批評放送γ 第3回日本SF評論賞受賞記念、藤田直哉さんインタビュー――「消失点、暗黒の塔」を読む 

S-Fマガジン 2008年 06月号 [雑誌]S-Fマガジン 2008年 06月号 [雑誌]
(2008/04/25)
不明

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――SFマガジン二〇〇八年六月号に、第3回日本SF評論賞・選考委員特別賞受賞作である、藤田直哉さんの「消失点、暗黒の塔 《暗黒の塔》Ⅴ部、Ⅵ部、Ⅶ部を検討する」が掲載された。これは藤田さんの文芸評論家としてのデビュー作となる。
この評論は、スティーヴン・キングの畢生の大作「ダーク・タワー」を論じたものである。キングは構想と執筆に三十年もかけて、超長編である「ダーク・タワー」を二〇〇四年に完結させた。「ダーク・タワー」の前半は、重い緊迫感、意表をつく展開、活気あるアクションシーン、練りに練った構成、主人公たちの不屈の闘志等を合わせ持つ、名作である。しかし、前半にくらべて、後半、および物語の結末への評価は、ネットなどにおいてかなり低い。藤田さんは非難を多く浴びている後半および結末を、むしろ積極的に肯定して取り上げる。否定されることの多いここにこそ、キングの魅力が現わされ、現代社会の状況が写しとられているのだと分析している。普通に読むと、一般の方にはやや難しいかもしれない藤田さんの評論「消失点、暗黒の塔」の内容について、藤田さんご自身にお話をうかがった。

――藤田さんが今注目している作家は円城塔さんだそうですね。

藤田直哉さん 先日イベントがあって、直に円城さんとしゃべりました。円城さんの作品の、あれってデリダですか、ディファランスですかと、直球で質問しました。円城論が書きたいからヒントをくれと言ったら、(円城さんは)浅田キッズだとおっしゃっていました。

――円城さん以外で、注目している作家さんはいるのですか?

藤田 最近の作家では、木下古栗さんが気になってますね。「無限のしもべ」、面白かったな。頭でっかちな変態みたいなやつがいる。それと、イケてる男と女がフリスビーをやって遊んでいるんですよ。そこに仲間に入りたくて近づいてくるんだけれども、挙動不審でテンパッちゃって、浮いているんだけれどもそれでも近寄っていく、みたいな。その両者の裂け目みたいなところに無限というのが出てきて、その無限というのが重要かなと思っているんです。面白いんですよ、それが。単純にユーモアとして面白いんです。

――藤田さんにとって、無限というのはちょくちょく課題になるのですね。今回、第3回日本SF評論賞・選考委員特別賞を受賞なさった作品、「消失点、暗黒の塔」も、無限についての話でしたね。受賞、おめでとうございます。

藤田 ありがとうございます。

――こちらの賞に応募なさったきっかけはどうしてだったのですか?

藤田 第一回目のときに気づいて、書き始めて、第二回に応募しようとしたけれども間に合わなくて、三回に送ってと。創設のときから、これはいい賞だなと思っていました。

――SFマガジンも歴史はあるようですが、この賞をやり始めたのは最近なんですね。

藤田 評論は遅いのでしょうね。小説とか詩とかより、評論が出てくるのは時間がたってからなんじゃないかと思います。本当は実作と両輪を携えていくのがベストな評論のあり方だと思いますけど。去年はSF作家の評伝がブレイクして、最相葉月さんの星新一さんのものとか、宮野由梨香さんの光瀬龍さんのものとかが出ましたね。評伝というジャンルも、今まで純文学作家とか自然主義作家とか、そういうジャンルのものばかりだったんですが、SF作家の評伝もあってもいいし、漫画家やゲームクリエイターについても評伝を書いてもいいと思いますね。むしろ出てきて欲しいと非常に思っています。個人的に読者としても読みたい作家はたくさんいる。

――純文学作家の場合、その作家の生きている環境で起こった事象の全部と、純文学の作品との対応をチェックしたい欲望に読者が駆られやすく、その構図がみやすいものであり、評伝が書かれやすかったのでしょうね。純文学は「作家の死」というものがいわれるまで、作家主義的な読まれ方をしていました。であるからこそ、かつての時代では、一人の作家が文壇において、長生きしやすかったのでしょうね。逆に、ライトノベルなんかが問題になっているのは、若い作家の使い捨て状況になってしまうと。桜庭一樹みたいに、直木賞へと出世する以外に方法はないと。昔の純文学の作家は、その人の生の全体と作品との対応が喧伝されやすかった。だから評伝が活発だったのでしょうね。しかし、ジャンル小説的なものが、個別の作品だけが存在し、作家というものが前面に出てくることが少なく、その作家の存在というものに、気づかれにくいわけですね。

