ジジェク『操り人形と小人』 

<だれもがわたしに向かってこう言うことができる
「わたしには、わたしに快楽をもたらすあらゆるやり方を使ってあなたの身体のあらゆる部分を享受する権利があるのだ……」と

<欠如を抱えた弱い存在だけが愛する力をもつ

操り人形と小人―キリスト教の倒錯的な核操り人形と小人―キリスト教の倒錯的な核
(2004/10)
スラヴォイ ジジェク

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○感想

恋愛哲学として面白い
過激

ユダヤ人って、なんなんだろ
ユダヤ教とキリスト教の差異
パウロの問題

○内容

・史的唯物論的分析は、いまや表舞台から姿を消してしまった

(デリダの『マルクスの亡霊たち』的な)神学的な次元は、「「世俗化以後の」メシア的転回という意匠のもとで息を吹き返している」

ベンヤミン『歴史哲学テーゼ』……「『神学』と呼ばれる操り人形は、いつでも勝つことになっている。今日では周知のように小さく醜くなっていて、しかも人目をはばからねばならない史的唯物論の助けをうまく得られるならば、その人形は、誰とでも楽々と渡りあえるのだ」

宗教には治療的役割と批判的役割がある

ヘーゲル『信仰と知』における宗教の三様態
「民衆の宗教」「実定的な宗教」「〈理性〉の宗教」

・イエスとマルクス、パウロとレーニンは似ている?
・パウロ、レーニンは偉大な制度設立者か?

・パウロはユダヤ的伝統の内部から読まれるべき?

・シェリングにおける、キリストの人間化への問い
・チェスタトン『正統とは何か』
・人間の神からの分離と、神の神自身からの分離
・アダムの原罪は、神の策略?
・ユダの裏切りは、キリストにとって折り込み済みのこと?
・キリスト教は、信奉者に裏切りを要求していた?
・チェスタトン「仏教徒は、一種独特の集中力をもって内面に目を向ける。キリスト教徒は、熱狂的な集中力をもって外部を凝視する」

・「仏教用語でいえば、ラカン的行為は、〈悟り〉を、ニルヴァーナへの到達を、構造的に裏返したものである。つまりそれは、〈空無〉を壊乱し、世界に〈差異〉(そして、それとともに仮象や苦しみ)を出現させる身振りそのものである。したがって、行為は、ニルヴァーナに到達したあと、他のすべてのひとがニルヴァーナに到達するのを助けるために同情心に駆られて――すなわち、一般的な〈善〉のために――現象的現実に戻ってゆく菩薩の身振りに似ている。精神分析との違いは、菩薩の犠牲的身振りが、精神分析の立場からみて誤っている、という点にある。本当の意味での行為に到達するためには、〈善〉を参照することをやめるべきであり、ただ行為のためだけに行為をするべきなのだ。」

・キリスト教の神における「ギャップ」
・ギャップ――差異は「純粋な」差異であり、差異そのものである
・一神教は〈二〉をめぐる唯一の論理的な神学である
・根源的差異とは、一者がかかえる自己差異であり、一者がみずからと、みずからの場所と一致しない状態である
・レヴィナス的‐デリダ的他者には一者におけるギャップが存在しない

・レーニンによる革命的暴力―「愛の業」と、日本における「戦士の禅」との差異とは?
・仏教の立場は……〈無関心=無差異〉の立場
・キリスト教的愛は、〈差異〉を、存在の秩序のギャップを導入しようとする立場である
・愛による選択は、すでに暴力であり、対象をその文脈から切り離し、それを〈モノ〉の位置にまで高める

・デュラスにおける恋愛……「敵」の必要性
・イデオロギー的な大〈他者〉の存在を疑うポストモダン的懐疑に対しては、存在しないのは主体のほうである、と答えるのが正しい対応である

・太陽が翌日も昇るようにするために犠牲者をささげるアステカの民族
・人間は、知ることを嫌う……?
・「他者の知についての知」
・キリスト教は、代償を払わずに欲望にふけるための戦略を提示している?
・ひとが何かを犠牲にするのは、他者から何かを得るためではなく、他者をだますため、自分は何か、つまり享楽を依然として欠いているということを他者に納得させるためである
・禁止の力はカントとともに失われた。サド的倒錯は、カント的な妥協の結果として現れる
・一夜限りの情事はどんどん楽しむべきかも……対象aはどこにある?

・糸巻きは、母親の代役ではなく、対象aの代役だ(?)
・「わたしはあなたを愛している、しかし、あなたのなかには、あなたを超えた、私の愛する何か、対象aがある。だから、わたしはあなたを破壊する」
・いないーいた遊びは、母親の不在のトラウマに対して行われるのではなく、母親に抱擁された息苦しい状態から逃れ、欲望のための開かれた空間をつくろうとするためになされる
・「だれもがわたしに向かってこう言うことができる。『わたしには、わたしに快楽をもたらすあらゆるやり方を使ってあなたの身体のあらゆる部分を享受する権利があるのだ……』と」
・サド作品におけるカント的定言命令をラカン流に表現したもの
・ここでの他者は、母である

・他者のこの圧倒的享楽は、象徴的去勢を通じて局所化されたファルス的享楽へと止揚される
・「……われわれの経験的現実に内在する矛盾を発見したカントは、この矛盾を受け入れるかわりに、〈モノそれ自体〉という、それとは別の接近不可能な真の現実を措定せざるをえないと感じた……」
・「……ラカンにとっては、(トラウマという)〈現実的なもの〉も「逸脱」である。」「そして、セクシュアリティ(人間という動物にとっての〈現実的なもの〉)もまた、そうしたゆがみではないのか。」
・キリスト教において、死者の復活は、未来におこることではなく、いまここに存在している何かである

・ラカンにおけるドストへの反論「〈神〉がいなければ、すべてが禁じられる」
・アガンベン『残された時間』
・欠如を抱えた弱い存在だけが愛する力をもつ
・ベンヤミン「メシア的時間」パウロと革命党
・脱構築は、ラディカルになればなるほど、脱構築の脱構築不可能な内的条件に、〈正義〉というメシア的約束に、ますます依拠せざるをえなくなる
・アウシュビッツにおける「回教徒」を、私たちと同一視してはいけない。それはキリストである
・出来事に参加しうるかしないかで、動物か否かが決まる
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