池田雄一と東浩紀 

カントの哲学 カントの哲学
池田 雄一 (2006/06/21)
河出書房新社
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河出書房新社の「著者が語る」というページで、池田氏が自著の『カントの哲学 シニシズムを超えて』について、しゃべっている。

2006/06/16更新とのこと。
最近のことだな……。

池田氏は、『純粋理性批判』から『実践理性批判』、『判断力批判』という順序でカントを読むのではなく、『判断力批判』の方から『実践理性批判』、『純粋理性批判』と読んでいくことをすすめている。
普通とは、逆なわけね。



『純粋理性批判』から読むと、カントがシニシズムの完成者であるように見えてしまう。

『判断力批判』から読むことで、シニシズムの対抗原理の提案者として、カントを読むことができる。
ドゥルーズも、『判断力批判』から読んだのだろうということ。

埴谷雄高は『純粋理性批判』の素晴らしさを盛んに鼓吹していた。
池田氏の言により、『判断力批判』って、どんな書物なんじゃらほいと興味をもたされた。

『カントの哲学 シニシズムを超えて』はぼくのような門外漢にも楽しく読めた。
普通のカント研究書と違う。
映画の『マトリックス』とか、漫画の『寄生獣』なんてもので、論を例示することなど、目新しい。
ジジェクとかドゥルーズとかラカンとか、論の典拠先がそこらであるところもフレッシュな印象。

しかし、本書にとって、特に重要な仮想敵は、大澤真幸『虚構の時代の果て』と、東浩紀『動物化するポストモダン』ではないだろうか?

『動物化するポストモダン』と、関係のありそうなところをいくらか抜き出してみよう。

カントは『判断力批判』のなかで、美学的判断においては、人体に対しても、それを何に使ったらいいのかわからない道具としてみる必要があると述べている。カントにとって美学的に世界をみるということは、世界を廃物として眺めるということを意味するのだ。



あらゆるものを括弧に入れて、世界を眺めるということ。
それが美学的に世界をみる、ということなのか。
「何に使ったらいいのかわからない道具」としての「人間」って、すごい言い方だよな。

原因と結果の経験論的かつ機械論的な連鎖に主体が組み込まれることへの拒否、ロマン主義にはそのような態度が前提となっている。かりにモーツァルトが見たオレンジが、機会ではなく「原因」であったならば、「オレンジを見ることによってモーツァルトはオレンジを食べたくなった」あるいは「オレンジを見たモーツァルトは吐き気を催した」というような文となるはずだ。ロマン主義者はそのように即物的な因果関係を拒絶する。原因と結果の連鎖に主体が位置するということは、主体が完全に能動的である、ということを意味するからである。



なるほど。
へそ曲がりなのが、ロマン主義者なのかしら。
ぼくもロマン主義者だな。
虫歯が痛い。
その痛みがイイんじゃないか!
といったところか。

……「萌え要素」が、消費者にどのような因果関係で「効く」のかは不明である。「ねこみみ」がどのような因果関係で、オタクの脳を刺激するのか、まったくわからない。それを説明する言葉は、自然科学あるいはカント的にいえば悟性概念にはない。ここに明瞭な原因と結果の因果関係からの切断がある。すなわち、プロザックを飲んで絶好調、ねこみみで萌え、のあいだには、原因と結果ではなく、機会とその結果の連鎖が横たわっていることになる。そう、それらが効くのは、まるで神の恩寵のようなものなのだ。



ぼくにとって、『動物化するポストモダン』で一番良く分からないのが、「萌え要素」がどうして人を萌えさせるか、であった。
みんな、分かる?
「萌え要素」がどうして人を萌えさせるか。
「神の恩寵」なのかな。

薬物とその身体的あるいは精神的作用、ネットワークにおけるコミュニケーション、そして「萌え要素」とその受容、これらに古典的な機会原因論的のような、機会と出来事の関係がみられるとして、その機会というものは何と呼ばれていたのか。おそらく「趣味」であろう、というのが現時点での筆者の見解である。それは、原因と結果の関係が切れているという意味では、主観的、精神的な性質をもっているが、機会に対して主体が端的に受動的であるという意味では身体的な性質を帯びてもいる。



