三島由紀夫『金閣寺』 

金閣寺金閣寺
(1960/09)
三島 由紀夫

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    三島由紀夫『金閣寺』
                (2001年秋執筆)
          1

 先日、米国で大きなテロがあったと聞いた。僕は事情をよく知らないのであるが、死んでもいいから何かを成し遂げたい、歴史に関わりたい、という欲望のからんだ、その人達なりの「倫理性の貫徹」を行った人達がいたわけなのであろう。テロ、闘争、戦争、そこにはある倫理と他の倫理の齟齬が渦巻いている。
 三島由紀夫の小説「金閣寺」は金閣を燃やした男「溝口」による一人称の告白体により構成される。この小説には「金閣を燃やす」という反社会的、反文化的、反伝統的で、かつ不条理なテロを導いた一犯罪者の倫理と、その倫理を形成せしめた原因が丹念に描かれている。溝口は徒党の組めない孤独な人間であったため、彼の悪行は以下のようなチンケなテロに終わる。



 A 溝口が可能とした「悪」

○学友のナイフの鞘に傷をつける。
○娼婦の腹を踏む。 
 ○老師が気に入っている芸妓の写真を老師の部屋に置いておく。
 ○柏木に借りた借金を踏み倒す。
 ○女を買う
 ○金閣を燃やす。

 溝口の「悪行」はせこく、迂回的で不条理に思える。例えば老師の「偽善」を許せないのならば、老師を一発殴って寺を飛び出す、という事も可能なはずではないか。何故そうならないのか。何故金閣を燃やさなければならないのか。溝口の得た環境と、溝口の生まれついての性格を考察するすれば、その答えは自ずと明らかになろう。


 B 溝口が認識した「現実」・溝口に降りかかる災難

 ○田舎の寺の住職の子
 ○生来のどもりで身体的能力も低い
○生まれつき醜い。
○恋した女の子に馬鹿にされる。さらにその女の子は恋人と心中してしまう。
 ○母の浮気とそれを黙認する父を見る。
 ○「金閣はこの世で一番美しい」という言葉ばかりを植え付     け、いまいち情けなく、頼りなく思える父が死ぬ。
 ○戦乱と敗戦
 ○父の死後父役となる、公平無私で金に汚く女遊びをし尽くしている老師の存在。
 ○母が「金閣寺の住職になれ」とプレッシャーをかける。
 ○友人鶴川の自殺
 ○友人柏木の影響


 C 溝口の性格
 
 ○引っ込み思案
 ○孤独を好む
 ○権力意志がある
 ○空想癖がある
 ○誇り高い
 ○傷つきやすい
 ○認識と感情にタイムラグがある
 ○傲慢
 ○行動に思考が先行する
 ○「偽善」を嫌う
 ○「永遠のモノ」を求める
 
 Bの状況に納得出来ない溝口は、Cに表される個性により現実を裁き、Aの行為を行うわけである。

 `B
 溝口が自己の行動を支える思想は次の二つが大きい。
 一つは講話の「南泉斬猫」である。一匹の猫を巡っての東西両堂の争いを、南泉和尚はその猫を殺すことで解決する。和尚が高弟の趙州にその話をした時趙州は、はいていた履を脱いで頭にのせて出て行く。それを見て和尚は反省する、という内容である。「非情の実践」により南泉和尚は、美を壊し、一切の矛盾、対立、自他の確執を断とうとする行為者である。これに対し趙州はそれを相対化して諌める認識者である。
 もう一つはやはり仏教の「仏に逢うては仏を殺し、…親眷に逢うては親眷を殺して、始めて解脱を得ん。」という言葉である。
 この二つの言葉が、溝口が自己の行動を倫理づけ、正当化する最終的な根拠となっている。


