バトラー『ジェンダー・トラブル』 

ジェンダー・トラブル―フェミニズムとアイデンティティの攪乱 ジェンダー・トラブル―フェミニズムとアイデンティティの攪乱
ジュディス バトラー (1999/03)
青土社

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バトラー『ジェンダー・トラブル フェミニズムとアイデンティティの攪乱』に関するメモ。




序文 ボーヴォワールに関して

男の主体が実は女という《他者》に根本的に依存していることによって、男の自律性が幻想でしかないことが、突然にあばかれる。だがこの個別的な権力の弁証法的な逆転が、わたしの関心を引きつけたわけではない。むしろわたしの関心が向けられたのは、べつの事柄だった。それは、権力は主体同士の交換以上のもの、主体と《他者》との絶え間ない逆転以上のものであるらしいということだった。むしろ権力は、ジェンダーについての思考の枠組みとなっている男女の二元論を産出するべく、機能しているように思えた。

ここでの「主体」や「弁証法」はヘーゲル思想に由来している面があろう。男が男であるためには女という概念を必要とし、両者は相補的な概念である。二元論は人間の、逃れられない認識の形式である。

第1章〈セックス/ジェンダー/欲望〉の主体

一 フェミニズムの主体としての「女」

まず、女というカテゴリーが表象/代表をなすときの「主体」について、言及される。例えば、学生運動において、「我々学生は当局に○○を要望する」と一学生が主張したとする。この一学生は表象/代表の行為を行うのであるが、その「学生」の意見は一般的な学生の意見でありうるのかということが問題になる。このとき「学生」とは何なのか、という問いが必要となるのと同様、そもそも「女」とは何なのか、という定義をめぐって論がたてられていく。

女という主体そのものが、もはや安定した永続的なものとは考えられなくなってきた……。「主体」ははたして究極的に表象されるもの、いや究極的に解放されるものとして存在するのかどうか、疑問をもつような材料が数多くあらわれてきた。

フーコーは、権力の法システムはまず主体を生産し、のちにそれを表象すると指摘した。権力を法制的な概念から見れば、権力は純粋に否定的なやり方で、ひとの政治的な生き方を規定しているようだ。

フェミニズムには普遍的な基盤があり、それは文化を横断して存在するアイデンティティのなかに見いだされると政治的に仮定した場合、それに伴ってよくなされる主張は、家父長制とか男支配という普遍的、覇権的構造のなかに、女の抑圧の単一な形態があるというものである。しかし、普遍的な家父長制という概念は、家父長制が見いだされる具体的な文化の文脈でジェンダーの抑圧がどのようにおこなわれているかをうまく説明できないために、最近ではあちこちで批判されるようになってきた。

(フェミニズムの理論は)……「第三世界」とか、さらには「オリエント」などというものを作りあげ、そこでなされるジェンダーの抑圧を本質主義的で、非西洋的な野蛮の兆候として巧妙に説明してしまう……。

中東やアフリカで、人権や民主化を推進する事は正しいことなのだろうか。国際的に真理としうる「女」像はあるのか。カント哲学における現象と物自体の差異の問題でもあろう。しかし、本書では女とは「実体」ではないものとして論が展開されていく。

フェミニズムが構築する主体の表象範囲を、フェミニズムがさらに拡げられると考えることは、「表象の主張自体に構造的な権力が宿る」ことを考慮に入れていないために、逆にフェミニズムの目標を失敗にさらすという、皮肉な結果を生むことになる。

「表象の主張自体に構造的な権力が宿る」……マイノリティ運動や反差別運動がしばしば陥る過ちであろう。一九五〇年代初頭のスターリン批判以来の問題である。

三 ジェンダー――現代の論争の不毛な循環

ジェンダーは、文脈によって異なる変化する現象なので、実体的な存在を意味するものではなく、ある特定の文化や歴史のなかの種々の関係が収束する相対的な点にすぎないものである。

