『蒲団』と日本人 

日本を思ふ 日本を思ふ
福田 恒存 (1995/05)
文藝春秋
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福田恆存の「日本および日本人」では、田山花袋の『蒲団』を一例とした日本人論が語られている。
『蒲団』について触れられているのはほんの数ページであるが、日本文化総体のなかで、『蒲団』的な私小説を、どのようなものと位置づけることができるのか、考察するのに興味深い。




「日本および日本人」は文春文庫の『日本を思ふ』で読むことができる。
「文藝」に一九五四年から一九五五年にかけて連載され、戦後、十年ほどたって書かれた評論である。
どういう文脈から、「日本および日本人」という文書が作られたのか、当時の時代背景を考えることも重要だろう。

なぜ日本は軍部の独走を止められず、未曾有の戦争へと乗り出したのか。
戦後、戦争の原因を考察する議論は、知識人間で盛んになされた。
そして、近代的自我の未発達や、日本人の主体性が未確立であることを、戦争の一因とする意見があった。

「日本および日本人」は、日本人の主体性如何に関わる論争の、流れのなかで書かれている。
西洋文化について極めて詳しいにも関わらず、単純な西洋讃美をせず、日本人の特徴をとらえて、いい点、悪い点を見抜く恆存の日本人論は独特である。
恆存は『蒲団』を取り上げ、次のように慨嘆する。

それ(松平注・『蒲団』)が「近代文学の出発点」をなしたといふのは、浪漫主義に源を発した西洋の近代文学の精神である「告白」といふことがはじめて『蒲団』によつて、日本文学に導入されたといふ意味であります


……『蒲団』を特徴づけるものは、社会に反抗する自我の強さではなくて、西洋流の観念の借衣で下手な「自我をどり」ををどつた自我の弱さ、一口でいへば、やはり人の善さであります



恆存は、花袋の自我の弱さ、人の善さがもたらす『蒲団』特有のベタベタした対人感覚を指摘し、非難する。

花袋はこの作品によつて、赤裸々な自分といふものをさらけださうとした。そのためには、世間の常識も道徳も恐れまいとした。一口にいへば、自己に忠実であらうとしたのであります。かれにとって世間のおもわくにとらはれ、心にもない生活をするのは、たんなる「みえ」にすぎないとおもはれたのです。臆病でしかないとおもはれたのです



「みえ」をなくしてしまおう。
「みえ」をなくすことが度胸である。
「みえ」を棄てることで、『蒲団』は世間の常識や道徳を破った。
それが、恆存による『蒲団』の読みであるようだ。
恆存は、『蒲団』的な恋愛感覚、性欲感覚を嫌い、江戸時代の遊郭を肯定する。

たとえば、西洋においては、キリスト教道徳により、「姦通」は悪だとなされる。
そのため、「姦通」は告白すべき罪となりうる。

一方、日本では、たとえば江戸の遊郭では、夫婦間以外のセクシャルな関係を美的なものとなす文化が発展した。
姦通や心中は、日本においては悪ではなかった。
江戸特有の美意識や、道徳観を、恆存は積極的に評価し、「みえ」をむしろ重視する。

私見によれば、将来の日本人に道徳的良心を期待するとすれば、文部省発行の修身綱領ではなく、その出発点はこの「みえ」をおいて他にないとおもひます



日本には神がいず、道徳的良心は宗教的なものから発してくるものではない。
神を代替する、道徳の源泉としての、「みえ」という位相を、一つ、恆存は主張するのである。
日本の道徳の源泉としては、「和合と美」もまた、挙げられている。

現代日本の混乱は、かういふふうに和合と美とを生活の原理とする民族が、能率や権利義務を生活の原理とする西洋人の思想と制度を受け入れたことから生じてゐるのです



共和制の国であるフランスでは、フランス大革命を経て、法制度がつくられ、民主的で、社会的な個人を、国民として創生した。
「権利義務」という西洋近代特有の法制度は、日本できちんと機能するものではない可能性がある。

キリスト教的な「神」がおらず文化的な背景の異なるため、「権利義務」という習慣は日本おいて簡単に定着するものではない。
恆存は西洋と日本の違いを「神」の有無にも見出す。

超自然の絶対者を設定しなければ、私たち人間はエゴイズムを否定することはできません



西洋では、「超自然の絶対者」を媒介となすことで、「遠見をきかすといふこと、対象と間接につながるといふこと」が可能となる。

一方、日本では、「対象との距離感の喪失」が生じている。
その代表として恆存は「私小説」を挙げている。

私たち日本人は、芸術と生活との間に距離をつくる生きかたを知らないのです。芸術は生活のうちに、あるいはその逆に、生活が芸術のうちに含まれてしまはなければ気がすまない。両者を自分から離して、それぞれ相対的な価値として位置づけるためには、その上に絶対者がなければならず、それが無い以上、自分と芸術と生活とのうちのいづれかを絶対者としなければとても白々しくて生き切れない。そこで三者一体の三昧境といふものを絶対的境地とせざるをえなくなるのです。さうなれば、作者は作品を自分の皮膚から分離して造りえないでせうし、読者もまた作品を自分の生活から離して楽しく読むことができないでせう



「自分と芸術と生活」が三位一体となってしまうのが、私小説であるとのことだ。

恆存の「日本および日本人」は、半世紀のときを経ても古びず、いまなお読み応えある中篇評論である。

以下は私が思いついた疑問点である。

・「自分と芸術と生活」を切り離し、生活と、「想像」や「美」の世界を分けるためには、「神」や「絶対的なもの」が必要なのか。

・ファシズムとは、「自分と芸術と政治」が一体となった政治体制であるといえるか

・オタク的な文化、「2ちゃんねる」的なもの、「SNSの日記」「ニート」といった現代的な諸問題は、「自分と芸術と生活」が一体となりつつ、社会性を欠いたものであると、いえるものだろうか


現代日本には、「みえ」という江戸っ子的なものが、回復される兆しはあるのだろうか?

私小説って、そこまで批判されるべきものなのか。
なんてことも、ちょいと思うが。
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