東浩紀『批評の精神分析 東浩紀コレクションD』 

批評の精神分析 東浩紀コレクションD (講談社BOX)批評の精神分析 東浩紀コレクションD (講談社BOX)
(2007/12/04)
東 浩紀

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◎2007年刊行。単行本に収録されていない原稿を整理・収録した『東浩紀コレクション』の第三巻。二〇〇一年から二〇〇七年にかけて行われた対談を収めたもの。「東浩紀コレクションL・S・D」の三部作のうちでも、もっとも読みやすく、また、オタク論から都市論までの広い領域にわたる東の仕事の全体を見渡せるため、推薦できる一冊である。ちなみに、「L」は分厚いので読むのにとても疲れる。「S」は一度破棄された論文であり、マニア向きである

・「あとがき」
2007年に東は六冊の著作を出した。それまでのペースからは考えられないような、堰を切ったような矢継ぎ早の出版をなしたのはなぜか。東は、それまでは、「批評」の規範意識にのっとることで、著作の刊行を抑圧していた。しかし、新しい「批評」を若い人のあいだで育てることを目的として、この枷を外すことにしたらしい。その経緯を記した「あとがき」は興味深い。私の考えによれば、この東における批評のあり方、書籍刊行への意識の転換のあり方は、『キャラクターズ』での柄谷行人殺害と対応している。2007年は、東において、大きなターニングポイントの年であった

・神

自分は「神」に興味がない、という日本人は多い。西洋思想の文脈において、「人間」であるということは「神」がいることである。「神」がいないことは、「動物」であることとセットである。しかし、日本人が「人間」であった時代は、本当にあったのだろうか?

○宮台真司との対談「第一章 データベース的動物の時代」(2001)

・『動物化するポストモダン』出版記念対談

・オタク文化の江戸起源論はおかしい。アメリカの影という断絶を挟んで理解しなければいけない

・良いシミュラークルと悪いシミュラークルを選別排除する装置として、データベース的なものが機能している。ボードリヤールのシミュラークル一元論は間違っている

・シミュラークルの戯れを享受する人々における人間性とはなにか

・ポストモダンは日本的な「スノッブ化」とアメリカ的な「動物化」の二者択一ではなく、「動物化」のみがある

・「あえて」形式とたわむれるスノッブであるが、その「あえて」の契機が抜けるのが「動物的な社会」である

・「動ポモ」は宮台の『終わりなき日常を生きろ』への応答である

……(→オウムか、コギャルか、どちらかを選ぶなら、コギャルである、というのが宮台の仕事。同じことのオタクヴァージョンとして東の仕事がある)

・カタログ化されたディズニー的なキャラクターも、ディズニーランドも、ハイパーリアリティだと言われていた。しかし、実は、カタログはデータベースであり、そして、ディズニーランドが作りだす空間はシミュラークルである

・宮台 コギャルもオタクも共通して、ホメオスタシスのために物理的環境ではなく情報的環境を使う

・宮台 プラトン主義化したキリスト教の本質論が近代社会の母体であるが、その本質論が近代社会のサステナビリティを脅かすようになった

・「現実には、世界はすっかり工学的な知で覆われて、聖性などなくてもやっていけるようになっている」「「聖性」すらも工学的に供給しようという方向の世界になっている」
・「聖性」の体験は「文学」や「お祭り」が担っていた。しかし、認知科学的な聖性の供給システムとして、「萌え」が登場した。動物的な消費者が記号的差異に身体的に反応するのである

○大澤真幸との対談「第三章 虚構から動物へ」(2002)

・大澤 東さんのアニメに関する論で言えば、ガンダムの場合はひとつの物語があるが、ある時期から物語よりもキャラクターのほうが前面に出てきた

……(→これは反証できそうでもある)

・小さな物語は想像界、大きな物語が象徴界で、データベースは現実界にあたる。大澤ふうに言えば、大きな物語とは「第三者の審級」であって、データベースとは、第三者の審級を加工することによって取り込まれるはずの無限、もしくは世界自身のことである

・ある固有名を自分のものとして引き受ける、つまり「自分は自分である」というトートロジーを確信をもって主張するためには、第三者の審級が必要である。第三者の審級がなければ、「自分はだれだ」という問いは無限の確定記述に分解していく。ポストモダンの世界においては、世界が確定記述の集合に分解される。これが「データベース」である

・「僕は「否定神学」という言葉をとても単純に使っていて、神でないことこそが神であることの根拠であるというロジック、ただそれだけです」

……(→「否定神学」という言葉への東の定義。この理解には問題がある)

・大澤 否定神学とはキリスト教の三位一体論などとの関係で出てきた論理である。神についての積極的な判断が不可能であり、不可能であるがゆえに、そうした積極的判断を超えたものとしての超越的なものが存在すると考えるのが否定神学である。つまり、麻原は狭義の否定神学とは異なり、「過視的」に現前している

……(→アニメやパソコン画面も、「過視的」に現前している。これを、古代的な偶像崇拝よりマシなものと位置づけて、いいのだろうか?)

