ニーチェ『道徳の系譜』 

道徳の系譜 道徳の系譜
ニーチェ (1964/10)
岩波書店
この商品の詳細を見る


ニーチェ『道徳の系譜』を読んでいるところである。



ええと。
なになに?
第三論文の一節である。

カントは言った、「美とは関心なしに快いものである」と。関心なしにだ! この定義を、あの真の〈鑑賞者〉にして芸術家であったスタンダールが下したもう一つ別の定義と、比較してみるがよい、――スタンダールは、かつて美を、〈幸福の約束〉と呼んだ。とにかくここでは、カントが美的状態の唯一の特色として強調したところのもの、すなわち無関心性が、拒否され払拭されている。正しいのは、カントかスタンダールか? ――もちろんのこと、もしわが美学者たちがカントに味方して、美の魔力の下でなら一糸まとわぬ女人の立像すら〈関心なし〉に眺められうると、どこどこまでも主張してやまないとならば、彼らの無駄骨のほどをちょっぴり憫笑してやるがよいであろう。――芸術家の経験となると、こういう微妙な点にかけては〈より関心深い〉ものである。(信太正三訳、ちくま学芸文庫版)(下線部は、本文で傍点)



人間にはおしなべて「性欲」がある。
また、人間には「美」と感じられるものがある。
両者は同じものなのか。
異なるものなのか。
そんなことがここでは話題になっている。
思い浮かぶのは、次のような疑問である。
ニーチェにとって「美」とは何か、「性欲」とは何か。
カントにとっての「美」とは何か、「性欲」とは何か。
キリスト教にとって(同上)。
現代人にとって(同上)。
西洋思想を勉強するとき、それを取り巻く制度上の体制や、時代的文化的背景が重要になるのであろう。
当時のキリスト教の状況や、国家の状況を踏まえつつ考えなければいけなさそうな話題である。
「性欲」と「美」の差異。
日本の現代人でも、意見がわかれそうだ。
皆さんはどうでしょう?
ニーチェは何を言わんとしているのでしょうか。
スポンサーサイト
こんにちは。何となく調べ物をしていたら面白そうな記事があったので、少しばかり書き込ませていただきます。

>ニーチェとカントにとっての美

ニーチェが「関心なしにだ!」とカントを批判する時、ニーチェの考えている「カント的関心」と、実際のカントが考えている「関心」は実は違います。

「関心なしに認識などすること等出来ないではないか!」という批判をニーチェはしたつもりなのでしょうが、カントが否定する「関心」は、自称愛好家の「知的興味に基づいた虚栄の関心=間接的関心」な訳です。

カントが「関心なしの趣味判断…」という時と、ニーチェが「近視的な本能による美的判断は悟性に因らないが故に最高度の説得力を持っている…」いう時、実は二人とも同じことを言っているんです(笑)
[ 2009/01/25 00:16 ] 通りすがり [ 編集 ]
どうもコメントいただき大変ありがとうございます
参考にさせていただきます
[ 2009/02/21 21:29 ] 松平耕一 [ 編集 ]
このコメントは管理者の承認待ちです
[ 2009/10/22 00:20 ] [ 編集 ]
コメントの投稿














管理者にだけ表示を許可する
プロフィール

松平耕一

Author:松平耕一
○twitter登録名:matudaira
○ツイッターまとめ:http://twilog.org/matudaira
○Facebook登録名:松平耕一

☆文芸空間社企画
◎批評放送
・批評放送は松平のプロデュースする動画配信企画です。ツイキャス http://twitcasting.tv/matudaira 、youtubeなどで配信されます
批評放送@USTREAM

○松平耕一・文芸空間社・批評放送へのカンパ振り込み先は
・三菱東京UFJ銀行の吉祥寺支店普通口座1896022 マツダイラ コウイチ 宛になります

管理者ページ

FC2カウンター
ツイッター@matudaira
カレンダー
10 | 2017/11 | 12
- - - 1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30 - -
全記事(数)表示
全タイトルを表示
カテゴリー


  1. 無料アクセス解析
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。