武田泰淳『蝮のすえ』 


武田泰淳『蝮のすえ』

一九三七年七月、北京郊外で盧溝橋事件が起こり、宣戦布告のないまま日中戦争が始まった。
南京事件、三光作戦、従軍慰安婦問題等、この時の日本が起こした戦争の悪はいまだ多くの議論を呼んでいる。
武田泰淳は一九三七年十月に応召し、輜重補充兵として中支に派遣され、翌々一九三九年十月、上等兵で除隊した。
この時泰淳は中国で何を見て、自己の参加した日本の悪というものをどのようにとらえたのだろうか。
そしてそもそも、「悪」とは一体何なのであろうか。


「蝮のすえ」に入る前にまず、それ以前の泰淳の作品に注意を向けてみよう。
泰淳の戦中の作品である一九四三年刊行の『司馬遷』においては、国家は滅亡するものであり、それは世界にとって何ほどでもないという歴史観が提示されている。
ここには国家に対する怒りと自己に対する悲憤とが全篇を通して垣間見られる。
一九四七年には「審判」、「秘密」、「蝮のすえ」が連続して発表された。
「審判」においては、夏目漱石の『こころ』に構成を借り、個人に与えられる裁きというものを焦点化している。
作中人物の「次郎」は語り手に、日中戦争時の兵隊時代に自己が行った悪を忘れないようにするために、中国に残り天の裁きを受けようと考えていることを告白する。
「秘密」においては一転して、恋愛問題がテーマとなり太宰治の語りの手法を援用しつつ、告白と懺悔の不可能性が言及されている。
そして「蝮のすえ」は次のように始まる。
「『生きていくことは案外むずかしくないのかも知れない』私は物干場のコンクリートの上に枕を置き、それに腰をすえて陽にあたっていた。」
この文章に対し、泰淳は「私の創作体験」で次のように述べている。

「終戦後の外地の日本人は、生きてゆくことがむずかしい状態にあるわけである。それを最初から『生きてゆくことは案外むずかしくないのかもしれない』というように書いてしまうと、なんとなく今日まで身に着けていた『文学的』な抒情的な着物がすっかりなくなってしまって、なにかいうたびに一つ一つナマの言葉が出てきそうな気がする。
そういうわけで、たぶんこういうふうな書き出しをしたのだと思うが、…」

「蝮のすえ」の語り手「杉」は、「司馬遷」、「秘密」の語り手とも、「審判」の次郎とも異なる。
何かが過去にあったことを暗示させつつも、怒りであるとか、懺悔や告白の気持ちであるとか、苦悩であるとか、自己に対する倫理的判断であるとかが、カッコに入れられた形で設定されている。
「蝮のすえ」の「その一」では、一種浅薄とも取られうる個人主義的な杉という人物をユーモラスに描き出している。
杉は「被銃殺者」という詩を書く。
人間が撃たれて死ぬ。
そこには理屈がなく真実がある、と考える。そしてまた杉は「辛島は殺されていいやつだよ」とも述べる。
自己の外部に絶対的な悪の存在を認め、それを憎んでもいい、殺してもいいという判断がここにはある。
辛島は杉に、「真剣であることは何の役にもたたない。ヘンな日本精神はだすな」という奇妙な警告をする。
しかし杉は、自分と「彼女」と「病人」の生活を守るために辛島の殺害を決意する。
杉は生活を守るために権力者を打倒する。
ここで、泰淳の見抜き、描いた諸人物の関係性というものを、組織と組織の関係性へとあてはめて解釈することも可能であるようにも思われる。
より大きな領域に拡大して言えば、一つの社会革命のモデルであるとも受け取れまいか。
恐らくこの小説は個人的な体験からの帰納と、『史記』読解から演繹された理論を合致させた領域に確立されたものであり、辛島は日本政府を杉は前衛組織を「彼女」は中国を「病人」は一般民衆を、それぞれ象徴しているのだと、単純化できうるようにも思われる。
ある種の暴力革命を成し遂げた杉はしかし、「不快なもの」を胸に抱くことになる。
ここに暴力の行使により強者としての位置を維持するものを、暴力により打ち倒しこれにとって代わることは、果たして意味のあることなのであろうかという疑問がうまれる。
それは、自己を新たな辛島とするだけの行為ではないのか?
正義の実践により悪に鉄槌を下すことは果たして正義でありうるのか?
それが武田泰淳と埴谷雄高が共通して立ち止まった、一つの課題があるのではないか。
それは彼らの体験と、ドストエフスキー解釈がもたらしたある特殊な認識であり、彼らのカッコつきの「転向」とも関連していよう。
ところで「彼女」は辛島にいいように扱われる弱者であるかのように登場するが、果たして本当にそうなのであろうか。
「彼女」は物語の始まりにおいて、金銭的にも性欲的にも無力な「病人」の夫ではなく、辛島を選びそれらを満たしていた。
しかし敗戦により辛島は戦犯となり未来がなくなる。すると「彼女」はこれを切り捨てようと考え始める。
辛島が死に「病人」が死に、彼等の後釜として杉を準備しておく。
そのような無意識的な、たくましい悪女であると捕らえることが可能なのではないか。
いわゆる悪人らしい悪人である辛島に対し、被害者であるかのように見せつつ辛島と同じか、それ以上の位相に立ち、男三人を手玉取り、自己にとって都合のいいように周りを動かしていく力を持っているのだとも疑われるのである。
『蝮のすえ』と同時期に書かれたエッセイである『滅亡について』には次のような記述がある。
「中国は数回の離縁、数回の奸淫によって、複雑な成熟した情欲を育まれた女体のように見える。中華民族の無抵抗の根源は、この成熟した女体の、男ずれした自身ともいえるのである。」
「彼女」とは、中国の象徴であるのかもしれないし、あるいは「私」を「指」として動かす「神」のようなものなのかもしれない。
固有名を与えられず、全篇を通して「彼女」として登場するのも、象徴性を高めるための手法であろう。
次に、タイトルについて考察してみよう。
泰淳は『未来の淫女』巻末の「自作ノオト」で、「蝮のすえ」について次のように書いている。

