大塚英志『キャラクター小説の作り方』 

キャラクター小説の作り方 (角川文庫)キャラクター小説の作り方 (角川文庫)
(2006/06)
大塚 英志

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◎講談社現代新書版は二〇〇三年刊行、書き下ろしの補講を2講を加えた角川文庫版は二〇〇六年刊行

◎感想

東浩紀『ゲーム的リアリズムの誕生』のネタ本の一つ

・大塚は「キャラクター小説」を普遍的なものとしてとらえている。一方、東は「ゲーム」というものの構造に注意を促しつつ、現代のライトノベルの歴史的な新しさを強調する。東は、「大きな物語」をしばしば批判するが、大塚や新城アズマより、「大きな物語」のごとき観点をもって、「歴史的新しさ」「歴史的な事件」を語ろうとしている。ここには現代思想とWeb状況に詳しい東と、古典的な文学作品を読むことを重視する大塚・新城の差が露出している

・「文芸誌的な文学」への下剋上を狙う文芸評論書

◎内容(ページ数は講談社現代新書版)

○大塚における「自然主義文学」の定義とは

22・「「自然主義文学」とはこういうことです。「自然主義文学」とはぼくたちが生きるこの現実を写生のように写しとる文章の書き方を言います」

・「絵巻物の絵はいわゆる遠近法が採用されていませんし、浮世絵だったら人間の顔や身体はずいぶんと変な形に歪んで描かれています」

・「自然主義文学というのは文章で現実を正確に、まさに写真のように「写生」しようとした小説のあり方を言います」

○「スニーカー文庫のような小説」の発生を招いた新井素子の発想について、大塚は言及する

25・「彼女(引用者注・新井素子)はある新聞のインタビューで「ルパンみたいな小説を書きたかった」と答えています」

「この新井素子さんの思いつきは実は日本文学史上、画期的なことだったのです」

○大塚における「スニーカー文庫のような小説」の定義とは

28・「「スニーカー文庫のような小説」とは以下のように定義されます。

①自然主義的リアリズムによる小説ではなく、アニメやコミックのような全く別種の原理の上に成立している。
②「作者の反映としての私」は存在せず、「キャラクター」という生身ではないものの中に「私」が宿っている。」

○「キャラクター」と「パターン」

・『キャラクター小説の作り方』の「第三講」で大塚は「キャラクターとはパターンの組み合わせである」と主張している

65・「手塚治虫インタビュー「珈琲と紅茶で深夜まで」「ぱふ」七九年一〇月号」について。「手塚はここで自分のまんが絵とは「記号」だと言っています。そして「記号」とは「パターン」の意味であり、自分はパターンとパターンの組み合わせで絵を描いているのだ、とも説明しています」

79・「小説の中には極端に分ければ「写生文」的なリアリズムに基づくものと「記号」的なパターンの組み合わせに基づくものの二通りがある」

・「ぼくたちが目にする物語は「写生」的リアリズムと「記号」的組み合わせを相応の割合でミックスしたものです」

東浩紀『動物化するポストモダン』では、おたく表現をポストモダン文化の特徴としてあげているが、それは誤りであり、文芸史に広くあるものだ、と大塚は主張する

85・「……東浩紀くんの『動物化するポストモダン』のみを読み、今日のおたく表現はデータベースからの「萌え要素」のサンプリングによって作られていることがポストモダン的というか今日的だと単純に考えてしまわれるとちょっと困ります。中世の語り部や、この本では説明しまぜんが、近世の歌舞伎、そして戦後まんがと、その時代時代の物語表現は常にデータベースからのサンプリング、あらかじめ存在するパターンの組み合わせなのです」

○大塚の考える物語作りの普遍的なパターンとは

114・「「欠けている」→「それを回復する」というのが「お話」の一番根源的なリズムの一つ」である

・お話づくりにおいて、民話、昔話等は重要である

○大塚は、まんがやアニメは「死にゆく身体」を描くこともできることを重要視する

・手塚治虫はまんがやアニメの「死なない身体」に「死にゆく身体」を与えてしまったのである

・ハリウッド映画の主人公は死ににくい身体を持ち、写生的リアリズムの極地とも見える

・日本の記号的リアリズムは逆に「死にやすい身体」を抱え込んでいる。しかし、「スニーカー文庫のような小説」は「死にやすい身体」を描けていないことが、その可能性を狭めている

○TRPGを行うことは、小説の創作の訓練としてとても有効であると大塚は考える

○「キャラクター小説は「文学」であるべきだ」と大塚は考える

キャラクター小説というジャンルには、大きな可能性がある

・「多くの文芸誌的「文学」や、その志願者たちは今もなお、「私であること」を「文学を書くこと」で保証してもらおうと考えているふしがあ」る

302・田山の『蒲団』の芳子は「自分の「私」は仮構だったことに気づい」たが、「花袋以降の「私小説」は、そして、大抵の近代文学は今日に至るまで「文学」の中に「私」と記せば、そこに「私」があたかもあるように「私」が現れる、その「言文一致」という新しい文学のためのことばがもたらした仕組みの成り立ちについてすっかり忘れてしまったかのようです」

303・「ぼくはキャラクター小説を「作者としての私」ではなく「キャラクターとしての私」を自覚的に描く小説だ、と記しました」

・「「文学」が、「私」という存在がその起源において「キャラクター」であったことに無自覚な小説として今、あり得るのなら、キャラクター小説は「私」が「キャラクター」としてあることを自覚することで、いっそ「文学」になってしまいなさい、とぼくは主張することで、この小説講座を終えようと思っている」

・「「仮構の私」をあることにして、西欧の概念が先行して入ってきた「仮想現実」をあるものとして描いたのが「文学」だったとすれば、「文学」と「キャラクター小説」は実は明治期に同時に成立していたことにな」る

○「あとがき」における大塚のモチーフ紹介

307・キャラクター小説と「文学」は実は同じものである

・「戦後の文学がある時期からサブカルチャー化している、と江藤淳が語ったことを検証していくうちに」「そもそも、最初から「文学」はサブカルチャー文学=キャラクター小説であったのに、それを無理やり峻別したところに文学の「サブカルチャー化」という考え方が成立する余地があったのではないか」と気づいたのであった


◎チェック

新井素子
ニール・D・ヒックス『ハリウッド脚本術』
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