「萌え要素」は「趣味」なのか。
当たり前っちゃ当たり前な感じだが、うまく書いた文章だな。

趣味Geschmack, taste とは、いうまでもなく、味覚の隠喩にもとづいている。味覚とは、化学物質が、舌にある受容器官に接触し、その情報が顔面神経等をとおって中枢への刺激となって、起こる感覚のことである。つまり純粋に身体的な反応のことである。その一方で、味覚はたんに受動的な感覚ということもできない側面がある。味覚には受容者が主体的になれる契機がある。ここで第一章でみてきた機会原因論的な態度を確認してみよう。機会原因論にしたがった身ぶりとは、主体にとってはたんなる機会にすぎないものを、原因とすりかえる態度である。その場合、機会と結果を媒介するものとして、神あるいは精神のような超越的存在が措定される。それはデカルト的主体が提示した、心身二元論の問題に対する、応答のひとつだと考えることができた。味覚の場合を想像してみよう。「はじめて自分でつくった料理、ご褒美として神様が私や彼に幸福な気持ちを授けてくれた」。食事の味はただのきっかけにすぎない。


このようにみていくと、味覚という概念と、機会原因論的な態度というのは、非常に親和性があることがわかる。



この部分、感銘を受けた。

前々からの疑問がある。
「おいしい」という感覚は、言語的なものなのか、そうでないのか。
コーヒーの味の違いは、初心者にはなかなか分かるものではない。
白身魚だって、そう。
まず、コーヒーの種類の名前、魚の名称を覚える必要がありそう。
名前とセットにして、食べ物の味を覚えていかないと、違いが分からなくなってしまうものじゃないか?

あるものと別のもの。
それらの違いが分かるということが、「美」が分かる、ということと関わりがありそうだ。

言語と身体の感覚は、どこまで一致したものであり、どこから分け隔てられるものなのだろうか?

たとえば、犬には食べ物の味の違いって、分かるのだろうか?
まあ、犬も、食べ物の好き嫌いはあるだろう。
喜んで食べるものと、嫌そうな顔をして食べるものと、その差異はありそう。
本来は、身体に良くないものはまずい味が、いいものは、おいしい味がするはずだ。
どんな生き物だって、きっとそれはあるはず。

犬にとっての味の違いは、言語的なものなのか。
そして、「言葉」を持たぬ犬は、世界というものを、どのようなものとして捉えているのだろうか。

趣味判断においては、快の感情の先行の後に判断がくだされるのか、それとも趣味判断がまずくだされてから、その後に快の感情がわきおこってくるのか。第二様式のなかの一節でカントは、そのような問いをたてている。そしてカントは判断の後に快が生じると断言している。



人間において、まず判断があって、それから快がある、と。

犬にはそのようなことがなさそうだ。
そして、犬には、「神」が、見えないはずだ。

そういえば話は変わるが。
ニーチェが、カントの女性観とスタンダールの女性観のうち、スタンダールの方がいいとかなんとか、ぶつぶつ言っていた気がする。
このブログで話題にしたな。

『道徳の系譜』と『判断力批判』の関係は、どうなっているんだろう?

オナニーとセックスはどう違うのか、悟りはどうしたら得られるのか。

なんてことを、ぼくは知りたいのだが、それはまた別の話なのかな。
哲学というものを、日々の生活に役立てうるものとして、学んでみたい。
というのが、ぼくのスタンスではある。

カントへの入門書的なものとして本書を読んだ。
比喩の使い方、具体例の挙げ方等、非常に分かりやすく、楽しんで読める。

ただ、疑問点もある。
本書は、研究書なのか、文芸評論の本なのか、大衆へと啓蒙を促す本なのか。
そこらへんの、狭間を狙っているものなのだろうか。

タイトルも装丁も、どちらかというと研究書風ではある。
しかし、大衆に向けたものなのか、大学人に向けたものなのか、読者対象がいまいち分からない。
書の体裁と、文書の内容に若干ギャップを感じる。

啓蒙書なら、徹底的にオモシロクするやり方もあっただろう。
文芸評論なら、未来への可能性をもっと提示して欲しい気がした。
研究書的なものにするつもりなら、ケレン味は出しにくいのだろうし。

純粋に売ることを狙って本を作るのか、どうなのか。
人文的な分野で、売れる本、読まれる本を出すのはすごく大変であり、何らかの工夫が必要なのだろう。
あるいは、学術的良心に基づき、大衆には分かりにくくても、緻密な論証をなした書籍を、買い取りで刊行するのか。
いろいろな葛藤が生じうるものだろう。

しかし、いずれにせよ、池田氏の『カントの哲学 シニシズムを超えて』は良心的で、分かりやすく、いい本であった。
副題には、「シニシズムを超えて」とあった。
「シニシズムを超えて」、どこへ向かうべきなのか。
知りたい。
それを展開させた池田氏の著作が成ることを、期待したい。

動物化するポストモダン―オタクから見た日本社会 動物化するポストモダン―オタクから見た日本社会
東 浩紀 (2001/11)
講談社
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