レヴィ=ストロース『悲しき熱帯』 

悲しき熱帯〈1〉 (中公クラシックス)悲しき熱帯〈1〉 (中公クラシックス)
(2001/04)
レヴィ=ストロース

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『野生の思考』のような、科学的(?)な理論書と比べて、エッセイ風の文体で綴られていてはるかに読みやすい
ルソーの『人間不平等起源論』、『言語起源論』では、「自然状態」という概念が極めて重要である
ルソーは「自然状態」を考察するために、未開人についての文献を重視し、未開人と現代人の比較から、社会分析を行う
ルソーのものは、インテリによる書斎内での推論である
実地での研究をなしておらず、理論的にきれいすぎるところが、いくぶんかある

一方、『悲しき熱帯』でレヴィ=ストロースは、コロンビアに長期間滞在し、先住民の文化調査を行うことで、「自然状態」の考察をなしている
民族学のフィールドワークを文学的にまとめている
8割方は、旅行中に出会った出来事や、見聞をまとめた「紀行文」風なもの
旅人の見た風景や異文化の体験を単純に記述したものなら、レヴィ=ストロース以降、多くの作品が書かれていることだろう
『悲しき熱帯』の8割分は「古典」でありそう
でも、どこかしら、ひっかかる部分がある


悲しき熱帯〈2〉 (中公クラシックス)悲しき熱帯〈2〉 (中公クラシックス)
(2001/05)
レヴィ=ストロース

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『悲しき熱帯』のテキストに、多く登場する言葉ではないけれども
「自然状態」と「社会状態」
この二つの分析が、重要である
もちろん、「純粋な自然状態」というものは、ルソーもレヴィ=ストロースも、存在しないと考えている
それはは仮説上のものだ
ただ、未開社会には、現代社会とは異なる生活と、文化があるのは確かだ
それを分析し考察することで、現代社会とは異なる社会を、人為的に構想する鍵が与えられるのである

◎論点
・ジェンダー論
現代思想ではジェンダー論が花盛りだ
『悲しき熱帯』に見られるような、未開社会での男性と女性との関係を考察することで、男とは何か、女とは何か、その本質へと交錯する様々なヒントが得られそうである

・文字
未開社会には「文字」がある社会と、ない社会がある
「文字」はどのように誕生したのか
この件に関してはウィキペディアにあった、次の項目が気になるところだ

「橋爪大三郎の分析によると、

ジャック・デリダは従来のパロール(話し言葉)中心の言語分析(ロゴス中心主義、音声中心主義と称される)に反対し、エクリチュール(文字)を重視せよと主張していた。
そのデリダから見ると、レヴィ=ストロースは音韻論を人類学に持ち込み、なおかつ社会が出来てから文字が出来るという後成説を採っているので、デリダの批判するロゴス中心主義者と写る。
そのためデリダはレヴィ=ストロースを批判したとされる。

しかし同じく橋爪大三郎の指摘によれば、レヴィ=ストロースの主張とデリダの批判の間には噛み合ってない部分が多く、またレヴィ=ストロースの専門(人類学)とデリダの専門(言語分析)は必ずしも矛盾しないとしされ、すなわちデリダによる批判にはやや的外れな点が含まれるとされる。」

デリダによれば、「社会が出来てから文字が出来る」というレヴィ=ストロースの発想は、ロゴス中心主義であり誤りであると
橋爪のデリダ批判も、読んでおきたいところだ

(○ウィキペディアの記述として気になるところをいくつかメモしておこう

・学生時代に社会主義運動をしていた
・言語学者・民俗学者のロマン・ヤコブソンから「構造言語学の方法論、とりわけ音韻論(音素およびその二項対立的な組成、さらにゼロ音素の概念など)の発想を学び、ブラジルでのフィールドワークにおいて漠然とした着想を得ていた、親族構造論の骨格として活用」した
・「言語学とりわけ、ソシュールからヤコブソンへといたる構造言語学における音韻論および、フランス社会学年報派、とりわけデュルケムの流れを汲む社会学者マルセル・モースの社会学=人類学思想の2つ」から大きな影響を受けている
・「1945年の論文『言語学と人類学における構造分析』において、音韻論的な二項対立を活用して親族組織を分類するための基礎的な方法論」を確立した