「題名はいうまでもなく「聖書」に拠る。バプテスマを受けんとして来たパリサイ人及びサドカイ人に向かってヨハネは言う。『蝮の裔よ。誰が汝らに来たらんとする御怒を避くべき事を示したるぞ。さらば悔改めに相応しき実を結べ』。『マタイ伝』ではイエス自身、偽善者たちに向って『蛇よ。蝮の裔よ』と呼びかけている。」
 

辛島は戦時中の罪に対して罰を下され、死ぬことになったという言い方が一種、可能であろう。
次に、「病人」がその辛島と同じ位相、同じ気持ちに立ちつつ、死のうとしている所でこの小説は終わっている。
「病人」は辛島を憎み、「彼女」を疑いつつ、「両者を許したい」と発話においては述べながら、辛島が死ぬと杉に対して恨みがましい目を向ける。
「病人」には、弱者の陥る性癖と悲哀とが、よく映し出されているように思われる。
「偽善な立法学者、パリサイ人」たる「蝮のすえ」は、むろん辛島のみをさすのではあるまい。
「病人」も杉も「彼女」も、そこに含まれよう。
さらに拡大してしまえば、日本人全てが「蝮のすえ」であるのだとも解釈できうるのかもしれない。
資本主義システムが世界を貫く交通と結ばれた近代以降の社会においては、常に生それ自体に搾取がつきまとう。
「杉」は「涙や血で汚れた真実の塊」をつかもうとした。
そしてそれはつかんだ瞬間、「胸につまった不快なもの」へと変化した。
「不快なもの」とは「何かを押しのけ抑圧し続けることでしか、生は成立しえない」という、原罪のようなものへの悟りであったのではないか。
ところでしかし、杉は全く死にそうな人物ではない。
「偽善の生」を生きる作中人物達に対して鋭い批判の視線送りつつ、けれども同時に生を決して否定しはしない所にこの小説における不可解な相克がある。
あるいはそこに後の「異形の者」における「柳」の、「人間はみな極楽に往くときまっているのだ」という言葉が関連しているのかもしれない。
営利組織からこぼれおちる価値を拾い上げ、ある種の倫理的な運動を行うための組織として、宗教組織、前衛組織、国家組織は同様の位相にある。
しかしそれらの組織はしばしば、絶対的な善や絶対的な悪を仮構し、互いに抗争をしたり、外部と途絶した内世界に自閉したりもする。
泰淳はその経歴において、仏教組織、前衛組織、中国文学研究者、軍隊、大学といった組織を縦断した上で、文学者として独り立ちした作家である。
泰淳はそれらの組織が仮構した倫理観というもの、世界観というものを踏まえた上で、すべてを連ねる倫理と論理を文学の形式で模索した。
個人と個人における断絶と、組織と組織における断絶。
泰淳はその双方に対してよく目をこらしていた。
組織というものが個人に要請する倫理観に対して、距離を置く所に「蝮のすえ」等の泰淳作品の「私」が持つ特殊性がある。
そして、「私」と「他者」の間に浮かび上がってくる「何かよく分からない、気持ちの悪いもの」を見据る。
主体と倫理の追求は、泰淳の文学作品における生涯のテーマともなっていよう。
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勉強になるし、為になるし、勇気を貰えました。中々本屋さんではないので、購入出来てよかったです。池田先生のスピーチが抜粋して掲載されています。表紙の挿絵も柔らかい感じで、大変読みやすく、人生哲学が学べます。一文一句が命に刻まれます。この価格でこの内容は。。
[2007/07/24 13:29] 宗教・倫理の極意
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