          2

 この物語は溝口による「認識、思考、行為」の繰り返しによりストーリーが展開される。溝口は一章、二章では認識がメイン。三章において女を踏むという行為によって南泉(行為者)の立場を実行する。四章において柏木と会い、柏木という南泉の前に趙州(趙州)として佇む。九章から十章にかけてこの立場を逆転させて、柏木の借金を踏み倒し、女を買い、金閣を燃やし、南泉としての行為を終え、この物語は終わる。認識者として佇み観察することと、行為者として動くこと、それを繰り返すことで童子は大人になり、人は成長していくのである。世間のしがらみである「親の恩、性欲、金閣、借金」を切り捨てていく過程は、「悟り」へ至るための過程でもある。恋、自己の体、将来、両親、それらの青春の悩みと、どう向き合い、どのような人生を選択するのかを、一つの物語として現したのがこの小説である。生まれついた条件により現実の世界から疎外されたある個人が人生を獲得するためには、何らかのしわ寄せが外部の社会に必要とされる場合が多々あるのだ。そしてもちろん、このような「しわよせ」を社会や政治が是としない時、そのような個人を社会や政治が圧殺する場合も又、多々あるわけである。

 「人は、石や骨等無機的なものに想像力を働かせ、それを優雅なものと思い込む。その結果生まれたものが哲学や芸術や文
化なのだ。」と柏木はいう。後に三島が書いた批評「文化防衛論」は、日本の「哲学や芸術や文化」を天皇に集約させるものであった。続けて柏木は言う。「人にとっての有機的関心は政治だけである。性欲は両者の中間である。」と。この三つの概念を三島との関わり合いの中でまとめてみよう。
 無機的なモノ…「永遠性のあるモノ」に人は、想像力を付加させる事により「哲学、芸術、文化」へと変貌させる。これが金閣であり、のちの三島には天皇であった。
 中間のモノ …「性欲」 物体と幻想の会いの子である異性は、不完全な永遠性を持つモノである。異性は三島に取って徐々に不完全な美となり始める。
 有機的なモノ…「政治」 時代と共に生まれ滅びる政治は、三島に取って崇拝の対象とはならなかった。

 通常テロリストは「自己の人生」なり「絶対者」なりを守るために「人生」や「絶対者」を脅かす悪が集約された対象物を壊すわけであるが、溝口にとって金閣は途中から、絶対的な美であると同時に単なる芸術作品であるという事を越えて、溝口にとっての外部世界における全ての悪行に対して責任を負う主体であり、自己の人生の獲得を阻むモノとして、目され始めるところに溝口の持つ倫理と世界観の不条理性がある。 

 作り出した絶対者が行動の倫理を規定する。有為子と母の「裏切り」により、溝口は女という美に対して馬鹿にしている傾向がある。金閣に対する美を高尚なものだと考えているが、それは金閣が溝口を「裏切らない」事が一つの理由なのではないか。有機的なモノとの関係性は永遠性がなく常に可変的である。金閣は異性への接近を妨げる。金閣寺の住職を目指すということは一生金閣のために労働することを意味する。そのためには老師とも仲良くしなきゃいけない。あらゆる行動を縛る枷となる。あるいはそのように自己を縛ることによって、金閣を究極の美たらしめるのでもある。
 しかしそもそも金閣は、父と母が溝口に刷り込み、「与えた」希望である。溝口にとって金閣は自己と人生との間に立ちふさがる壁であった。自己とは生まれつき切り離され、自己とは関わりなく自己の生まれる前から死んだ後までそこに存在しつづけるかにみえる世界の象徴でもある。「与えられた希望」、「与えられた美」の破壊は、どの時代においても常に、青春のテーマであろう。
 溝口が「金閣を燃やそう」と決意したとき現実の金閣に見出したものは、父であり母であり異性であり、老師や柏木に代表される、ちっとも美しくない偽善の人生を生きる人々が構成する、自己が全く影響を与えられないかに思える絶対的な世界である。暴力とは常に、「自分はここいるんだ」ということを主張するために、世界とのコミュニケーションを目的として行われるものだ。金閣への放火により溝口は過剰な自意識を満たし、この後割と普通の人に変貌したのではないかと僕は想像している。


          3

 ところで三島は「金閣寺の主題は美でなくても良かった」と言明している。僕が今「金閣寺」を読むと、「金閣」に関する描写は全て天皇について語っているように思えてならない。「金閣寺」の裏テーマはむしろ、「天皇の殺害」にあるのだ。
 溝口は戦前の日本人を比喩している。金閣=絶対者=天皇を崇拝し、人生を捧げ、恋や性欲まで縛られる。そして溝口はその拘束から逃れ、自分の事を自分で決定できる自由な人生を手に入れるために金閣=絶対者=天皇を破壊する。