藤田 日本SF評論賞の正賞を受賞された、宮野由梨香さんの「阿修羅王はなぜ少女か」は、SFの作品を私小説として読むというやり方で、このやり方もオッケーだとぼくは思っていて、一見幻想小説だとか、荒唐無稽に見えるものが実はある私小説的内面の表現だと考えれば、自然主義文学の側からジャンル小説を読むやり方も可能になるんじゃないかと思うんですよね。

――評伝だと、非常に具体的にやれますからね。理論系プロパーでやっているとだんだん不安になってくる、というのがぼくはあるんですけれども。証拠がないのに、こんなこと書いちゃっていいのかなと。

藤田 ありますね。案外、そういうことしなきゃいけないことも多いですけれども。

――藤田さんが今回書かれた評論は、キングの「ダーク・タワー」論ということで、キングのこの小説は、ものすごく長い作品ですよね。

藤田 長いですよね。文庫本全十六冊です。中学生くらいから好きで読んでいました。

――キングのなかで、他に好きな作品はありますか?

藤田 意外にこれ一本というのはないですね。やはり「ダーク・タワー」じゃないかな。

――『スタンド・バイ・ミー』とか『グリーン・マイル』とか、映画化もなされて知名度の非常に高い作品などもあるわけでしょうけれども。

藤田 そこらへんはベタなんで実はあまり好きではないんですよ。キングは感動するほうよりもゾンビとか怪獣とかが暴れたりするほうが良くて(笑)。『デスペレーション』とか、リチャード・バックマン名義でやっている『レギュレイターズ』とかの方が面白いですね。リチャード・バックマンはキングがC級な作品を書くときのためのペンネームなんです。リチャード・バックマンの『死のロングウォーク』は、高見広春の『バトル・ロワイアル』の元ネタになった作品ですね。『デスペレーション』と『レギュレイターズ』の、キングとバックマンの二つの小説は並行世界になってたりもして、仕掛けが面白いですね。バックマンは「偽名癌で死んだ」とプロフィールに書かれています(笑)

――今、キングは二〇〇八年で六十一歳ということですね。日本では誰にあたるのでしょうかね。

藤田 日本で言うと、……宮部みゆきでしょうか。ちょっと分からないですけど。

――キングは、世代的にはちょうど六八年の学生騒乱を大学生時代に体験しているわけですね。

藤田 アメリカでは公民権運動とかがあって、キングは割とそういうのに言及するので、影響関係は著しくあると思いますね。ある種のSFも、そのころ同時におこった左翼的な理想と、共鳴はしているんじゃないだろうか。ぼくの評論では内奥性と祝祭が大事だと論じています。それが当時の新左翼の主張から影響を受けているという部分は正直多い。近代というのは、大きな物語というか、ある焦点に向かって欲望を注ぎ込む。そうすることで社会を動かす運動だとぼくは考えています。その運動の反動として必然的に生じるものが内奥性だと捉えているんですね。
消失点と内奥性というのは、共犯関係ですよね。それこそ全体的に、資本主義を駆動させている、ともいえるわけじゃないですか。祝祭を原動力にする。鉄の牢獄に抗う祝祭が人間の心の内部に生じて芸術や娯楽として表現されるや否や、それがさらに資本主義を駆動させる商品となる、という。この困難こそが「ダーク・タワー」の臨界点であるというのが僕の今回の論の焦点です。

――藤田さんの評論は、ぼくの興味の持ち方と非常に近いアプローチの仕方だったので面白く読みましたけれども、難しい参考文献を手際よくまとめて、わかりやすく論じていらっしゃいますね。キングは「ダークタワー」を一九七〇年ころ、大学生のころから構想をあたためていて、完成させるまで三十年ほどもかかってしまったということです。執筆期間がとても長いですね。

藤田 埴谷雄高の『死霊』みたいですね。内容は全然違うけれども。

――執筆が長期に渡ると、最初と最後で構想の変化が生じるのではないでしょうか?