「二項対立」というアイディアが、とても気になる)

◎論点
・レヴィ=ストロースは、「学問」とは何だと考えているのか
学校教育に飽きたという記述がある

・シニフィアンとシニフィエについてはどうか

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◎『悲しき熱帯』に関するメモ

○二十二年ののちに
(川田順三によるインタビュー)
・仏教
仏教は神のない宗教?
・新石器時代
人間と自然が均衡を保っていた時代、人類にとっての最良の状態

○6 どのようにして人は民族学者になるか
p.76「こうして私は、すべての問題は、重大なものでも些細なものでも、いつも同じ一つの方法を適用することによってけりをつけられるということを学んだ。その方法というのは、問題の伝統的な二つの見方を対照させることにある。まず、常識を正当化することによって第一の見方を導入し、次にその正当化を第二の見方を使って崩し、最後に第一と第二のものが、いすれも同じように部分的なものであることを示す第三の見方の助けを借りて、どちらにも優位を与えることなく、退けてしまうのである。」
〈形/内容〉〈含むもの/含まれたもの〉〈連続/不連続〉〈本質/実存〉
「……それらは次第に純粋に思弁的な見せ場を作り出すのに役立つことになり、立派な哲学の研究とは、それを上手に行なったものということになる」

→学問って、飽き飽きだよね、というお話

p.77「結局、問題は、真実と虚偽を見出すことにあるよりも、むしろ、人間がいかにして少しずつ矛盾を克服して来たかを理解することにあったのである。」

p.79「最も出来の悪い受験者でさえ、すべてを言い尽しているように思われた」

・p.83~ 精神分析による二律背反批判に言及

「まず私は、「合理的なもの」の彼方に、より一層重要でより肥沃な、もう一つの範疇が存在するのを知った。それは、「意味を表すもの」という範疇で、「合理的なもの」の最も高度な存在様式である。それにもかかわらず、私たちの習った諸先生は、その言葉を口に出すことさえしなかった(恐らく、フェルディナン・ド・ソシュールの『一般言語学講義』よりも、ベルクソンの『意識に直接与えられたものについての試論』について考えをめぐらすのに忙しかったためであろう)。ついで、フロイトの著作は、私に、これらの対立は実際に対立しているのではないということを啓示してくれた。なぜなら、外見は最も感情的な振舞い、合理的なものからは最も遠い行動、前論理的とされている表現こそが、同時に、最も豊かに「意味を表すもの」だからである。」

p.85「準備された目をもたない観察者にとっては、何の一貫した意味ももたないであろうこうした探索行も、私の目には認識というものの視覚化された姿や、認識の差し向ける困難や、それから期待できる歓びなどを示してくれるのである。景観の全体は、最初見た目には、人がそこにどのような意味を与えることも自由な、一つの広大な無秩序として現われる。しかし、農業にとっての損得の配慮、地理上の出来事、歴史時代、先史時代を通じてのもろもろの変転などの彼方に、すべてを繋ぐものとしての峻厳な「意味」があり、それが、他のものに先行し、命令し、そして、かなりの程度まで、他のものについての説明を与えるのではないだろうか」

p.87 マルクス『ルイ・ボナパルトのブリュメール十八日』『経済学批判』

○13.開拓地帯
p.190「社会学者は、包括的で具体的な一つのユマニスムを精錬するというこの作業に力を貸すことができる。なぜなら、社会生活の大規模な表明も、意識されない生の営みから生れるという点で、芸術作品と共通のものをもっているのだから。」「それゆえ、すでに度々為されてきたことであるが、一つの都市は、一曲の交響楽や一篇の詩に擬えることができるというのは、単なる比喩ではない。」

○20 原住民社会とその様式(カデュヴェオ族)
p.279「一つの民族の習俗の総体には常に、或る様式を認めることができる。すなわち、習俗は幾つかの体系を形作っている。私は、こうした体系は無数に存在していないものであり、人間の社会は個人と同じく、遊びにおいても夢においても、さらには錯乱においてさえも、決して完全に新しい創造を行うことはないのだということを教えられた。社会も個人も、全体を再構成してみることも出来るはずの、理論的に想定可能な或る総目録の中から、幾つかの組合せを選ぶに過ぎない」

p.287~ 顔面塗飾のモティーフ――繊細な、幾何学的なモティーフと、非対称のアラビア風模様
鳥や動物の絵
→未開人における「絵」と記号と、文字について

p.293 顔面塗飾は、「自然状態」から「社会」への移動のためになされ、女性のあいだにこの習俗が存続しているのは、性的魅力への配慮からである
p.302 身分の序列をも表す
p.296 カデュヴェオ芸術は一種の二元主義によって特徴づけられる

