荻上チキ×宇野常寛対談 

◎「「ゼロ年代の批評」のこれから──宇野常寛さんロングインタビュー - 荻上式BLOG」というエントリで、2008年2月7日に、チキが宇野に行なったインタビューを掲載している

「セカイ系」についてと、「ケータイ小説」と「ライトノベル」についての、宇野の指摘は興味深い
文芸評論的に重要

ここ以外の部分は、サブカルをチェックしない私にはピンと来なかった
全部を読むと長くて疲れる

◎内容・セカイ系について

・荻上 そもそも「セカイ系」という言葉を用いている文化圏というか価値観そのものが、「物語からの撤退」という前提のもとに写るリアリティだという指摘がされたということは、同時に歴史を語る視線自体も問われているわけです。例えばセカイ系などについての議論は、「かつてはこうだったけれどそうではなくなった」という喪失のロジックで語っている。

・宇野:セカイ系の話にしてしまえば、後期近代の物語は全部セカイ系という話になってしまう。つまり世の中には「広義のセカイ系」と「狭義のセカイ系」があって、広義の方に関しては、ポストモダン状況を前提にしたすべての文学がそうだということになる。それはほぼ意味がない言葉だし、それならセカイ系という言葉を使うべきではない。

・宇野:僕が批判的に検証している狭義のセカイ系は97、8年ごろからのトレンドでそれは物語が終わったという喪失感を前提としたオタク的レイプファンタジーで語られる作品群ですよね。

◎内容、ケータイ小説とライトノベル

○ケータイ小説はプロットが肥大、ライトノベルはキャラクターが肥大

・宇野:ケータイ小説については僕もちょっとチキさんと話したかったんですけど、今回の『PLANETS vol.4』にも少しだけ書いているんですが、例えばライトノベルというのも文体はない。変わりにキャラクターが肥大しているわけです。ケータイ小説の場合は、肥大している要素はプロットなんです。

・宇野:逆に言えば、プロットしかない。ちょっと遠回りな話になりますが、オタクの人がなぜ空気が読めないかというと、東さんとか伊藤剛さんの話って究極的にはキャラクター理論なんですよ。キャラクターというのは設定がすべてで、「○○した」ではなく、「○○である」がすべて。トラウマを負っていて、何が好きで、どういう喋り方をしてと。そしてキャラクターというのはどんな物語に登場しても丹下左膳は丹下左膳、ハルヒはハルヒとして揺るがないんです。ところが実際の人間のコミュニケーションって、例えばキレンジャーはデブで陽気な人間がなりやすいというイメージが世間一般にありますが、デブで陽気な5人だけ、例えば伊集院光、内山君、ホンジャマカ石塚、松村邦弘くんとかの中に新しくデブで陽気なキャラを入れたら、誰が黄色になるかはわからないわけです。あるグループにいけば、クールで知的な青レンジャーかもしれない、あるグループにいけばリーダー気質の赤レンジャーになるかもしれない。これが実際のコミュニケーションなんです。僕は引越しが多かったので、実感していることですが。

・荻上:進学したり、会社員になったりしても、実感することですね。

・宇野:でもこれって超常識で、いまさらいうようなことでもないですよね。でもオタクをオタクをたらしめている部分ってここだと僕は考えている。つまりオタクは、キャラクターが物語から独立して存在するということを、この3次元の世界でも信じている人たちなんです。だから彼らが浮くのは、自分の中で出来ているキャラクターを、あらゆる場面で通用させようとするから浮いてしまう。

・宇野:ケータイ小説って、逆に言えばキャラクターが存在し得ない空間なんです。

・宇野:双子にして正反対という関係。その両者は、普遍的なものの置き方は異なっている。ケータイ小説は人間の外側にあり、ライトノベルは人間のキャラクターにあると。で、今の時代にケータイ小説が強くなるのはしごく当然のことで、島宇宙化時代には、キャラクターというのは棲み分け易いけれど通りづらい。

・荻上:『DeepLove』にももちろん萌芽があるし、モバゲーでの連載小説を見てると、『恋空』以降の流れと言うのも意識されつつありますね。作品によっては微妙にキャラクター文化の力がちりばめられてたりもしていて、面白い流れだと思う。さっきのオタク分析ですが、多くのギャルゲーでは純愛や崇高な自然というものが描かれやすい。そして同時に、父が不在ですね。父が出てくる作品もありますが、そうではなくて、彼女のトラウマを何かで埋めようとしたときに、自らの小さな抱擁で埋められるという設定がされている。

・宇野:男根でしょ(笑)。自分がこのセカイで面白さが見つけられないけど、傷ついた女の子なら自分でも慰められるというレイプファンタジーです。

・荻上:それは、東さんのように『AIR』を「萌えの一歩手前」と評価しても変わらないわけです。

・宇野:「一歩手前」どころか、むしろ再強化しているというのが僕の批判です。

・宇野:キャラクターの過剰か、プロットの過剰かの違いですよね。キャラクターをプロットに置き換えるだけで、ケータイ小説の大体は説明できるし、そこに結構本質的な問題もあるというのが僕の見方ですね。

・荻上:そしてどちらにも「崇高なもの」が突如登場するんですね。『恋空』であれば、「みんなの幸せ」とか。その一致も面白い。

・宇野:キャラクター小説はオタク的なレイプファンタジーへ、ケータイ小説はKY的な暴力へつながっていく。当然、比喩ですけどね。

・荻上:岡田有花『ネットで人生、変わりましたか?』で、インタビューをされていたギャル社長こと藤田志穂さんが「ギャル=オタク」説を唱えていました。「ぶっちゃけギャルもオタク。好きなことしかやらない」「オタクもギャルも、お互いに対して同じことを思ってる。臭そうとか汚いとか気持ち悪いとか」と。僕も同じような意見を持っていて、それは『げんしけん』の笹原妹の役割なんかでも描かれていましたよね。ギャルとオタクの問題は、それこそ90年代からもテーマになってますけど、しかし何を「汚い」と思うか、つまり何を悪く、何を善と評価するかの置き所が違う。この対比に、都市論=トライブ論的な面白さはあると思う。

・荻上:自然主義についてはどう思いますか? 『ゲーム的リアリズムの誕生』についてでもいいですが。

・宇野:あれだけ東さんを批判している割に、その議論だけは僕は本質的だと思ったことが実はないんです。自己実現や承認欲求のベースをどこに求めているのかという違いでしかないと思っている。

・荻上:しかし例えば、自然主義的な描写のスタイルは、その文体によって国民国家の形成や、逆に権力性の批判として機能したという議論がある。だから公共圏について語る際、文学をどう位置づけるかという議論がひとつの役目をもっていたわけですよね。その歴史を前提にしすぎてそれが失効してしまったという議論や、あるいはそれらをフラットにして、自然主義、キャラクター、ケータイ、それぞれのリアリティのどれを取るかという問題だという議論にしてしまうと、意味が無いのではないかと思う。
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