藤田 意外に一貫していると思う。神と無限の話が、本当に初めの時点で明示されていて、まさにその通りの結末になっている。キングのやろうとしていることは、一面では変化しているけど、もう一面ではかなり一貫性があるものとぼくは感じています。

――神へと至る道というのが主題としてあって、それが物語の全体を引っ張っていっていると。藤田さんの評論に「端的に言ってしまえば、「暗黒の塔」とは中心ゼロのことであり、辿り着くことのできない「消失点」であり、それはポストモダン思想が否定する真理であり、それらのメタファーである」とありますね。ポストモダン的なものとして、この小説をとらえていらっしゃるわけですね。

藤田 キング自身も、自分が否定したいものは近代合理主義だって明言しているんです。世代的にもポストモダン思想の世代だと思うんで、影響があるんだと思っています。ジジェクなんかも、しばしばキングに言及しますね。キングをくだらない作家のように言う人は多いけど、そうじゃない部分のほうがずっと多いと思う。

――「ダーク・タワー」本文の、キングから読者に対するセリフ、あなたは「目的地に着くことを優先する容赦のない人だ。あなたはいまだに、事の行き着く果てのくだらない射精とセックスそのものを完全に混同している」というくだりについて、ラカン=ジジェクの意見をイメージできると藤田さんは論じています。

藤田 たどり着けないことこそが、たどり着いていることであるという結論ですね。ループすることによる快楽、目的地へたどり着くことなく、ループすることに快楽を見出すという側面も考えられます。多分そこには理想社会や進歩というものを設定する思想への批判があるわけですね。それらへと、達成しないこと自体を楽しもう、というメッセージは含まれていると思いますね。二瓶勉さんの『BLAME!』なんかは典型で、ループしながら、その過程にある奇妙な建築物にフェチズム的な欲望を喚起され続けて、その快楽を無限に続ける。ある種のヲタク的な生にも近いのかもしれない。

――「ダーク・タワー」のⅠ~Ⅳ部は三人称小説ですが、後半のⅤ~Ⅶ部は作者のキング自身が一人称で出てきたりしている。このことをとらえて、後半部ではメタフィクションのようになっていることを重視して、藤田さんは論を展開しています。

藤田 普通は作者が出てきたりとか、作者とキャラクターが座談会するとか、そういう一見小説のルールからするとふざけて見えることを、こういう命をかけた作品でやっちゃうのはすごいですよね。しかもあんまりギャグじゃないふうに出てくる。本人が出てくるのは、ネットの評判では袋叩きにあってますね。結末も。いや、そうじゃないんだと思って、この評論を書きました。いわゆるアメリカのメタフィクションは一九六〇年代にポストモダン思想とほぼ同時に発生しています。それに、影響を受けているのでしょう。つまり、自然主義文学というのはモダンの原理のもので、ポストモダンの世界ではそういう原理じゃない。視線の分裂や多層化が現れる。そういうのをやっているのが、メタフィクションなんですね。カート・ヴォネガットやドナルド・バーセルミが有名です。現代日本のコンピューターゲームの、『半熟英雄』(はんじゅくヒーロー)や『メタルギアソリッド2』なんかもメタフィクションですね。

――メタフィクションというものは、視点の混乱を狙っているわけなのでしょうかね。神的なものが全体をつり下げるというのが自然主義文学の形でしたが、それが壊されて、自己の視点と他者の視点が入れ替わる。ぐるぐる回っているという。

藤田 ボードリヤールとかがもとになっているのでしょうね。映画の『マトリックス』みたいなものを想像してもらえばいいのでしょうけれども。マトリックス世界にいたと思ったら、そこが現実だった。と思ったら、マトリックスだった。と思ったら、現実だった。そういうふうに無限にメタに進んでいき、一番上に行ったらまた下につながっていて。そういうふうに入り組んでいるのが現代の現実なんでしょうね。北野勇作さんはそういう複雑に入り組んだ世界を描くのがすごくうまい。

――「ダーク・タワー」のラストにも言及されていますね。「「作者」の登場は、物語を読んでいる人間の期待値の動きを利用し、「結末」の絶望感を高める。作中のあとがきなどを含めて、全て作品の一部だと考えてみよう。それらは戦略的に、結末の効果を高めるために書かれていると見ることはできないだろうか。」

