すが秀実『花田清輝』 

花田清輝―砂のペルソナ花田清輝―砂のペルソナ
(1982/01)
スガ 秀実

商品詳細を見る

○気になったところ

・82年刊行。著者33歳時の作品。「群像」等で発表。最初の単著でしょうかね(?)

・80年の時点で花田を肯定することの意義は?

・花田を肯定し、近代文学派(埴谷)を批判

・「政治」と「文学」という問題
って、21世紀の現在からすれば、存在していたことすらほとんど理解できない感じがする
たとえば、「政治」と「マンガ」、「政治」と「アニメ」なんてことで、論を立てることは可能なのか?
海外にガンガン輸出されていることを考えれば、それなりに重要かもしれない

・殴られる
本書の批評がもとになり、誰だかに殴られたとあとがきにある
どういう社会状況、運動の状況、文芸の状況なのかイマイチ想像がつかないです
すがさんは、十年に一度くらい人に殴られるということ
70年安保で革マルにやられているらしい
これを書いたのは、80年くらいなので、その次のときなのでしょう
殴ったり殴られたりするようなテクストを、どうやったら書けるのか
ぼくも殴られたいけれどもムズカシイ

・全体としてポストモダン的?
でも、ちょっとモダン的なところもあって、そのアンビヴァレントな感じが不思議である

・花田の共同制作論ってなんだったんだろ
Webの「電車男」的なものとは、異なるのかな

・現在でいうPCを批判する視点があちこちに盛り込まれている

・「代表するもの」と「代表されるもの」の解離についても、本書ですでに問題にあがっているよう(?)

○内容
戦後という一時代は「戦争の延長」にすぎなかった
花田のインターナショナリズムは、戦後文学が世界文学の水準で思考したというオプティミズムを解体するようなものである

68・「花田の生きた「戦後」においてではなく、「第二の青春」(荒正人)とも名づけられた戦後という一時期において、やはり「物自体」と呼ばれたグロテスクな幻想が、「主体性」という同様のそれと結びついて横行していたことは良く知られている」
「戦後主体性論において支配的な基礎概念にほかならなかった「物自体」にしても、それは直接的にはレーニンとか西田哲学といったものからその系譜をひいている」
「この戦後的な「物自体」は、あの戦後民主主義とやらと手をたずさえて、「哲学的概念」なる本質をしこたま背負いながら、多様性としての「戦後」における本質を絶対的に欠いた花田的「物自体」を排除しつつ、戦後を硬直化した画一性へと組織していったのである」
「……花田的な「物自体」が「外部」として措定されていることにまず注目しなければならない。戦後的「物質」とは、それが主体性論として現われたことからも知られるように、そしてまたレーニンに依拠しながら、物質の最高の発展段階としての人間の脳髄(!)などといったグロテスクな幻想が真面目に云々されたりしたことからも明らかなように、本質的に「内部」のものであったのである」

× 戦後文学の「理念」「党派性」
○ 作品の言葉の多様性、花田のノンセンスな言葉

89・「「独自の表現なるもの」を日々求め続ける芸術(文学)は、たちまち「なんとも退屈でやりきれな」いものに変貌していくほかはないのである。そうであるとすれば、「いっぱんに芸術の世界では通用しない」2+3=5の世界を、芸術(文学)の秩序である2+3=6の秩序に持ちこむこと、つまり、「お父さんが死んであたし悲しいわ」といった、「紋切型の白ばかりを駆使して一篇のドラマを書きあげる」ことが目指されねばならない。なぜなら、「結局、私たちは真偽を超越した世界に住んでいる」のであって、もはやそこにおいては境界線などは無効化されているのであるから、「紋切型をもって紋切型を殺す以外に手はない」のである」

・小林的においては、「生活」が「純文学」の糧であった
・一方、花田の「紋切型の世界」はそのような信仰が崩壊した後の廃墟である

・花田―吉本論争について
・吉本「芸術運動とはなにか」
・花田「ユートピアの誕生――モーア」『復興期の精神』
・モア『ユートピア』
・『資本論』第二巻第三篇
・花田はファシストじゃないよー
・花田は、超越性(ユートピア)へと逃亡しようとする精神の抽象性を、具体性の方向に送り返すことによってあばいている

・「書くことの政治性が言葉を支配する技術として捉えられてしまう時、文学においては誰もがそこに安住し、安心して読み、書くことを容認しうるような地平が開かれると信じられるようになるであろう」
・「芸術と実生活」に対して「政治と文学」と言った場合、「政治(現実)」は外部に、文学は内面に措定されることが容易になった
・ここにおいて、鏡としてのユートピアは、現実に対して徹底的に内面化され、ひとを疑似的にではあれ解放する場としての文学が成立する
・近代文学派における近代的自我論は、外部を前提として内面化された、鏡としてのユートピアという抽象にほかならない。近代文学派のエゴイズムもまた、言葉を支配する技術をより巧緻にするための手段である

・花田・埴谷論争(モラリスト論争)について
・『武井照夫著作集2』
・好村富士彦「真昼の決闘」
・実存主義VSマスクス主義、アナーキズムVSボルシェヴィズム、ロマン主義VS古典主義……といった見方をして、よいのか?
・林達男『共産主義的人間』
・埴谷→「現在を支配する「強者」としての権力者に対して、未来によって現在を転覆しようとする者は、「弱者」としての権力者と呼ぶこともできるだろうが、しかし、「弱者」はそれが未来に属するということにおいて、常に現在に勝利するのである。このように考えてくれば、埴谷の言う「永久革命者」とは、永久に権力を内面化し続ける者にほかならないことが明らかになるであろう……」
・埴谷……革命が到来すればただちに革命家は死んでしまわねばならない→「むしろ
、権力とは、眼差だけを残して存在としては死滅する時に、その意図を「無階級社会」として全面的に完成するものなのである」

・花田における偽書の問題
・埴谷、小林の歴史観は、権力の眼差である
・最高のヴァラエティとしての革命を中心とする花田の史観は、ノンセンスな多様性としての「歴史」から逃亡を禁じる身ぶりとして考えることができる

○チェック
花田『鳥獣戯話』「砂漠について」『小説平家』
フローベール『聖アントワーヌの誘惑』
宮内豊『ある殉死――花田清輝論』
スポンサーサイト

コメントの投稿














管理者にだけ表示を許可する
プロフィール

松平耕一

Author:松平耕一
○twitter登録名:matudaira
○ツイッターまとめ:http://twilog.org/matudaira
○Facebook登録名:松平耕一

☆文芸空間社企画
◎批評放送
・批評放送は松平のプロデュースする動画配信企画です。ツイキャス http://twitcasting.tv/matudaira 、youtubeなどで配信されます
批評放送@USTREAM

○松平耕一・文芸空間社・批評放送へのカンパ振り込み先は
・三菱東京UFJ銀行の吉祥寺支店普通口座1896022 マツダイラ コウイチ 宛になります

管理者ページ

FC2カウンター
ツイッター@matudaira
カレンダー
06 | 2017/07 | 08
- - - - - - 1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29
30 31 - - - - -
全記事(数)表示
全タイトルを表示
カテゴリー


  1. 無料アクセス解析
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。