東浩紀『文学環境論集 東浩紀コレクションL journals』 

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(2007/04/14)
東 浩紀

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○『文学環境論集 東浩紀コレクションL journals』(2007)

○「誤状況論」(『小説TRIPPER』二〇〇〇-二〇〇一)

・批評空間派を批判したものとして興味深い

・東にとって、柄谷の作品でもっともすぐれたものは、『批評とポスト・モダン』であるとの意見

・NAMとの関連でそれが重視されたのだろう。『批評とポスト・モダン』における「二重性」が失われたとき、「近代性」の肯定と左翼運動が始まる、と

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517「『批評空間』の共同討議を継続的に追ってきた読者ならわかるように、一九九〇年代の半ばより、柄谷氏は「死者」や「未来」について頻繁に語り始める」

518(柄谷行人は)「超越論的他者の観念に振り回され、経験的な他者たちの集積からこそ超越論的な他者が(デリダ風に言えばデッドストックとして)立ち上がる、という複雑なプロセスをもはや感じ取れなくなったということである」

528「一九六〇年代には思想の世界性が信じられた。しかし、一九八〇年代にはその幻想はもはや解体している(皮肉なことにこの時期には、思想の世界性の解体を補うかのように、モノの世界化、いわゆるグローバル化が進むことになるのだが、それはまた別の話である)」

・「一九六〇年代的な世界性が信じられなくなったあとに、思想はいかにして可能か。柄谷は一九六八年に登場して以来この問題意識を強く抱えており、「批評とポスト・モダン」はその一つの解答として書かれている」

529「そしてその解答として彼は、一方で個々のコンテクスト(小さな物語)に注目する方向を、他方で形式的な新しい普遍性(大きな非物語)を模索する方向をともに提示し、同時に試みようとしていたのである」

・90年代の柄谷は、この視点を失い、日本は近代化を必要だとする立場に転じたが、これは思想的な後退である

○「crypto-survival noteZ」(二〇〇三-二〇〇五)

○第一回

・個人出版の可能性を説いたものとして、重要

・批評の自費出版には、大きな可能性がある

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・『月姫』や『ほしのこえ』の成功に注目され、レッシングも注目しているように、日本の同人市場は成熟している

・柄谷や浅田すら、今後の批評は流通まで自前で用意する必要があると決断していた

・ネットで公開された情報は、パラグラフ単位で瞬時に消費されてしまう

・商業出版のオプションをもちつつ、個人出版で新著をリリースする批評家が何人か存在し、個人出版と商業出版が差別なく等価に読まれるような時代になったなら、批評のイメージは根底から変わるだろう

・一万部以上売りたければ出版社から出し、一〇〇〇人しか読まなくてよい文章は自費出版で出せば良い

・批評には需要がある

○第七回

・ラカンのうさんくささについて扱ったエッセイ。ラカンはたしかにうさんくさいけれども、それはこういうことの結果なんだよ、と解説したもの

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・ラカンの説得力は、脳科学的に実証されるかどうか、治療効果があるかどうかといった実証性や有効性の彼方にあり、その力の源泉は、特定の時代的・社会的条件に縛られている

・心そのものは時代によって変わったりはしないが、社会の構造が変われば、そこで正しいように見える「心についての理論」の構造も変わる

○第八回

・「僕が「ラカンの限界」について語るときは、ラカン派精神分析学が科学的に限界をもっているということが言いたいのではなく(そんなことを言ったら、そもそもラカン派は科学的に正しくない)、ラカン派精神分析が正しいように見える時代に限界が訪れた、ということを述べている」

○第九回

・ラカン派精神分析によれば、人間のアイデンティティは「想像的同一化」と「象徴的同一化」という二つの契機の重ね合わせで作られている

・お父さんのようになりたい、というモデルへの単純な同一化が「想像的同一化」である。あるべき父親像と、父への批判的視線を身につけ、モデルをモデルたらしめている社会構造への参入をなすのが「象徴的同一化」である

・尊敬する相手を自信をもって冷静に批判することができるようになり、その相手に依存しない主体的な価値観を身につけることが大人になることである。これを、想像的同一化から象徴的同一化への移行と呼ぶ

・ラカン派精神分析では、人間は、オブジェクトレベルとメタレベル、想像的同一化と象徴的同一化、「ベタ」と「ネタ」(メタ)に切り裂かれた存在だと考えられる

○第一〇回

・メタゲームを止める装置としての「大きな物語」について言及

・Web環境における「メタ」「ネタ」と、「ヘーゲルにおける国家」という意味での「メタ」の違いは大きい。そこらへんをごっちゃにしたかのような昨今の社会学については、検討すべきじゃないかと疑われる

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「僕はここで、ポストモダン論が「大きな物語」と呼んできたものを、「メタゲームを止める装置」として捉えなおしてみたいと思う。それは、「なにかをベタに信じていること」と「それに対してシニカルであること」のバランスを取る装置、ラカン派精神分析の言葉で言えば、「想像的同一化」と「象徴的同一化」を縫合する装置である。もっと簡単に言えば、ホンネとタテマエを切り離しつつ、結果的にその両者の矛盾に関係なく同じ行動を強制してしまう装置だ」

○第一一回

747・「近代では公共性を形成する要素となっていたメタレベルへの遡行が、ポストモダンにおいては、いかなる公共性にも結びつかない単なる遊戯となってしまった」

○第一四回

初期東は、「存在論」に関する理解が浅いが、このエッセイでは割と手際よくその点を補い、まとめている

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760・「言語には、本質的に、経験=表象可能なものの論理を超える「剰余」が宿っている。このように考える近代の哲学者たちは、必然的に、詩的言語の探究に向かっていくこととなった」
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