三浦俊彦『虚構世界の存在論』 

虚構世界の存在論 虚構世界の存在論
三浦 俊彦 (1995/04)
勁草書房
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三浦俊彦『虚構世界の存在論』を流し読み。
論理学を小説論に適用することで、虚構とは何か、フィクションとは何かを多面的に考察する。
非常に専門的で、学術的な書。



論理記号を多用しつつ議論が進む。
数学的な面での極度の難解さを持つ。
きちんと読むためには精読していかなければならない。
時間をかけて一文一文解読しなければワケがわからなくなること請け合い。

緻密に作られた労作。
しかし、普通の人が本書を手にとっても、「なんだこりゃ?」と思うはずだ。
社会的価値という側面から見れば、ほとんどシュールな作業だとも見られそう。
小説に論理学的アプローチを行って、それに何の意味があるのかと。
論理学的研究と、小説論の婚姻である。
ほとんどの人には理解できない部類の、ある種の道楽であるかもしれない。

お金持ちで時間がある人。
かつ、禁慾的で知的な探究心に溢れた人にオススメの書、と言えるか。

ところで、私には常々疑問がある。
フィクションの世界とは、「現実」を写し取ったものなのか。
現実の「模倣」なのか。
それとも、まったく新しい「創造」を行っているものなのか。

フィクションの世界は「存在」するものなのか。
それとも「非在」のものなのか。
フィクションの世界において、「論理」とはどのような様態にあるものなのか。
私の考えによれば、存在論と「神」の問題、「論理」の問題は交錯するはずである。
現実世界と虚構世界において、それらは、どのような位置関係にあるものなのか。

といったことを考えながら本書を読んでいた。
しかし、ぼくの疑問に対する答えが書いてあるのか書いてないのか、いまいちピンと来なかった。

一ケ所、引用しておく。

例えば、作品が一つの可能世界を再現している、というのが事実だとしても、その再現の仕方は幾通りもあるのではないか。出来事の同じ継起(原文ルビ・ストーリー)を、違うプロットで(違う順序で)描写することができるのではないか。また、ある部分で文字通りの記述を行なっても、新奇な隠喩を使っても、同じ事態を描写することができるかもしれない。



そう、何を(原文傍点)描いたかよりも、いかに(原文傍点)描いたかということの方が文学的・美的評価においてはむしろ重要で、その「いかに」のレベル、言葉遣い・媒材操作のレベルにこそ、創造性の真価が発揮されるのではないか。マイノング主義や種類説や可能世界説が作者による作品内容の創造を認めないという点が前章で論じられたが、真の創造とは作品の内容物にではなく、器=媒体そのものに適用されるはずなのではないか。そしてどのような器――どのような言葉、表現法が選択されるかは徹頭徹尾こちら側の作者の行為の問題であって、向こう側つまり可能世界の在り方は関与しない。



小説には二つの側面がある。
「何を」描くいてあるのかと、「いかに」描いてあるのかだ。
「内容」と「文体」の問題である。
「いかに」描くかには、一つの創造がある。
そして、WebにはWebに適した「文体」があるはずだ。
それゆえ、新しい「文体」、新しい「いかに」を生み出せたとき、ある「創造」が、可能となるはずだ。

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