東浩紀『情報環境論集 東浩紀コレクションS』 

情報環境論集―東浩紀コレクションS (講談社BOX) (講談社BOX)情報環境論集―東浩紀コレクションS (講談社BOX) (講談社BOX)
(2007/08/02)
東 浩紀

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◎2007年刊行

二つの重厚な情報論がメインとなっている一冊

・2002年から2003年に中央公論に連載された「情報自由論」

情報自由論」はWebでも公開されていて読むことができる

・1997年から2000年に『InterCommunication』に連載された「サイバースペースはなぜそう呼ばれるか」

○注意点……本書は、「あとがき」から先に読むべき

・初出が1997年、単行本化がその十年後。ながらく本の形にならなかったのは、本書の論文を書くうちに、誤算や反省が生じたためとのこと。あとがきにその経緯が書いてある。まずそちらから読むべき

・「サイバスペース論」を名論文とする若い人の意見がある。ぼくも実際、素晴らしいと感動するところが多かった。そもそも、これを読まないと、『存在論的、郵便的』と『動物化するポストモダン』のつながりが理解できない。しかし、大学の研究者の視点から読めば、まずいところも少なくないだろう。若い人が卒論や修論を書くにあたっては、安易に参考すべきでもないのかもしれない。指導教授に怒られるかも。慎重に扱った方がよさそうだ

・東いわく、もともとは、包括的で壮大な現代社会論を構想していたらしい

・「第1章でポストモダンの理論的な問題を扱い、第2章でその情報社会における展開を扱い、第3章でそのサブカルチャーにおける展開を扱う大部の著作を夢見ていたことがありました。『動物化するポストモダン』はその第3章が、「情報自由論」は第2章が変形したものです。したがって、この論考は、『動物化するポストモダン』と双子の関係にあると言えます。」(波状言論>情報自由論

・「情報自由論」と「サイバースペースはなぜそう呼ばれるか」はともに、この大著の第2章の一部であったそうである

・東ブログエントリ「情報自由論出版中止について

「そもそも僕は、世間の評価ほど『情報自由論』を気に入っていませんでした。あのテキストについては、論壇時評でも幾度か話題になり、連載直後から単行本化の圧力が大きかったのですが、僕自身としては、あくまでも月刊論壇誌用のジャーナリスティックなメモに過ぎず、とても『存在論的、郵便的』『動物化するポストモダン』の次の著作として出せるものではない、という判断でした。」

・「情報自由論」は、「自由」の定義が曖昧なまま議論が進むことが弱点か。Webは日進月歩で状況が変化するため、今読んでみて、議論が空転しているところもありそう

・しかし、東が32歳の若さで助教授になったのは、一つには、この論文が世間で高く評価されたためらしい。東の文章は、社学でも哲学でも文学でも、学会で発表されるような論文の体裁を持っていないし、どうやって先生になれたのかちょっと不思議ではあった。Web論をいち早く論壇誌で展開したことにはたしかに先見の明があったのだろう

◎「サイバースペースはなぜそう呼ばれるか」

・「サイバースペースはなぜそう呼ばれるか」、通称「サイバースペース論」は、アメリカのSF作家フィリップ・K・ディックを論じつつ、Web環境とポストモダン状況における人間存在のあり方を問うた思弁的な論文である

・「不気味なもの」が繰り返し話題になる。これは、アニメにおける美少女画像なんかのこともまた、指しているのだろうか?

○「サイバースペース論第2回」

は、ディックの小説を論じる文脈で、フロイトを主題的に扱う。フロイトの重要な論文「快感原則の彼岸」を解説したものとして、シンプルでかつ、極めてわかりやすい。「快感原則の彼岸」と合わせて読みたい

・フロイトの1919年の作、「不気味なもの」

223・「この年は、フロイトが快感原則を根底におく前期の理論体系から、「快感原則の彼岸」、いわゆる「死の欲動」の存在を仮定する後期の思想に移行した過渡期に位置する」

・ひとは快のためにのみ生きるものではなく、そこには必ず「ずれ」が忍び込み、不快へと駆動される。これはたとえば、「反復強迫」などがあてはまる。「ある種の神経症患者はわざわざ外傷を反復する。また幼児はしばしば、同じ苦痛の感覚を飽きることなく繰り返す」

