東浩紀「想像界と動物的回路」 

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(2007/04/14)
東 浩紀

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◎「想像界と動物的回路――形式化のデリダ的諸問題」(2000年初出)は、『文学環境論集 東浩紀コレクションL』の「essays」所収

◎感想

ハイデガーラカンデリダをセカイ系的に読解している感じ。デリダ『郵便葉書』『グラマトロジーについて』、ハイデガー『存在と時間』、ラカンを短い文章で簡潔にまとめたお得感あふれる論文

・東にとっての「動物」概念を理解するためにとても重要である

・この論の文脈でいうと、「動物」は必ずしも否定的な言葉ではない。東の思想全体にとって「動物化」っていいことなの? 「人間」であることはファシズムを招くことなのか?

デリダがダジャレ魔である理由がよくわかる

・ジジェクのラカン理解が輸入されているのだろうけれども、東のラカン論は正しいの?

・第二期デリダのなした韜晦は、冷戦下でこそ意味をもちえたのではないか? 冷戦終了後に第二期デリダのポストモダン的な身振りを利用することは、思想として有効なのか?

・サルトルと論争になったハイデガー『「ヒューマニズム」について』はどう評価しうるのか?

・市川浩の「身体論」なんかはどうなるの?

◎内容

○デリダ『精神について』とハイデガーの「動物」

・東は、デリダのハイデガー論『精神について』を取り上げる

・デリダは、ハイデガーが「動物」に与えた存在論的位置づけに注意を促している

・ハイデガー哲学は人間中心主義から手を切ったはずであったが、そこには実は再び人間中心主義が回帰している

・『存在と時間』は「人間」という概念を不必要にしたことが画期的であった

・ギリシャは、人間を「理性的動物」として、キリスト教は人間を「超越するもの」としてとらえてきたのが伝統であった

・しかし、そこでは定義の循環が起こっていて、「存在」への問いが忘れられている

・「存在」とはあらゆる存在者を存在者たらしめるシステムである

・「人間とは存在者の総体、簡単に言えば「世界」全体を産出するひとつのシステムなのであり、したがってそれをあれこれの性質を備えた存在者として規定して探究することはできない」

・伝統的人間学は存在者としての人間を扱うが、ハイデガーの思考は存在者総体を産出するシステムとしての人間、「現存在」を扱う

・存在者総体を産出するシステム(現存在)についての考察は、存在者総体がどのようにして存在するようになっているのか、その構造の抽象化によってのみ進められうる

・現存在は、「二重襞」という隠喩で呼ばれうる構造的な二重性を抱え込む

・人間は一方では世界全体を産出するが、他方では世界のなかの一事物である

・現存在はオブジェクト・レベル(存在させられている諸事物)とメタ・レベル(それらを存在させている根拠)とに同時に位置する

・ここには綻びが生じるが、この綻びについてのハイデガー哲学の考察は、ラカンにおいてさらに洗練されて継承されている

ラカンにおいて、141-142「……人間=主体の核(ファルス)は、世界を構築するシニフィアンの集合にただひとつ侵入するメタ・レベルのシニフィアン、「象徴界」の論理的不完全性からの必然的帰結として捉えられている。そこではもはや人間は、「世界が存在すること」の_¨数学的¨_構造そのものから導かれる効果のひとつとして、純粋に形式的に定義される」

・物と人間の区別を「存在者」と「現存在」のかたちへと形式化する。そうすることでハイデガーは人間中心主義を退けた

・しかし、デリダはこの点について疑問を提出している

・『形而上学の根本問題』でハイデガーは、「石は世界がない」「動物は世界が貧しい」「人間は世界を形成する」というテーゼを提出している

・「世界がない」と「世界を形成する」の対置はオブジェクト・レベルとメタ・レベルを往還するもの(現存在)の対置なのだから、その中間項は論理的に考えられようがない

・ハイデガーは物と動物と人間の区別を位階秩序を導入して説明している。そのため、形式性の消失と人間中心主義への回帰を招いているのだと、デリダは指摘している

・『存在と時間』の理論的パースペクティブにおいては、現存在の世界解意は「として」構造に先立たれている

・その構造があるからこそ、現存在は意味に満ちた世界に住まうことができる

・動物的経験は「として」構造の欠落により特徴づけられる

・現存在の世界解意が「として」構造に覆われているという主張は、現存在の世界が「意味」をもった諸記号、すなわち「言葉」により覆われていることを意味する

・たとえばハイデガーは次のように言う

・ハイデガー「言葉は存在の家であるがゆえに、私たちが存在者に到達するときには、たえまなくこの家を通り抜けている。泉へ行くとき、森を通り抜けるとき、私たちはもうすでに『泉』という語、『森』という語を通過している。たとえこれらの語を口に出したり、言葉のことを考えていないとしても」

