ベンヤミン『複製技術時代の芸術作品』 

ベンヤミン「複製技術時代の芸術作品」精読 (岩波現代文庫)ベンヤミン「複製技術時代の芸術作品」精読 (岩波現代文庫)
(2000/06)
多木 浩二

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○冒頭からマルクス主義の話題
マルクス主義的芸術論って、どのていど有効なの?

ヘーゲル的で、通俗的な歴史観が前提になっているけれどもいいのかな
ヘーゲル『美学講義』などと関連があるのでしょうね
「歴史」のなかに「固有性」「単独性」が存在する
それが「美」である
そのはずだった
ということかな

・神社・仏閣・アニミズム・伝統芸能みたいな芸術―「アウラ」のある、素晴らしい芸術
・「写真」「映画」みたいな芸術―「アウラ」のない、ファシズムを招く芸術
というふうに、二項的な感じがしましたけれども
そうでもないでしょうか?

日本の漫画・アニメの批判として、使えるかな?
使えないかな?




○要約
マルクスは「資本主義的生産の基本的な諸関係に遡った上で、そこからの帰結として、資本主義がその後どのような特性をおびてゆくことになりうるかを、叙述したのだ。帰結されたのは、資本主義が今後、プロレタリアの搾取をしだいに強化してゆく怖れがあること、だけではなかった。資本主義自体の廃絶を可能とするような諸条件もまた、ついには生み出されることが、そこから帰結されたのだった」

芸術作品の、弟子による模作は古くからあったが、技術的複製は新しい

複製技術 版画……木版 →中世 彫刻銅版画・腐蝕銅版画 →十九世紀初頭 石版画
     印刷技術……文字 活版印刷

一九〇〇年 写真、音


「複製」には一つ、抜け落ちるものがある
「芸術作品は、それが存在する場所に、一回限り存在するものなのだけれども、この特性、いま、ここに在るという特性が、複製には欠けているのだ」
⇒「(この)わたし」の問題、固有性と単独性
「芸術作品は、この一回限りの存在によってこそその歴史をもつのであって、そしてそれが存続するあいだ、歴史の支配を受けつづける」
「オリジナルが、いま、ここに在るという事実が、その真正性の概念を形成する。そして他方、それが真性であるということにもとづいて、それを現在まで同一のものとして伝えてきたとする、伝統の概念が成り立っている」

手製の複製においては、偽造品という烙印が押される

・技術による複製は自立性をもっている
・オリジナルの模造を、オリジナル自体にかんしては想像も及ばぬ場所へ、運びこむことができる
・いま、ここに在るということの価値は、低下させてしまう

「歴史の証人となっていることは、物質的に存続していることに依拠しているから、この存続という根拠が奪われている複製にあっては、歴史の証人となる能力もあやふやになる」
「この権威、この伝えられた重みを、アウラという概念に総括して、複製技術時代の芸術作品において滅びゆくものは作品のアウラである、ということができる」
「伝えられてきた作品は、この二つの過程をつうじて、激しく揺さぶられる。伝統の震撼というこの事態は、人類の現在の危機と、新生と、表裏をなす事態であって、この二つの過程は、こんにちの大衆運動ときわめて密接に関連している」
これを代表するのが映画
「映画の社会的な重要性は、そのもっとも現状肯定的な形態においてすら、いや、まさにこの形態においてこそ、その破壊的な側面、カタルシス的な側面を抜きにしては、考えることができない。文化遺産における伝統的価値を、それはきれいに清算している。こういう現象は、歴史を扱った大規模な映画においていちばん具体的に見てとれるが、いまやますます広範に、さまざまな戦略地点を、自己の領域へ取り込んでいる」