・この不快へと駆動するものが後期のフロイトでのテーマとなり、また、ラカンはこれを「現実界」と名指すことになる

・快感原則の統御を逸脱するなにものかが存在する。不気味さとは、フロイトによれば、快感原則からの逸脱の想起に伴う感情であり、反復強迫を思い出させるものこそが不気味に感じられる

・快感原則とは、心的エネルギーの恒常性を保つための自動調整作用であると考えられる(しかし、快感原則と恒常原則を同一視できるかどうかは微妙な問題をはらんでもいる)

・(「なお筆者は以下、快感原則の一時的障害として機能し、しばしばそれと対置される「現実原則」については、それを快感原則の一部だと捉えとくに言及しない。「現実原則」は確かに欲動の最短経路を阻み、また快の達成を一時的に阻む。しかしそれは快感原則の最終的な統御の中での偏差にすぎない。「現実原則」の介入があっても、欲動はまた別の快にむけ迂回路をとるだけだからだ。その迂回路がたとえばヒステリー症状として現われる」)

・精神分析の革新性は、ひとりの人間の中に、知覚と運動を制御する複数の情報処理審級、意識/前意識/無意識(第一局所論)や自我/超自我/エス(第二局所論)といった構造を見出し、それら諸審級の争いを発見したことにある。つまりフロイトは、ひとりの人間の中に複数の心的人格を見ている。

・ひとりの人間とは、それらの複数の心的人格の争いの場である(『続精神分析入門』)

・その争いを調停するのが快感原則である。快感原則による心的エネルギーの平準化は、いわば、フロイトの局所論の図が書き記されたであろう黒板の平らさと同じ役割を果たしていると言える。快感原則が局所論を支える

・私たちはひとつの情報を、つねに複数の経路を通じて処理する。したがって演算結果も複数出てくる。それら諸結果がたがいに矛盾し衝突することにより、ヒステリー症状や夢内容や失錯行為が生じる

・心的エネルギーは、神経ネットワーク内を循環する。快感原則がその循環を調整する。そして反復強迫は、その調整作用(ホメオスタシス)への取り込みに失敗したエネルギー、つまり情報=欲動の残余により生じるのだ

・231「ここまでの議論を確認しておこう。快感原則は、個人の統一性を支える最終レベル(平面)として機能する。そして反復強迫においてひとはまさに、そういった平面化を拒むもの、快感原則の統御を逸脱しネットワーク内を自律的に運動している情報=欲動の存在に直面している。その再認が不気味さの感情を引き起こす。」

・『不気味なもの』のフロイトは、不気味なものの具体例として、生命か非生命か決定不可能な自動人形、分身、死者との対話、反復される謎めいたメッセージ、アニミズム的精霊などをあげた。これらのモチーフは、すべてディックの小説に頻出する

○「第三回」

・ボードリヤールとデカルトを利用したディック論である。この議論は一部、埴谷雄高の『死霊』でもそのまま同じことをいえそうな部分などがある。SF一般の問題や、「小説」一般の問題とどう区別をつけているのか、若干疑問である。論の詰め方がおおざっぱな感じだ

○内容

・1960年代のディックは、小説の中で、日本/ドイツ、西部/太平洋という対立の虚偽性=シミュラークル性を繰り返し強調している。ここで描かれたシミュラークルの永劫回帰状況は、冷戦構造と核抑止の論理の隠喩でもあろう。死のシミュレーション/シミュレーションとしての死という発想はまさに、核抑止の論理を支えるものでもある。こちら(da)とあちら(fort)、アメリカとソ連、オリジナルとフェイクの無限交替が、第二次大戦後の消費社会と核抑止社会とをともに駆動している

・ディックはシミュラークルを不気味なものとして捉えた。しかし近代哲学は伝統的に、シミュラークルを別の仕方で処理してきた。デカルトにおける思考実験には、「悪しき霊」と呼ばれるものが登場する。デカルトは世界の不確実性から、「思考するもの」としての「私」の確実性を導く。世界内の情報は原理的に不確実だが、その世界全体を構成する主体の働き=思考そのもの(コギト)は不確実ではありえない。そこではシミュラークルは、主体の非シミュラークル性を確認するための一契機として処理されている。主体の一にして全体的な分割不可能性は、シミュラークル性と非シミュラークル性を分割する壁によりたもたらされる