 BとCの条件がそろえばテロリストはいつでも誕生し得る。テロリストは常に、悪が集約されていると当人が考える現実の何かに対して破壊活動を行うわけであるが、何を破壊するか、あるいは何を「絶対者」とするかは、`Bの部分、成長の過程においてどんな言葉、どんな思想と触れたかが鍵になるわけである。客観性と普遍性の問題に取り組み徒党を組んだ溝口ほど社会に取って恐ろしい存在はない。三島は実際には金閣を焼くことが出来なかった。実際に焼いていればあの1970年の事件は起こらなかっただろう。
 三島の日本回帰は六十年安保を境にして徐々に始まる。1960年以前の三島は単に、左翼に同情的な唯美主義の作家であると見られていた。「金閣寺」執筆の1956年当時から、三島はボディビルを始め、追求するものを美から絶対者へと、認識から行為へと徐々に変え始めた。
 三島は1970年、自己の死により「想像上の金閣」を復活させようとしたのである。ニーチェを愛読した三島にとって、英雄とは「絶対者を壊す者」か「絶対者を作る者」であった。そして戦後の社会には壊すべき絶対者が存在しないのだと考え始めたのが一九六〇年だった。三島は「天皇の殺害」の代わりに、「天皇のために自己を殺害」した。三島は現実の天皇に「絶対者」としての意味を付与させるために自殺したのか。それとも1945年の絶対者の死に殉死し、絶対者不在を宣言したのか。
 いずれにしてもその事が、保守系知識人、保守系雑誌増加の芽を生んだ。資本主義、キリスト教、イスラム教、マルクス主義、民族主義、天皇…「絶対者」を巡る三つ巴、四つ巴の闘争は、今世紀も続くのであろうか。


三島由紀夫『金閣寺』に関するメモ

 1・初出と作者の年齢
 三島由紀夫は一九二五年(大正十四年)に生まれる。一九四五年、二十歳で敗戦に会う。「金閣寺」は一九五六年の一月から十月まで雑誌「新潮」に連載され、十月末に単行本として新潮社より刊行された。三島はこの時三十一歳である。三島は一九七〇年(昭和四十五年)に四十五才で自殺した。

 2・作品分析 溝口について

 この作品は金閣寺を燃やした男、溝口による一人称の告白体により構成される。以下、溝口の性格、考えたこと、世界観を箇条書きにして、ストーリの流れを追ってみようと思う。
 「・」=主語を溝口とした溝口の考えを現す文章。
 「*」=ストーリーの解説
 「―」=松平が考えた疑問点・解釈
 「「」」=引用等

 第一章 一九四一年頃 小学生の溝口

 ・父の影響により、「金閣」を途方もなく美しいものと考えている。
・体が弱く、生来のどもり。自己と外界の間にいつも障碍があるように感じている。
・その結果、「暴君になる事」と「芸術家になる事」を夢見ている。しかし、それらの夢に向かって現実的に動こうという気持ちは持たない。むしろ人に理解されない事を唯一の誇りとし、どんどんと孤独になっていった。
・自分が世界を、底辺で引きしぼって、つかまえているという自覚を持っている。
・よく、「有為子」の体を思う。

 *「世界に拒まれた顔」を持つ溝口と、「世界を拒んだ顔」を見せた後、「愛欲の秩序」のために死んだ有為子の対比が語られる。

 第二章 一九四四年頃 中学生の溝口

 ・金閣寺の徒弟になり、住職に就いて得度する。
 ・戦乱の不安、自分の醜さ、金閣寺の空襲による破壊への怖れ等により、溝口はより強く金閣に美を感じるようになる。
 
 *溝口と同じく金閣寺の徒弟であり、同じ中学に通う裕福な寺の息子「鶴川」が登場する。

 ・どもりを差別しない鶴川に優しさを感じる。
 ・自分は、人間に対する関心は稀薄であり、自分にとってのすべての関心事は美だけであり、そして美を思いつめると、この世で最も暗黒な思想にぶつかるのだと、溝口は考える。
・金閣と自分に共通の危機があることにより、金閣と自分の世界に一体感を感じ、励まされる。

―金閣は何を象徴しているのか?