ボーヴォワールによれば、女性蔑視の実存的な分析では、「主体」はつねにすでに普遍と融合した男であり、つまり、ひとであるための普遍的な規範のそとにいる女という《他者》から――すなわち「特殊」にしかなれず、身体的存在とされ、内在性を宣告された《他者》から――みずからを差異化している男なのである。

わたし自身はさきほど逆のことを言おうとしてきたのだが、ボーヴォワールは精神と身体の統合を提起しているときですら、この二分法を保持していると思われる。この区別を依然として保持しているということは、ボーヴォワールが過少評価している男根ロゴス中心主義のあらわれと読むことができる。プラトンから始まり、デカルト、フッサール、サルトルへとつづく哲学の伝統のなかでは、魂(意識、精神)と身体の存在論的な区別が、終始一貫して政治的、精神的な従属関係や階層秩序を支えてきた。精神は身体を従属させるだけでなく、ときとして身体からまったく逃げおおせるという幻想をもつことすらある。文化のなかで精神が男性的なものに、身体が女性的なものに結びつけられてきたことは、哲学とフェミニズムの資料によってじゅうぶんに裏づけられる。このような精神/身体の区別が、暗黙のジェンダーの階層秩序を慣習的に生みだし、温存し、理論化してきたがゆえに、この区別の無批判な再生産は、どのようなものであれ、ここでぜひ考えなおしてみる必要がある。

心身二元論の批判。日本でも仏教においてこのような面はあるだろう。存在論の問題に疑問を附している言説であり、魂や精神をどう扱っていくか、話が複雑化せざるをえなくなるところだろう。

四 二元体、一元体、そのかなたの理論化

実際に運動するに当たって、どのように統一をもたらすべきなのか、これまでの論点をくりかえし、問題点をまとめなおしている章。

五 アイデンティティ、セックス、実体の形而上学

ジェンダーは、セックスとジェンダーと欲望の三つの経験を統一した意味だというのなら、それは唯一、セックスがなんらかの意味でジェンダー(自己の精神的および/または文化的な呼称)と欲望(異性愛の欲望、つまり欲望の対象であるもう一つのジェンダーとの対立的な関係をとおしてそれ自身を差異化するもの)を必然的にともなうと考えた場合のみである。ということは、男女それぞれのジェンダーの内的一貫性や統一性には、安定した対立的な異性愛が必要であるということになる。この制度的な異性愛は、対立的で二元的なジェンダー制度のなかにジェンダーの可能性をもつような、各ジェンダーの単声性を必要とし、またそれを作りだしもする。

アイデンティティとは自己同一性のこと。人間の精神は不安定なものであろうが、ジェンダーの同一性には異性愛が必要だとしている。私が私であるためには、他者が他者でなければならない。男性――女性という対概念は、相補的な制度である。「女」の「実体」は存在しない。

……エルキュリーヌの読解をつうじてフーコーが提示しているのは、アイデンティティは文化的な制約を受ける秩序や階層の原理としてのみ、つまり規制のための虚構としてのみ措定されているにすぎないことをあばいてくれる、偶発的な属性をもつ存在(オントロジー)なのである。

アイデンティティは虚構であるとしている、問題提起的な所であろう。ニーチェ――デリダが実体の形而上学を批判したことに由来する。形而上学とは世界の背後に永遠不変の真理、ロゴスの世界が存在し、人間が住まう世界はこのロゴスの世界の投影された世界だとする考え方のこと。このような発想が人間の自由を抑圧し、「正しいジェンダー」といった観念を作り出すことを批判している。

六 言語、権力、置換戦略

ウィティッグなどフランスの唯物主義ブェミニストなら、性差は、物象化されたセックスの二極を精神を介在させずに繰り返すものだと言うだろうが、このような批判は、無意識という重要な次元――すなわち、抑圧されたセクシュアリティの場所として、主体の言説の内部に、主体の首尾一貫性を不可能にさせるものとして再登場するもの――を無視している。ローズがはっきりと指摘しているように、男性性/女性性という分離軸にそって首尾一貫した性的アイデンティティを構築しようとする行為は、かならず失敗する。……(父の法は、決定論的な神の意志としてではなく、永続的な失敗であり、たえず父への反乱の土壌を用意するものだと理解すべきである)。

