ドゥルーズ『フーコー』 

フーコー (河出文庫 ト 6-6)フーコー (河出文庫 ト 6-6)
(2007/08)
ジル・ドゥルーズ

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<おかしいです。A=Aになっていません。命題が成立しません
<それじゃあしょうがないぴよ。恋を知ることも「外」を知ることもできないぴよ

◎感想

ドゥルーズの本は難しくてどうせ理解できないだろうと思っていたが、この本は初めて感心した

・「権力」のとらえかたがいい
これを日本の女性文学なんかに適用したらどうか
それを評価できる教授がいるのかどうかは知りませんけれども

◎1986年発表されたもの
・1984年、フーコー

◎以下の三幅対を押さえて読むと分かりやすい

「言表」 ⇔ 「可視性」
    自己(襞)
     ↑
「権力、ダイアグラム、外」

○「訳者後記」を先に読んだ方が良い

フーコーは『狂気の歴史』『臨床医学の誕生』『言葉と物』をふり返りながら、『知の考古学』を書いた
・『監獄の誕生』『知への意志』は権力の問題を性、生政治学のほうに移動させる提案として、積極的に読まれた
ドゥルーズは、『知の考古学』における「言表」と、『監獄の誕生』の「可視性」の二つを特に扱ってフーコーを論じている

ドゥルーズフーコーとともに、現象学を批判する
・現象学はまさに「言表」の彼方に、「可視性」を想定したからだ
・「言表」と「可視性」で地層化されない次元をドゥルーズは「権力」と呼び、「ダイアグラム」とも名づけている
・「ダイアグラム」は『千のプラトー』の中心概念のひとつであった
・フーコーはその仕事の最後に、「権力」から「自己」に問題を移している
ドゥルーズは、この「自己」を「襞」として定義している

261「……『意味の論理学』で彼は、論理学的命題とも、言語学的な意味作用とも異なったところに「意味sens」を定義し、それを「物の状態」(可視性)と断絶した「表層」として提出している。ところがフーコーの「言表」にもそのような反言語学的、反論理学的次元を見ると同時に、やはりフーコーに忠実に、ドゥルーズはあくまで「言表」を、ある実定性、プラグマティスムにかかわるもの、ある「機能」として捉えてもいるのだ」「言語のプラグマティスムは、こうしてドゥルーズの中で、実に大きな主題に成長していった。そしてフーコー論の最後では、未来の人間とは「言語‐存在」にみたされる人間である、と述べて締めくくっている」
(→可視性と言表の齟齬、乖離が『意味の論理学』の一つの主題であったということ。そして、フーコーも、これと同種のことを課題としていた。しかし、「言表」は、プラグマティスムでもあるとのこと)

262「『臨床医学の誕生』はすでに「身体」をめぐる医学の言表がいかに「身体」を新たな「可視性」として構成したかを考察している。」「一方には調教される身体があり、それはいわば「可視性」の次元にあり、たえず「可視性」として形成され調教される。「可視性」とは単に視覚にかかわるのではなく、あらゆる知覚の形成にかかわり、いわば知覚とともに身体を形成することでもある。身体は調教され、生は監視される。権力は精密に組織されて、身体と生に対する権力となり、しばしばむき出しの暴力となる。「器官なき身体」は、そのような監視と暴力の外にある力の次元である。」

(→可視性は権力に支配される。可視性を逃れた「器官なき身体」が求められる)