藤田 「ダーク・タワー」の結末の絶望感は有名ですね。「2ちゃんねる」にあった比喩では次のようなものがあります。すごく難しいゲームがあるとするじゃないですか。一週目クリアするじゃないですか。次に裏面が始まり、二週目が始まる。二週目をクリアして、三週目に入る。で、ラスボスを倒してようやく真のエンディングが見れると思ったら、途中でアイテムを取り逃していて、最初の面に戻ったみたいな。あれえ、何十時間やったと思っているの、みたいな(笑)。そういう感じで、しかも伏線がないという終わり方です。それは「ええー!?」ってなりますよね、普通。

――それをキングは「あえて」狙ってやったというのが藤田さんの意見だと。

藤田 それは「あえて」でしょうね。「あえて」というか、そうなるしかない必然性がある、と思って僕は論を書きました。

――評論でいうと次のところですね。「……キングがこれまでに書いた全ての作品は『暗黒の塔』に集約され、その結末に辿り着くために長い長い小説を書くというキングの苦役があるのだと期待する。そして、語られた言葉の量そのものに圧倒され、その苦役の、全ての中心の中心、目的が、単なる徒労であり、本当の目的地に近づくためには同じ努力を何周も続けなければいけないと知ったときに生じる、あまりの落差への落胆。これを演出するために全てが用意されていると言ってもいい。」長く長く歩いてきて、これで終わるのかよ、という。

藤田 ただ、それこそが快楽だという話です。結末にたどり着けなかったことがです。何かがこの先に待ち続けているかもしれないと考えることが、彼の快楽なんです。その状況が維持されることのほうが、欲望というのが清算されうる状況にあるから、それこそがいいんだ、ということですね。

――どこまで進んでも目的にたどり着けないというのは、カフカの『城』にも似ていますね。

藤田 カフカの『城』との比較でいうと、カフカの『城』は、確かに中心にたどり着けない未決定性のなかでぐるぐるまわっているけれども、文体や構造はジャンクじゃないんですよ。すっきりしているんですよ。ゾンビとか変な怪獣とか、出てこないじゃないですか。メタフィクションでもないし、ジャンク性がない。「ダーク・タワー」はジャンクコラージュ的なカフカの『城』っていうような言い方で捉えられる。

――カフカはリアリズムですものね。

藤田 そうですね。でも構造としては似ているとは思います。

――カフカというのは、徹底的に「神」の影が見えない作家かとおもいますけれども、その点、ここなんかはどうなのでしょうか。「この『暗黒の塔』は二つの相反するエネルギーや思想が鬩ぎ合い、対話し、バトルしている小説であり、その衝突の現場なのだ。最終的に「神」への批判に行き着くが、そこまでは闘いが延々と続いているのである」

藤田 そうですね。バトル小説というところもあると思います。エンターテイメントは小説は何かがバトルしているものが多い。バフチンによれば、ドストエフスキーの『罪と罰』は、ロシア正教、右翼、左翼、社会主義思想といったもののバトル小説じゃないですか。それで最後にソーニャが勝つわけですけれども。衝突やノイズがドストエフスキーの小説にはあって、それが祝祭になっている。キングの小説もそういうものになっていると思うんです。

――ドストエフスキーは最後は神が救っていると思いますが、キングの場合、神への批判が強いのじゃないでしょうか。

藤田 ドストエフスキーの肯定している神と、キングの否定している神は違う神のような気がする。ドストエフスキーの場合、土着的というか優しさがある、豊和的な神だと思う。キングの想定している神というのは、シビアで理不尽で嫌なやつっぽい感じがする。

 (ここで、蜂が突如として現われ、藤田さんの周囲をつきまとう)……蜂だ、蜂だ、助けて、蜂だ、蜂だ蜂蜂、蜂だ……これは記事にしなくていいよ。してもいいかな、しても面白いよ、これは。なかなか臨場感があっていい……あ、やだやだ助けて……これ入れようね、残そうよ、これ。残せるなら残そうよ(笑)……これ、削っていいよ……

