三島由紀夫『仮面の告白』 

仮面の告白仮面の告白
(1950/06)
三島 由紀夫

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 三島由紀夫の『仮面の告白』(一九四九)について論ずる。まず、タイトルに関する考察から始める。「仮面」とは何であり、「告白」とはどのような行為であり、また、どのような条件に引き起こされて行われるものなのか。まず、そもそも、「告白」を行うためには、他人の眼にはさらされない「内面」というものを、告白を行う個人が抱えている必要があるだろう。この自明にも思える「内面と告白」という前提にも、分析すべき課題が含まれていることだろう。



ある人物が、「他人に告白しえない内面を抱えている」とする。このとき、一般に、どのような外部の状況に由来し、他者には理解できない「内面」を抱えるようになるものなのだろうか。とっかかりとして、人間の発達段階について考える。人間は、その生誕の直後、内面といえる内面を持たない。赤ちゃんは、自他の分離が不完全で、自己の生命を自己だけでは管理できない。そして、いくらか成長した子供も、心の中で思ったことと、自己の表現が直結しがちである。しかし、思春期のころ、気持ちや心というものを他人に対して閉ざすことが行えるようになる。そうすることで、他人とは異なる自己特有の自己を、自己の中に醸造する。自己の欲求や、心の中にある対他的な感情を、客観的に眺め、反省し、掘り下げることができるようになり、思慮深くなっていく。人間が成長の過程で身につけていく智慧は、豊かな内面を育むことにつながっていく。
 内面を持つことは、それを告白する可能性を内包する。しかし、いったん、一群の文章としての告白が提出されたとする。そのとき、その告白の言葉は、ある種の他人から見えるものとしての、「外面」へと転じると、いえるだろう。 あるいは逆に、そのように提出された一群の言葉から、遡行し、仮構して人は「内面」というものを想像するのではないだろうか。
 そもそも、内面とは、時代と国境を越えて、あらゆる人間に、遍く存する性質だといえるものだろうか。人間は、誰しも、他人に告白しえない、自分だけが知っている自己というものや、墓場まで一人で持って行くような秘密を抱えているということが、いえるだろうか。
 社会的な関係において、「私」は様々な顔を持つ。「私」は、職場や公的な場で、他人にとっての「私」として存在する。 対他的な自己は、場の文脈に規定された「私」を持ち、見る存在というよりも、見られる存在としての生を送る。ここに外面としての「私」がある。半ばは他人に自己を譲り、欲望や欲求といったものを私的な内面に押し込める。
 一方、一人でいるときの「私」に、内面としての「私」が表れる。 そこには、過去の自己と今の自己、未来の自己と今の自己との対話が生じることもあるだろう。そもそも、自己の所属する何らかの具体的共同体における自己と、別の共同体における自己とで、自己のありかたに乖離を起こすことは多くあるだろう。ある他人に接したときの「私」と、別の他人に接したときの「私」で、同一性が保たれるという保証はない。共同体から共同体への飛び越えを行うときに、「私」にとっての「私」の像が壊れうる。
しかし、通時的な時間の流れの中で、「私」の意識は存続していく。過去の「私」と現在の「私」を統合しようとする働きにおいて、自己内部での対話が生ずるとき、「私の内面」という問題が生じてくる。様々な社会的場面で、多様な他者の視線と接するごとに、「私」は分裂しゆくが、これに対し、自我を同一的なものへと統合する働きが、一人きりの時に、「内面」において繰り広げられることになる。

