すが秀実『吉本隆明の時代』 

吉本隆明の時代吉本隆明の時代
(2008/11/29)
すが秀実

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○メモ

・タイトルから吉本隆明の研究書と思わせて実は60年安保論である
・すが氏の主要テーマである1968年論と対になっている
・サルトルと吉本は無党派の立場をとった普遍的知識人であった
・60年安保は議会制民主主義の範疇を超える革命的知識人を生み出した
・全的な被害=疎外を被っている者のみが思想的な全体性を回復しうる特権性を有しているとみなされる→普遍的知識人、疎外革命論→ルカーチ→黒田寛一
・68年革命により、普遍的知識人の時代が終わり、種別的知識人の時代が始まった
・グラムシ→有機的知識人…構造改革派、陣地戦、丸山真男、近代市民社会が前提→しかし、68年革命以降の現代においては近代市民社会が衰退した。現代の格差社会においてはもはや市民社会は前提ではない
・一方で大衆は資本主義に反発する。他方で資本主義は古い共同体から大衆を解放する
・武井照夫『層としての学生運動』…学生運動を基点とした革命運動論
・「民主か独裁か」→革命的知識人は民主以外の選択肢を提示する。吉本、黒田寛一。議会制民主主義の外部でのプロレタリア独裁を推奨→社共より左は可能か
・歴史を語りつつ現代運動論やNAMの総括のような部分もあり興味深い
・武井理論は労働運動の従属化に学生運動をおく共産党の統制への抵抗線となり、反スターリン主義的な大衆運動が実践され、マンハイムの言う自由浮動的知識人の問題に一つの回答を与えた
・『なにをなすべきか』のレーニンの党は、自由浮動的でかつ鉄の規律によって担保された知識人の集団が考えられている
・市場の自由浮動性は自由浮動的な労働力によって生産され市場に流通する商品のそれにほかならないが、それは、労働が抽象的人間労働という側面を付与され、商品の交換価値が労働価値説にもとづいて決定される(かに見える)時代において、初めて可能になる
・労働者にとっての自由とは資本に繋留された自由であり、労働の抽象的側面を市場が棄却してしまったら、その自由浮動性もまた霧散してしまう
・既成党派を超えた革命的知識人を可能にするのは党派を超えた大衆社会である
・68年は学生革命であった
・倫理問題を法によって解決することはできない
・80年代に開花した大衆消費社会は正負を問わず労働者フェティシズムを払拭してしまい、黒田に対する吉本の優位を印象づけた
・しかし、労働者フェティシズムという繋留点を持たぬ吉本は逆にポストモダン的な消費社会のイデオロギーに傾斜していくことを余儀なくされていった
・80年代以降労働価値説に対する価値形態論の優位が印象づけられたが、現代格差社会においては労働価値説の再建が企図されなければいけない
・グラムシとは異なりルカーチにあっては、市民社会それ自体が倫理的な装置を持たないため、倫理的な党の存在が重要視される。日常的には労働者階級は物象化されたブルジョワ的意識に汚染されたままであり、時として発生するところの数量化・物量化された世界に対する質的なものの反乱はそれ自体としては無意味でアナーキーな暴動と見なされる。党は市民社会から超越していなければならず、予言者的知識人の相貌を持つ
・20年代ヨーロッパ…ルカーチVSグラムシ。60年代日本…黒田VS丸山、中間としての吉本
・現代格差社会においては市民社会の成熟の延長上に革命を想定する構造改革派の思考はすでに無効である。普遍性へと方向付けられた有機的な市民社会という概念自体が失調をきたしているからだ
・68年以降、市民社会を形成する労働組合から大学といったヴォランタリー・アソシエーションが機能不全に陥った
・労働組合をはじめとする市民社会内のさまざまな自治組織は市民社会内での闘争、交渉、交通、交換をつうじて個々の私的利害を普遍性へ向けて陶冶する。市民社会における私的利害はさまざまに現象するから、労働組合のみならずさまざまな政治的・経済的・文化的ヴォランタリー・アソシエーションが族生し葛藤する
