タンクローリーで東浩紀をひき殺す 

今年の五月、「文学フリマ」を見学するために、秋葉原に行った
激しく驚いた
駅前にたくさんのメイドさんが立っていたのだ
どんな天国かと思った
メイドさんが大挙して、ビラ巻きをしている
「メイドさんと一緒に秋葉原の街を一日デートできますよ」というビラが多かった
それから、メイド喫茶の宣伝のものも、少々あった

ええっ
メイドさんと秋葉原の街をデートできちゃうのっ?
萌え死ぬ……
ぼくはしゃがみこんで泣き出しそうになった
ぼくにお金さえあれば、あんなことやこんなことをしちゃうのにっ
こういう水商売も登場しちゃったんだなーと、狂おしくなる
私は嫉妬した
三島由紀夫の『金閣寺』の主人公が、美の象徴たる「金閣寺」を燃やしたごとくに、秋葉原の街を燃やしたくなった

そのとき感じたのは、秋葉原とは、三重の意味で屈折した街なのではないかということだった

話は少し遠回りする
そもそも、人間にとって「文学」とは何なのか、「アート」とは何なのか?
初歩的な話だが、私はこう考えている
ここに幼児がいる
幼児は、母が好きで、母を独占したいと考える
そこに父が来て、母への接触を妨げる
幼児は、父を厭う
そして、幼児は、父を仮に、いないものと考えてみる
父というものは、頭のなかにおいて、存在しなくなる
幼児は、脳内において、父の存在しない世界を手に入れる
しかし、現実には、いくら目をつぶっても、目を開くと父はそこにいる
ここに、一つ、「文学」というものの始まりがあるだろう
文学とは、現実に存在する困難に対し、精神の安定をはかるためになされる、現実に反する、想像力の飛翔である
文学は、政治的な敗北のなかに存在する

このような古典的な話を踏まえたうえで、「ゼロ年代の日本社会における文学」とは何かということを考えてみる
もちろん、人間精神を代補する「アート」というものは山ほどの種類がある
ここでは、「純文学」と「漫画・アニメ」に絞って、言及することにする

現代文学を考えるうえで一番大切なのは、そのモードが、東浩紀のパラダイムにあるということだ
そもそも、純文学とは、私たちそれぞれの、三次元における生に対して、メタレベルに立つ反省として、虚構の世界を活字によって記述するものである
さらに、漫画・アニメは「像」という記号を利用することにより、純文学・近代文学と同様、人の精神に慰安をもたらす二次元の世界をつくる
純文学に記述されるのは、一つには、理想のイデアである
漫画・アニメにおける記号化は、純文学以上に、さらに進展させられる
純文学における性愛の対象は、作者による理想の人間が呼び出される
現実の、手の届かぬ恋人・スターへの一次的接触へのあきらめのもとに、「文学」における恋人が生ずる
一方、漫画・アニメにおける異性像は、それ自体が性愛の対象となりうる
「漫画・アニメ」における異性像は、テレビ文化等の作り出す社会的価値を飛び越え、直接的な恋愛・性愛の対象を創出させる
そうすることで、ハマるひとにはハマり、入りこめないひとには入り込めない虚構世界を形作る
二次元の恋人は、オタクにとっては麻薬みたいなものである

麻薬やシャブの販売は法的に禁止されている
それは、一つには、国が、社会へと貢献する人材を育てることを望むからである
国家は、国民が、どんな個人へと育つことを推薦するのか
純文学・近代文学を読むことで、現実への耐性を得るということは、一つの理想の国民像であった
社会生活を営むなかで受ける精神的ダメージを、純文学により軽減させられ、社会的逸脱を阻止する
国民国家の始まりにおいては、そのような市民が、理想とされる時代もあった

21世紀には、純文学というもの、近代文学というものの残りかすが消し去られた
そのことに一役買ったのが、東浩紀であった
東は、純文学というものを一掃し、漫画・アニメを擁護することで、青少年の精神を代補した
東は、小説「キャラクターズ」のなかで、朝日新聞社にタンクローリーで突撃をかける
そして、柄谷行人を炎死せしめた
私の考えるところ、柄谷が日本で果たしていた役割とは、中核派的・革マル派的な倫理と精神を、知的言語でもって代補することにあった
東は、主著である『動物化するポストモダン』(二〇〇一)のなかで、柄谷を、思想的・文学的に炎死せしめた
東は、柄谷ごと、旧弊な学生運動と新左翼運動をひき殺した
この東の行為は、柄谷以上に倫理的であったといえる

もしも人が秋葉原でテロ活動を行おうと考えたとき、それは三重の意味で屈折している
それは、「秋葉原的文化」が、新宿的・池袋的・渋谷的な風俗文化・水商売文化に対する、アンチテーゼとして存在しているからだ
「秋葉原的文化」は、本来、虚構の中に、データのみで存在するものである
イデアというものは、物質を与えられない限りにおいて、イデアである
それを、現実の秋葉原という街に落としこまれたとき、混乱が生ずる
現実の街というものは、生権力によって包囲される、まぎれもない「人間」が集まる場所だからだ

そしていま、私たちは、東浩紀を、思想的・文学的に、タンクローリーでひき殺す必然性に迫られている
そうでなければ、私たちが、倫理的・美的に「人間」であることは、不可能だと思われるからだ
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