 「永いあいだ、私は自分が生れたときの光景を見たことがあると言い張っていた」と、『仮面の告白』は始まる。「私」の意見を周囲のおとなは訝しげに受け止める。幼年期の「私」にとって、「周囲による意見」と「自己の見たもの」は、決して折り合わない二項対立として、提示されている。「私」の訴えは嘘であるのか、本当であるのか。しかし、真偽の判定は、あるいは無用なのかもしれない。
告白とは、他者へと奪われていた真実を、取り返そうとする行為であると一つにはいえよう。客観的事実がどうなのかを問うことなくこの状況を考えてみる。「私」にとって、周囲には否定されるけれども、「私」だけが正しいと思える意見があり、その意見の主張自体が、他の誰でもない「自己」を作り出す目的の結果なのではないか。そして、物語の語り手の現在において、このような「告白」をなす地点で、「私」にとっての「私」という自意識が、確立していくことになる。〈周囲による意見/自己の見たもの〉という決して折り合わぬ二項対立は、語り手の「私」にとって、生まれたときに始まり、「語り」の行われる最後まで、尾を引いていくのだろう。
「告白」というものが「本心の吐露」であるともしも簡潔に定義するなら、「仮面」という言葉は何を意味するのか。仮面を被る行為は、虚をもって自己を飾ることであろう。あるいは他人の顔をした面を、自己のものとして装着する行為であるかもしれない。自分が生れたときの光景を見たことがあるという意見は、すでにそこに、外在的、合理的には虚であるかもしれないという他者の反論を生み出す可能性がはらまれる。そのことを理解しつつも、あえてその主張を強気に通している。〈虚偽の仮面/真実の告白〉という二項対立の矛盾は、謎めいた形のまま、展開されていく。
 第一章では松旭斎天勝の真似をして着物を着、化粧をする幼年時の体験も語られる。仮面をかぶる動作であり、対他的に自己を虚飾する欲望の表れの一つであろう。このような欲望は、必ずしも風変わりなものでもなく、そもそも、「飾る」という自然的ではない、人為的行為から、文化や美というものが発生してくるものだろう。
 糞尿汲取人に対し、「私が彼になりたい」、「私が彼でありたい」という欲求を抱いたことも明かされる。彼が「身を挺してい」て、「悲劇的なもの」である点において、練兵からかえる兵士達への憧れへともオーバーラップされ、死へと向うものに、惹きつけられる気持ちをはらみつつ、第二章冒頭での、聖セバスチャンにより招かれた、射精の挿話へと連結していく。語り手の「私」の想像にとって、欲情の対象は、痛めつけられた男性である。このこととも関わるが、中学二年生のときに「私」が出会った、「近江」への恋について考える。近江に関する、もっとも重要な記述は、次のようなところにあるのではないだろうか。

誰が彼から「内面」を期待しえたろう。彼に期待しうるものは、われわれが遠い過去へ置き忘れて来たあの知られざる完全さの模型だけであった。
気まぐれに、彼が私の読んでいる・年に似合わぬ賢しげな書物をのぞきに来ることがあった。私はたいていあいまいな微笑でその本を隠した。羞恥からではなかった。彼が書物なんかに興味を持つこと、そこで彼が不手際を見せること、彼が自分の無意識な完全さを厭うようになること、こうしたあらゆる予測が私には辛いからだった。

見える部分がすべてとも言えそうな近江と、告白できぬ内面を持つ「私」が、対照的に浮かび上がっている。近江にとって、「私」がどういう人物であるかは、作中の記述からは必ずしも明瞭ではないが、おそらく、近江にとって「私」は、欲情の対象ではないだろう。しかし、私にとって近江は欲情の対象である。欲情する対象が同姓か異性かということは、それほど問題ではない。それよりも、「私」の持つ欲求と敬慕の一方向性が重要なのではないか。まさにここに「私」の躓きがあり、決して届かぬ「片想い」であるという点で、「私」のマゾヒズムが見出される。それと同時に、欲求の対象として、近江の映像を一方向的に視姦する点で、サディズム的なものもまた、ここに介在していないだろうか。マゾヒズムとサディズムは、語り手の「私」のなかに、相矛盾する一つのものとして、同居していそうである。
二章の末尾に置かれた、同級生を料理し、切り刻む「官能的な」空想は印象的である。〈空想/現実〉、〈欲求の対象/私〉という二項対立は、決して統合しえぬ、到達し得ぬものであるからこそ、永遠の美として保持されるのだろう。
 今一度、「内面と告白」の問題について考える。『仮面の告白』第三章には、次のような記述がある。