・東 コークは、「コークイズイット」(ジジェク)だからいい、といえるのと同じように、麻原は、「アサハライズイット」であった。超越論性は不在であるが、その不在自体が超越論性を保証しているかのような構造があるのではないか

・風俗等、動物的な性の処理の伝統はずっとある。近代の人文系言説はセクシャリティに過剰な「主体的」意味を付与しすぎなのではないか

・象徴的媒介を通して世界と繋がるのが近代的人間だったとすれば、現在は、その象徴的媒介を各人に叩き込むはずの規律型社会のシステムが機能不全に陥っている。そこでいまは、世界との関係を工学的媒介を通じて作るほかなくなっている

・石と人間の区別をなくしてしまうと、すべてがグラデーションというか、一種のアニミズムになる。しかし、人類は、そういう感情移入の世界に長く生きてきた

・私たちのコミュニケーションにおいては、インターフェイスの向こう側にいる存在が人間かどうかは関係なくなっている

・大澤 まず、アニミズム的な多神教的な世界がある。しかしこの場合現われるものがそのまま神になってしまう。これは肯定神学的である。ところがそれは神の超越性に反する。そこで今度は、現れていないことが神の根拠になる。それが偶像崇拝を禁止する否定神学的なものに転換する。多神教的な世界から、偶像崇拝禁止をともなう一神教的な世界へ。これが否定神学の段階である。それが終わったあとでもういちど表面的に見れば、明らかに多神教的な世界になっている。これは前の段階への回帰ではないか

……(→この指摘は重要。「萌え」とか「アニメ・漫画・ゲーム」というのは、アニミズム的な多神教の世界に逆行しているだけなのだと)

・東 現実界とは私たちにとっては不可知な世界である。そのとき世界そのものを仮象として代補するものが象徴界だった。その象徴界はかつて物語としての形式をとっていたが、いまはデータベースという形式をとっている

・社会の統合のメカニズムが、近代的な象徴界の論理からポストモダンの工学的な論理に大きく移行して、その結果「データベース」という表象が現れた。そこでは人間はそれぞれ多様な神(象徴)を信じていて、そのあいだに実効的なコミュニケーションは断たれている。各自は小さな窓を一個だけ開けていて、そこから必要なデータだけをやりとりする

・60年代のデリダ、ドゥルーズ、フーコーは否定神学的な論理こそが未来の哲学だと主張しているように見える

・70年代あたりを境に、記号的世界の巨大な変容が始まった

・「ポストモダンになって社会の統合が象徴的媒介から工学的媒介によって担われるようになった」「超自我のイメージが「神」や「父」から自動機械的なネットワークに変わっていった」

……(→ホントか? そもそも、東は、自分にとっての無意識を、自己認識しえているのだろうか? たとえば、一般に、「父」や「神」が内在していなければ、一人で読書をしたり、勉強を続けることすらできないものだろう。東が仕事をし続けられるのはなぜか。東にとっての「父」と「神」が、東のなかにいるはずだ。たとえばそれは柄谷であり、浅田であるのではないか。東は、自己分析が不足してはいないのか。「キャラクターズ」は父殺しの物語として読むべきではないか。だれにとっても、「神狩り」をすることは大変であろう。東がそれをなすのは、2007年を待たねばならなかったのではないか?)

・『存在論的、郵便的』は郵便が到達しない可能性について書き、ネットワークの領域について論じている。『動ポモ』は到達する郵便を扱っていて、こちらはデータベースの領域に関することである

○「第五章 シニシズムと動物化を越えて」(2003)大澤、斉藤環との対談

・大澤 「もし象徴界がなくなったら、だれもが精神病になってしまう」

・東 マクドナルドやコカ・コーラは「動物性の論理」で理解すべきものであり、スターリニズムはシニシズムの論理で解釈すべきである

・大澤 全体性への参照を含んでいくのが固有名であり、断片というのが確定記述である。確定記述はひとを断片としてしかとらえない。これが多重人格と関わる

……(→ホントか? 東の「解離」論と多重人格論については疑問を感じる。日本社会においては、「ホンネ」と「タテマエ」が分離していて、これは日本がいまだ村社会であるからだとする論が昔からある。これと異なるところがあるのだろうか? 封建的遺制の弊害、といった論のヴァリエーションにみえるのである)

・東 多重人格の個々の人格は漫画的な平板なキャラクターだとよく言われる

○「第七章 どうか、幸せな記憶を。」更科修一郎、佐藤心、元長柾木との対談(2004)

・1995年が『新世紀エヴァンゲリオン』の年で、その後、サブカル業界での実存主義化が一般化した。思春期の悩みがストレートにアニメやゲームで表現される流行である。しかし2004年には奈須きのこ、冲方丁などが評価されたのは、この流れから切れている