……本書は、男の覇権と異性愛権力を支えている自然化され物象化されたジェンダー概念を撹乱し置換する可能性をつうじて思考をすすめ、かなたにユートピア・ヴィジョンをえがく戦略によってではなく、アイデンティティの基盤的な幻想となることでジェンダーを現在の位置にとどめようとする社会構築されたカテゴリーを、まさに流動化させ、攪乱、混乱させ、増殖させることによって、ジェンダー・トラブルを起しつづけていこうとするものである。

 ヘーゲルは自他の同一性と差異性の問題を絶対知の中に解消し、時間の中の同一性と差異性の問題をロゴスの中に回収した。様々な差異は大きな同一性へと歴史の中で回収されていくのだとした。これをデリダは批判し世界はテクストであると考える。そして、テクストを書いたのは誰かということは、決して人間は知ることができない。世界の始原あるいは終末の幻想を構築するのではなく、テクストとテクストのずれの中に世界の生成を見出そうとするのがデリダの「脱構築」のイメージであるが、バトラーの方法はこれに近い。

第2章 禁止、精神分析、異性愛マトリクスの生産

 レヴィ=ストロースの文化人類学による家族論と言語論を簡単にまとめた章。

換言すれば、花嫁は、男によって構成される集団をつなぐ関係項として機能するのである。花嫁はアイデンティティをもつことはなく、あるアイデンティティからべつのアイデンティティへと変わることもない。花嫁はまさにアイデンティティ不在の場所となることによって、男のアイデンティティを反映する。

ゼロ記号について。この文脈において、「女」は「存在しない」ということがいえるだろう。「三 ジェンダー――現代の論争の不毛な循環」で「ジェンダーは……相対的な点にすぎない」と述べていたことの理由にあたる。

「象徴的な思考が出現するには、女が言葉と同じように、交換される事物となることが必要だったはずだ」というレヴィ=ストロースの悪名高い主張は、レヴィ=ストロース自身が、現在から過去をみるという無色透明な観察者の立場に立って、想定されているだけの文化の普遍的構造から、その必然性を導きだしてきたことを示している。

《象徴界》として集合的に理解されている言語構造は、その構造を作動させる個々の語りの行為体(エイジェンシー)からかけ離れた存在論的全一性をもつものだが、他方で《法》は、あらゆる幼児が文化に参入する個別的な局面で、その《法》自身を再確認し、《法》自身を個体化していくものである。近親姦の禁止によって不満足が制定されるゆえに、発話が出現するのは、不満足という条件においてのみということになる。起源にある快楽(ジュイサンス)は、主体を基礎づける一次抑圧によって喪失させられる。そしてこの場所に記号がとってかわり、記号は、シニフィアンから遮断されると同時に、記号が意味する場所に、あの回復不能な快楽の回復を求めようとするものとなる。……言語は、満足させられることのない欲望の残余であり、そのべつの形の成就であり、けっして真には満足しない欲望の昇華を、文化が手を変え品を変え生産しているだけのものである。

人間は欠落を抱えていなければ、発話する必要がないのだろう。完全なもの、永遠なものを、人は生前や死後に夢見る。また、セックスへの欲望も、完全なもの永遠なものを求めてのものである。

二 ラカン、リヴィエール、仮装の戦略

ラカンの精神分析学を簡単にまとめた章。

《ファルス》――すなわち、一見して男に設定されている主体位置を反映し、保証するもの――は女である。そのような女は、ファルスで「ある」ために、男でないものになること、男でないもので「ある」ことが求められ(ただし「あたかもそうであるかのような身ぶりで」という意味においてだが)、男でないという、その欠如の位置につくことによって、男の本質的な機能をゆるぎないものにしなければならない。だから《ファルス》で「ある」ことは、男という主体「のために存在している」ことであり、男という主体は、この「~のために存在する」ものを認めることによってのみ、彼のアイデンティティをくりかえし確認し、増大させることができる。

