デリダ『マルクスと息子たち』 

・1993年に出版された、『マルクスの亡霊たち』は多くの議論を引き起こした
・『マルクスの亡霊たち』に対する各論者への応答として書かれ、一九九九年に英語で出されたもの

○感想
・メシア性って、よく分からない。「即身成仏」かなにかですか? でもなんか、英雄性が感じられるところが仏教的ではない。『歓待』における、あなたの私財を全部他人に渡しなさい、といったような倫理は、デリダにおいて本気らしい。狂信的、純粋左翼的、宗教的
・西洋哲学の中心は、「形而上学」と「存在論」にあった。それらについて、デリダはあれこれいちゃもんつけている。デリダの仕事は、「存在論」とカテゴライズされる分野でなされている。でも、デリダのやっていることは、デリダ的には「存在論」ではなくて「憑在論」なのだそうだ。言葉の使い方がちょっとオカルティック
デリダは、「実践性」を視野に入れているため、「存在論」ではなく「憑在論」なのか?
・「脱構築」は、何らかの概念をカント的な二律背反へと、引き戻す作業であるようにみえる
・「階級」「党」への批判は、一つには、「代表」の失効を疑う、言語的なものとなる
・「相続」と「遺産」……組織における、上部構造と下部構造、父―子関係への批判
・以上の論点は、すべて埴谷と似ている。マルクス主義における経済学的な問題から、存在論的な問題へと引きこもる点においても

○内容

デリダの論述のテーマ
・革命的出来事に「メシアなきメシア的なもの」「メシアニズムなきメシア性」という聖書に基づく言葉を使うことについて
・「存在論」という遺産について
・文学性について
・自分は免れているという思い込みの上になされる、行為遂行性の始原にある不純性について
・階級、組織、党に、言及していないようにみえることについて


・「マルクス主義」は、いったい誰に所属しうるのか?
・行為遂行的なものの脱構築が、ながらくデリダのテーマであった

・ハムレットとマルクスにおける、家父長制的男根ロゴス中心主義批判
・亡霊的血筋の分析の中心に、女性そして性的差異の問いがある

・『友愛のポリティクス』における「同胞愛」に向けられた脱構築的批判。『友愛のポリティクス』と『マルクスの亡霊たち』はともに、〈息子/父〉という対のみならず、〈兄弟/兄弟〉という対をもその対象とした一種の批判であった。マルクスとシュティルナーはヘーゲルの息子であり兄弟であるが、シュティルナーは出来の悪い方の息子である

57・「宗教に関する問いは今日ではすでに片のついた明白なものになっているなどと考えてはならない。「宗教的なもの」や「準宗教的なもの」の何たるかを知っているかのようにふるまってはならない。特に、マルクス主義者でありたいと望み、マルクス主義者であると自称するならば、そんなことをしてはならないのだ。」
58・「あらゆる喪の仕事の中には隠喩化の過程があろう(圧縮ないし置き換え、内化ないし取り込み、ここからさらに、死者への同一化、再ナルシス化、理想化等々)。」

64・「……問題含みに思えたのは、現在「継承」[=相続]されているような社会階級概念に見出される、「差異化」の不十分な性質のことだ」

77・精神分析と政治とを接合しながら死と喪の経験、亡霊化という経験を考慮に入れた問題系を動員しなければいけない

・亡霊的論理は、形而上学的ではなくて「脱構築的」だ
81・「抽象化としての「形而上学」を前にしても同じことだ。例えば、官僚制化というのは、抽象化と亡霊化の現象でもある。」
86・「二、美学あるいは「個人的な美的趣味」に逃げ込むには、哲学における「体系性」の観念に対して問いを投げかければ済むわけではない(体系とは、一貫性ないし「無矛盾性」という、哲学史においてもかなり後になって採用された形態にすぎない)。私はこれまで、「体系」や「美学」といった伝統的カテゴリーに対しては、「脱構築的」な身ぶりを何度も繰り返してきている」
89・メシア性はユートピア的ではない。「それは、あらゆる今ここにおいて、最も具体的かつ最も現実的な出来事の到来を、つまり、何ものにも還元しえない最高度の異質性をそなえた他性を指示対象とするものだ」
91・「それは、事物や時間や歴史がいつものように流れているその流れの中断を今ここで命じてくるのだ」

104・「マルクス」とヨーロッパ的、ユダヤ‐キリスト教的文化は切り離せないものだ(?)
・いかなる宗教批判も、信仰一般には打撃を与えない。「メシアニズムなきメシア的なもの」という表現は、信仰と宗教との間の差異を翻訳するのに好都合である

110・「マルクスは亡霊的論理に訴えかけながらも、その手続きを再‐存在論化し、自らの諸概念を再‐哲学化することによって、亡霊的論理に訴えかけることの適切性と力とに制限を加えてしまっていた」
・ネグリとマルクスは、存在論的であるがゆえにいまだ形而上学的である

113・ネグリ「我々は、マルクス主義の存在論、そしてとりわけ搾取をめぐるこの存在論的説明が、すでに時代遅れのものであると考える点には同意する」

114・『弔鐘』……「私は喪の仕事[=労働]の概念を一般化して、そこから労働一般と同じ広がりをもつ概念を作り出している」

117・「たぶん搾取の古典的概念は、何らかの脱構築的乱流を被っている(ここには再び存在論についての問いがある。そして、それゆえ、固有なものについての問い、我有化可能なものについての問い、固有なあるいは疎外された主体性についっての問い、そして私がさまざまな機会に脱‐我有化[ex‐oppropriation]と呼んでいるものについての問いがある――脱‐我有化の論理は、搾取と疎外についての伝統的言説を特異な仕方で複雑化する)」

119・存在論……「すなわち、それは現前する存在者が、単に欠如であるのみならず確率でもあるようなものに従って欠如しているように思われる――つまり差延〔differance〕だ――まさにその場所で、現前する存在者の充溢せる現前を、再構成し、救い出し、埋め合わせるための喪の仕事のことだ」

・「新世界秩序」の十の「傷口」(失業、ホームレス、経済戦争、自由市場の諸矛盾、対外債務の深刻化、軍需産業、核兵器の拡大、民族間紛争、旧東欧諸国を含む全世界に広がるマフィアやドラッグ、国際法の限界)

172・フレデリック・ジェイムソン「マルクス主義が哲学であることはありえないし(なぜなら、その中にある実践と理論との統一性がそれを妨げるから)、いわんや、唯物論哲学などではありえないのとまったく同様に、脱構築もまた哲学ではない」

182・ネグリ「……デリダは、倫理的な蜂起よりも、倫理的でしかも匿名のインターナショナルの方を信用している」

201・國分功一郎「マルクスには、二つのパースペクティヴ、憑在論的なそれと存在論的なそれとが混在している。したがって、デリダのマルクス読解の第一の課題は、存在論が覆い隠している亡霊的な契機を明るみに出すこと、そして、諸関係の効果という「起源」を隠蔽するとともに、実体的本質なり存在なり現前なりを捏造する存在論のふるまいを告発することであるだろう」
・存在論――亡霊的なものの存在化
・存在論批判――存在がもつ亡霊性の暴露
・憑在論――亡霊的なものの不可避性の認識、亡霊が存在化される必然性の分析、存在化への抵抗
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