 ・鶴川と溝口は天授庵で、ある女が茶に乳をいれ、それをある男が飲み干すシーンを目撃する。溝口はその女が有為子であると感じる。

 第三章 一九四五年頃 敗戦前後の溝口 母殺し

 ―母の浮気には復讐心を覚えず、「世間的な意味においての」“愛情”をくれた父には復讐心を持った溝口の、精神構造はいかなるものなのか?

 ・肉親の露骨な愛情の発露に当面するのを嫌がる。
 ・鶴川を自分の「現世の言葉への翻訳者」と感じる。
 ・鶴川のおかげで偽善を一つの相対的な罪にすぎないと感じる。露出した腸も美しい皮膚も同質なのだと感じる。

 ―溝口にとって、金閣以外のすべてのものは、美しかろうと醜かろうと等価なのであろうか?

 ・母の勧めにより、「金閣寺の住職になる野心」と「金閣寺が焼ける夢想」が並立するようになる。

 ・終戦の詔勅が出た日、金閣との関係が絶たれたと感じる。同時に、この日に最も金閣を美しいと感じる。
 「敗戦の衝撃、民族的悲哀などというものから金閣は超絶していた。もしくは超絶を装っていた。」
 「またもとの、もとよりももっと望みのない事態がはじまる。美がそこにおり、私はこちらにいるという事態。この世の続くかぎりかわらぬ事態…。」
 「敗戦は私にとっては、こうした絶望の体験に他ならなかった。……全ての価値が崩壊したと人は言うが、私の内にはその逆に、永遠が目ざめ、蘇り、その権利を主張した。金閣がそこに未来永劫存在するということを語っている永遠。
 天から降って来て、……われわれを埋めてしまう永遠。この呪わしいもの。……終戦の日に、私はこの呪詛のような永遠を聞いた。」

 ―何故終戦の日に「呪詛のような永遠」を感じるのか?
 溝口にとって敗戦は「解放ではなかった。……不変のもの、永遠なもの、日常のなかに融け込んでいる仏教的な時間の復活に他ならなかった。」
 ―溝口にとっての「不変のもの」とは、「醜く孤独な自分」と「美しい金閣」が挙げられるといい得るか。
 ―金閣とは天皇である。

 *終戦の日、老師の講話がある。一匹の猫を巡っての東西両堂の争いを、南泉和尚はその猫を殺すことで解決する。和尚が高弟の趙州にその話をした時趙州は、はいていた履を脱いで頭にのせて出て行く。それを見て和尚は反省する、という内容の講話「南泉斬猫」である。

 *この話に対する老師の解釈
 和尚は「……非情の実践によって、猫の首を斬り、一切の矛盾、対立、自他の確執を断ったのである。」
 趙州は「……人にさげすまれる履というものを、限りない寛容によって頭上にいただき、菩薩堂を実践したのである。」

*この話に対する柏木の解釈
「趙州は南泉の解決の仕方を安易であり、本質的には解決出来ていないのだとして批判したのだ」

 ―今後の日本、今後の民衆、今後の溝口は、どちらの道を進もうと考えるのかを、老師は問いかけているのではないか。

 ・公平無私で、女遊びをし尽くしたらしい老師対して批判精神を抱いている。
 ・終戦後の無秩序な新しい世界を、世間の人が生活と行動で悪を行うなら、自分は内界の悪に深く沈み込もうと決意する。
・自讀の習慣に抗しようという気持ちを持つ。
 *溝口には、夢精においては色欲の影像はない。しかし自讀においては有為子の肉と、醜い虫のような自分との対比がイメージされる。それを不快に思うらしい。

 ・溝口は外人兵と娼婦を金閣に案内する。自分を無視する娼婦に、溝口は有為子を美を感じる。外人兵の命令により、溝口は娼婦を痛めつける。その行為に溝口は、昂奮と喜びを感じる。
 ―「非情の実践」により溝口は、女の腹を蹴り、一切の矛盾、対立、自他の確執を断とうとしたのか。