アウラ……「時間と空間とが独特に縺れ合ってひとつになったものであって、どんなに近くにあってもはるかな、一回限りの現象である。ある夏の午後、ゆったりと憩いながら、地平に横たわる山脈なり、憩う者に影を投げかけてくる木の枝なりを、目で追うこと――これが、その山脈なり枝なりのアウラを、呼吸することにほかならない。この描写を手がかりとすれば、アウラの現在の凋落の社会的条件は、たやすく見てとれよう。この凋落は二つの事情にもとづいている。そしていずれの事情も、大衆がしだいに増加してきて、大衆運動が強まってきていることと、関連がある。すなわち、現代の大衆は、事物を自分に「近づける」ことをきわめて情熱的な関心事としているとともに、あらゆる事象の複製を手中にすることをつうじて、事象の一回性を克服しようとする傾向をもっている。対象をすぐ身近に、映像のかたちで、むしろ模造・複製のかたちで、捉えようとする欲求は、日ごとに否みがたく強くなっている」

絵画や彫刻……一回性と耐久性

複製……写真入り新聞や週間ニュース……一時性と反復性

「対象からその蔽いを剥ぎ取り、アウラを崩壊させることは、「世界における平等への感覚」を大いに発達させた現代の知覚の特徴であって、この知覚は複製を手段として、一回限りのものからも平等のものを奪い取るのだ。このようにして視覚の領域で起こってきていることは、理論の領域で統計の意義がしだいに顕著になってきていることに、ひとしい。大衆にリアリティーを適合させ、リアリティーに大衆を適合させてゆく過程は、思考にとっても視覚にとっても、限りなく重要な意味をもっている」


「芸術作品が唯一無二のものであることは、それが伝統の関連のなかへ埋めこまれていることにほかならない」
芸術作品は「礼拝」によって伝統のなかへ埋めこまれる
最古の芸術作品は魔術的な儀式、宗教的な儀式に用いるために成立している

いま、儀式的な基礎を露呈している
「最初の真に革命的な複製手段である写真の出現とともに(同時に、社会主義の登場とともに)、芸術が危機の接近を感知したとき――この危機はさらに一〇〇年後には、誰の目にもはっきり映るようになる――芸術は、芸術のための芸術という教義を編み出すことで反応したのだが、この教義たるや、芸術の一種の神学にほかならない。ここからはさらに、ほかでもなく、「純粋」芸術の理念という形態での、神学の裏返しが、成立してきている。こちらは、あらゆる社会的機能を否認するだけにはとどまらずに、対象として予定されたものにどんなふうにであれ規定されることをさえも、きれいさっぱり否認してしまう(詩において、このような立場に最初に到達したひとは、マラルメだった)」

「芸術作品の技術的な複製が可能になったことが、世界史上で初めて芸術作品を、儀式への寄生から解放することになる」
「複製される芸術作品はしだいに、あらかじめ複製されることを狙いにした作品の、複製となる度合を高めてゆく」
「芸術生産における真正性の尺度がこうして無力になれば、その瞬間に、芸術の社会的機能は総体的に変革される。儀式を根拠とする代わりに、芸術は別の実践を、つまり政治を、根拠とするようになる」


芸術を、弁証法の過程として描く
「二つの極は、芸術作品の礼拝的価値と、展示的価値とである」

「芸術生産は、魔術に用立てられる形象の制作から始まった。この形象の場合には、存在することだけが重要であり、見られることは重要ではない」「礼拝的価値自体は、ほかでもなく、隠れた状態に芸術作品を保つことを要請する」……神像、聖母像、ミサ、交響曲
「芸術作品の複製技術の手法が多種多様になるとともに、作品の展示可能性が大きく増大してゆくと、作品の礼拝的価値と展示的価値という両極のあいだの量的移行が、始原時代においても生じたように、作品の性質の質的変化に転換する」「始原時代においては芸術作品は、その絶対的な重みを礼拝的価値に置いたことによって、まず第一に魔術の道具となった」「こんにちの芸術作品は、その絶対的な重みを展示的価値に置くことによって、まったく新しい諸機能をおびた形象となっている」