・生はたえずビオスとゾーエの間で振動している。しかし、そのような形の外の次元で、「器官なき(単なる)生の場所」が広がっている

☆「古文書からダイアグラムへ」
◎「新しい古文書学(『知の考古学者』)」

15「……フーコーは、言表は本質的に、_¨希少な¨_ものであると説明している。事実上希少であるだけでなく、理論上も希少なのだ。言表は、ある希少性の法則、効果と切り離すことができない。このことは、言表を命題と文に対立させる特性の一つでさえある。なぜなら、命題はそのタイプ別にしたがって、ある命題を他の命題の「上」におきながら表現できた分だけ、望みどおりに把握することができる。そして、形式化はこのようなものとして、可能性と現実性を区別する必要などなく、可能な命題を増やしていくだけでいい。現実に言われる事柄については、その事実上の希少性は、ある文が他の文を否定し、他の文を阻害し、これに反発し、これを抑止するところからくるのである。したがって、おのおのの文はやはり、この文が言わないことのすべて、仮想的、潜在的内容をはらんでいる。このような内容は、ある「隠された言説」、理論上の真の富を形成しながら、意味を増殖し、自らを解釈に委ねるのである。」

18「重要なのは、言表の_¨規則性¨_である。一つの平均ではなく、一つの曲線が重要なのだ」

18-9「言表を生み出すだめに、特定の誰かである必要はないのである。そして言表は、どんなコギトとも、言表を可能にする先験的な主体とも、言表を最初に発する(あるいは再開する)「私」とも、言表を保存し、流通させ、また更新する「時代精神」とも関係がない。一つ一つの言表に対して、実に様々な主体の「場所」が存在する。」

25「サルトルは言った。恒常的な睡眠の諸要素とも、覚醒時の普通の世界ともちがって、一つ一つの夢は、夢のイメージは、それに固有の世界をもっていると。フーコーの言表は夢に似ている。」(サルトル『想像力の問題』)

26「言表は、様々な非等質的体系が交差するところにその概念をもち、あるいはむしろそれに固有の言説的「図式」をもち、これらの体系のあいだを、根本的な機能として貫通するのである。例えば、ある時代の、またはある言説的形成における、医学的言表による徴候の様々な分類と区別(例えば、十七世紀における狂気、そして十九世紀における単一狂の出現……)。」

29「「種は変化する」は、十八世紀の博物学で定式化されるときと、十九世紀の生物学で定式化されるときで、同じ言表ではない。そして、ダーウィンから、シンプソンにいたるときも、この言表が、同じままであるとは限らない。同じ記述が全く異なる測定の単位、距離、配置、制度などに価値を与えるからである。」

36「主体は文に関わり、弁証法的であり、言説を開始させる一人称の性格をもっている。ところが言表は主体を三人称においてのみ、そして、派生的な機能としてのみ保存する無名の根本的な機能なのだ。」

40「フランソワ・エヴァルドは、フーコーのコーパスは出典のない言説」であり、この古文書学者はできるだけ偉大な名を引用することを避けている、と言っているが、これは正しいのである。つまりフーコーは、基礎となる語、文、命題を、構造によって選択したり、それらを生み出す主体‐作者によって選択したりするのではなく、それらが一つの集合のうちに実現する単なる機能によって選択するのである。」


40-1「……一度コーパスが構成されると(コーパスは言表について何も前提しない)、私たちは、言語がこのコーパスに集中し、コーパスに「落ち着く」ような仕方を限定することができる。それは『言葉と物』が語った〈言語の存在〉であり、また『考古学』が語った〈言語が存在する〉であり、それぞれの集合にしたがって変化するのだ。それはまた、考察されるコーパスにしたがって、いろいろな様相を呈する無名のつぶやきにほかならない〈誰かが話す〉である。」

◎「新しい地図作成者(『監獄の誕生』)」

56「マルクス主義のイメージではまだピラミッド状に存在しているものにかえて、機能的ミクロ分析は厳密な内在性をうちたてる。このような内在性においては、権力の焦点や規律の技術は、たがいに分節しあう数々の線分を形成する。一つの群衆に属する個人たち、身体と魂は、この線分を通りぬけたり、そこにとどまったりする(家族、学校、兵舎、工場、必要なら監獄も)。権力「一般」の特徴は、超越的な統一性ではなく、その領野の内在性であり、包括的な中心化ではなく、その線の連続性であり、区別された全体化ではなく、その様々な線分の隣接性である。つまり系列的空間である。」」

