安部公房『砂の女』 


一、ストーリー
『砂の女』は一九六二年の安部公房の作品だ。
主人公の仁木順平は、昆虫採集に出かけた折に、ある砂漠の部落に閉じ込められる。
その部落において家を維持するためには、住民達はほとんど一日中、砂掻きをしていなければならない。
砂穴の底に監禁され、そこにある家と、そこにいる女のために労働することを強制される。
仁木は、砂穴を脱出しようと様々な方法であがく。
逃亡の失敗を繰り返した仁木はいつしかその家の生活に馴れる。
無意味に思えていた労働の中に「希望」を見出すようになる、というのが本編のあらすじである。


二、テーマ
A・「女」について
仁木にとって砂穴の底に住む女は、素朴な女のようにも、自分を誘惑しているみだらな女のようにも思える。
また、愛郷精神の名のもとに、旅行者を引きずり込んで村民を増やし、砂漠の部落を維持しようとする部落民達が背後にいる。
部落民達の思惑を代行するための尖兵としての「女」であるとも言える。
社会を構成する最小単位は夫婦である。
それゆえ、たとえ男が自由を求めたとしても、女と深く関わることは、社会的な存在としての家族制度へと拘束されることへと結果する。
仁木は、女と砂穴から逃れようと足掻くが、やがて女に食われることになる。
仁木にとってこの部落の生活は不条理で非効率的で無意味なものに見えていた。
しかし、女との性交渉ののち、それまでの自分の生活と、部落の生活が、等価なものとなり、砂穴の生活への嫌悪が薄れていく。
自由を求めて旅に出た男が、穴に食われ穴に住み、穴を維持するために労働し、穴のために生活するようになるのである。
「ほとんどの女が…メロドラマの額縁の中でなければ、自分の値段を相手に認めさせられないと、思い込んでいるらしい。(19)」
「秩序というやつがやって来て、自然のかわりに牙や爪や性の管理権を手に入れた。…性の解放論者がやっていることだって…互いに強姦しあうことを、もっともらしく合理化しているだけのことじゃないか。(20)」
この小説は「女とはアリジゴクである」という主張を暗に匂わせる。
近代的自由恋愛というメロドラマを通して異性を見たときに生じる不透明な幻想を廃したとき、社会システムにおける男女の番とはそのようなものなのかもしれない。
明治維新ののち誕生した近代家族制度の実態であるともいえる。
『砂の女』において描かれているのは一見特異な世界だが、一九六〇年頃における一般家庭と日本社会のあり方を暗喩しているようだ。
「私」を拘束し、社会化するものの初源に「男女の愛」がある。

B・「砂」について
砂は絶えざる流動を繰り返す事により、あらゆる生物の定着を阻む。
『砂の女』において、女は固着を、砂は自由を象徴している。
砂の素晴らしさを訴え、自由に憧れ自由を求める仁木という男を、砂の世界に投げ込む。
ここには、自由とは何かの模索が見られる。
「……労働には、行き先の当てなしにでも、なお逃げ去っていく時間を耐えさせる、人間のよりどころのようなものがあるようだ」
読者はこの作品を読み、作中での仁木が行う「砂掻き」なんて、不毛な労働だと笑うかもしれない。
しかし、我々が従事している仕事に「不毛でない労働」など、一つだってあるものなのか。
あらゆる労働は「砂掻き」に過ぎないのじゃないか。
そしてまた、本作の最後は、砂掻きを行い続ける生活に、希望を覚えるところで終わっている。
これは、どんなに不毛に見える労働の中でも、希望というものは見つけ出せうるのだということを、アイロニカルに述べているようだ。
本書の冒頭には「――罰がなければ逃げる楽しみもない――」とある。
システムの中にからめとられざるをえないのが、人間のあり方であり、そうであればあるからこそ、そこから、「自由への憧れ」が生み出されてくるのだ、という事を考えさせられる。
都市とは自由で孤独な人々が集まった空間だ。
それは砂漠的な空間でもあろう。
『砂の女』に出てくる「砂漠の部落」は、都市のもう一つの姿であろう。

三、時代背景と作者のモチベーション
六十年安保闘争のさなか、公房は共産党から脱退した。
その脱退直後に、この小説は書かれている。
作品のあちこちで、左翼の活動家に対する好意と批判が見られる。
「灰色の種族には、自分以外の人間が、……灰色以外の色を持っていると想像しただけで、もういたたまらない自己嫌悪におちいってしまうものなのだ。(14)」
「もしあの男までが、他の同僚たちと同じような反応を見せたりしなかったら、はたして、あれほど依怙地になっていたかどうか、疑わしいものである。(14)」
左翼運動から逃避したという自責の念が、この小説を書くにあたっての公房一つのモチベーションであったろうことは、想像に難くない。
そして運動も労働も、双方は一つの「痙攣」であり、砂掻きなのだと主張しているようにも思われる。
仁木は工房と同じ月日に生まれている。
この作品は工房にとってのある種の私小説であり、自己の、「党」なり「社会」なりからの「失踪宣言」なのだろう。

社会システムを壊すために作り出されたシステムはその存在自体根源的に不条理である。
仁木にとってこの「砂漠の部落」は自分を不当監禁する強者である。
「砂漠の部落」は,悪を実践する「強者」である。
そのことの一方で、「砂漠の部落」は本当に悪なのか。
この部落がこうむっている飛砂の被害は災害補償の対象とならない。
日本の社会にとってこの部落は、ある種のマイノリティーであり、弱者でもある。
弱者の弱者に対する暴力という地平に物語を設定し、感傷を交えずに男の側の闘争を描いている。
仁木と「女」の関係も、一見仁木が強者に見えるが実はそうではない。
そして、社会との闘争を続ける男が社会との和解に乗り出すきっかけは、「自由という名の往復切符」を手に入れたことによってである。
この辺りには、強い皮肉と転倒が見られる。
「君は自由なのだよ」という証書の存在により、拘束を受け入れるのが現代社会を生きる我々だ。
安部公房はサルトルとカフカを好んだ、倫理的な理数系の作家だ。
「R62号の発明」等の初期短編は比較的単純素朴な人間賛歌のイデオロギーに貫かれた小説であるが、『砂の女』以降、公房の思想はさらに深みを増す。
そこには逃亡者の持つ痛みと屈折が表現されている。
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石川淳の「鷹」はいかがでしょうか?
[ 2007/04/23 22:47 ] もんきち [ 編集 ]
あり地獄のイメージ、とても良く伝わってくる作品でした。映画化された時、岸田今日子(でしたっけ?)の神秘的なイメージが似合っていました。

東京沙漠なんて・・・・・

[ 2007/04/24 10:48 ] アリス [ 編集 ]
>もんきちさん
ひょっとしたら、石川淳はお好きなのじゃないかと思っておりました。
「鷹」については今度、扱ってみたいです。

[ 2007/04/24 23:01 ] 松平耕一 [ 編集 ]
>アリスさん
上のぼくの文章は、女性の視点から見たら批判すべき点もあるかもしれません。
何でもお気づきのことがございましたら、お寄せくださいね。

読書会への参加もお待ちしております。
[ 2007/04/24 23:03 ] 松平耕一 [ 編集 ]
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