『デリダ、脱構築を語る シドニー・セミナーの記録』 

デリダ、脱構築を語る シドニー・セミナーの記録デリダ、脱構築を語る シドニー・セミナーの記録
(2005/10/25)
ポール・パットン、 他

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埴谷は、カントの『純粋理性批判』における「カテゴリー」を「通常の思惟形式」とし、それとは「異なった思惟形式」というものを小説のなかで求めた
デリダの脱構築とは、「異なった思惟形式」の実践なのだろう
しかし、面倒な話だ
わけわからん

○(カントの「カテゴリー」において、「触覚」とはなにか
像と言葉は、どのようにリンクしているのか?)

差延、散種、痕跡……何かと何かを分断する境界も、どんなかたちの同一性も、みな不安定であることを示そうとした

「(倫理的あるいは政治的な)責任を引き受けなければならないときにはいつでも、人は二律背反的な命令――これはアポリア的な形式をもつ――を通過し、一種の、不可能なものの経験を通過しなければならないのである」

・図像により現在の文化は支配されている
・見えないものは見えるものの経験の内部にすでに含まれている(メルロ=ポンティ『見えないものと見えるもの』)
・見えるもののなかには不可視性が内在的に含まれるが、このこと自体は視覚的なものの権威をゆるがさない
・プラトン以来の視覚的なものの権威に着目したのがハイデガー『存在と時間』である
・p.14「イントゥイトゥス(intuitus)〔直観〕という理念は、ギリシャの存在論の発端以来、今日にいたるまで、その理念が事実として実現されるかどうかは別として、認識についてのあらゆる解釈を先導する理念になっている」
イントゥイティオにはまなざし、目を向けること、見ることの意を含む
・「直観」には「触れること」も巻き込まれている
・〈描く〉ことの核心には、描かない瞬間、見ない瞬間、盲目の瞬間がある
・人は話すとき盲目である
・芸術は、〈触れる〉ことの一形式である
・産出はつねにいわば触覚的だが、受容と経験自体はけっして触覚的でない
・『盲者の記憶』『絵画における真理』
・痕跡について→絵画よりもむしろデッサンについて→内部と外部を仕切る枠や境界について→言葉とデッサンそのものについて
・アルトーが絵画のなかに言説を書きこむのは、象徴界を破壊すること?
・『マルクスの亡霊たち』『郵便葉書』
・「亡霊的なものという概念は脱構築的な次元を含んでいます、なぜならそれは、痕跡、書くこと、差延、その他たくさんの脱構築不可能なモチーフとの共通点を多くもっているからです。亡霊的なものは生きても死んでもおらず、現前的でも不在でもありません。そのようなわけで、痕跡はすべてある意味で亡霊的です。私たちはいつも亡霊性と関係しています。それは、たんに幽霊が再帰してくるのを経験するときや、私たちがヴァーチャルな図像とかかわらなければならないときだけのことではありません。たとえば今ここでも、私が何かに触れれば、ある亡霊性が生じます」「『マルクスの亡霊たち』だけでなくそれよりはるか以前から、私の関心の一つは、喪の作業と関係がありました」
・現前の形而上学
・他者を自己へと取り込む喪の作業には成功するものと失敗するものの二つがある
・「最も不可能なものあるいは不可能を超えたものとして、神は可能である」
・(アポリアとは存在しているもの、出現してくるものであり、一つの単純な発話のなかにも宿っている)
・芸術において、工業において、テクノロジーと呼ぶものを、未来からくるものとして経験する
p.93「最も予測できない未来は、過去のなかに隠されているかもしれない」「危険や冒険は、絶対的な来たるべきものからと同様にこの絶対的な過去からもやって来るのです。私はこれを、亡霊性、テクノロジーなどの問題から切り離しません」
p.144「文学とは、言及を中断するやり方であり、すべてを言うことができないことです。だからこそ、文学は民主主義と分離できないのです」
p.145「たとえば、カール・シュミットが、すべての政治的概念、すべての政治的なものの概念は、西洋社会のなかで世俗化された神学的な諸概念をよりどころにしている、という意味です」
p.146「それゆえ私が「来たるべき」民主主義に言及するとき、私は、たとえば、これらの存在‐神‐論的概念の限界を問うことによって、ある意味でそれを脱構築することによって、まさに自分自身を変化させるだろうような民主主義に言及しています」
・『フッサール哲学における発生の問題』
フッサールの現象学的還元は、「超越論的なもの」を獲得しようとするが、デリダは、経験的なものを排除した「純粋なもの」はありえない、と考えた

デリダによる現前の形而上学批判
「現前」というかたちで、あるものを中心に据えている哲学のこと。「存在」「神」「自己意識」など
・構造主義も、構造を永遠不変なものとして扱う点で現前の形而上学であることから逃れられていない
p.181「言語起源論のように、言語が「いつどのように生まれたのか」と問うことは、言語や意味の起源が「現前」する、という考えを前提としている。この思考は、「現前の形而上学」的な思考の特徴であり、そこでは起源が現前として考えられている」
p.189「メシア的なもの」……カント的なテロスではない。テロスは「未来の無限遠点で想定され、到達不可能なものであるのに対し、「メシア的なもの」はつねに今・ここで「起こるかもしれない」ものであり、現在における未来の切迫性・緊迫性として考えられるべきものなのである」
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