大江健三郎「「人間をおとしめる」とはどういうことか」 

すばる 2008年 02月号 [雑誌]すばる 2008年 02月号 [雑誌]
(2008/01/04)
不明

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○「思想地図」派は、「作る会教科書」の運動を、「サブカルの文化」だと考えているのだろうか。 左翼も右翼も、「歴史」を「物語」だと把握している、といえるものなのだろうか。 大江の『沖縄ノート』が、作る会教科書の思想勢力の後押しを受けて、裁判に巻き込まれたことには、「歴史は物語」などといってもいられない、諸問題が潜んでいそうである

・一九四五年の沖縄戦のはじめ、慶良間列島で七百人に及ぶ非戦闘員が集団自殺した

・大江は『広島ノート』(1970)で、この事件における、日本軍の強制について論じた

・2005年8月に元沖縄戦指揮官および遺族が、大江健三郎、岩波書店を名誉毀損で提訴した。2008年に結審、3月に判決が出るとのこと

・藤岡信勝などの自由主義史観研究会が、南京虐殺説、従軍「慰安婦」強制連行説とともに、沖縄集団自決軍命令説を、日本軍を貶める教科書の記述として取り上げ、これを闘争対象とした運動を行なっていて、その過程で生じてきた裁判ともいえる(ウィキペディアより)

・自由主義史観研究会の運動の影響などもあり、歴史教科書には次のような変更が生じている。「文部科学省は今年3月、集団自決を強制とする記述について「軍が命令したかどうかは明らかといえない」との検定意見をつけた。その結果、「日本軍が配った手榴(しゆりゆう)弾で集団自害と殺しあいをさせ」との表記が「日本軍が配った手榴弾で集団自害と殺しあいがおこった」などと修正された。軍の関与自体はそのまま残されている(2007年10月4日、産経新聞)。」(ウィキペディア)


◎大江は『すばる』2008年1月号に、この裁判について「『人間をおとしめる』とはどういうことか――沖縄「集団自殺」裁判に証言して」というエッセイを寄せている

○大江の「名誉棄損」の根拠とされたのは、曽野綾子の『ある神話の背景――沖縄・渡嘉敷島の集団自決』の『沖縄ノート』の紹介によるらしい。大江の言い分によれば、曽野はまったくの誤読を『ある神話の背景』で行なっているようである

・大江は赤松元隊長の行為を「罪の巨塊」と書いている、と曽野は主張した

・しかし、該当部分にあたる『沖縄ノート』の記述は次のようなもの

○「人間としてそれをつぐなうには、あまりにも巨きい罪の巨塊のまえで、かれはなんとか正気で生き伸びたいとねがう」

・「あまりにも巨きい罪の巨塊」とは、渡嘉敷島の山中にころがった三百二十九の犠牲者たちの死体のこと
・「かれ」とは渡嘉敷島の守備隊長のこと

つまり、守備隊長を「罪の巨塊」だと言っているのではない、それは単純に国語の問題である、と大江は反論する

○また、原告側弁護士の徳川信一が『正論』(二〇〇六年九月号)に寄せた論文には、次のようにあるらしい

・「大江氏は、まず、どんな調査のもとに、何を根拠にして、赤松元大尉を「罪の巨塊」などと断定し、アイヒマンのごとく絞首刑にされるべきだと断罪したのかを弁明しなければならない。」

・大江は「アイヒマン」について、たしかに『沖縄ノート』で言及しているが、大江の意図した文脈とは、まったく異なったように徳川が誤読している

・実はアイヒマンは、公衆の面前で絞首刑にされることを望み、それを提案している

・二次大戦でのユダヤ人虐殺について「或る罪責感がドイツの青年層の一部を捉えている」とアイヒマンは聞き、「ドイツ青年の心から罪責の重荷を取除くのに応分の義務を果たした」いと考え、人々の前での絞首刑を主張した、とのことである(アレント『イェルサレムのアイヒマン』にもとづく)

・ドイツの青年には、ユダヤ人虐殺についての罪責感があるようだ。しかし、日本の青年には、沖縄での犠牲者について、罪責感がないようで、これは問題なのではないか。二国間の状況を対比させたい、というのが大江の意見であった

○また、曽野の『ある神話の風景』には次のような記述もあるとのこと

「むしろ、私が不思議に思うのは、そうして国に殉じるという美しい心で死んだ人たちのことを、何故、戦後になって、あれは命令で強制されたものだ、というような言い方をして、その死の清らかさを自らおとしめてしまうのか。私にはそのことが理解できません。」

・「国に殉じるという美しい心で死んだ人たち」とあるが、沖縄で「集団自殺」を強制されたひとたちをさす言葉としてとしておかしい

・また、「その死の清らかさを自らおとしめてしまう」ともあるが、この「自ら」というのは誰のことか。死んだ人が、「自ら」、自分の死の清らかさをおとしめるということなどできるものか。「清らか」というのもわけがわからないし、「自虐史観」はよくないよという判断に、いつのまにかすりかわってしまっている

◎しかし、大江の文章も晦渋で分かりにくい。45年から70年、70年から08年と、時代の価値観も大きく変わってきている。大江の「人間」概念や、文体にも、再考されるべき部分もあるかもしれない

・しかし、今、大江のような大きな仕事を、なんらかの文学者が行えるものなのだろうか。裁判の闘争の論点となるような、どんな文学が、どんな表現が、ありうるものだろうか?

・軍隊と民衆の関係を、三角構造でとらえること。それはこの文脈での大江の『沖縄ノート』にも見いだせる

○『すばる』は大江側を応援して沖縄特集を組んでもいる。『すばる』VS『正論』で論争が起こったりはしないのだろうか? どっちが勝ちそうでしょう? 皆さんはどっち派でしょうかね?

※参考資料
大江健三郎・岩波書店沖縄戦裁判 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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