・弱くて女々しい物語でも男性読者はついてくるというのが『ファウスト』の発見であった。当初、舞城王太郎、佐藤友哉、西尾維新のための雑誌として『ファウスト』があったのにもかかわらず、『ファウスト』第三号は「新伝綺」偏重であるのは、いかがなものか

○「第八章 オルタナティブの思想」福嶋亮大との対談(2006)

・「メタとベタの二重体」とはフーコーが『言葉と物』でいった「経験的‐超越論的二重体」のことである。ようはクラインの壺のモデルである。人間を、神と動物の中間の存在としてとらえる思想である。東はこのモデルを批判し、再考することをめざした

・フーコーが『言葉と物』を書いた1960年代には、「経験的‐超越論的二重体」という人間観が壊れつつあって、それを認識したうえで歴史をとらえ返していた

・メタゲームを止めることが人間にはできる。人間は人間的なものと動物的なものとのバランスを取ることができて、それが主体性の根拠だ、という発想は70年あたりで命脈が尽きたのである

……(→東は自己を、「人間」だと考えているのか? 「動物」だと考えているのか?)

・ヨーロッパの思想においては、経験的な領域に偶然はない。自由や偶然は人間の領域、超越論的領域にあると考えられる。人間には経験的な認識と超越論的な認識が可能であり、前者で思考した場合は宇宙には限界があるが、後者で思考した場合は限界がない。これがカントの答えである

・東はこれを間違いだと考える。人間の自由は、経験的な領域のノイズから発生するのではないか。これが「幽霊」「誤配」「確率」である

・東がオタクを解離的な存在だと考えるのは、オタクのなかに動物性と人間性が共存しているからだ

……(→パスカル的で当たり前な話ではないか?)

○「第九章 ポストモダン以後の知・権力・文化」(2006)稲葉振一郎との対談

・ライトノベルは物語構造としてもレーベルとしても定義できない。そこで、キャラクターのデータベースという考え方が出てくる。物語と物語の隙間を埋めている想像力の環境の特性で捕まえるしかない

・オタクの世界で起きていることは、あるテーマパークが分解されて別のテーマパークが作られるダイナミズムにある

・萌えとはアニメ・漫画の素材を使って自分の性的な欲望をコントロールするための人工環境を作ろうという消費者側の動きである

・動物が増えて問題が起きたら、教育ではなくて、別の要素で調整すべきである

・過度に内省的なひとたちに知的な権力を集中させるシステムの崩壊が起きている

・実存主義と構造主義の対立は、内省的=人文的知と工学的な知との対立であった

・東の「動物化」は、パンセ・ソバージュ「野生の思考」の話である。パンセ・ソバージュは自然環境が相手であったが、パンセ・オタク(オタクの思考)は人工環境を対象としている。東の仕事において、否定神学批判をやったのちにパンセ・ソバージュの分析(社会学ふうにみえる)がくるのは20世紀思想史的に当然の理路である

・北田、鈴木謙介は、個人の自意識を出発点としている点で東と異なる

……(→北田、鈴木は、「社会学者」であるが、東より社会学的ではなく、文学的である)

・東の立場は工学的ポストモダニズムである

・1970年代にオフセット印刷が安くなり、それによってコミケが出現した

・人類はコミュニケーションの人工環境をすごい勢いで拡大させている。キャラクターのデータベースはその一部である。その人工環境を分析する知が必要である

○「第十章 工学化する都市・生・文化」(2007)中俣暁生との対談

・『東京から考える』の成功は『思想地図』の創刊をもたらした

・人文的な「文化」の領域が、きわめて具体的な技術の問題ときわめて抽象的な構造の問題に解体されていく、という感触において、『東京から考える』と『ゲーム的リアリズムの誕生』は共通している

・世界は保守化している、というより「工学化」している

・下北沢が再開発に抵抗するしないという話は、文芸誌がライトノベルに抵抗するしないという話と似ている

○「第十一章 ナショナリズムとゲーム的リアリズム」(2007)大澤真幸との対談

・『ゲーム的リアリズムの誕生』のなかの「プレイヤーの視点」は「第三者の審級」である

・『ゲーム的リアリズムの誕生』は環境がしいる自己言及性を帯びた物語を主題としている。それは「どんな物語でも選べるのでオッケー」という主題の物語と、「決断が必要であるがゆえに倫理が要請される」という主題のものに分かれる

・普遍性への欲望をあきらめつつ、可能世界の想像力をテコにして、他者への倫理的態度を育てることができないか

・「第三者の審級」ではなくて、「身体の共感可能性」「可能世界の想像力」からの倫理の構築を推すべき

……(→「可能世界」論で東はギャルゲを特権的に肯定するが、既存の小説との間で差異付けをする必要が本当にあるのか?)

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稲葉振一郎『モダンのクールダウン』
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