 もとより劣等生という存在は先天的な素質によるものながら、私は人並の学級へ昇りたいために姑息な手段をとったのだった。つまり内容もわからずに、友達の答案を試験中にこっそり敷写しをして、そしらぬ顔でそれを提出するという手段であった。カンニングよりももっと知恵のない・もっと図々しいこの方法が、時として見かけの成功を収める場合がある。彼は上の学級へのぼる。下の学級でマスターされた知識を前提にして、授業は進行し、彼にだけは皆目わからない。授業をきいたって何もわからない。そこで彼のゆく道は二つしかなくなってしまう。一つはグレることであり、一つは懸命に知っているように装うことである。どちらへ行くかは彼の弱さと勇気の質が決定する問題であり、量が決定するのではない。

このようなカンニングに関する一つの言及をとってみても、「内面の告白」に関する様々な屈託を想定できる。
カンニングをどう評価するかという問題について考えたい。 わたしは中国の科挙における事例などを想起するが、カンニングを試みるものは、いつの世にもどんな場所にも一定数生じることだろう。
たとえば、子供に対する周囲の圧迫が強ければ強いほど、そういった傾向も出やすくなりそうだ。一度、「嘘をつく癖」がついてしまうと、その性癖が本性的に身についてしまうかもしれない。しかしたとえば、カンニングであるとか、万引きであるとか、そういったたぐいのことを行おうという自己判断が宿ったときこそ、その個人に「内面」や「自我」というものが芽生える、ということがありはしないか。
これらの行為は「周囲との取り決め」を守らず、他人の手を振り払って、自己の利益へと走ることに、他者に批判されうる点が生まれる。そして、他者との信頼関係を作り出せない人間は、共同体から疎外されていく。西洋における、「神」とは異なり、 日本では、そのような罪を犯した個人に対する罰は、「村八分」などといった、五人組的な共同体による制裁があり、「恥」の原理が共同体の秩序を作り出す。
「悪を行うこと」や、「他人にとっての理解を拒絶する、自分だけの秘密を抱えること」は、それ自体、どんな他人でもない「自己」を作り出す行為である。「カンニングするもの」と「カンニングされるもの」の関係は、一度タガが外れてしまうと、信頼関係の過剰の悪化が進む場合もあるだろう。翻って考えて見れば、「仮面の告白」の語り手が感じているであろう劣等感は、相当なものであろう。

 語り手の「私」は同級生と、バスの女車掌について「冷淡な好色家」めいた風貌を装い猥談をする。それは、異性への先天的な羞恥心をもっていないことに由来するのだと、語り手の「私」は自注をいれる。語り手の「私」は繰り返し自己の性欲が正常と異なることを述べる。たとえば同級生たちを次のように評す。「かれらは「女」という字から異常な刺戟をうけるもののようであった。」精神分析学的にどうこうということとは別の問題として、異性から隔絶されてあることが「私」を「私」たらしめる、オリジナリティの中心となっていて、結ばれ合えぬ〈自己/他者〉の関係を表示しているのではないだろうか。
 
 やがて接吻の固定観念が、一つの唇に定着した。それはただ、そのほうが空想を由緒ありげにみせるというだけの動機からではなかったろうか。欲望でも何でもないのに、私がしゃにむにそれを欲望と信じようとしたことは前にも述べたとおりだ。私はつまり、それをどうでも欲望と信じたいという不条理な欲望を、本来の欲望ととりちがえていたのである。私は私でありたくないという烈しい不可能な欲望を、世の人のあの性慾、彼が彼自身であるところからわきおこるあの欲望と、とりちがえていたのである。