キングの核心というのは、内奥性とか祝祭という概念で把握できるんじゃないかと思います。怪物が出てくるじゃないですか。怪物って、くだらないものとか幼稚だとかってとらえられている。でも、SFとかって、怪物がしょっちゅう出てくる。これをくだらないものととらえるのでなくて、怪物というものの出てくる必然性をとらえることで、ジャンル自体の特性が見えてくると思うんです。アンドレ・シャステルは『グロテスクの系譜』のなかで、怪物というのは祝祭であり、ユーモラスなものであると言っています。ユークリッド空間的な物語に、静謐で清潔なルネッサンスに対抗するために、民衆が無意識的に呼び出したものがそれで、怪物とは面白いもので、カーニバル的なものだと。日本においても怪物というのは幼稚なものととらえられていますが、純文学的な規範そのものにジャンルとして抗うために、怪物とかが形成されてきたと受け取ることができるじゃないか。グロテスクもそうですが、正しさとかある規範が暴力的に押し付けられているときに、民衆がそれに対して反動としてやる表現であると。
2ちゃんねるもぼく、そうだと思うから。大衆の熱狂ですね。怪物です。内奥性であり、祝祭であり、ユーモラスなあべこべ世界です。倫理が逆転していますね。2ちゃんねるにおけるいわゆる「祭り」は、身分や物の価値観が逆転するわけですね。貧乏人や道化が聖なるものになったり、王が転落したり。権威が地に落とされ、ダメ人間が上がったりする。雑多性、怪物性、カーニバル性でとらえられるわけですね。2ちゃんねるの祭りって、よく知識人に批判されるけれども、本当の祭りだってやばいんだから、2ちゃんねるだけ批判するのはよくないよ。本当の祭りなんて、人間に杭を落としたり、家を壊したりしてるんだから。2ちゃんねるだけ責めるのはよくないよ。まあ、2ちゃんねらーも良くないんだけどね。

――ちなみに、2ちゃんねるの、どの祭りとかが好きなんですか?

藤田 スピード感とか集合感とか熱闘感とかあるのが好きだね。闘いが面白いよね。ニュース速報プラス板が好き。闘ってる方が好きだよ。闘いが起こって、レスがいっぱいついて、祭りが起こるのはみんな挑発的なことをわざというからだよ。
あとは、文学関係の板とか。文学に関する見解とかが分かれて、喧嘩になるわけ。ポストモダン文学とかについて語っていると、「日本の心がどうこう」とか、そういう古い右翼みたいな考え方をもっている近代文学主義者がきて、おれに説教していく。で、闘いですよ。すごい闘いますよ。

――「2ちゃん炎上事件」とかが起こるわけですね。

藤田 起こる起こる。僕は2ちゃんねるで朝鮮人ということになってますからね(笑)。あいつは朝鮮人だから受賞したんだ、とか言われるわけです。事実無根ですが。「2ちゃんねる」について一言だけいうと、2ちゃんねるは物質を使わない祭りじゃないですか。記号だけの祭りだから。資本主義が、祭りを駆動原理にして、高度消費社会になって、服とかも、記号の消費なわけじゃないですか。それは物質を持っていた。金がかかった。でも、2ちゃんねるにおいては、金がほとんどかからない上に、物質が必要ない、つまり、エコに優しく、貧乏人に優しい記号の消費で祝祭をえているから、あれは意外といいことだと思っている。

――物質なき場で起こる、ある種の精神戦闘ですね。そろそろまとめに入りましょう。藤田さんの評論から再び引用します。「後半のジャンクな構造や引用のパッチワークと化すシミュレーショニズムのような構成は、このキングの小説が、二次創作やネットも含みこんだ物語消費の世界にも足を踏み込み、ネット‐二次創作的な現代の物語消費環境の変化に対応しているのかもしれないという点において、現代文学作品としても、過去のものに回収しきれない部分が多々ある」と。

藤田 引用のパッチワークやブリコラージュ、ジャンク性やシュミレーション性、二次創作性に注目していくわけですね。東浩紀さんのデータベース消費みたいな話ですけれども。インターテクスチュアリティですね。作品だけでなくて、作品の連鎖を、産む作品の全体として見る、みたいな。インターテクスチュアリティとWebとの関係については、アメリカ電子文学会なども言及しています。これって、自然主義文学的には評価できないじゃないですか。ネットの文学とか。でも、そうじゃない評価の仕方ができるんじゃないかと。その考え方を導入して、キングを読んでみたわけなんですが。

