東浩紀『郵便的不安たち』 

郵便的不安たち郵便的不安たち
(1999/07)
東 浩紀

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◎一九九九年刊行
東の23歳から27歳までの仕事
『存在論的、郵便的』の仕事の傍らで書かれたエッセイ・論文・対談などが収められている
「批評空間」派の一員としての東浩紀が観察できる
漱石論、ベンヤミン論、アニメ論、文芸時評がハイブロッドにまざり、内容・文体ともに試行錯誤のあとが見られる

◎この鼎談が重要。東浩紀、柄谷行人、浅田彰、大澤真幸による座談会「トランスクリティークと(しての)脱構築」(1998)

『存在論的、郵便的』(1998)がまとめられたことで、「批評空間」誌上でなされた対談である
驚くべきことに、この対談は、文庫で出された改訂版である『郵便的不安たち♯』には載っていない。単行本版にのみ所収されている。東にとっての黒歴史だったからか

・『存在論的、郵便的』に対する注意書きとして重要である。四者の立場の違いが明瞭に出ている。柄谷・浅田の『存在論的、郵便的』批判は、極めて興味深い。

○内容

・第一期のデリダ……(論理的)脱構築の人……72年頃
第二期のデリダ……テクストの戯れの人→東が評価……80年代半ば
第三期のデリダ……正義の人→高橋哲哉が評価

・東 柄谷行人『探究』は初期はいいが、後半は否定神学的である

・柄谷 ド・マン問題以後、デリダは、構造主義的ではない、「責任」と「主体」を自身の仕事に入れていくようになった。それが第三期デリダである

・柄谷 デリダの「郵便」というメタファーはラカンによるポーの『盗まれた手紙』論に由来する。東は「郵便」というメタファーをそこから離れて考えている

・柄谷 『探究Ⅰ』で考えていたのは、転移という事態から縁遠い、「無関心」である他者である

・柄谷 第二期デリダから第三期デリダへの移行は、ソ連崩壊のせいである。デリダが形而上学、プラトニズムと言っているのは、マルクス主義のことである。自分にとってのカント「統整的理念」と、デリダにとっての「メシア的なもの」とは無関係ではない

・東 「「幽霊」というのはデリダの文脈では、「エクリチュールに幽霊が宿る」「語に剰余が宿る」という意味で、つまり端的に言うと固有名の問題です。確定記述の束として名を定義する、ところがそれがパッと反転して、その名というのは確定記述の束以上の剰余をもってしまう。この剰余が幽霊ですね。貨幣における全体的価値形態と一般的価値形態の反転も形式的には同じことですから、さらに一般化すれば「幽霊」というのは、フェティシズムの生成原理を考えるために提示されたメタファーだと思います。」

・柄谷 ハイデガー、西田幾多郎、ラカン的構造主義もみな、カントの超越論的統覚の言い換えであろう。働きとしてはあるけれども、経験論的・存在的には無である

・浅田 円錐モデル、クラインの壺モデルはともに、単一モデル、一主体モデル、一国モデルである。単一のクラインの壺でいくと岩井克人の貨幣論で言うような「穴」としての貨幣といったものしか出てこない。コミュニケーションが先にあり、固有名というのはそこから発生する。クラインの壺モデルを『存在論的、郵便的』に導入するのは反対である

・柄谷 カントは、風景がサブライムなのは、そこに理性の無限性を疎外して見ているからであることを指摘した。初期マルクスの疎外論は、ここに由来しているのであって、ヘーゲルからではない


・大澤 東は転移をフロイトの文脈より拡張して、コミュニケーション一般の問題に拡げようとしている。だが、『存在論的、郵便的』の終盤に出てくるマジック・メモのモデルが社会性の問題になっているかが疑問である。転移を先において、幽霊の出てくるメカニズムとして考えていったほうがいいはずだ。フロイトにおいては、転移が起きたり起きなかったりすることが疑問なので、ここを広げて考察していくべきである

・柄谷 単一システムにおける「無」の働きは、超越論的統覚であり、垂直的なものである。しかし、「幽霊」といえば横の次元も入ってきて、他者性としての「無」となりうる。デリダにおける幽霊は、ベンヤミンにおける天使に似て、歴史上の敗者や死者のことを考えているのではないか

・柄谷 ジジェクは何でも「理解」してしまうのでよくない。ジジェクがラカンを使ってヘーゲルを理解するとき、たんにラカンをヘーゲル化しているだけだ

・東 『存在論的、郵便的』において、「否定神学と社会学のカップリングはよくない」という旨の話で念頭においていたのは、まずジジェクである。これは、超越論的な話と経験的な話とを分割しつつ共存させる暗黙のイデオロギーである

・浅田 資本主義においては、貨幣というゼロ記号がブラック・ホールとして欲望の整流器になり、知の形態においてもそのような虚焦点をもった否定神学が支配的になる。政治においても、最終核戦争が虚の焦点となり、世界秩序が成り立っていた

・東 カルスタ、ポスコロは経験的他者しか問題にしておらず、実証的・肯定的な神学である。超越論的他者を扱わなければダメだ。経験的他者→超越論的他者→複数化→経験的他者へと戻っていく、つまり、カルスタから否定神学を経て郵便的思考へと転回していくようでなければいけないのである

(・東と柄谷がキルケゴールの同性愛の話に触れ、浅田が話を流そうとする展開がウケる)

・浅田 マルクスにおいて、価値形態論は単一体系であるが、交通過程論においては複数体系になっている。ラカンにおいては、男性においては単一体系であるが、女性には複数性がある

・大澤 資本主義は否定神学だが、マルクス主義も否定神学であった。否定神学がなくなってしまうのも問題である

・柄谷 加藤典洋は湾岸戦争のときに柄谷がスターリン主義的であったとして批判している

◎チェック
高橋哲哉『デリダ』 第三期デリダが「メシア的なもの」を探究していることを紹介
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