64「つまり刑法は、犯罪について〈言表可能なもの〉に関わるのである。刑法は、違反を分類し、翻訳し、刑罰を計算する言語の一体制である。それは、言表の〈族〉であり、また敷居なのである。ところが、監獄の方は〈可視的なもの〉に関わっている。」(刑法→言表/パノプティコン→可視的なもの)

66「言表可能なものと区別されるこの可視的なものの形態は、フーコーの全著作のたえまない関心であった。」

67「一九六八年は、なんと興味深い線のねじれであったことか。無数の逸脱でできた線! ここから書くことについて三つの定義が生まれる。書くことは抵抗すること。書くことは生成すること。書くことは地図を作ること。」

☆トポロジー、「別の仕方で考えること」

◎「地層あるいは歴史的形成物、可視的なものと言表可能なもの(知)」

99「言表はシニフィアンのシステムよりは、はるかに音楽に近い斜線をしるしながら、様々な単位と交錯する機能なのである。」(言表とシニフィアンは異なる)

「表現がシニフィアンでないように、内容はシニフィエではないのである。内容は物の状態ではなく、指示対象でもない。可視性は、視覚的要素あるいはもっと一般的にいう感覚的要素、性質、物、対象、対象の組み合せなどと同じものではない。」

99-100「可視性は対象の形態ではなく、光や物に触れるとき明らかになる形態でさえない。それは光そのものによって作り出される光度(luminosite)の形態であって、この形態は物や対象を、ただ稲妻、きらめき、輝きとしてだけ存在させるのだ。」

104「フーコーは、言語を基礎づける三つの方法に反対する。」
・人称から始める方法
・シニフィアンから始める方法。
104-105「言語学における構造主義、「エスが語る」に対して、フーコーは、限定された言表のある集合や、あるコーパスが先行すると反論する」
・「また、根源的経験から始める方法、つまり世界と私たちとのあいだには根本的な共犯関係が存在しており、私たちが世界について語る可能性を基礎づけ、可視的なものを言表可能なものの土台としている、というものである」

114「カントの場合もすでにこのようであった。彼において、「私は考える」の自発性は、この自発性を必然的に他者として表象する受容的な存在に対して行使されるのだ。ところがフーコーにおいて、悟性の自発性つまりコギトは、言語の自発性(言語の「そこにある」)に場所を譲り、直観の受容性は光の受容性(空間‐時間の新しい形態)に場所を譲る。こうして可視的なものに対して言表が優先することは容易に説明される。」

114-5「カントとデカルトの大きな断絶はここにあった。規定の形態(私は考える)は、ある未規定なもの(私はある)に関与するのではなく、純粋な、規定可能なものの形態(時間‐空間)に関与するのだ。問題は、二つの形態、あるいは性格の異なる二種類の条件の整合ということである。私たちは、フーコーにおいて、変形されてはいるが同じ問題を再発見する。二つの「そこにある」の関係、光と言語、規定可能な可視性と規定を行なう言表とのあいだの関係という問題である。」

115「しかし、ブランショが、規定するものとして話すことの優先性を強調したのに対して、フーコーは、やや性急すぎるようにみえるが、見ることの特異性、規定可能なものである可視的なものの還元不可能性を保存するのだ。」

129「カントはすでに、このような冒険を通過したのだ。直観が、規定可能なものの形態に対立させ続ける、ということなしには、悟性の自発性はその規定を直観の受容性に対して及ぼすことがない。それゆえカントは、二つの形態の彼方に、本質的に「神秘的で」、それらの整合を〈真理〉として配慮することのできるような、第三の審級をもうけなくてはならなかった。それは想像力の_¨図式¨_であった。フーコーにおける「謎めいた」という言葉は、確かに全く別の集合のなか、全く別の分割のもとにあるが、カントの神秘に対応するのだ。しかし、フーコーにおいては、第三の審級が、規定可能なものと規定、可視的なものと言表可能なもの、光の受容性と言語の自発性を、二つの形態の彼方あるいはその内側に働きかけながら、整合させなくてはならない。」

