X様への手紙――なぜ「ゼロ年代の新文学」なのか 

このたび、「ゼロ年代の新文学」というテーマでご寄稿をお願いいたしました
返信をお寄せいただきありがとうございます
しかし、X様におかれましては、私のテーマ設定に疑問を抱かれたとのことですね

「新文学」とは何か?
そもそもなぜ「新文学」なのか? 「新文学」などないのではないか?

X様のお考えのこと、おっしゃるとおりと思います
そもそも、なぜ『新文学』は『新文学』というタイトルなのかという説明も、いたしておりませんでした
私が「ゼロ年代の新文学」というテーマで何をやりたいのかということについて、少々お話させていただきます

第一に、私とX様では目に映っている世界が異なるかもしれないということが気になりました
私は「文学」の名を独占しているものの存在へのアンチテーゼとして「新文学」という言葉を採用しています
文壇でも、アカデミズムの世界でも、大文字の「文学」を擁護する世代が幅をきかせています
高齢者に優しく若者に厳しい思想界・マスコミ界の現状がある
出版界の古い世代の編集者たちが、新世代の人間を拒んでもいます
たとえば、東浩紀は美少女ゲームやライトノベル、ケータイ小説を積極的に肯定しました
若者に人気のある文学のメタに立ち、代表しうる現状の批評家がいなかったため、マーケティングに有利だったということもあるでしょう
それでも、若者による若者のための文学を取り上げ、紙媒体において批評をなすことは意義のあることと思います
また、ある世代と別の世代を対話させるのが「批評」の役割でもあるでしょう

第二に、ゼロ年代について論じようとするとき、幅の広い知識が試されるということもあります
「ゼロ年代」を代表する作品について論じるということは、ゼロ年代を、ゼロ年代以外のものと分けなければいけません
2000年から2009年を、それ以前の年月と区別すると、どのような文学的な変化があったのか
時代によって現れる文学作品には、社会的な影響の反映も見抜くことができるでしょう
数十年単位でメディアを観察することでえられる知見もあるでしょう
ゼロ年代には、それ以前の歴史とは異なり、次世代へと語り継ぐべき、どんな知が生じたのか
私たちはゼロ年代の知をどうジャッジしうるのでしょうか
論者の知を試すのに、「ゼロ年代の新文学」というテーマは格好の素材でしょう

第三に、歴史というものを語ることは批評家の一つの責任でもあると私は考えています
もちろん、古さというものを新しさに変えていくことは、資本主義が商品の売買を活性化させるための方策でもあります
今よりも未来がより良いものであると錯覚させることで消費意欲が煽られる、ということもあるでしょう
しかし、連続する「今」、常に享楽される「現在」にたゆたうことには批評性が欠落します
新聞は一日ごとに新しいものが登場します
雑誌は一週間ごと、ひと月ごとです
書籍は三か月ごと、あるいは一年ごとに消えてゆくかもしれません
「古いもの」に「新しいもの」がとって代わられるスピードは、刊行される期間とリンクしていて、媒体自体が規定しています
しかし、哲学は百年単位で思考されるかもしれません
批評は十年単位で書かれるかもしれません
もちろん、状況への総体的な視点とは常に仮初めのものに過ぎないでしょう
しかし、忘却されゆくものへの想起を促すのは、批評の一つの役割でしょう
現在に対して、未来と過去という時間の軸があります
今ここに対して、内と外という地理的な軸があります
時間的な軸か、空間的な軸かにおいて、外部に出ることが、批評に一つの立脚点をもたらします

第四に、「ポスト批評空間派」の問題があります
今危急なのは、「ゼロ年代の批評」とは何だったのかということと、「批評の意義」について再考することです
そもそも、批評は、日本社会において継続していけるのでしょうか

文芸評論家にとっての重要な役割に、文学史を綴ることがあります
そして、今、「現代文学史」は誰が書きうるのか
宇野常寛こそが、もっとも優れた現代文学史の書き手ではないのか
そのことに私は強い危機感を抱いています