他方、男は《ファルス》を「もって」おり、けっして《ファルス》で「ある」わけではないと言われている。というのもペニスは、そのような《法》と等価ではなく、《法》を十全に象徴化することができないからだ。だから《ファルス》を「もつ」位置も、《ファルス》で「ある」位置も、ラカンの文脈では、喜劇的な失敗として――だがそれにもかかわらず、その不可能性を繰り返し分節化し演じることを強制される喜劇的失敗として――結局は理解されることになる。

幼児は自己と他者を同一視した想像界にいる。幼児は母との関係のうちにあって、母の欲望の対象、つまり象徴的意味でのファルス=男根であろうとする。ところが父が介入してきて、これに対する禁止命令を出す。こうして母への欲望は抑圧され、父のもたらす社会的規範に従って自己を位置付けていかなければならなくなり、象徴界へと移行する。完全なもの永遠なものは、到達した瞬間に逃れさる。

三 フロイトおよびジェンダーのメランコリー

フロイトの精神分析学についてまとめた章。

他のどれにもまして近親姦タブーが、自我にとっては愛の対象の喪失の始まりであり、そしてタブーとされているこの欲望対象を内面化することによって自我がその喪失から立ち直ると理解されるなら、失った愛を内面化するこのプロセスは、ジェンダー形成の適切な要件となるだろう。異性愛の結合が禁止される場合、否定されるのは、欲望の対象だけで、欲望の様態ではない。つまり、欲望を反対のセックスのべつの対象に屈折する必要はない。だが同性愛の結合が禁止される場合には、欲望と対象の両方を断念することが求められ、それによってメランコリーの内面化戦略がとられることになる。

この辺りは村上春樹を論じるのに使えるだろう。自己と他者の合一を、未来のものとしてとらえるか、過去のものとしてとらえるかといった問題でもあろう。

フーコーが主張しているのは、起源であったり抑圧されたものであると見なされている欲望は、従属を強いる法の結果にすぎないということである。

……抑圧的な法は、異性愛を結果的に生産し、単に否定的で排他的な掟としてではなく、認可として、もっと適切な言葉をつかえば、語りうるものと語りえないものを区分する(語りえない領域を枠づけ、それを構築する)、または合法的なものと非合法的なものを区分する言説の法としてはたらくものである。

フーコーの『性の歴史』が使われている。

四 ジェンダーの複合性、同一化の限界

欲望の戦略は、或る意味で身体を、欲望する身体に変えていくことである。事実、ともかくも欲望するためには、想像上のジェンダー規則に照らして欲望をもちうる身体要件を満たすように変えられた身体自我を信じることが必要になる。

父への愛はペニスに蓄えられ、何によっても動じない否定によって保護され、そのペニスに集中することになった欲望は、絶え間ない否定を、その構造と役割にもつことになる。事実、〈対象としての女〉の存在は、男が同性愛の欲望をけっして感じたことがないだけでなく、その喪失を悲しんだこともないことを示す記号なのである。事実〈記号としての女〉は、異性愛を綻びのないものとして聖化するために、異性愛よりまえの性の歴史を効果的に追い払い、それを隠蔽するよう要請されているものなのだ。

身体論。味わい深い記述である。身体が精神を規定するのではなく、文化や精神が身体を規定する、という発想である。
 人間は本能の壊れた生き物である。男女の交わりを本能だと考えるのは誤りである。本来の生物は生殖以外の目的で無駄にセックスをしたりはしない。セックスは言語的で文化的なものである。

五 権力としての禁止の再考

《象徴界》のなかの「理解可能な」存在は、欲望の制度化とその不満足の両方――母なる身体に関連する始原的な快楽と欲求を抑圧したためにおこる必然の結果――を求めるものである。けっして得られないものとして欲望のなかに出没するこの完全な快楽は、法のまえの回復不能な快楽の記憶である。