――2ちゃんねる的なアスキーアートとか、あるいはニコニコ動画のマッド動画とか。特定の形式を、引用に引用を重ね、すべての人が共有し、また同時に改変が続けられていく。それらの運動の総体を、現代特有のアートとして見る視点ですね。

藤田 そうですね。雑多性、コミュニケーション性、反応性、そして二次創作とか評論とかも全部含みこんで、インターテクスチュアリティに広がっていく。その運動自体に可能性を見出していきたいですね。

――それがこの「ダーク・タワー」という小説にもある、と。「視点や語りの位相を複数化させようとしているメタフィクション的な仕掛けにもその戦略は窺える。分裂するジャンクの怪物の祝祭。この点において、『暗黒の塔』はインターネットとも共振するのである。」とお書きですね。2ちゃんねる的なごちゃごちゃ感というか、混濁した感じが、このダークタワーという小説にもあると。ここで話がつながってくるわけですね。素晴らしい。

藤田 つながりました(笑)。猥雑性、ジャンク性、雑多性、ユーモア性。昔の純文学とかのように、それらを否定する文学観というものがあると思うんです。でも、それだけではない文学の読みかたもあるし、そういう表現もあるはずだと。そういう評価もできるんだというのがぼくの読み方ですね。

――ラストの部分、引用します。「『暗黒の塔』はそれ自体が「対象a」となり、たくさんの読解や解釈へ誘い続けるだろう。その際に生まれた評論やブログや掲示板での解釈、素人の二次創作や、映画化、スピンオフなどや、各国語の翻訳を含めて、『暗黒の塔』という巨大な建造物が増築されていく過程だと受け止め、この全てをひとつの作品と考えることもできるのではないだろうか。」

藤田 そうですね。キングは映画化できない作品を書くっていいはっていたんです。映画化させないって言っていたんですが、映画化権を最近売ったんですよ。コミックも出ているみたいなんですよね。スピンオフとかメディアミックスとか、そういうのを作品の一部として意識しているんだなと感心しました。そういうふうになっていくことをオリジナル至上主義者は否定するでしょうけれども、それらが増殖していくのも面白いじゃんと思っているんでしょうね。角川なんかはそう思っていると思いますし。

――なるほど。ダーク・タワーについてはまとまりましたね。「消失点、暗黒の塔」は何枚くらいの評論なんですか?

藤田 80枚ですね。

――80枚くらいの評論、ちょくちょく書かれているのですか?

藤田 いや、二本目です。卒論でヴォネガットを扱って、その次。

――すごいですね。二本目で受賞なさるなんて、才能あるんですね。

藤田 個別の作品に対する短いものならちょくちょく書いてましたけれどもね。

――藤田さんは、今回、批評家としてデビューなさったわけですが、創作もなさるわけですよね。批評と創作という問題機制で言うと、二つは藤田さんのなかでどういう関係にあるのですか?

藤田 もともと創作の方が長かったです。まず創作があって、それをネットとかに発表して、思ったように読まれなかったり、批判されたりするから、理論武装していくわけじゃないですか。理論武装をして闘っていくうちに、また、創作するわけじゃないですか。闘っているうちに、フィードバックしていく、そして創作のネタを探すために批評とかを読む。その過程を繰り返していくうちに、自分のがまともに読まれないときがある。逆に、他人の作品をどれだけ誠実に読んでいるのかと考えたときに、すごく誠実に僕は読まなきゃと反省もする。いろんな読みかたを自分ができるようになりたいと思って、他人の作品を理解できるようになりたいし、あと、自分の作品も理解してもらいたいというのがある。自分が下手なのか、ほんとに分かられていないのかが分からなくて、その辺も、新しい環境で新しいものを書いたら、批評も必要なんだなと最近分かってきて。評価とか世間の認知とかが追いつかないんだと思うんですよね。

――創作を補完するために批評を始め、批評をやることで創作をより良いものにもする。小説と、小説を理解するための批評。二つのうちのそれぞれが、互いを生かしあう形で、藤田さんのなかに共存しているのですね。「批評の可能性」というものを愛する私としては、藤田さんの今後のご活躍を心より期待いたします。本日はどうも大変ありがとうございました。


藤田直哉(ふじた・なおや) 83年生まれ。SF・文芸評論家
ブログ 「the deconstruKction of right」 http://d.hatena.ne.jp/naoya_fujita/

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