 第四章 一九四七年 大学に入学する溝口

 ・「君は女の腹を踏んだのか」と問い掛ける鶴川に対し、何もしてないと嘘をつく。
 *溝口は自己の翻訳者であると考えていた鶴川に、裏切られたと感じる。
 ・自分に対して一切その話を振らず無言を保つ老師に対し、溝口は「老師はその行為の甘美を知っている。老師は懺悔を待っている」と考え、圧迫感を感じる。懺悔は自分の悪を瓦解させてしまうと考えた溝口は葛藤の末無言を保つ。悪は可能になったのだと感じる。
 ・大学で、禅寺の息子で生まれついての内翻足の柏木と知り合う。そして柏木の言葉により自分の恥のありかを認識し、邪まな心を陶冶されたと感じる。性と愛をいかに乗り越え人生を送っていくか、その解答を柏木の中に見ようとする。

 第五章 一九四七年 大学生の溝口

 ・自分にとっての美は女の肉ではなく、金閣であるべきだと考える。
 *溝口は金閣によって、女を、あるいは女と向き合わねばならない「人生」を否定しようとしたのである。
 ・柏木が暗示する「人生」は、生きることと破滅することが同じ意味でしかなく、不自然であり、構造美がなく、痛ましい痙攣の一種でしかないと感じる。
 ・金閣により溝口は娘への接近を阻まれる。
 ・鶴川の死により昼の世界との接点を失ったと感じる。
 「かれの住んでいた世界の透明な構造は、つねづね私にとって深い謎であったが、彼の死によって謎は一段と恐ろしいものになった」

 第六章 大学生の溝口

 ・自分にとっての美と柏木にとっての美の違いを認識する。
 *乳が金閣に変貌する幻想を溝口は見る。

 第七章一九四九年前後 大学生の溝口

 ・老師が女と歩いているのを目撃する。
 ・老師は生活の細目、金、女、あらゆるものに手を汚した上で、現世を侮蔑している人だと感じる。
 ・老師を含めたまわりのすべてのものを無力だと感じる。金閣は無力の根源であり、それらすべてのモノから逃げ出そうと考え柏木に金を借りる。そして旅先で金閣寺を燃やそうと決意する。

 第八章 一九四九年 大学生の溝口 老師と柏木の否定 父殺し

 ・老師を殺すことを思い浮かべるが、老師程度の悪は次から次と生まれ滅びる。却って人間存在には永遠性がある。金閣のような美は厳密な一回性があるため、それの破壊は一つの根源的な滅亡を現代社会に提示できる、と考える。
 ―世間的な親子喧嘩の形式においては、老師を殴って緊張状態を緩和させ、終わりとする所なのではないか。肉弾派でなく内省的な溝口は、より屈折した方向にしか怒りをぶつけられえないのだろう。

 ・寺にもどる。柏木との仲が悪化する。
 ・近代以前の社会において、滅亡と否定は常態であった。その社会において寺は常に焼かれていた。今もまた、そんな社会である、と考える。
 *柏木が老師に借金を返済させるよう談判する。
 ・柏木に鶴川の遺書を見せてもらう。

 第九章 童貞を捨てる溝口 鶴川の否定

 ・老師は自分に訓戒を垂れるべき場合に、却って恩恵を施して来ているのだと感じる。
 「老師が無言でさずける恩恵には、老師のあの柔らかい桃色の肉と似たものがあった。」
 ―恩を着せられたという苛立ちを解消したいという感情が、溝口を行為へと駆り立てるのである。
 ・火の幻に肉欲を感じるようになる。

 「何も信じないということは腐敗なのか?まり子が自分だけの絶対の世界に住んでいるということは、蝿に見舞われることなのか?」

 「美的なものはもう僕にとって怨敵なんだ」
―金閣に感じる美を「童子の夢」として認識し、その破壊をもくろむようになったのではないか。

 ・どんな行為、認識にも出帆の喜びはかえがたい、ということで柏木との意見が一致する。

 第十章 金閣を燃やす溝口 人生の獲得

 「一つ一つのここには存在しない美の予兆が、いわば金閣の主題をなした。」

「ぎりぎりまで行為を模倣しようとする認識もあるのだ。……ひとえに行為をしなくてもよいという最後の認識のためではないのか。」
 ―文学に潜む可能性を問うているのではないか。
 「仏に逢うては仏を殺し、親眷に逢うては親眷を殺して、始めて解脱を得ん。」
 ・金閣を燃やす。
 ―「非情の実践」により溝口は、金閣を燃やし、一切の矛盾、対立、自他の確執を断とうとしたのである。
 ・煙草を一服して「生きよう」と考える。