快楽に溢れた「かなた」を認めることは、本質的に変化しえない《象徴界》の秩序を引きあいに出してはじめて可能となる。事実、《象徴界》や欲望や性差の制度というドラマは、文化的な理解可能性の内部で〈思考できるもの〉と〈思考できないもの〉をしるしづけて分類するときに権力を行使している自己支持的な意味機構だと解釈しなければならない。文化の「まえ」にあるのものと、文化の「なか」にあるものを区別することは、文化の種々の可能性をはじめから締め出しておく方法なのだ。「現象の順序」や記述の基盤にある時間性は、それが主体のなかに分裂を、欲望のなかに不満足を導き入れることで語りの首尾一貫性に疑義をつきつけているが、そうすることで逆に、時間的な説明のレベルでの首尾一貫性を再制定してしまうことになる。その結果、この語りの戦略は、回復不能な起源と永遠に置換される現在との区分にいつまでもかかずらわって、攪乱の名でその起源を回復しようとするあらゆる試みをつねに遅延させるのである。

ラカン、フーコー、レヴィ=ストロース、デリダといった参照先から考えても、バトラーの論は、構造主義思想に多く依拠しているようだ。
マルクス主義は、歴史はらせん的に発展して、やがては理想的未来社会が訪れると考えた。この考え方は、自己の組織は客観を獲得しているが、他の組織はいまだ主観にとまどっているとし、客観主義の立場からの他の組織への攻撃を生み、また、マルクス主義の運動に参加しない他者を、倫理的な面から批判する傾向を、マルクス主義運動にもたらした。マルクス主義におけるこのような歴史主義を批判するのが構造主義の立場である。
 構造主義は社会運動への視野を基本的に持たないのだが、バトラーは倫理的な運動のことを視野に入れて論を立てている点で、さすがだと思う。

第3章 攪乱的な身体行為

一 ジュリア・クリスティヴァの身体の政治

原記号界(セミオティック)についてのクリスティヴァの言語理論は、一見してラカンの前提に切り込み、その限界をあばき、言語の内部で父の法を攪乱する地点として、とくに女の位置を打ち出そうとしているようにみえる。ラカンによれば、父の法は《象徴界》と名づけられ、言語による意味づけのすべてを構造化するものである。したがってそれは、文化そのものを全般的に組織化する原理でもある。この法は、母の身体への幼児の根源的な依存をふくむ一次的なリビドー欲動を抑圧することによって、有意味な言語、すなわち有意味な経験の可能性を作りだす。ゆえに《象徴界》が可能になるのは、母の身体とのあいだに結ばれていた一次的な関係を断念することによってである。この抑圧の結果、誕生する「主体」は、抑圧の法の担い手となり、その提示者となる。母への初期依存の特徴をなすリビドーの混沌は、法によって構造化される言語を有する統一的な行為者(エイジェント)によって、完全に抑えこまれる。逆に言えば、そのような言葉は、多様な意味(母の身体との一次的な関係を特徴づけるリビドーの多様性をつねに想起させるもの)を抑制し、その場所に、単声的で明確に区分された意味をおき、世界を構造化していくのである。

原記号界(セミオティック)……幼児の時期、人間はこの世界にいる。「母の身体」への一次的なリビドー欲動が特徴。

《象徴界》……リビドー欲動(→フロイト)を抑圧することにより、「主体と禁止の法」(→ヘーゲル)を形成する。リビドーの混沌は多様な「意味」(シニフィエ→ソシュール)をうみだすが、これを単声的な「意味」にとってかえることで初めて、人間は「経験」(→カント)が可能になる(経験可能領域→大澤真幸)。単声的なシニフィアンやアイデンティティの法則を「ロゴス」が代表する。

抑圧されたリビドーは、詩的言語をうみだし、文化を転覆させる地点となる、可能性を秘めている。詩的言語は母の領域への回帰を示す。首尾一貫し明確に区分されたアイデンティティは喪失し、リビドーへの依存と、同性愛や近親姦その他の異常性愛をまねく。

バトラーはクリステヴァとラカンを批判する。
1 母の身体への一次的なリビドー欲動は、実はない。
2 リビドーは精神病や生活の破綻をもたらす(→正しいと私も思う)。