◎「戦略あるいは地層化されないもの、外の思考(権力)」

131ー2「〈権力〉(Pouvoir)とは何だろうか。フーコーの定義は実に簡潔にみえる。権力は力のある関係なのだ。あるいはむしろ、どんな力の関係も一つの「権力関係」なのだ。まず権力は一つの形態ではない、例えば国家という形態などではないということ、そして権力関係は、知のように、二つの形態のあいだに成立するものではない、ということを理解しよう。第二に、力は決して単数で存在するのではなく、他の様々な力と関係しているということが、その本質である。したがってどんな力もすでに関係であり、すなわち権力なのだ。つまり力は、力とは別の対象や主体をもつことはない。私たちはそこに、自然法への回帰をみてとったりしないようにしよう。なぜなら、法とは一つの表現の形態であり、〈自然〉とは可視性の形態なのだから。_¨そして、暴力とは力に付随するもの、力から結果するものであって、力を構成するものではない¨_。フーコーは、ニーチェにもっと近い(そしてマルクスにも)。」

『監獄の誕生』における「〈一望監視方式〉」……「多数体は少数からなり、空間は限られ、あまり広がっていない」

『知への意志』……「何らかの多様体において生を統治し、管理するという機能」が考察されている
136「……多様体がこんどは膨大な数(人口)からなり、空間が広げられ、あるいは開かれているという条件のもとである。こうしてはじめて「確率的にする」ということが、権力のカテゴリーの中で意味をもち始め、確率的な方法が導入される。つまり、近代社会における二つの純粋な機能は、「解剖政治学」と「生政治学」となる。そして二つの裸の素材とは、何らかの身体と、何らかの人口となる。」「権力と知とのあいだには性質の相違があり、非等質性が存在する。」
136-7「まず、性質の違いがあるというのは、権力は形態を経由するのではなく、ただ力のみを経由するからだ。知は形成された素材(実質)と形式化された機能に関わり、これらは、見ることと話すこと、光と言語という二つの大きな形式的条件のもとに、一つ一つの線分として配分されるのだ。知はそれゆえ地層化され、古文書として保存され、相対的に硬い線分性をそなえる。権力の方は逆にダイアグラム的である。」

138「権力関係は_¨知られる¨_ということがない。ここでもまた、フーコーにはいくらかカントに似たところがあって、彼にとって、純粋に実践的な規定は、どんな理論的、認識論的規定にも還元できないのだ。」

138-9「知の地層化された関係の研究は、『考古学』のなかで頂点に達していた。権力の戦略的な関係の研究は、『監獄の誕生』とともに始まり、逆説的にも『知への意志』において頂点に達するのだ。」

144-5「知のカテゴリーは、見ることと話すことを通じて、権力のカテゴリーを現実化するのだ。」

153「知の背後に、現象学が願うような、起源的で自由な野性の経験は存在しないとすれば、それは、〈見ること〉と〈話すこと〉とが、いつもすでに権力関係のなかにまるごと捕らえられているからである。」

154
・三つの二元論
・デカルト、カントのように、二つのあいだに還元不可能な差異を強調する真の二元論
・スピノザ、ベルクソンの場合のように、一元論にむけて越えていくための仮の段階が問題になっている場合
・フーコーの場合。「……可視的なものと言表可能なものとが対立状態に入るとすれば、それは、おのおのの形態が、外部性の、つまり分散や散布の形態として、この二つを二つのタイプの「多様体」にし、どちらも統一性にもたらされることがない……」「つまり、言表は、言説的な多様体においてのみ存在し、可視性は、非言説的な多様体においてのみ存在する。そして、これら二つの多様体は、第三の、力関係の多様体、もはや前の二つを経由せず、あらゆる二元化可能な形態から解放された、拡散的多様体にむけて開かれる。」