・「現存在がつねにオブジェクト・レベル(世界)とメタ・レベル(存在)のあいだを循環してしまうのは、ハイデガーの考えによれば、現存在が森を通り抜けるとき、つねにそれを森_¨として¨_、「森」という言葉を介して経験するから」である

・存在者と現存在の区別は、世界を言葉によって覆われているものとみなすことでのみ成立していたのだと考えられる

・つまり、言葉を介さず世界との関係を持つ動物的経験は原理的に排除される

・このため、ハイデガーの形式性はある地点で躓き、人間中心主義へ、さらにはナチ・イデオロギーへと陥った

・「人間」の実体的な境界確定にはさまざまなイデオロギー的前提が侵入する

・「人間」についての思考をハイデガーとは別の形で形式化するためにはどうすればいいのだろうか?

○ラカンについて

・ここで、デリダのラカン論について注意を向けたい

・ラカンの理論はハイデガーに多くを負っていて、ラカンへの批判は間接的なハイデガー批判とも読めるからである

・デリダのラカン論は、「言葉」、すなわちラカンにおける「シニフィアン」が抱える問題が問われている

・ラカンは人間(主体)を動かす無意識的な欲動の構造を_^言語【ランガージュ】^_をモデルに捉えようと試みた

・無数の欲動はそれぞれシニフィアンに代理されるものと見なされ、それら諸シニフィアンの無意識的運動を規制するシステムが「欲望の形式」として探究される

・ラカンはそのシステムを「象徴界」と呼び、そこへの参入が人間的主体を成立づける条件だと論じた

・ひとは幼児期にはイメージに満ちた世界、「想像界」に住み、いまだ主体性をもたない

・イメージには現前しかないので、そこではひとは物の不在を対象とすることができない

・したがって必然的に、いまだ人間的主体を特徴づける欠如への欲望を抱くこともない

・幼児が「主体」になるには、

①不在を対象化可能にする「シニフィアンの論理」の導入

②その論理を用いて欲動の多形的運動の直中にひとつの絶対的欠如が穿たれる(去勢)

③絶対的欠如をノズルとして諸欲動=シニフィアンの流れが整えられ、ひとつのシステム(象徴界)へとまとめあげられる

といった発展段階が必要である

○デリダのラカン批判

・しかしデリダはラカンのこの論を批判する

・「デリダによればこの考え方は、一方で主体の統一性を脱構築しながらも(意識的主体が統御できない欲動=シニフィアンの自律的運動を想定するのだから)、他方で絶対的欠如の代理である特権的なシニフィアン「ファルス」を導入し、かつその機能を徹底して観念論化することで、主体の統一性を再び裏側から承認してしまっている」

・ラカンにおいてシニフィアンの同一性は理念性のもとに守られてしまっている

・デリダは欲動を表すものとして処理される単位(表象代理)を、シニフィアンよりもむしろエクリチュールとして、つまり、破壊可能性と誤配可能性に曝された物質的条件のもとで捉える

・デリダの『郵便葉書』では、手紙の隠喩でそれを語るのである

・デリダは表象代理をエクリチュールとして、つまり、欲動を文字として捉えた

・エクリチュール(文字)は理念的同一性に統御されず、たえず分割され誤配される

・デリダにおいては欲動はひとつにまとまらず、主体もたえず拡散している(散種している)

○ラカンの「想像界」

・ラカンにおいて、象徴界は欲動を代理する諸シニフィアンの集積、一種の言語構造を意味する

・現実界はその構造の直中にあいた「穴」、より正確には、その構造が縫合されるために不可欠な絶対的欠如(ファルス)が示す主体の無根拠性を指示する

・象徴界と現実界の関係は形式的、数学的なものであり、ゲーデルの不完全性定理が援用される

・他方、象徴界と想像界の関係は形式的ではない

・想像界の概念は臨床的に、「主体」の発展段階についての、あるいは各主体が抱く経験の質についての具体的考察から導かれている

・幼児が想像界しか知らないのは欲望が構造化されていない象徴界以前の段階にあるからである

・ラカン派以外の精神分析が想像界しか扱えないのは、ひとを駆動する無意識的な構造に注目せず、意識された経験の解釈のみに依存して、象徴界について無知であるためである

・ラカンにおいて、想像界は経験的概念であり、象徴界により克服されるもの、あるいは象徴界が意識=自我に差し出す効果を名指すものにすぎない

・ラカンにおける「想像界」は、ハイデガーにおける「動物」と対応している

・ラカンは「主体」の根拠を無意識の_^言語【ランガージュ】^_的構造化に求めたのであり、そこでは人間と動物の峻別がおこらざるをえない

・ラカンはセミネール『精神病』で次のように語る

・象徴界は人間に世界のシステムの全体を与える。人間が物を認識できるのは人間が語をもっているからである

・想像界は対象を性愛化する領域である

・人間存在における性的位置の実現化は、フロイトによれば、エディプスの関係を通過することと結びついている

・性的位置が実現化するのは、男性あるいは女性の機能が象徴化されるかぎりにおいて、つまり、その機能が想像界の領域から根こそぎにされ、象徴界の領域に据えられるかぎりにおいてなのである