事実、母性という制度を支えている欲望が、父のまえにあり、文化のまえにある欲動と考えられて、その位置が逆転されるとき、母性という制度は女の身体という不変の構造のなかに、永遠の合法化を得るのである。

父の法の拘束から自由であるはずの女の身体は、じつはその法のべつの形の具象化でしかなく、攪乱的であると同時に、その法の自己拡大と増殖に貢献するものであるとみなすのが適切であろう。被抑圧者の名で抑圧者を解放することを避けるために、法の複雑さや巧妙さを完全に把握し、法のかなたの本物の身体という幻想から脱却することが必要なのである。もしも攪乱が可能となるなら、それは法の次元のなかからの攪乱であり、法が法自体に挑戦し、それ自身の予期しない組み合わせをおびただしく生産する可能性をつうじてなのである。そのとき文化によって構築される身体は、「自然な」過去や始原的な快楽に向かってではなく、文化の可能性という開かれた未来に向かって、解き放たれることになるだろう。

まっとうな意見である。

二 フーコー、エルキュリーヌ、セックスの不連続の政治

sex……生物学的な面における性
gender……文化的な面における性
sexuality……性欲

フーコー『性(sexuality)の歴史』より

フーコーは解放としてのエロスという幻想を捨て、セクシャリティを、権力にどっぷり浸かったものと理解する。

ひとはあるセックスであり、べつのセックスではないという、「セックス」の単声的構築は

(a)セクシャリティの社会規制と管理をつうじて生産される。
(b)さまざまな性機能は隠蔽され、人為的にひとつに統合される。
(c)あらゆる様態の感情や快楽や欲望をそのセックス特有のものとして作り上げる。
つまり↓
「身体の快楽は、セックス特有の本質をその原因とするものではなく、むしろその種の「セックス」の表出とか記号として解釈可能なものになっているにすぎない」。

快楽は身体からくるのではなく、記号からくる。性的快楽は文化的なものである、という主張である。私は高校生のころから性的快楽は大脳的なものだと考えていたが、この考えを裏づけられたようで、興味深い。知人が、「セックスなんて誰とやっても一緒だよ」と言っていて、そんなものかなと思ったことがあった。オナニーとセックスとの差異や、ある他人と交わした性愛と、またべつの他人と交わした性愛との間に個人が感じる差異を決定するのは、当人にとっての社会的ないしは個人的価値観に由来する、ということがあるだろう。

(わたしのいいたいことは)ノーマルな性生活を擁護する主張を相対化しようとして、例外や一風変わったものに頼るということではない。

ただ一度限りでセックスを決定し、しかもそのセックス以外のものではないと決定したいという願望がなぜ生じるかというと、もう一つのセックスとの関係で性別化される身体という、明確で単声的なアイデンティティや位置をとおして、生殖を社会的に組織化しようとする制度があるからだ。

なぜ通常の異性愛以外の性愛および性を取りあげるのか、理由を述べた部分。

三 モニク・ウィティッグ――身体の解体と架空のセックス

ウィティッグの主張
一、セックスのカテゴリーは不変でも自然でもなく、生殖のセクシュアリティという目的に寄与するために自然というカテゴリーを利用するきわめて政治的なものである。

二 女は男との二元的で対立的な関係を安定化し、強化する項目として存在するにすぎない。このような関係が異性愛である。しかし、レズビアンは女でも男でもなく、メスでもなく、セックスを超えている。
「セックス」のような言説のカテゴリーは物象化された「現実」を生みだす抽象名辞である。知覚によって感得される身体に先立つ「物理的」身体はあるのか。セックスのカテゴリーのもとに集められる属性や「特徴」は胡散臭い。ペニスや膣や胸などを性的部分として名づけることは、性感的な身体をその部位に限定してしまうと同時に、全体としては身体の断片化をおこなってしまうことである。

