連れ込んでいたことが、娘の男性観に不幸をもたらしているという感覚を持っていたはずだ。
猛による智恵子の母への次のような言葉は、そのことを暗喩している。
「おばさんの顔も、まるで何かを犯した側のような色をしていた。この人もまた、恐らく何か語りかけるべき言葉を、智恵子に尽くさぬままになってしまったのじゃないだろうか。」
この物語は、「大きな荷物を抱えた兄は、弟に微笑みかけたように見えた。
そして息をつく間もなく、徐行して兄の前に止まるバスが、兄弟の間を遮ってしまった」と終わる。
二人の兄弟の愛憎劇は、和解して終わるのか決裂して終わるのか、今一つぼかされている。
兄が弟に「微笑みかけた」かもしれないという描写は、二人の兄弟の和解への可能性を暗喩している。
一方、バスが二人の間に止まり視界を遮ることは、二人の決裂への可能性を暗喩している。
しかし、ここに至るまでの物語のストーリー展開から、おおよその結論は下すことができるだろう。
兄の釈放日時を聞いたのち、猛は稔に対して罪悪感を抱き、謝罪をしたいと考えていた。
また、すでに、猛は写真家としての成功もほとんど喪失し、「持たざるもの」へと転落しかけているため、二人の関係は和解に至る可能性の方が高いだろう。
さて、この作品全体の主題について考えてみる。まず、稔の側から主題へとアプローチする。稔は裁判闘争中の面会の場面で猛に次のように言う。
「お前の人生は素晴らしいよ。自分しか出来ない仕事して、色んな人に会って、いい金稼いで。俺見ろよ。仕事は単調、女にはモテない、家に帰れば炊事洗濯に親父の講釈、で、その上人殺しちゃった、ってなんだよそれ。」
稔の猛に対するネガティヴな嫉妬の感情が、ストレートにあらわされた部分である。また、稔は次のようにも言っている。
「まあ、あのスタンドで一生生きていくのも、檻の中で生きていくのも大差ないな。馬鹿な客に頭下げなくていいだけ、こっちの方が気楽だあ。」
稔が暮らす平凡な日常とは、もともと、刑務所の中にいる生活に、比せられるものであったのかもしれない。
お客や家族に煩わされる毎日は、刑務所に入っているかのようだとは、なんと暗鬱な感覚であろうか。
おそらく稔は無理をしていた。
稔は家族や職場で潤滑油の役目を果たしていた。
完全主義的に「周りの人をフォローする役」を遂行しすぎた反動が、この事件では出てしまったのだろう。人と人の関係は、相互利益的であるのが望ましい。
しかし、ときには「身勝手な人」と「フォローする人」のそれぞれの役が固定化するようなことも起る。
一般に、トラブルがおこったときのひずみがいつも「フォローする人」におしつけられてしまうような人間関係は、さまざまな場所に生じているものだろう。
法事の席で、稔は猛と勇の喧嘩をとめ酒をかぶり、ガソリンスタンドではクレームをつける客に頭を下げる。
猛―稔、勇―稔、洋平―稔、親戚―稔の関係で、稔は「フォローする人」へとまわってしまう。
それでも彼は基本的に自己の感情をコントロールする術を身につけてはいたのだろう。
しかし、稔が長い間ひそかに想いを寄せていた智恵子までが、あっさりと猛に奪われてしまうことで、精神のたがが一挙に外れてしまった。
次に、猛の側から主題へとアプローチする。
おそらく、あらかじめ猛の成功の影には、兄を刑務所に入れざるをえないような、ある種の「原罪」のようなものがなければならなかった。
その「原罪」とは「兄弟殺し」であり、「兄」や「搾取されるもの」を虐げることで、猛は、「エロス」「名声」「富」を得ていた。
兄を刑務所に送ることで、猛は自己の「原罪」に気付いた。
そして、「エロス」「名声」「富」を失うことで、兄という「虐げられたもの」の前に頭を垂れることができるようになった。
猛は、「兄を刑務所に送る」という体験を通して、ようやく家族への愛というものを肯定できるようになったのだ。
本書の各所には、聖書からのモチーフが差し挟まれている。たとえば、エロスについて。
猛と稔の叔父、早川修が犯行現場を訪れる場面には次のようにある。「子供の頃、吊り橋の近くの胡桃の木の実をほおばった。木を揺さぶると蛇が落ちてきた。」
「実」と「蛇」という言葉の対は、イヴが食べてしまった禁断の「智恵の実」を思わせる。
叔父が蛇に対し、「怖いと思ったことなど、昔はなかったのに」と感想をこぼしていることにも、何かしらの予感が込められていよう。
夢分析で、蛇がペニスのシンボルとされることは有名である。
そして、実とは、「子供」のことをもまた、暗喩しているのではないか。
叔父は子宝に恵まれない人物であった。
また、猛も稔も、子供を産めるような異性関係を構築できていない。
信頼しあえる家族関係が構築されたときはじめて、エロスの結果である子供の誕生が、祝福されるものとなる。
猛が稔の罪を裁判長に告白するときの顔について、稔が次のように述べるのも、キリスト教からの影響があるだろう。
「弟の顔は、なんだかとてもすっきりしていて、男でもないような、女でもないような、不思議な神々しさだった。」
「僕を売った男の顔は、あの観音様みたいにきれいだったんだ。」
「売られる」という言葉には、ナザレのイエスがユダに、わずかな銀貨で売られてしまう場面を想像できる。
人類をその罪から救うために、身代わりに磔になったイエスのごとく、稔には刑罰が与えられる。
この場合、ある種の十字架に架けられる、犯罪者である兄ではなく、それを売る弟の顔が神々しく見えることも、一般の発想と逆を突いていてひねってある。
また、服役中に稔が「ノド」という言葉について言及し、「聖書の中に出てくる、弟を殺した兄貴がさすらった土地のことなんだってさ」と述べるが、これも、旧約聖書のアベルによるカイン殺しに由来する挿話である。
アベルは弟殺しの罪のため、神により額に「しるし」をつけられる。
「智恵子殺し」の罪と、「弟殺し」の罪には幾分かの振幅があるだろう。
しかし、アダムとイヴ、カインとアベル、ユダとイエス、これらのキリスト教における三つの罪のイメージが、稔、猛、智恵子の三者の関係へと集約されていて、詩的で見事な表現である。
キリスト教における三つの罪は、この「ゆれる」という作品の背景に据えられている。
そしてアダムとイヴは夫婦の関係を、カインとアベルは兄弟の関係を、ユダとイエスは親子の関係を象徴していよう。
猛が稔を「売った」ために、稔は七年の刑務所暮らしを余儀なくされた。
その間に叔父の修は気力を失い引退し、父の勇は痴呆症を患った。
猛自身、写真家としての力も衰亡したようである。
しかしそれらの「罪と罰」を通り抜けて、はじめて猛は家族愛を肯定できるようになったのだろう。
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