・東の考えによれば、ここにはハイデガーが動物を扱う際に陥った(とデリダが指摘した)ものと同型の理論的困難、および人間主義の回帰が確認できる

・「象徴界」という概念の導入は人間の世界がシニフィアンに覆われていると考えること、物=存在者への接近可能性と命名能力を不可分だと見なすことを意味する。そこでは人間と動物は峻別される

・他方、「想像界」の概念の必要性は、人間と動物の連続性を示唆する

・ラカンはここで、正常に完成された人間的性愛の実現化という、目的論的モデルを再導入している

・人間的性愛は言葉を介しているがゆえに動物的性愛と異なると主張するこのモデルは、人間を「理性的動物」として捉えたギリシャ的規定と変わるものではない。動物において「世界は貧しい」と規定したハイデガーの身振りと対応している

・ハイデガーにおける〈存在者/存在〉といった形式化における動物の排除と同じ理論に従い、ラカンは〈象徴界/ファルス〉といった形式化において想像界を排除した

・ハイデガーにおいて言葉の特権化は前提であった

・ラカンにおいてシニフィアン(言葉)の優位は発展段階論のかたちで正当化されている

・人間における想像界、つまり、人間が世界とのあいだでイメージを介して結ぶ関係は、ラカンによれば、動物の想像界と異なり不安定である

・そして人間において、象徴界は、人間における想像界の不安定性、「裂け目」を埋めるために要請される

・象徴界による想像界の止揚、つまり、シニフィアンによるイメージの置き換えは、ラカンにおいて、欲動に対する同一性の付与として捉えられている

・イメージはつねに解体の危機に曝されている

・欲動の対象を「幻影」から「名」へ、つまりイメージからシニフィアンへ移動させることで、ひとははじめて欲望の宛先を同定する(同一性を定める)ことができ、またそれに呼応して「主体」の場所も定められる

○デリダにおいて

・159「デリダの「エクリチュール」という述語は、教科書的には、同一性を_¨もたない¨_記号の運動を指示するとされている」(「署名、出来事、コンテクスト」『現代思想』(88年5月臨時増刊号))

・表彰代理をエクリチュールに読みかえるというデリダの提案は、シニフィアンによるイメージの止揚がつねに失敗すること、欲望の宛先がつねに不完全にしか同定できないこと(誤配可能性)を意味する

・つまり、人間においては象徴界が完全ではなく、想像界(世界との動物的関係)が残存することになる

○デリダの『グラマトロジーについて』をラカン論として読むことができる

・扉の絵は、一方で、物を表象し、扉の意味として用いられ、他方で、「ト」という表音要素としても表れうる

・ひとつのエクリチュールはイメージであると同時にシニフィアンとして機能しうる

・これはあらゆる文字の一般的機能である

・この二重性から、ひとつのシニフィアンが音の分析を介し複数のシニフィアンへと解体され、さらにそれぞれのシニフィアンが今度は別々の物を指し示す可能性、つまりある対象の名指しが複数の諸対象の名指しへと解体する可能性が帰結する

・161「デリダがエクリチュールと呼ぶものは、物と音、イメージとシニフィアンのこの混同可能性である」

・シニフィアンがシニフィアン(記号)であるためには、必ずなんらかのエクリチュール(物質的側面)をもたねばならない

・しかしエクリチュールはつねにイメージへと転化する危険を抱え、そのことで逆にシニフィアンの同一性は原理的に限定される

・対象の命名、欲動の同一性は、シニフィアンのシステムによって保証されえない

・想像界と象徴界のあいだの往復運動、イメージ‐象徴代理(想像的対象)とシニフィアン‐表象代理(象徴的対象)のあいだを欲動が移動し、一方では欲動そのものが解体され、他方ではふたたび「同一的なもの」へとまとめあげられる、その運動をつかまえる分析装置が必要である

・『夢判断』のフロイトにおいて、夢は、抽象的観念が視覚象で表現されるものである。夢解釈はそれを訳しもどす

・ラカンはその対称性を形式化したが、その対称性、すなわちイメージとシニフィアンのあいだの往復そのものの条件については問うていない

・デリダにおいて、その条件が「エクリチュール」と呼ばれる

・ハイデガーとラカンは言葉を特権化した。ハイデガーにおいて、現存在的な世界形成と動物的な世界窮乏が混同され、ラカンにおいて、シニフィアンによる対象関係(象徴界)とイメージによる対象関係(想像界)の間の短絡が起こる

・デリダの「エクリチュール」について、再検討しなければいけない
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