太古の技術……多くの人間を投入する。一回性が肝要(犠牲死→殉死)。自然の制御が目的
現代の技術……人間の投入が少ない。一回性が肝要ではない。自然と人間との共同の遊戯をめざす
「映画は、人間生活においてほとんど一日ごとにその役わりが増大してきている機構との、密接なかかわりによって条件づけられた知覚・判断能力を、また反応能力を、ひとが練習することに役立っている。ひとは同時に、この機構との密接なかかわりから、機構に奴隷的に奉仕している現状を変革して、機構を用いての解放を達成しうるためには、第二の技術が開拓した新しい生産力に、人類の心性がまずすっかり適応することが先決問題である、ということをも学ぶのだ」


写真の登場→展示的価値による礼拝的価値の駆逐
肖像写真は最後の礼拝的価値


古代ギリシャ
鋳造と刻印
ブロンズ像、テラコック、硬貨以外の芸術作品は、すべて一回限りの作品であり、複製不可で、永遠性をめざして制作された


写真による絵画の複製……複製が作品を生産するわけではない
映画……複製される対象が芸術作品なわけでもなく、複製すること自体が作品を生産するのでもない

労働者の自己疎外と、映画による補完(?)

ⅩⅠ
映画俳優……「人間は初めて、かれの生きた全人格をもってではあるにせよ、しかし人格のアウラを断念して、活動せざるをえない状態に立ち至った」「これこそ映画の働きである。なぜならアウラは、人間が、いま、ここに在ることと切り離せない。アウラの複製などはない。舞台上のマクベスを包むアウラは、生きた公衆の目には、マクベスを演ずる俳優を包むアウラと、不可分のものなのだ」

俳優は、道具(?)

ⅩⅡ
「人間が機械装置をつうじて表出されることによって、人間の自己疎外は、きわめて生産的に利用されることになった」
映画資本によるスター崇拝、人格の商品的性格
お客様は神様だとする観客崇拝
観客崇拝とスター崇拝は、大衆の心性の腐敗を促進し、ファシズムが大衆のなかに階級意識の代りに植えつけるもの

ⅩⅢ
映画には、万人が専門家として立ち会える
文学は、少数の書き手と多数の読み手からなった
新聞は書き手を増やした
作家と公衆の区別は基本的な差異でなくなる
書き手としての資格は綜合技術教育にもとづいたものになり、共有財となる
「……映画産業は、荒唐無稽な空想や、いかがわしい思惑によって大衆の関心をかきたてることに、もっぱら血道をあげている。この目的のもとに映画産業は、巨大なジャーナリズム機構を動員して、スターたちの出世物語やら恋愛沙汰やらを騒ぎ立てさせたり、人気投票や美人コンクールを催させたりしている」
階級的関心を奪い、ファシズムを呼ぶ

ⅩⅣ
映画のイリュージョン的な性質は二次的なもの。フィルムの編集から生まれる
機械から自由に現実を見る視点は、ここでは人工的なものに転化している

祈祷師……画家(→仮象)
外科医……撮影技師(→括弧外し)

ⅩⅥ
映画においては、人間の意識によって浸透された空間に代わって、無意識に浸透された空間が現出する
映画とは、幻覚や夢のようなもの
映画により、個人的なものだった夢が、集団的なものへと転化させられた

ⅩⅦ
ダダイズムは素材の価値を貶め、アウラを消滅させ、創作の手段を用いながら、複製の刻印を押す

ⅩⅧ
芸術作品へと関与する大衆の数の増大

ⅩⅨ
・プロレタリア大衆
所有関係を変革する権利をもつ大衆にたいして、ファシズムは、所有関係を保守しつつ、ある種の〈表現〉をさせようとするファシズムは政治生活の耽美主義に行き着く
戦争は、在来の所有関係を保存しつつ、大衆運動に目標を与える
戦争は美しい
人間の肉体を鋼鉄に劣らなくするという夢に、実現の道を拓くため
「芸術ヨ生マレヨ――世界ハ滅ブトモ」
芸術のための芸術の完成
「人類の自己疎外は、自身の絶滅を美的な享楽として体験できるほどにまでなっている。ファシズムの推進する政治の耽美主義は、そういうところにまで来ているのだ。コミュニズムはこれにたいして、芸術の政治化をもって答えるだろう」
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