檜垣立哉『生と権力の哲学』 

生と権力の哲学 (ちくま新書)生と権力の哲学 (ちくま新書)
(2006/05)
檜垣 立哉

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とても良い新書でした
アマゾンレビューで、こんなグダグダな読書ノートを出版するなボケエ、みたいな意見がありました
でも、ぼくにとってはちょうど知りたい範囲のことを扱っていて、フーコーの生政治とそのアガンベンへの展開について、あ、こういうことが課題になっていたのかと、大変面白かったです
ベンヤミン、アレントとの関わりも、これまで混乱していたところがすっきりしました

○フーコーの生権力
・「革命の官僚たち」は、管理=コントロール的な視線を張り巡らす
・権力の超越―抑圧型モデル→社会契約論の構図
・規律・管理型権力モデル→ネグリ―スピノザモデル→相互的な関係性において社会性が発生してしまう、超越的でない、内在的な社会成立
p.68「フーコーの試みは、西洋近代において、「真理への意志」を具現する、超越論的―経験論的二重体としての「人間」の形成と解体とを探ることにあった」
「性の歴史」……性は抑圧されているがゆえに「真理」であり、かつそれを告発することが、権力に対する正当な抵抗を形成するという、政治的仕組みをフロイトが作る。それへの批判である。性の言説は抑圧されていたのではなく、近代において、むしろ先導され、過剰に産出されたのである。権力が近代的な仕組みで生を支配しようとするときに、争点となる
・「超越」的な権力→否定的関係(排除、禁止、妨害、否認)で介入する。二項対立、禁忌、検閲
・生権力→言語により意識的な「主体」を統制するのとは対比的に、無意識の振舞いを、「言説」やそれにともなう社会的視線を扇動することにより機能する
→生権力は、奪い取れるものではない。
経済、知、性の言説のなかに「内在」する。
下からくる。
非主観的である。
権力の中心は存在しないので、抵抗の中心を想定することは無効である。
→「否定」の作用で統制するのではなく、「言説」や「制度」を産出しながら、そこで働く「非人称」の監視作用によって統治を行うものに変質した
生権力では性がテーマ化され、性的異常者(男性)、子供、女性、人口という四つの軸を持っていた
性は、精神分析という知、家庭、ブルジョワジーという階級を介して「性的欲望」の装置として産出される
・フロイトの議論は、「法」的なものを基盤とする社会が、〈生権力〉的なものに移行する折り返し点として捉えられる
・近代の法と契約により成り立つ家族は、「倒錯者」の場所の割り当てとして意味を持つ。
性的倒錯者としての父、ヒステリー的な母と娘、自慰を行う子供である
・精神分析は、〈生政治学〉的な問題設定をもちながらも、それ自身はきわめて古風な「法」的制度を結びつけ、「抑圧」されたものの「解放」という政治―倫理的なヴィジョンを維持しつづけている

○ドゥルーズ
ベルクソン+存在論

君主型権力
規律訓育型権力
管理=コントロール型権力……開放病棟や在宅ケア等、環境そのものを全体として管理=コントロールする、〈生権力〉なシステムが、生すべてを包括しながら可動的に働くものへと転化した

p.154「「外」の「力」は、「無現」との関わりにおいて、「神」を軸とする典型的に十七世紀的なシステムをつくりあげるかもしれない。「無限」の空間の前におののく「有限者」の位相が、「私」としてとりだされるだろう」「しかし十九世紀以降、「人間」は、それ自身を形成する「外」の「力」の圧倒的な侵入を破ることによって崩れてきている。「言語」はもともと、こうした「外」の「力」のひとつであった。言語の奔放な力が「人間」という形象に収まらないことは、狂人の言葉によって、そうした「外部」が提示されうることからもわかる。だが言語はすでに見たように、容易に「法」的な装置と結びつき、「超越」としての「人間」を支えてしまうものでもありうる」


○アガンベン
ビオス……言語を使ってポリスの仕事をなす公的な生のこと
ゾーエ……生物的に生きること
→アレント『人間の条件』における「労働」と「活動」
ギリシャにおいてすでに、ゾーエの排除が「例外状態」の排除を意味し、主権の成立を支えるものであった
・『ホモ・サケル』『アウシュヴィッツの残りもの』
・アレントにおける「生」という主題の無視と、フーコーにおける強制収容所への無関心を批判する
・アレントはロゴスなき時代におけるロゴス=「法」を復興させることで政治的なものの力を取り戻すラインを提示する
・フーコーは、法的なものの価値下落を肯定しながら、生命というロジックへと政治的思考を転換させようとしている
・強制収容所における「ムスリム」は「ゾーエ」の露出である
・「ムスリム」を生き延びたものの感じる「恥ずかしさ」とは自分が自分自身であることから逃れられないという事態のことである。
「自己の自己への現前」から別の場所には逃れられないとう意識である」
・「恥ずかしい」のはレイプされることではない。
レイプされている際に、自分が感じてしまうことである
・「主体」とは、「証言しえない者(=ムスリム)」の証言を行う者である
・法は本質的に言語にもとづいている。
言語は、言語を持たない幼児を言語という規則のなかに包摂することによって成立する。
規則は常に例外にさらされていて、言語の外部によって根拠づけられない

ベンヤミン『暴力批判論』
法維持的な暴力……法の内部で法に従わせる力
法措定的暴力(神話的暴力)……法を法なき状態から立ち上げていく力
法は、法でないものに依拠しつつ自分自身を成立させなければいけない
「神的」暴力……「内部」と「外部」とが交錯する領域であり、法措定的な力を「脱措定」する。
法を措定する暴力を浄化し、そこで生じるさまざまな罪を撤廃する力としてみいだされる→収容所におけるゾーエ

○ネグリ
・「中心をもたず、自己同一的なシステムとして作動しない「帝国」に対して、アイデンティティー・ポリティクスというかたちでの別種の「同一性」に立脚する運動は、そもそも「帝国」に対する「抵抗」にはなりえないのである」

○デリダ
・デリダの脱構築は同一性への批判であるが、最終的には「他者」に向けられた「正義」を述べるものとして不在であることによる空虚な同一性を自らの言説の支えにしてしまう・グローバルーローカルという二項対立をとり崩していくことが脱構築では重要

◎チェック
フーコー『狂気の歴史』
ドゥルーズ『フーコー』
『記号と事件』
アガンベン『ホモ・サケル』
『アウシュビッツの残りもの』

市野川容孝『身体/生命』

追記・こういう読者への意識なく書かれ、ひと様にとっては意味がないであろうメモの方が、普通に日記を書くよりも時間がかかる……
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