「ひとは女に生まれない、女になる」というボーヴォワールの考えをすすめて、ウイティッグは、ひと(すべてのひと?)は女にならないで、レズビアンになることができると主張する。ウイティッグのレズビアン・フェミニズムは、女というカテゴリーを否定することによって、異性愛の女とのすべての連帯を遮断し、レズビアニズムはフェミニズムを論理的に政治的に突き詰めた必然の帰結だと暗に語っているようだ。この種の分離主義的な規定主義は、たしかにもはや実行可能なものでない。だがたとえそれが政治的に望ましいものだとしても、「性的アイデンティティ」に関する問題を解決するために、いったいどんな規定的な基準(クライテリア)がいまだに使えると言うのか。

(ウイティッグは) 同性愛者の視点は(そのようなものがあるとして)現実から排除されているゆえに、現実がそもそも一連の排除、現れ出ることのない周縁、姿を表さない不在によって構築されていることを、当然、理解するものだと言う。だがそれと同じ排除の手段をつかってゲイ/レズビアンのアイデンティティを構築するとしたら、それは何という悲劇的な過ちとなろう――あたかもゲイ/レズビアンのアイデンティティの構築には、排除される者がその排除自体によって前提とされ、さらには必要とされるかのように。皮肉なことにそのような排除は、それが克服しようとしている根本的な依存関係を制定してしまうものである。みずからを異性愛から根本的に排除されたものと定義するならば、そのようなレズビアニズムは、レズビアニズムを部分的に必然的に構築している異性愛の構築を意味づけなおす能力を、みずから失ってしまうことになる。その結果レズビアンの戦略は、強制的異性愛を抑圧形態のまま強化することになってしまうのだ。
 それよりも狡猾で効果的な戦略は、アイデンティティのカテゴリーを完全に奪い取り(アプロプリエイト)、再配備することであり、それによって単に「セックス」を疑問に付すだけでなく、「アイデンティティ」の場所に多様なセックスの言説が集中している様子を明らかにし、そうして、アイデンティティというカテゴリーが――たとえどのような形態を取るにしても――永遠に問題がらみのものだということを示すことである。

支配――服従の関係から逃れた先で、再び支配――服従の世界に陥る事はよくあることであろう。男―女が悪だとし、女―女が善だとしたしたとしても、そこに再び依存が成立してしまい得る。


四 身体への書き込み、パフォーマティブな攪乱

安定した身体輪郭を構築するには、身体の浸透性と非浸透性の領域がはっきりと区別されていなければならない。同性愛の文脈であれ、異性愛の文脈であれ、表面や穴をエロスの新しい意味づけに向かって開いたり閉じたりする性実践は、新しい文化の輪郭にそって身体の境界を記述しなおすことである。

性的な汚濁という考え方に関して、「総称としての身体」という自然化された概念こそ、安定した境界という考え方で、身体を明確に区別しようとするタブーの結果である。

「おぞましきもの(アブジェクト)」とは、身体から放逐され、汚物として排泄され、文字どおり「《他者》」とみなされているものである。これは異質な要素の排除のように見えるが、異質なものは、この排除によって結果的に打ち立てられる。「わたし‐でない」ものを「おぞましきもの」として構築することは、主体の最初の輪郭である身体境界を確立することでもある。

○ラカンの対象a
糞便と同じで、性愛のおぞましさと快楽は、身体表面の自他の境界が融解し反転することからうまれる。

セックス、セクシャリティ、肌の色、人種といった文化的に覇権的なアイデンティティは、この糞便と同じような仕方で、自己から他者をよりわけ、放逐し、嫌悪する。アイデンティティは嫌悪によって、強化される。

主体の「内部」の世界と「外部」の世界を分けることで構築されるものは、社会的な規制や管理をおこなうために漠然と保持されている境界なのである。内部と外部の境界は、内部が結果的には外部になるような排便の通過によって混乱し、この排便機能は、アイデンティティの差異化のべつの形態を打ち立てるときの、いわばモデルとなる。