・対してディックは、シミュラークルに、世界と主体とがともに複数化する契機を見出してしまう

○第五回

・(ジジェクの)ラカン論を扱った回。東のラカン理解を確認できる

○内容

・ディックのパラノイア妄想、およびそれを支える情報論的汎神論は、インターネットのイデオロギーと同じ時期に、同じ政治的風土のもとで成長している。両者はともに、「六〇年代的なもの」の挫折から生じた

・想像的同一化はひとに自己イメージを与えるが、それだけではひとは主体にならない(鏡像段階)。ラカン派によれば、ひとが主体になるには、さらに「大文字の他者」へと同一化する必要がある(象徴界への参入)

・ラカンの考えでは人間と動物は、自分自身もまた見られていることを知っているか否か、つまり自己言及的な認識の有無で峻別される。ひとが「人間的主体」になるためには、スクリーン(見えるもの)からイメージを借りるだけでなく、それに加えて、自分を見ている他者の視線を与えられる必要がある。その過程が「象徴的同一化」と呼ばれる

・世界=スクリーンの背後に位置するその不可視の視線は、ラカン派の術後では一般に「大文字の他者」あるいは「象徴界」と呼ばれ、そこへの同一化は社会全体を支える象徴秩序を信認することに等しいと考えられている

・騙すこと(または騙されること)の意識は、「見えるもの」と「見えないもの」、自分に見えるものと他者に見えるもの、つまり想像的同一化と象徴的同一化のずれの認識を前提とする。そのずれを知らない動物は、騙されることはあっても、「騙されている」と意識することはない

・ピアッシングの一般化など、現代の社会はマゾヒズム的倒錯に寛容になってきている。マゾヒズムとは、ラカンによれば、主体の側があえて自らを律する「法」を、つまり「大文字の他者」を設立する倒錯である。マゾヒストは絶対的自由に耐えられず、それを制限する他者(サディスト)を自ら育てあげる。したがって、現代社会におけるマゾヒズムの露出は、「大文字の他者」を失いつつあることを示している

・サイバースペースもまた、失われた大文字の他者の再設立、あるいは補填物として欲望されている

・家庭用ゲームやアニメーションの「現実感」は決して目で想像的に感じられるものではなく(むしろ目はたえずその虚構性を暴露している)、各主体が図像の象徴性を受け入れてはじめて構成される

・インターフェイス的主体においては、スクリーンそのものが二重化されていると考えられる。目と言葉、イメージとシンボル、仮想現実の虚構性を伝える情報と、現実性を仮構する情報とが、ともに並んでスクリーンの上に見出されるのである。そこではもはや、「見えるもの」と「見えないもの」の相克はスクリーンの並列処理により見出されるのであり、「見えるもの」と「見えないもの」の弁証法、スクリーンとその背後という二重構造は必要とされない

○第六回

・メルロ=ポンティ登場の回

○内容

・ヴィヴィアン・ソブチャックによる、ジェイムソンの分析を援用したポストモダン論を紹介する

・彼女の分析によると、リアリズム/モダニズム/ポストモダニズムという三つの文化的論理には、それぞれの時期に支配的な視覚メディア、「写真的なもの」「映画的なもの」「電子的なもの」の特性が反映されている

・19世紀のリアリズムにおいては、主体と客体を峻別したうえで、写される客体(現実)のより完全な描写を目的とした

・19世紀末に映画技術が登場した。映画においては、見る側と見られる側の峻別がもはやなされえない。映画を見るとは、イメージを構成する視線そのものにつき従う経験だからである

・写真と映画における視線の問題は、ラカンの主体論でいいかえることができる。写真的主体においては、想像的同一化しか知らない。対して、映画的視線の主体は、つねに想像的同一化と象徴的同一化のあいだを往復する

・ラカンとソブチャックの議論は、ともにメルロ=ポンティの『見えるものと見えないもの』を参照している

・メルロ=ポンティの問題意識は、「純粋な視覚、パノラマの俯瞰に身を置くような哲学にとっては、他人との出会いはありえない」ことにある。視線は不可避的に対象を客体化してしまい、したがって「見る」哲学は他者を他者として捉えることができない

・メルロ=ポンティは目の隠喩それ自身による目の隠喩の否定的な乗り越えをはかり、「見えないもの」の導入による解決を模索した。メルポンは、目の隠喩を放棄しなかった。ソブチャックは、その抵抗の理論的構造と映画の視覚体験が同形だということを明らかにした

