蓮實重彦『「赤」の誘惑―フィクション論序説』 

「赤」の誘惑―フィクション論序説 「赤」の誘惑―フィクション論序説
蓮實 重彦 (2007/03)
新潮社
この商品の詳細を見る


蓮實重彦『「赤」の誘惑―フィクション論序説』を読む。



本書では、「模倣」という言葉が重要なキーワードとして取り上げられている。
「模倣」とは何だろう。
自分の経験で考えてみる。
数学の解法を先生から学び、使えるようになることは一つの「模倣」の例だろう。
スポーツで、達人の動きを真似ること。
カラオケで歌を歌うことも、人気歌手の模倣かもしれない。
好きな漫画の絵を模写すること。
面白かった物語のセリフを口ずさんでみること。
名台詞を心の中でつぶやきかえしてみることで、主人公の気持ちを追体験し、高揚する。
あるいは、好きな作品を、自分流にアレンジして書きかえてみること。
などなど。
模倣は人に、喜びを与えることもある。
「私」は「憧れの対象」と溶け合い、融和し、快を得る。
私は、「私」を他者に捧げ、そうすることで「私」を得る。
コピーやパロディというものの持つ、魅力である。
私にとっての、「模倣」観は様々にあるが、とりあえずここまで。

さて、プラトンの『国家』における芸術家の定義を、蓮實は次のようにまとめる。

……例えば寝椅子というものをめぐって、「画家と、寝椅子作りの職人と、神」という三者がそれぞれ寝椅子という作品を作りうるはずだが、神は「真にあるところの寝椅子の真の作り手」であり、寝椅子職人は「或る特定の寝椅子を作る或る特定の製作者」にほかならず、「先の二者が製作者として作るものを真似る(描写する)者」にあたるのが画家ということになる。(下線は原文傍点)


絵画とは、模倣の模倣であり、「真実(実在)という王から遠ざかること第三番目」であり、これが芸術家の位置だというのがプラトンの芸術論だ。
プラトンの王国からすれば、芸術家の位置は極めて低い。
蓮實はこれを退ける。
芸術とは第三番目に位置するものなどではない。
「「存在」と「不在」との関係がゆるやかに位置を転倒させてゆく」芸術作品、「「真実」と「影像」、「現実」と「模倣」」という図式を「一掃する」芸術作品こそが素晴らしい作品なのだ。
ギリシャならぬ時代にはそれがある。
そのような論が、一つ、蓮實の『「赤」の誘惑』には含まれている。

『赤の誘惑』は、古今東西の様々なフィクション論や模倣に関する論を、網羅してある。
世界各国の蝶を標本にしていくかのような、鮮やかな手つきだ。
論文や小説の収集のセンスには遊び心が溢れている。
さらに、コレクトした蝶の標本達を次々に否定し、否を突きつけていく。
先行する学者達を切り捨てて行く手並み。
文学的で、優雅で、自信に溢れている。
「模倣」ではない「創造」とはなんと困難なことだろう。
「創造」というものの大変さ・面倒臭さ・エレガントさを考えさせられる。
にほんブログ村 本ブログへ←ブログランキング参加中。クリックしてチョ(´;ω;`)
スポンサーサイト
コメントの投稿














管理者にだけ表示を許可する
プロフィール

松平耕一

Author:松平耕一
○twitter登録名:matudaira
○ツイッターまとめ:http://twilog.org/matudaira
○Facebook登録名:松平耕一

☆文芸空間社企画
◎批評放送
・批評放送は松平のプロデュースする動画配信企画です。ツイキャス http://twitcasting.tv/matudaira 、youtubeなどで配信されます
批評放送@USTREAM

○松平耕一・文芸空間社・批評放送へのカンパ振り込み先は
・三菱東京UFJ銀行の吉祥寺支店普通口座1896022 マツダイラ コウイチ 宛になります

管理者ページ

FC2カウンター
ツイッター@matudaira
カレンダー
04 | 2017/05 | 06
- 1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30 31 - - -
全記事(数)表示
全タイトルを表示
カテゴリー


  1. 無料アクセス解析
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。