→排便はバトラーの肯定するアイデンティティの例。

身体の表面の内部と外部の境界は、排便により必ず破られる。

内部と外部の二元論的区分は言語の次元のものである。主体の安定性や一貫性を定めるのは、「おぞましきもの」を差異化する文化の秩序である。

「内部の世界」が場所を意味しなくなれば、自己の内的安定性や、ジェンダー・アイデンティティの内的空間はあやしくなる。
公的言説のどんな戦略的位置のために、理由のために、内面というたとえや、内部/外部の二元論が定着してきたかが重要である。

内面は欲望と関わる。公的なものが内面と欲望を作る。(ニーチェ『道徳の系譜』、フーコー『監獄の誕生』)

精神は、権力の作用によって身体のまわりやうえやなかに、永遠に作られていく。
精神は身体によって、身体のなかに幽閉されているものではない。法や権力が「書き込み」した精神こそが、身体の拡がりや感覚を、規定している。

重要なことは、もしもジェンダーが内的に不整合な行為によって制定されるものなら、実体という外見は、構築されたアイデンティティやパフォーマティヴな達成にすぎず、演技者を含む一般人がその信仰モードを信じ、その信仰モードにしたがって演じるようになったというにすぎない。またジェンダーは、けっして完全に内面化することができない規範でもある。なぜなら「内面」は表面に書かれる意味であり、ジェンダーの規範は結局、幻であって、具象化することが不可能なものであるからだ。もしもジェンダー・アイデンティティの基盤が、時をつうじて繰り返される様式的な反復行為であり、継ぎ目がないアイデンティティでないならば、「基盤」という空間的なメタファーは、じつはそれが様式的な配置――実際には、その時代のジェンダーの身体化――にすぎないものであることが明らかにされ、放逐される必要があるだろう。

ジェンダー化された永続的な自己とはアイデンティティの実体的な基盤の理想に近づくように、反復行為によって構造化されたもの。反復行為の失敗のなか、パロディ的な反復のなか、奇‐形のなかに、アイデンティティとは政治的機構にすぎないことを暴く可能性がある。

結論 パロディから政治へ

・人間は実存的にあるのではなく、他者のなかで、他者をつうじて、言説によって各人さまざまに自己を構築していく。

・「男・女」とは主体のアイデンティティを構成する文化的な述部。この述部は無限にあり、この無限性が、フェミニズムの政治の理論化に新しい出発点を与える。

・「わたし」と「他者」との二元論的な言語的分離が、反復的に意味づけされる。アイデンティティの攪乱が可能になるのはこの反復的な意味づけの内部でこそだ。

・セックスとはジェンダーを、文化の書き込みの行為として機能させるための、物質的身体的基盤である。

・身体の表面が自然として演じられるのなら、同時にその表面は、自然がパフォーマティブでしかないことを明らかにする脱自然化されたパフォーマンスの場となる。

・ジェンダーは政治的に強化されたパフォーマティヴィティの結果であるが、「自然」の誇張表現に向かって開かれている「行為」でもあり、その誇張によって、ジェンダーが幻影であることを明らかにする。

・アイデンティティの脱構築は政治の脱構築ではなくて、アイデンティティが分節化される条件を政治的なものとみなすということである。

・アイデンティティを政治機構の前提として固定すべきでない。
政治を二元論的な主体の利権から行ってはいけない。

・そうすることでセックスの二元論の不自然さをあばき、不自然さと戦い、ジェンダーを脱自然化していくべきだ。

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それぞれの章で、一人の論者の論を取り上げていく。バトラーの文章は、それらの論を肯定しているか否定しているか分かりにくいところがある。肯定と否定のまんなかをとるというのが、二元論批判の根幹ともつながり、難解な印象を与える文体になっている。
 ある人が男であるとか女であるとかいった観念は、言語に規定されたものである。しかし、言語を本当の世界だと考えるのは早計である。言語には必ず同一性が絡みつき、これが人々を固定観念へとしばりつけ、世界を二元論的に把握させる。しかし、言語には必ず矛盾が含まれる。デリダはここに「差延」の可能性を見出した。バトラーのいうジェンダートラブルとは恐らく、この矛盾を拡大させる運動である。
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