東氏は「東浩紀のゼロアカ道場」において、「すべてをゼロにする」という目標を掲げました
そして、ゼロアカ道場の批評家集団は、09年の「GEISAI」において、アーティスト集団「Chim↑Pom」をパロディにした「スーパー☆ラルク」により話題を呼びました
「スーパー☆ラルク」は、私たちを取り巻く世界の真相が、実はゼロであるということを気づかせる、優れたパフォーマンスを行ないました
アカデミズムと、論壇・文壇の閉塞を打ち破り、それらを粉砕しつくしたかのようです

しかし、東氏によるゼロ化と対蹠的な形で、宇野常寛は台頭しました
宇野は東氏がゼロ化した地域に、「歴史」と「道徳」を建築しています
このことは看過できない事態です

「文学史」や「歴史」を語らず、そこに乗らないところに東氏の活動の主軸があります
私の考えるところ、「批評空間」と「思想地図」の違いはここに生じます
文芸評論のテーマを仮に二つにわけます
一つ目は、まだ批評されていない領域を、批評のなかに組み込んでいくコンセプチャルなものです
二つ目は、一つ目の仕事によって手のつけられた領域を、文学史のなかに配置し整理するものです
つまり、スキゾ的に切り込むものと、パラノ的に組み上げるもの
この二つから文芸評論は成り立ちます
前者が東氏、後者が宇野ですね

歴史を語ることは、政治的な扇動にもなりえます
道徳と歴史は一つの談合を形成します
たとえば、批評空間派は、90年代からゼロ年代に移るにあたって、「歴史とモラル」という隘路に落ち込み自壊しました
一方、東氏は、アモラルであること、芸術至上主義的であることによって、ゼロ年代を生き延び、批評の歴史を存続させました
思想史には、アモラルなものとモラリスティックなものが混交しつつ浮かび上がり、交互にスポットがあてられます

アモラルなものの代表として、戦後の無頼派、浅田彰のスキゾキッズ、宮台真司の「まったり革命」、東浩紀の「動物化」などが挙げられることでしょう
戦後派の坂口安吾の『堕落論』では、全体主義国家への強制参加が全道徳を支配していた時代が長く続いていたため、「もっと堕ちよ」という言葉が栄えたわけです
また、旧来的な左翼たるサルトルへのアンチテーゼとして、デリダ、ドルゥーズが登場し、これらを換骨奪胎しつつ浅田や柄谷が登場しました
彼らは当時文壇の重鎮であったサルトル型の第一次戦後派と対決しました
個人に責任というものを強制させる政治的党派からの軽やかな脱却でもあったことでしょう
90年代末、歴史を愚直に語ろうとした柄谷行人とすが秀美の傷は、スキゾ的な振る舞いのなかで批評を実践した浅田彰や、スキゾ的な文体で批評を綴った蓮見重彦に比べて大きかったことでしょう

切り込み型のスキゾ系批評と、再構築型の文学史系文芸評論
東氏には文学史の構築はできまいという話をしましたが、もちろん、「文学史的なもの」への対策として、弟子筋のものにその隙間を埋める仕事をさせる準備もあるかもしれません
最近のゼロアカ第五回関門プレゼン動画の例でいえば、坂上秋成さんは、オタク文化系の文学作品において、東氏が開拓した批評の領域を整理しつつ再構築する役割を担いうるのかもしれません
また、廣田周作さんは、日本文学研究者や、その他の知識人に占有されている村上春樹――文学史において正史に位置づけられている――を、東派的タームで読み替え、脱構築することが期待されるかもしれません
一方、村上裕一さんは、切り込み型のスキゾ系批評であり、マッドやAA文化を始めとするネット論を開拓しうるのかもしれません

現代においては、ある一定の時期から、文学史が失効しました
社会学者の語る文化史こそが、「歴史」のメインストリームを形成するようになります
大澤真幸、北田暁大、鈴木謙介らの語るサブカル史は、それ自体、文学を題材としなかったとしても、しかし結果として、「文学」以外のなにものでもありません
それらと思想的な緊張関係を持ちつつ、21世紀の文芸評論を構想しなければいけないことでしょう