 3・人物像について

 溝口……どもりをカルマとし、世界と自己との間に深い溝を感じて生きている。「悪」や欲望に忌避感を感じている。潔癖で真面目で道徳的で、永遠のもの(物質)に心を惹かれ過ぎた少年であった。父を亡くし、思春期からは老師を父代わりに生きる。鶴川・柏木を兄貴分とし、人生への一歩を踏み出す。鶴川に明るい昼の人生への可能性を見、柏木に暗い夜の人生への可能性を見る。有為子に肉欲を感じ延々と引きずるが、途中からはその対象が金閣に変わり、童貞を捨てた後、有為子へのコンプレックスからは解放される。
 父と老師の象徴である金閣を燃やしたことにより、「世界を革命」し、「人生」が始まったところでこの物語は終わる。
 
 老師……性と金に汚い。比較的普通の男。溝口は老師の人生を気に入らなかったようである。

 有為子……溝口の意識においては、恋と性の対象は長い間皆有為子であった。

 鶴川……趙州としての鶴川と南泉和尚としての柏木。五章で自殺する。溝口にとってはまり子と同じ位相に立つ。最初溝口は鶴川を慕っていたようだが、溝口は彼らの完結の仕方を気に入らなかったようである。

 柏木……溝口と同じく世界との間に障碍を抱える人間であるが、それを卑小な嘘と悪と行動で乗り越える。

 柏木「俺は絶対に女から愛されないことを信じていた。これは人が想像するよりは、安楽な確信であることは、多分君も知っているとおりだ。」

 ・穏やかな平和な世界に悪夢は生まれる。しかし公開処刑や戦争による暴力が他者を襲う時、悪夢は他人の体に具現化し、自己は安定され得るのだ、と柏木は考える。
 
 ・人は、石や骨等無機的なものに想像力を働かせ、それを優雅なものと思い込む。その結果生まれたものが哲学や芸術や文化なのだ。人にとっての有機的関心は政治だけである。性欲は両者の中間である、と柏木は考える。

 ―前者は永遠のものであり金閣であり、後者は人生であり娘である。
 ―時代の流れとともにいろいろな政治が滅び、生まれる。

 父……過去、老師と悪友だったらしい。「金閣は美しい」という言葉を溝口に遺して一章の最後で死亡する。

 母……「母を醜くしているのは希望である」。
 「住職になれ」と溝口にプレッシャーをかける。金閣がない方が溝口は気が楽になるのではないか。浮気する母とそれを黙認する父、二人の関係性への徳義心から生まれる疑いは、溝口の中に原体験として燻っているのではないか。

 ―有為子と母の「裏切り」により、溝口は女という美に対して馬鹿にしている傾向がある。金閣に対する美を高尚なものだと考えているが、それは金閣が溝口を「裏切らない」事が一つの理由なのではないか。しかし金閣は、父と母が溝口に刷り込み、「与えた」希望である。「与えられた希望」、「与えられた美」の破壊は、どの時代においても常に、青春のテーマであるようにも思う。

 ―そしてまた金閣は、三島にとって天皇を仮託させた美の象徴でもある。(「文化防衛論」参照)。

 4・時代背景
 「天皇」という「臣民の父」の敗戦と、伝統美の象徴である金閣寺の延焼。三島は一九五〇年頃、小田切秀雄に共産党への入党を勧められ、断ったことを生涯、強い印象として残していたようである。

 5・テーマ、動機
 南泉斬猫に見る、行為と認識と世界の革命について

 溝口は一章、二章では趙州の立場に立つ。三章において女を踏むという行為によって南泉の立場を実行する。四章において柏木と会い、柏木という南泉の前に趙州として佇む。九章から十章にかけてこの立場を逆転させて、借金を踏み倒し、女を買い、金閣を燃やし、南泉としての行為を終え、この物語は終わる。認識者として佇み観察することと、行為者として動くこと、それを繰り返すことで童子は大人になり、人は成長していくのである。世間のしがらみである「親の恩、性欲、金閣、借金」を切り捨てていく過程は、「悟り」へ至るための過程でもある。

 恋、自己の体、将来、両親、それらの青春の悩みと、どう向き合い、どのような人生を選択するのかを、一つの物語として現したのがこの小説である。
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