(→装飾と美と芸術は、身分制社会の始まりか?美こそが、人と人との階級をつくる?)
○23 生者と死者 
ボロロ族の「形而上学」
p.61 ヨーロッパでは死者が無感覚で無名の存在になるが、ボロロ族では違う
p.63 死は自然であってしかし反文化的であり、死とは社会全体が受ける被害であり、自然の側に「負債」が生じる

○27 家族生活
p.243 勃起は社会的に起きる

○28 文字の教訓
p.167 文字は知的な目的や記録、理解のためでなく、或る個人、或る役割の持つ権威を増大させるためのものである?

p.169 文字は、都市と帝国の形成、つまり、相当数の個人の一つの政治組織への統合と、それら個人のカーストや階級への位付けの原因となる

p.170 知的、美的満足を引き出すための文字の使用は、二次的な一つの結果である

文盲をなくすための義務教育普及は、市民の統制の強化と融合する

p.174 ある群れと別の群れの戦いは、「象徴的行為」で決着する

○29 男、女、首長

自然状態→群れ、首長の選択
多数の同意をへて選出
首長の気前のよさと、多数の妻、権力の道具

p.194 国家の原初形態は家族における父に見出せる、という学説は間違っている、「同意」こそが「権力」の源であり、権力を制限するものである

p.198 首長の決定は、伝統によっておしつぶされたようなものではなく、「個人主義的」な意志によりなされる

○34 ジャピンの笑劇
戯曲を演じる首長

○38 一杯のラム
ルソーについて
p.318 『人間不平等起源論』、『エミール』、『社会契約論』
「彼は、自然状態と社会状態を混同するようなことはしていない。彼は、後者は人間固有のものであるが悪を伴う、ということを見抜いていた。残された問題は、これらの悪が、それら自体、社会状態に固有のものかどうかを知ることにある。それゆえ、悪弊や犯罪の背後に、人間社会の確乎たる基礎を探るべきなのである。」

「ルソーは、われわれが今日新石器的と呼んでいるような生活様式が、それに最も近い実験像を提供すると考えていた。」「新石器時代には、人間はその安全を確保するのに不可欠な発明の大部分をすでに達成していた。なぜ文字をそこから除外してよいかについては、すでに見た通りである。」「新石器文化と共に、人間は寒さと飢えからわが身を守るようになった。人間は考えるための余暇を贏ち得た。病気に対しては、人間はあまりよく闘ったとは言えないかもしれない。だが、衛生上の進歩が、大飢饉や皆殺し戦争のような他の仕掛けに、人口上の或る限度を保つ役目――それに対して疫病が貢献した遣り方は、他のものほど怖しいとは言えない――を押し付ける以上のことをなし得たのかどうかは確かではない。」

ルソー「もはや存在せず、恐らく決して存在しなかったし、これからも多分永久に存在しないであろうが、それについての正確な観念をもつことは、われわれの現在の状態をよく判断するために必要であるような一つの状態をよく知る」

○40 チャウンを訪ねて
仏教
p.347
死者にさいなまれること、あの世での邪悪な処遇から逃れようとして、仏教、キリスト教、イスラムが考案されたが、それらはむしろ後退していっている

仏教……来世という発想がなく、聖賢が、事物と人間の意味の拒否へと道を拓いている。宇宙と自己を無として否定する一つの修練。偶像を画像で置きかえた上に、それを量産することに不都合を感じない。それらのどれもが実際には神ではないが神をよびおこすものであり、数が多いということ自体が想像の働きを助ける
キリスト教……恐怖に屈し来世を作る
イスラム……現世を来世に繋ぎ合せ、現世と精神界はひと纏めにされ、社会秩序は超自然の秩序の威光で身を飾り、政治は神学になった。精霊や幽霊を「師」たちで置き換えた。偶像を排除する
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