宇野常は仮面ライダーや『デス・ノート』を扱いつつ、歴史を語りました
「文学」や「歴史」の名を簒奪し独占している高齢者に、一矢を報いています
宇野が制作しているミニコミ誌『PLANETS』は優れた文芸誌であり、文芸五誌よりはるかに面白いです
読者の教養を前提とせず、とても親切です
ケータイ小説、ライトノベルと並べられる位置に『PLANETS』はあります
浅羽通明の弟子でありつつ、浅羽氏よりなおいっそう「ラディカル」であるかもしれない宇野を超えることは容易ではないでしょう
宇野のジャンル批評は島宇宙を横断し、つなげるものであり、現代文化への愛に満ちています
『ゼロ年代の想像力』は現代文化をパノラマにしたその便利さを買われ、間違いなく文学史に残るでしょう

しかし、すべてがゼロになった後に出てきた宇野ですが、私たちは、さして美的ではなく、道徳を説いているのにも関わらず道徳的でもない氏の詐術について、暴かねばなりません
先日文芸誌に、宇野による、芥川賞作品論が掲載さました
若者よ成熟せよと説く宇野が、幼稚で未熟な知識しか持たないことを露呈していました
それはある種、私たちの世代に負わされた刻印のごときものです
宇野の批評は、ネオリベにおけるコンテンツ産業のなかに閉じ込められています
テレビ、映画、大手漫画誌、文芸誌といった大手マスメディアのコンテンツを、何でも貪欲に吸収したことは、宇野の売りであり持ち味です
氏は、マスメディアの擁護者として、メディア中枢での御用評論家としての位置を獲得していくことでしょう
しかし、ネットの存在を等閑視する宇野は、資本の運動に囚われた、プチブル的な言説しか紡ぎ得ないのではないでしょうか
また、宇野は、限定された世代のなかに自閉しています
思想地図のシンポジウムでは、高齢者とろくに会話のできない様子を公衆の面前で明らかにしていました
年配者をスルーする
その一方で、同世代のマイナー文化を軽蔑しモラルを説くというダブルスタンスをとっています

宇野とは異なる現代文学史のルートを開拓しなければいけません
「ゼロ年代の新文学」において、現代文学史の再建の試みをなしたいと私は考えます
私は「文学と政治」ということを重視します
これに対し、「政治的」であるとはどういうことかというご指摘をいただくことがあります
人間の絡むあらゆる事象は、すべて、道徳的な観点からも把握できます
歴史を語ることは、たとえ仮設的なものであったとしても、社会全体を見渡すことへの欲望を持つことであり、状況への責任を持つことでもあります
論壇、文壇、アカデミズムにおいて、若い世代における「美」への傾注を促す
またそれらは、道徳的に、また世界的に、どう評価しうるのか
若い世代の美は、過去の歴史からどう接続しているのか
目指すべき未来というものはあるのか
わたしたちは、どのように21世紀の世界を構築していきたいと考えるのか
それらの多様な問題をはらむことと思います
ネット文化の興隆と反比例的に、出版界の勢力は衰えています
そもそも、出版界とともに商業媒体における批評は消滅するかもしれません
それでも、批評を存続させる意味はあるのか
90年代の批評とゼロ年代の批評の差異を分析しつつ架橋していかねばなりません
ゼロ年代の批評を総括することは、20世紀の批評を総括することでもあり、21世紀の批評を形作っていくのに必要なことでもあるでしょう
芸術至上主義的でありつつ、かつ道徳的でもある現代文学史を私は欲しています
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ユンケルンバでがんばルンバ!
[ 2009/10/17 13:37 ] dutuumoti [ 編集 ]
鳩山エミリーが、高見エミリー
(人気子役少女)だった頃・・

①宇宙家族ロビンソンの宇宙服を着て
少女フレンド表紙を飾った。

②キャプテンウルトラに出演。
(ちなみにキャプテンウルトラの
ロボット・ハックは宇宙家族ロビンソンのフライデーの真似)

③仮面ライダー・ガールが鳩山エミリー。

★鳩山幸、鳩山エミリー姉妹と
親密になれば・・宇宙に行ったり、
ショッカーと闘ったり
毎日おもしろいのかな?

渋沢さん、やっぱりそうですか?
[ 2011/01/09 20:36 ] ナオレコ(有名カエル型ギター(アンプ内蔵)奏者) [ 編集 ]
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