文芸評論は幻に殴られる 

インターネット接続の調子が悪い
回線がつながらないのだ
困った
とりあえず、常にウェブに接続していないと、どうも気持ちのおさまりが悪い

10年前の浪人時代、ずっと引きこもりの生活を送っていたことがある
そのころ、ぼくはコンピューターを持っていなかった
同じ引きこもりであっても、ウェブのある時代の引きこもりと、ない時代の引きこもりではずいぶんその生活の実態が異なるのではないか?
その方面の研究もなされてほしい

ウェブに接続できないのは、もしかしたらぼくの精神状態を、ぼくのコンピューターが反映しているのかもしれない
コンピューターは、ぼくの脳みたいなものである
外部と内部をつなぐ回路が断線している
時間と空間が奇妙にゆがんでいて、世界がうまく認識できない
離人症気味である
10年ぶりの経験だ

自分はどんな位置に、どんなふうに存在しているのか
それを把握することはひとつ、文学や文芸評論の役目であろう

文芸評論で本を出すことはできない
今年、文芸評論書で出されたものは何があった?
新人賞の審査員などをやっていて、出版社のために貢献している批評家さんだけが、文芸評論書を小部数出せるだけだ
ほかの人に割り込む余地はない
そんな話をしばしば聞いた

・文芸評論とは何であるのか。文芸評論と哲学の関係はどうなっているのか。文芸評論が社会学にとって代わられたのはなぜか。今の時代に、文系学問が存在する意味はあるのか

・ウェブにおけるテクストは、どのように過去の日本のテクストと接続していて、どのように切断しているのか。ウェブは政治や社会や人間のあり方を変化させうるのか

・ 現代サブカルを扱う批評家は東浩紀に一元化しているところがある。アキバ系を扱う人はもう一人くらいいてもよい。漫画やアニメはどのように海外で消費されているのか。経済的・文化的に、それらは他国に何らかの影響を及ぼしうるのか

それらの内容を持つ評論書なら、ぼくは興味が持てるかもしれない

ぼくらは、ぼくらの生きる時代を愛せるのだろうか
ぼくらにとって、本当に、他者は存在しているのだろうか
言葉を発するのに臆病になるくらい、他者と切断されている感じがしたりする
ぼくらの生き方を代表した思想というものを、何かしら存在させうることは不可能なのか

全共闘世代の人に殴られそうになった
殴りたいと思える他者がいるのは、うらやましい

「幻をなぐる」という小説を最近読んだ
内容は忘れてしまったが、すばらしいタイトルだ
しかし、幻を殴っていてもしょうがないだろう

ぼくは幻に殴られる
ぼくは殴られることを恐れて、いつも土下座をしていたい
この世のすべてはみんな嘘であるとしか思えない
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