◎「褶曲あるいは思考の内(主体化)」

193~
自己との関係の四つの褶曲
第一の襞……「私たち自身の物質的な部分に関するものであって、これが襞のなかに囲いこまれ、とらえられる」ギリシャ人における身体、快楽。キリスト教徒における肉とその欲望。
第二の襞……力関係の襞「……力関係が折り曲げられて自己との関係になるためには、いつも特異な規則にしたがわなければならない……」「結果をもたらす規則が、自然か、神的なものか、合理的か、美的か……によって、確かにそれは同じことではない。」
第三の襞……知の襞、真理の襞「……真なるものと私たちの存在との関係」を構成する
第四の襞……外の襞そのもの
・四つの襞は、目的因、形相因、動力因、質料因のようなものである
・フーコー『快楽の活用』

198「外の褶曲の出現は、西洋的な形成に固有のものと思われるかもしれない。東洋はこのような現象を示すことなく、外の線は、そこでは耐えがたい真空を通じて、漂い続けているのかもしれない。」「力の折り曲げのための条件は、自由人の闘争的な関係とともに、つまりギリシャ人とともに現われるように思われる。」

202「長いあいだフーコーは、外を時間よりももっと深い、終極的な空間性と考えていた。しかし、最後の著作は時間を外におき、襞という条件において、時間としての外を考える可能性を再び与えているのである。」

212「……〈権力‐存在〉は、私たちを別の要素に導いていく。形成しがたい、そして形成されていない一つの〈外〉に導くのだ。そこから、力とその変化する組み合わせが生じてくる。」「これは一つの浮遊する線であり、輪郭を作らず、これだけが、二つの戦う形態を交通させることができる。フーコーのなかには、いつもハイデッガーよりさらに深いヘラクレイトス主義があった。なぜなら、結局、現象学はあまりにも和解的で、あまりにも多くのものを賛美したからだ。」
「フーコーは、こうして外からやってくる基本要素、力を発見するのである。ブランショのようにフーコーは、〈開かれたもの〉よりも、むしろ〈外〉について語ることになる。」「ハイデッガーはたえず彼を熱中させたが、彼はニーチェを通じてしか、ニーチェとともにしかハイデッガーを理解できなかった(決して逆ではない)というフーコーの言明の重要性が、ここからやってくる。」

◎「付記――人間の死と超人について」

236「……十七世紀の思想家にとって、〈神〉という形態は組み合わせなのである。」
246「神の死についての最後の思想家は、フォイエルバッハなのである。彼は、神は人間の広げられた襞にほかならなかったのであり、人間は神を折り畳み、さらに折り返さなければならないことを説明した。」

246ー7「〈神〉が存在するかぎり、つまり〈神〉という形態が機能するかぎり、人間はまだ存在していない。しかし、〈人間〉という形態が現われるとき、それはすでに人間の死を、少なくとも三つの仕方で内包しながら、現われるのである。まず、〈神〉が不在であれば、人間はどのようにして同一性の保証者を見つけることができようか。また、〈人間〉という形態は、それ自身、有限性の襞においてはじめて成立した。つまりこの形態は、人間に死をもたらすものである(そして、そのことを私たちは、ハイデッガーの方法ではなく、死を「暴力的な死」という様態において考えたビシャの方法において見た)。結局、有限性の力それ自体は、生命の組織平面の拡散、言語の分散、生産様式の不均衡、などを通じてはじめて人間が存在するようにするのである。」

◎チェック
ドゥルーズ『千のプラトー』『襞──ライプニッツとバロック』『記号と事件』
フーコー『狂気の歴史』『臨床医学の誕生』『監獄の誕生』『言葉と物』『知の考古学』『知への意志 性の歴史1』『快楽の活用 性の歴史2』『自己への配慮 性の歴史3』
クロソウスキー『ニーチェと悪循環』
ニーチェ『力への意志』
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