○2001年刊行
○感想
・純文学の終わりと「SF的なもの」の全面化を説いた一冊
・純文学は「大きな物語」ありきのものである
◎本書の内容
○東の二つの問題意識
「近代ではオリジナルを生み出すのは「作家」だったが、ポストモダンでシミュラークルを生み出すものは何なのか?」
「近代では人間性を神や社会が保証することになっており、具体的にはその実現は宗教や教育機関により担われていたのだが、その両者の優位が失墜したあと、人間の人間性はどうなってしまうのか?」
○「ツリー型世界からデータベース型世界へ」
○近代の世界像(ツリー・モデル)
→小さな物語
大きな物語 →小さな物語 ←私
私は物語を通して決定される
→小さな物語
→ → → → → → →
○ポストモダンの世界像 a ――データベース型世界
小さな物語たち
データベースの深層 データベースの表層 ←私
私が物語を読み込む
○ポストモダンの世界像 b
大きな非物語
絶対的に見えないもの
深層
匿名的/統計的/集合的世界
← 小さな物語、見えるもの、表層、超平面的な世界←私
→
「過視的」な超越
見えないものへの遡行の失敗
○ポストモダンの二つの特徴
・「解離的」……122「近代の人々は、小さな物語から大きな物語に遡行していた。近代からポストモダンへの移行期の人々は、その両者を繋げるためスノビズムを必要とした。しかしポストモダンの人々は、小さな物語と大きな非物語という二つの水準を、とくに繋げることなく、ただばらばらに共存させていく」「ある作品(小さな物語)に深く感情的に動かされたとしても、それを世界観(大きな物語)に結びつけないで生きていく、そういう術を学ぶのである」「筆者は以下、このような切断のかたちを、精神医学の言葉を借りて「解離的」と呼びたい」
・「過視的」……158「_¨過¨_剰に可_¨視的¨_という意味を込めて筆者が作った造語で、見えないものをどこまでも見えるものにしようとし、しかもその試みが止まることがないという泥沼の状態を指している」
○四五年から七〇年までは「理想の時代」であり、七〇年から九五年までは「虚構の時代」である(大澤真幸)
・九五年以降は「動物の時代」である(東)
○ギャルゲー『Air』に言及
129・「……オタクたちの行動原理は、あえて連想を働かせれば、冷静な判断力に基づく知的な鑑賞者(意識的な人間)とも、フェティシュに耽溺する性的な主体(無意識的な人間)とも異なり、もっと単純かつ即物的に、薬物依存者の行動原理に近いようにも思われる」
130・「動物的な欲求と人間的な欲望が異なるように、性器的な欲求と主体的な「セクシュアリティ」は異なる。そして、成人コミックやギャルゲーを消費する現在のオタクたちの多くは、おそらく、その両者を切り離し、倒錯的なイメージで性器を興奮させることに単に動物的に慣れてしまっている。」
○ツリー・モデルと形而上学システム
・180ページ注「浅田の説明では、ツリー・モデルは前近代のモデルで、クラインの壺モデルこそが近代のモデルだということになるのだが、この両者はむしろ同じシステムの表裏であり、その表裏が一体となってツリー・モデルは維持されると考えたほうがよい」(『存在論的、郵便的』では)「ツリー・モデルが「形而上学システム」と、クラインの壺モデルが「否定神学システム」と呼ばれている」
◎チェック
岡田斗司夫『オタク学入門』
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