「私は私でありたくないという烈しい不可能な欲望」こそが、この作品の語り手にとっての、第一等の価値なのだと疑われる。

 第三章からは語り手の友人、草野の妹である「園子」が登場する。「私」は同性への欲情を持ちつつも、異性たる園子へと接近する背理が描き出されていく。語り手の「私」は死に憧れ、死を待ちかねるという主張を繰り返すにもかかわらず、徴兵を厭う。爆撃の罹災者の目前で、被災を免れ、園子と共にかれらを眺める。語り手の「私」は、〈災厄/日常〉〈見られる/見る〉〈私/園子〉〈劣等感/優越感〉〈死/生〉といった、二項のなかに引き裂かれてある。
 園子に同行するとき、「私」が園子の荷物を持つ話がさしはさまれている。この行為は作中でいくらか強調されているが、相手に自己の労働力を譲り、援助をなすことは、対他的関係を円滑にする、接着剤のようなものとなろう。しかし、語り手の「私」にとって、譲り合いの精神が作り出す共同体のなかへと巻き込まれることは、苦痛であったのだろう。草野一家にとっての「私」の像と、「私」にとっての「私」の像の間にある齟齬は、「公的なもの」と「私的なもの」の対立のごとく、遠く切り離されている。
「私」が語る園子との、恋愛ならぬ恋愛に関する物語は、同性愛者による異性愛の不能という事件の告白だという面を、総体として持つ。しかし、ここには「自然」に反する「人為」の抵抗も見られる。個人の自由意志は果してどのような位置に可能なのかという実験を、語り手の「私」は行っていはしないか。そのように考えれば、肯定的な評をくみ出せよう。
否定的にも考えてみる。「私」は園子との接吻を「義務」とし、「愛も欲望もあったものではなかった」と評する。園子を「見るもの」となす「私」の気持ちは、一方通行的である。「私」のやり方は卑怯であり、近江との関係のように、サドマゾがかった、意識のなかのみの、双方向的でない関係にすぎない。
また、園子の側でも、このような感慨を「私」へと抱かせた時点で、敗北していたのではないか。語り手の「私」の外界にとどまり、「私」の内面へと飛び越む力を持ち得ないところに、園子というヒロインの魅力のなさが、露呈してはいないだろうか。これらの、交錯しえぬ二人の関係は、結局、悲劇ととらえるしかないのだろうか。

第三章の末尾で、戦争が終わり、「日常」が始まる。「私」は「肉の欲望」がないにもかかわらず、園子に会うことを望む。

皮相な言い方をするならば、霊はなお園子の所有に属していた。私は霊肉相剋という中世風な図式を簡単に信じるわけにはゆかないが、説明の便宜のためにこう言うのである。私にあってはこの二つのものの分裂は単純で直截だった。園子は私の正常さへの愛、霊的なものへの愛、永遠なものへの愛の化身のように思われた。

 「私」にとって、肉の愛は同性に対してあるが、園子への愛は霊的なものである。このような「告白」は、ほとんど神への告白に似たものだ。もともと、「額田の家とは正反対な清教徒風な草野の家」の出身者となされていた園子であるが、園子の受洗すら結末では匂わされている。
 九鬼周造は『いきの構造』(一九三〇)で、「いき」という概念について、次のように解説をしている。「いき」の第一の徴表は異性に対する「媚態」であり、第二の徴表は武士道の理想である「意気」すなわち「意気地」であり、第三の徴表は仏教的な「諦め」であるのだと。これらの混交したものが「いき」なのだとしているが、次のような文章が興味深い。
「媚態とは、一元的の自己が自己に対して異性を措定し、自己と異性との間に可能的関係を構成する二元的態度である。」「そうしてこの二元的可能性は媚態の原本的存在規定であって、異性が完全なる合同を遂げて緊張性を失う場合には媚態はおのずから消滅する。媚態は異性の征服を仮想的目的とし、目的の実現とともに消滅の運命をもったものである。」
 「私」と「園子」の関係は、交わるようで交わらず、二元的に切り離されている。ここに、「いき」な美意識を見いだすこともできるだろう。「私」の園子に対する優越感と劣等感は、崇高な対象への両価的な感情に彩られている。
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