現代思想にとって「東浩紀」とはなにか 

・とある方とお話をした。その方は、左翼運動や宗教に興味をお持ちのようであった。批評空間派をリスペクトしていたそうである。神の存在と自由の可否などについて私は言及した。左翼運動「NAM」なきあと、ポスト批評空間派の現状はどうなっているのか? 話題は、東浩紀に及んだ

・後日、その人は私のした東の話について、日記に書き記していた。それを読み、反省させられるところがあった。自分は、東の仕事について、うまく伝えられなかったのだなと

東浩紀以前、批評空間派以前の思想等について、親炙したことがある、ちょっと古い世代の方たち。それらの人々に、東をどう紹介すれば良いのか? 意外に難しい

・日本における批評の歴史は以下のようなものである。

小林秀雄→近代文学派→吉本隆明→江藤淳→批評空間派→

東浩紀派→ポスト東派
    ↑
   今、ここ

・東は、日本における批評史から、マルクス主義を完膚なきまで切断した。戦後最大の偉業? である

・思想に興味があるということと、左翼運動をやっていて当たり前である時代が、かつてあったらしい。思想と左翼運動と純文学の連結を解いたのが、東の仕事であった

・多くの若者の読者の支持を得て、思索する喜びを持続させた東の功績は大きい。とにもかくにも、「批評」というものを生きながらえさせたからである

・東の主張を簡単に知るには、次の文章を読めばいい。2005年の段階での、東の仕事を端的にまとめたものとして、もっとも明晰な文章であろう

◎「情報通信ジャーナル: 第9回 ポストモダン 情報社会の二層構造

・現在、私たちが住んでいるポストモダン社会は、どのようなものなのか? Web論やサブカル論への射程をにらみつつ、原理論的な考察を行なっている

○上記の文章をさらに短く、私なりに要点を書き抜くと次のようになる。以下は東の文である

・ポストモダンとは何か

・ポストモダン社会とは、全体性が失われた社会--より正確には、「全体性がある」との信憑が社会の構成員に共有されなくなった社会である

・確かにいまでも国家は存在する

・しかし、たとえば日本では年金問題や治安の悪化やニートの増加に現れているように、その全体性への信頼は大きく切り崩されている

・結果としていま起こっているのは、多くの日本人が、惰性的に日本というインフラに寄りかかりつつも、その全体性を意識せずにだらだらと--宮台真司風に言えば「まったりと」--生活し、アイデンティティの拠りどころは別に求めるという事態である

・それこそが筆者が「ポストモダン」と呼ぶ状況である

・インフラとしての国家は機能し続けるが、その機能は、かつてなく無意識化され不可視化されるようになる

・インフラと価値観の解離。これがポストモダン化の1つの帰結である。

・ポストモダン社会は、誰もが利用可能な必要最低限の共通サービスの上に、市民それぞれが自分の好みで選べる多様なコミュニティ・サービスが乗る、という二層構造を理想としている

・私たちはいま、多文化主義的な社会の理想にあまりに慣れている。しかし、つい半世紀ほど前までは、多くの社会では、性的志向や文化的感性の多様性はそれほど許容されていなかった

・インフラの層とコミュニティの層の分割は、グローバルな市場とその上に乗っかる国民国家としても、多文化主義国家とその上に乗っかる人種・地域共同体としても、あるいは、インターネットとその上に乗っかる多様な消費者コミュニティとしても読み解ける

・近代社会の市民が、自分のアイデンティティ(自我)と所属組織のアイデンティティ(超自我)を統合しようと不断の努力を繰り返す「抑圧的」な人格モデル(フロイトのモデル)を採用したとすれば、ポストモダン社会の市民は、複数のアイデンティティを使い分け、自分と組織を簡単に切り離す「解離的」な傾向を強くもっている

・さらに、「ポストモダンの社会」は、「2つのタイプの権力を使い分ける社会である」

・2つのタイプの権力とは、「規律訓練型権力」と「環境管理型権力」である

・人間集団の統治にあたっても、人々の人間性に焦点を当てるのか、動物性に焦点を当てるのかによって、大きく2つの統治方法がある。すなわち、一人ひとりのコミュニケーションや価値観に働きかけて間接的に行動を管理するタイプの介入方法(たとえば、忘年会に出席しないと社内で立場が悪くなるぞ、と空気を作り上げて酒を飲ませる方法)と、もっと簡潔に、快・不快に働きかけて直接行動を管理するタイプの介入方法(たとえば、部屋を熱くして水を与えず、ビールを注文させる方法)である

・規律訓練は人間を人間として内面によって管理する権力であり、環境管理は人間を動物として身体から管理する権力である。前者が価値観の層での秩序形成に、後者がインフラの層での秩序形成に大きな役割を果たすものであることは、あらためて指摘するまでもないだろう

・ヨーロッパの近代社会は人間中心主義的であり、規律訓練の整備を重視した

・それに対して、ポストモダンは価値観の多様性を原則としている。したがって、規律訓練では社会秩序は維持できない

・ポストモダン社会は、価値観の多様性を理想とし、規律訓練の影響範囲を小さなコミュニティのなかに閉じこめてしまった。だとすれば、大きな秩序形成は環境管理で行うほかない。したがって、監視社会の台頭は必然だと言える

・情報社会は、私たちをコミュニティ=人間的主体のレベルでは自由にするが、アーキテクチャ=動物的身体のレベルでは不自由にする

◎引用終わり
現状分析として極めて正当である
しかし、東の思想の功罪もまた、問われねばならないだろう

・私が考えてみたいのは、「死」と「社会参加」についてである
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