高橋源一郎、田中和生、東浩紀 討論「小説と評論の環境問題 第二部」 

新潮 2008年 03月号 [雑誌]新潮 2008年 03月号 [雑誌]
(2008/02/07)
不明

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◎感想

東は「ウェブ的なもの」を「文学」概念へと組み入れ、現状の文芸誌を中心とした「文学」の概念を再考させることを狙っているようである

◎以下、討論「小説と評論の環境問題 第二部」『新潮 2008年 03月号』の流れを追う

東浩紀「キャラクターズ」のセリフを高橋が引用する

「小説とは、作家のためでも読者のためでもなく、ましてや編集者や書店員のためでもなく、なによりもまず、現実という単独性の支えを失い、可能世界の海を亡霊のように漂っている「キャラクター」という名の曖昧な存在の幸せのために書かれるのだということ、そしてそれこそが、文学が人間に自由と寛容をもたらすと言われていることの根拠なのだ――。」

作家、編集者、書店員と読者の関係はツリー型の構造であったが、ウェブにおける「キャラクター」はデータベース型の構造になっている

東はここで、作家、読者、編集者、書店員といった、既存のツリー型の文学制度や、日常生活を営む「私」というものから、乖離して動く「キャラクター」について言及し、ウェブ的な空間のなかに「文学」と「自由」を見出している

○田中の意見

・「近代文学」に対するアンチとして「ポストモダン」があった。「ポストモダンの文学」とは「世界の悪に損なわれた純粋で無垢な被害者からの告発」である。それらの例として、高橋の文学、東のキャラクター小説論、フェミニズム文学がある

・「……現在の社会では被害者としての語り口がなにかを主張するときにはいちばん通りがよいので、結果としてポストモダニズムは被害者としての語り口ばかりになりますね。だって誰も自分が「父」のような加害者だなんて認めたくないんだから。」

・ポストモダニズムにおいては、(東浩紀のような)「「父ではない」と主張する「父」が不死になってしまう」

○高橋の意見

「僕がものを書き始めた一九八一年頃には、妙な言い方ですが、まだ具体的な敵がいた。文壇は強大で、父性の残りもあり、極めて自然主義的な敵――否定すべき対象がはっきり見えいたので、それを倒すための戦略をずっと考えていた」

「おそらく村上春樹も村上龍も、敵と戦うための言語やツールを模索していた」
中上健次は「近代主義の究極的な小説」である

「僕のデビュー時は、日本の近代文学が曲がり角に来た八〇年代でしたが、少数者の書き手が多数者の読者を支配するという独裁制をどう倒すかが問題だった。つまり、一〇人の国宝的作家が書き、三千人の、三万人の、あるいは三千万人の読者がつくというフィクションが、純文学や文芸時評のシステムを支えてきたわけで」

高橋、およびマルクス主義にとっては、そのツリー型のシステムこそが打倒の対象であった

○東

「書かれたものはすべて文学である」

○田中

「それは究極のニヒリズムではないですか」

○東

「誰かが伝統をだしに「これこそが文学」だと自作を発表したところで、次の瞬間、それこそ数時間後に、そのテクストは断片化され、刻まれ、コメントをつけられ、世界中にばらまかれる」ものである

○田中

・文学は、自明なものとして存在しているわけではない。存在させようという意志がない限り、それは存在しえないものである

○東

「文学にかかわる人が増えれば、文学のイメージが増え、結果的に文学は拡散する」

○田中

「近代文学のシステムというのは、これが文学だと言ったやつを生存させるために使われてきたことが問題なのであって、そんなふうに「父」を守るのはやめましょうという態度が、ポストモダンのいいところだと思う」

「次に文学とはこういうものではないかと言おうとする人に殺されるために、これは文学だと主張する人間が必要」である

「文学について語るときのモラルとして、少なくとも自分はこういうものを文学だと信じるということを、間違える可能性を含めて示すべき」である

それをしない東は「無責任だ」

東と東の読者の関係は「近代主義」的でありつつ、東自身はポストモダニストとしてふるまうため、読者は「「父」である東さんを殺す手段がない」

東と東の読者における「ツリー構造」について、田中がチクリと批判している

◎まとめ

現在のウェブ界の状況を検討することで、ポストモダン社会というものを、東はよく解説しえている
現代社会の状況に適した形へと「文学」の側で動くべく、要請を出しているともいえよう
一方、東の批評は現状追認的なものかもしれない
ここでは、「批評」はなんらかの「倫理」と関わることができるのか、という問いが浮上する

東が繰り返し言及する「手紙の誤配」というのは、精神分析学における「転位」の問題とも重なる
人間がなんらかの「文学」を愛するというのは、ある側面から見れば、「転位」の現象である
現代社会には、「これへ「転位」しなさい」と名指すべきものがあるのか
「「これへ「転位」しなさい」と名指すべきものはないのだ」と、主張する行為自体が、一つの「父」として存在することを、どう評価しうるのかという問いも、チェックすべきであろう
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