・ヘーゲルにおけるジャコバン派のテロリズムへの拘泥は、アドルノ・ホルクハイマー、ラカンにおいてサドという問題構成において思考されている。ここからヘーゲル国家論は君主制を理想型とすることになる。悪は市民社会では止揚できない澱のようなものとしてあり、大衆は君主の存在様式そのものを決定することはありえないとヘーゲルが考えたためである
・市民社会には市民しか存在せず女は存在しないともいえる
・黒田は大学解体を否定し68年と関係ない
・ドレフュス事件としての六〇年安保を端緒とする日本の市民運動は議会制民主主義に集約される表象=代表制度への不信を糧にする直接行動主義に浸透されていた
・花田や武井はサルトルにおける実存的な無の問題に、もう一つの知識人論であるレーニン主義的な党を対置させていた
・フェティシズムは知っていることを否認するところにあらわれる(フロイト)
・青華闘告発以降、日本の68年は日本帝国主義打倒や世界革命を掲げる機動戦中心主義から入管闘争や部落解放闘争、障害者運動、フェミニズム等のさまざまな陣地戦的マイノリティー運動へとシフトした。吉本もその系譜に属する戦後思想の68年的切断である
・新左翼が60年安保以来懐胎していたナショナリズム=ナルシシズムは、日本が世界革命の中心であるというかたちで集中的に表現されてきたものであり、それは岩田弘から吉本隆明にまで浸透していた。その裏面にはエスノセントリックな民族差別が隠されているというのが、青華闘による批判であった。青華闘告発においては、日本人をナショナリズム=ナルシシズムから解放するという積極的な意義が把握されるべきであった(津村喬『われらの内なる差別』))
・現在ではおおむねネオリベラリズムと言われるところの、資本主義の差別=構造化はたとえさまざまな形でゲットー化として現出しているとしても、貨幣―資本が開いた市場原理の抽象的な自由と平等の空間に実質的に包摂されている→三浦展『下流社会』
・外国人労働者、ワープア、ネカフェ難民へのミドルクラス以上の者の視線は、部落民、朝鮮人、女に対するいわれのない差別とは異なったものである。いわれのない差別は疚しさに帰結する。現代のアンダークラスやルンプロへの感情に差別や疚しさは微弱である。それはいわれのあるものだからである
・差別とはいわれがないからこそフェティシズム的に存続し、ネオリベラリズムの時代の貨幣―資本によっても解消不可能である。貨幣がもたらす超越論的主観性はなぜ女・部落民・在日が差別されるのかを解くことができない
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”タイトルから吉本隆明の研究書と思わせて実は60年安保論である”

上記の通り、吉本論を期待すると裏切られる。
しかし、60年安保論と読めば、こりゃ、面白くって仕方が無いのは、私の思い込み故なのだろうか。
[ 2010/05/04 19:19 ] yasubow202 [ 編集 ]
ぼくたち世代だと
幼稚園時代からビートルズは不良で時代遅れということで敬遠していました。

が中学入学前後であれば、
男の子はBCL(ラジオ受信)
女の子はBCR(ベイシティローラーズ・・第二のビートルズといわれたアイドルバンド)って時代があって、

BCRに熱中した人々も多かったらしい。

そしてBCR作家で北園哲也って作家がいたのらしいけど検索したら、
吉本隆明の同人だったみたいです。

暇な人は調査してみよう!!
[ 2011/01/09 19:08 ] ナオレコ(有名オルガン奏者) [ 編集 ]
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うううっ、絓秀実氏である。 みんな、柄谷氏、渡部氏が去ったとはいえ、 近畿大学へ行こうではないか。   好々爺然とした吉本ばな...
[2010/05/04 19:26] クラウド文学
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