・デカルト以来、主体の概念は、「見ること」をモデルに組み上げられている。目の隠喩の放棄は主体の概念の放棄に等しい

・ソブチャックは写真的/映画的/電子的という三つの視線の働きを「再現前化」「現前化」「シミュレーション」という語で特徴づけている。写真的視線においては、すでに過ぎ去ったものが表象=再現前化する。映画的視線においては、上映されたイメージの時間的推移を通じて、それを眺める主体の視線をたえず「現前化している」

・電子的視線においては、すべてが見えるゆえに、もはや「見えないもの」の存在に脅かされることがない。映画的主体においては、「見えるもの」と「見えないもの」、スクリーンとカメラのあいだの往復がなされていた。インターフェイス的主体においては、二つの「見えるもの」、イメージとシンボルのあいだの往復がなされる

・デリダが『声と現象』で提案したように、近代哲学は声(耳)の隠喩で整理することもできる。西洋哲学における哲学者たちの主体概念に共通する構造は、「見る」絶対性というよりも、「自分が話すのを聞く」自己産出性として捉えられる

・目の主体はイメージで世界をとらえ、耳(言葉)の主体はシンボルで主体をまとめあげる。目と耳のあいだの空間について語るデリダにおいては、イメージとシンボルのあいだを往還するエクリチュールの存在が、主体のモデルとなる知覚的隠喩を撹乱する。デリダにおける「耳」の主体は、映画的主体に等しい

・フロイトにおける「不気味なもの」は、ひとつの情報が複数の知覚回路で衝突するために生じていた。したがって、「目と耳のあいだ」に面したインターフェイス的主体性は、不気味なものにさらされた主体であると言える

・不気味なものとは、見えないもののことではなく、見えるものと見えないものの境界そのものを撹乱するもののことである

○第七回

インターフェイス的主体と、「不気味なもの」(=ロリコン画像?)との関係性について
なんか、ユングっぽい気もしますけれども?

○第八回

・デリダの『グラマトロジーについて』『郵便葉書』を利用してラカンを批判しつつ、インターフェイス的主体についてのエクリチュール論を展開

○内容

・言葉を持たない動物と幼児は、「見えるもの」しか知らない。しかし、言葉を扱う人間は、「見えないもの」を扱うことができる。フロイトにおける「欲望」も、正しくは、シニフィアンの、つまりシンボルの、「見えないもの」の効果として分析されるべきである

・ラカンにおいては、「不気味なもの」は、「見えるもの」の効果である。しかし、デリダにおいては、「不気味なもの」とは象徴界と想像界の分割そのものを脅かす経験である
・計算可能なもの(象徴界)と計算不可能なもの(現実界)の対立は、その両者、つまり見えないもの(計算的なもの)の領域を見えるもの(想像界)から切り離すことで成立している。その操作では、「不気味なもの」が排除される

・デリダのエクリチュール概念は、見えるものと見えないもの、目の記号(絵)と耳の記号(音声)のあいだにある審級を指し示す言葉である

・キットラーによれば、象徴界はタイプライターの、想像界は映画の、現実界は蓄音機の反映である

・象徴的な文字、想像的な画像、現実的な音声は、ただスクリーン上の記号――あるいはエクリチュールが、各タイプにしたがい解読され、それぞれ変換され呼び出されたかたちにすぎない

・ポストモダンにおいては、イメージとシンボルの分割は崩れ、世界はイメージでもないシンボルでもない新たな記号様態である、エクリチュールあるいは「不気味なもの」の群れに満たされるのである

○第九回

・マクルーハン『グーテンベルグの銀河系』『メディアの理解』、ドラッカー『断絶の時代』、トフラー『未来の衝撃』、ダニエル・ベル『ポスト工業社会の到来』などの「情報化」論議および「ポストモダン論」を分析

○第十回

・ベンヤミンの映画論と、精神分析の関係について論究

○内容

・言葉を学ぶとは、ラカンによれば、自分の目よりも他人の言葉を、見える現実(現前するもの)よりも見えない観念(不在のもの)を信じる倒錯を学ぶ作業である

・シミュラークルに満ちたポストモダンの世界でひとは、現前と不在がともに畳み込まれ、イメージとシンボルのあいだにある新たな記号、シミュラークル(ボードリヤール)、不気味なもの(フロイト)、エクリチュール(デリダ)に接触することで、知覚と現実の関係そのものを変えられてしまう
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